不思議な共鳴

ケルト文化はアイルランド、イギリスのスコットランド、ウェ-ルズ、フランスのブルターニュなどに残存する「キリスト教以前」の文化である。
そのケルトの祭りがカボチャをくり抜いて飾ったり、仮装したりする「ハローウインの祭り」である。
それは魔女や精霊が闊歩する愉快な祭りで、古代ケルト民族の「収穫祭」が起源である。
近年、日本でも秋になると、「ハローウインの祭り」がなされ、様々なコスチュームで身を飾った人々が町に溢れるようになった。
遥か遠くの「ケルトの文化」が日本でここまでブレイクするとは、そこに執拗なビジネス戦略があるとはいえ、いささか意外な思いがする。
とはいえ、ここ20年「ケルト文化」は様々な形で発信されていて、我々は無意識にそれと馴染んできていたのかもしれない。
思い起こすだけでも、映画「タイタニック」(1997年)やAKB48の「River」(2009年)に登場する「リバ-ダンス」。
そして、なんといっても、2000年ごろより映画「ハリ-ポッター」がケルトの雰囲気を日本人に伝えたといって過言ではない。
ハリ-ポッターの著者であるJ・K・ローリングの出生地はウェールズ地方で、現住地はスコットランドの中心地エディンバラである。
ウエールズもスコットランドも、ケルト的伝統が色濃く残る地域で、「ハリーポッター」に描かれた世界はキリスト教的世界ではなく、むしろキリスト教徒によって魔界に落とされた「魔法使い」達の世界なのである。
ケルト文化は、アイルランド移民によってキリスト教の行事と習合しつつ、アメリカへもちこまれたといわれている。
ケルト文化は「ゲルマン侵入」以前にヨ-ロッパの森林で育まれた文化で、ヨーロッパの森の薄暗さのなかで冬至の日をさかいとして太陽がだんだん勢いを取り戻していくさまは、古代人にとっては、格好の祭りの対象となったのである。
クリスマスが「キリストの聖誕祭」となっているのは、意外にも古代ケルト人たちの「太陽信仰」に基づくものである。
12月25日の 「クリスマス」には樹木に飾りをつけるなど、ケルト的な「樹木信仰」を想起させるし、ヨーロッパ中世のキリスト教世界の暗黒史「魔女狩り」のまがまがしさは、キリスト教とケルト文化の習合が悪いカタチで現れたものだと推測される。

1830年、イギリスで世界初のリバプール・アンド・マンチェスター鉄道が開通した。
ちなみに、この鉄道を経営した会社の母体が、世界最高のサッカークラブ「マンチェスターユナイテッド」を所有している。
その鉄道の起点となったリバプールは、イギリスの西南ウエールズ地方と接する処に位置するが、この町の40%がアイルランド系(ケルト系)なのだ。
リバプールといえば、なんといってもビートルズ。
リバプールには、ビートルズの歌の題名となった「ペニーレイン」や「ストロベリー・フィールズ」などの場所があり、今なお「聖地」として訪れる人が多いという。
なおジョンとポールが出会った地区教会の墓地には歌のタイトルとなった「エリナー・リグビー」という名が刻んだ墓があるという。
この曲は、エリナー・リグビーという身寄りのない老女と、誰からも相手にされないマッケンジー神父という架空の人物との出会いを物語った曲で、ジョンとポールの出会いの地としてファンの聖地となっている。
ところで1965年6月12日、女王陛下よりビートルズへの「MBE勲章」の授与が発表されるや、イギリス国内では様々な波紋が湧き起こった。
確かに、ロック・グループのメンバーが勲章を授かることは前代未聞の出来事だったし、日本公演の際にビートルズが日本武道館を使用することに際し、右翼や国会議員から反対が起きたことも思い起こす。
ジョン・レノンは、ビートルズの勲章受賞を揶揄する国会議員の批判に対して、不平をいう多くは戦争の英雄行為で勲章を受けた人たちだとして、「彼らは人を殺して勲章をもらったわけだけど、ぼくたちは人を殺さずにもらった」と反撃した。
しかしながら、受勲にあたってジョン自身にも葛藤があったようで、それはアルバム「アビーロード」の最後の曲「ハー・マジェスティ」にエリザベス女王を茶化したような曲を作っていることにも表れている。
しかし、ビートルズへの女王陛下の勲章授与がもたらした波紋は、体制か反体制かとは別次元のイギリス文化の深層に関わる側面があった。
それこそが征服民たるアングロ・サクソン(ゲルマン系)と先住民たるケルト人との確執という問題なのだ。
さて、ケルト文化が今なお本格的に残存するのは、海を隔ててイギリスの西側に浮かぶ「アイルランド共和国」である。
ジョンレノンの父方の祖父「ジャック・レノン」という人は、アイルランドのダブリン生まれで19世紀後半には、アメリカへ渡り、プロの演芸団に加わり、人生の大半をプロ・シンガーとして送ったという。
その後、リバプールへと戻ってきて、1910年に死去し、父フレッドは孤児院で育ってられたのである。
フレッドはバンジョーが得意で、ジョン・レノンが早くからギターを手にしたのもその影響であろう。
ただ船乗りとなった父親は、ジョンが生まれるや突然に蒸発し、ジョンは伯母に預けられて育つが、学校では通知表に「絶望的」と書かれるほど手に負えない生徒だった。
ジョンの性格形成をみると、ケルト文化の本場アイルランドの影響が強いことが推測できる。
ビートルズに次ぐ人気を誇ったローリング・ストーンズは、5人のうち4人がロンドン近郊の出身であり、特にボーカルのミックジャガーは、なんと名門ロンドン大学経済学部出身のかなりのエリートで、父方の家系は貴族階級であった。
というわけで、ビートルズは先住民のケルト系、ローリング・ストーンズの方は、征服民のゲルマン系という面白い構図が存する。

東京・原宿では毎年3月にアイルランドの祭りである「聖パトリック・デイ」が行われているが、およそ30年前個人的にサンフランシスコで「聖パトリック・デイ」に遭遇したことがある。
それは、白馬上の兵士達や民族衣装に身を包んだ人々の、アイリッシュ楽器の演奏をともなう行進で、そのスケールの大きさに圧倒された。
アメリカのエリート階層といえば、「WASP」とよばれるアングロ・サクソン(イギリス系)の白人であるが、彼らは信仰と経済的自由を求めたプロテスタントである。
その一方でカトリック系のアイルランド人は、信仰の自由を求めたというよりも「飢饉」によってアメリカに移り住んだのである。
そしてアイルランド系から、有名なJFケネディ以外にも、数多くのアメリカ大統領を輩出しているのも特質すべきことである。
アメリカ大統領を輩出する偉大な祖先たちが、アイルランドを去らざるをえなかったのが「ジャガイモ飢饉」。当時の人口800万人のうち、100万人もの死者が出たという。
大飢饉に耐え切れなくなった数十万のアイルランド人たちが、この時アメリカへ渡った。
オバマ元大統領は靴職人の息子だが、彼の母方の祖先はアイルランドの小さな村(マネーゴール村)に暮らしていたが、ジャガイモ飢饉が続く1850年、19歳でアメリカに移住している。
つまり、オバマ大統領はアイルランド系米国人大統領なのである。
現在、アメリカに住む「アイルランド系」移民は4千万人以上で、アメリカの総人口の10数%にのぼる。
アメリカはもともとイギリスの植民地だったため、「反英」の気運が高かった。それはイギリスに支配されてきたアイルランドも然り。
同じ「反英」の旗のもと、アメリカ人とアイルランド人は意気投合。そのことがアイルランド系移民が多くの大統領を輩出した理由ではなかろうか。
ちなみにレーガンやクリントンも「アイルランド系」である。

日本におけるアイルランド系といえば、ラフカディオ・ハーンがあげられる。
ハーンは、1850年ギリシャに生まれ。父はアイルランド生まれのイギリス軍医、母はギリシャ人。
早くに父母と別離、16歳のとき左目を失明するなど不遇の時を送った。
19歳でアメリカに渡り、新聞記者を経験し1990年に来日した。
山陰の松江中で教鞭を執り、小泉セツと結婚する。
ハーンが日本人以上に日本を理解し、日本に帰化し「小泉八雲」を名乗ったのには、自分の血の中に何か響きあうものを感じとったからにちがいない。
さて、日本の横浜港に到着したハーンは、早速、人力車で横浜の街を巡っている。
その印象を記録したのが、「日本の面影」の中の「東洋の第一日目」という作品で、読者をも幸せにしてくれる。ハーンの何ともいえない喜びが伝わるからだ。
ハーンの身長は、160センチ弱であったが、人力車に乗るとその視点が2メートル近くまで持ち上がる。そのことが、ハーンをあたかも夢の世界に導いていく。
「改めて港の光景を眺めると、その美しさは想像を絶するものがある。 光の柔らかさといい、遠方まで澄み切った感じといい、すべてを侵している青味がかかった色調のこまやかさといい。
すべてが澄明だが、 強烈なものは何もない、すべてが心地よく 見慣れぬものではあるが、強引なものは何もない。 これは夢の持つ鮮やかさ、柔らかさというものだ」。
わずかこれだけの文章からでも、ハーンは横浜に上陸してすぐ、日本との決定的な出合いをしたということが伝わってくる。
さまざまな文化を経験してきたハーンは、異文化に対してやわらかく相対的な、独特の視線を持っていた。
外国人にありがちな、「上から目線」ではなく、むしろローアングルの視点で、いろいろなものを丹念に見、聞き、それらに共鳴したのである。
ハーンはとりわけ、車夫や街ゆく人々の眼差しに“驚くほどの優しさ”を感じ、次のようにその感動を綴っている。
「このような思いやりのある、 興味のまなざしや笑みを目の当たりにすると、初めてこの国を訪れた者は、思わずお伽の国を彷彿としてしまうことだろう」。
おそらく、競争社会のイギリスやアメリカで人生のあらゆる辛酸を舐めたハーンにとって、人々も自然も時間の流れも穏やかな日本は、一つのユートピア(理想郷) のように映ったのであろう。
そして、日本の本当の良さというものは庶民の中にあり、当時西洋化を急いだ明治政府に対し、キリスト教と西洋文明批判をする。
そのハーンの姿勢は、幼い頃厳格なカトリック神学校での生活に疑問を持っていたことから始まる。
世界は唯一絶対神だけではないことは、父の出生がアイルランド、母がギリシアという、いずれも多神教の世界から受け継いだものが、何らかの形でハーンの性格形成に影響を及ぼしていると推測できる。
その点、八百万神がいる日本はハーンにとって、すんなり入り込める国だったに違いない。
ハーンの紀行文を読むと、近代化の波に飲み込まれる直前の、慎ましくも誠実な生活ぶり、美しい自然、暮らしの中に生きる信仰心などがよく伝わってくる。
例えば「プライバシーの権利」は現代社会ではますます前面に出てきた感があるが、プライバシーを特別に意識しなくても居心地よく暮らせるいい社会というのが、どんなに稀有な社会であったかと思い知らされる。
その驚きを「日本の面影」の中で次のように書いている。
「日本人の生活には、西洋的な意味におけるプライバシーは、日本人の間にはないのである。
他人と自分との生活を分かつものがあるとすれば、紙一枚の壁があるだけである。
扉の代わりに左右に開く襖があるだけで、人々は日中は鍵も錠もかけたりしない。
天気はよければ、家の正面も側面も開け放たれており、家の内部は広く外気や光線や人の眼にさらされている。金持ちさえ、日中は家の表門を閉ざしたりしない。一般の民家でも、部屋に入る前にノックする者などいない。障子や襖しかないのだから、ノックのしようもない。ノックをしようとすれば、たちまち襖の紙は破けてしまうだろう」。
ハーンは、日本を「妖精の国」と評し、こんな社会の在り様にむしろ「やすらぎ」を感じとったようである。
ところで、アイルランドの言い伝えでは、妖精や幽霊、魔物はありふれた存在である。アイルランドでは、そんな不思議なもの達とのつき合い方につき、もてなせばそれほど悪い目にあわないですむと、「死者が帰る」といわゆる収穫期、幽霊に変装して仲間のふりをし、食べ物を供えた。
このように、異界を抵抗なく受け入れる文化に、「ハロウイーン」の源流があり、19世紀に移民を通じて米国に伝わり盛んになったのである。
1890年8月28日、松江に赴任する道中、ハーンは鳥取県の上市(うわいち)に投宿する。そしてその夜盆踊りを見学し、惹きつけられた。
ハーンが、「盆踊り」を見て惹きつけたのは、父親から受けたアイルランドの血と響きあうものがあったからかもしれない。
「盆踊り」とは、亡くなった人の霊を呼び、その霊とともに踊り手が踊るものです。そうすることで死者と生者が交わり、交流する。
ハーンは盆踊りを見ているうちに、そんなことを体験したに違いない。
古代にまで遡れば、ケルトと日本は遠く離れているとはいえ、ヨ-ロッパの森林文化(ケルト)と日本の森林文化(縄文)には大きな共通点がある。
それはアニミズムの信仰に基づく「多神教」の世界であることである。
「ドルイド」という知識階級が存在するが、それは祭祀階級といってもよく、ケルトの世界では、予言の力を通じて強い政治的影響力をもって王達さえもコントロールした。
「ドルイド」という名前は、「樹木」という言葉と関係が深く、森深い岩場でドルイドは祈りをして、聖なる生贄を奉げたのである。
岡本太郎は、その著「美の世界旅行」のなかで、このケルト文化と日本の縄文文化が「信じがたいほどそっくりであること」を指摘している。
本文をそのまま引用すると、「地球の反対側と言っていいほど遠く離れているし、時代のズレもある。どう考えても交流があったとは思えない。そして遺物も、一方は狩猟・採取民が土をこねて作った土器だし、片方は鉄器文化の段階にある農耕・牧畜民のもの、石にほられたり、金属など。まるで異質だ。しかし、にもかかわらず、その両者の表現は双生児のように響きあっている。まったく想像を超えた不思議な相似である」。
この岡本氏がいう「想像を超えた相似」につき、いくつか思いあたることがある。
「ペイズリー」とは、インド北西部のカシミール地方で織られたカシミア・ショールに付けられたパターンが起源だが、19世紀にヨーロッパでカシミア・ショールの模造品が作られるようになった。
その代表的生産地こそがケルト文化圏のスコットランドの町「ペイズリー」なのである。
この「ペイズリー」のカタチ、我々日本人にとって馴染みがある。
日本の古墳で時折発掘される装身具の代表「勾玉 (まがたま)」と実によく似ているからだ。
また、1966年11月ジョンレノンが、ロンドンで開催された前衛芸術の個展を訪れ、その作品群にいたく共感する。その制作者こそがオノヨーコで、二人はここで初めて出会ったのである。
ケルト文化と日本文化が遠くにありながら共鳴しあう不思議の一つが、この時にも生じたのである。

また同時に、親しい友人に宛て、「ここは、私の霊がすでに1000年も いる所のような気がします」 と、後に日本が終の住処となる 八雲の運命を暗示するかのような手紙も書き送っている。
アメリカ・マサチューセッツ州にある「セーラム」という街をご存知だろうか? セーラムは海沿いの街で、17世紀頃からアメリカと世界とを結ぶ重要な貿易スポットになっていた。そしてここでは、少し変わったものが名物として町おこしに一役かっている。その変わったものとはズバリ “魔女” である。この街はアメリカで唯一、魔女裁判の舞台になった場所なのだ。ヨーロッパから渡ってきた魔女裁判はアメリカの歴史至上、最も暗い事件のひとつ。魔女と呼ばれた無実の20人が死刑、5人が獄中死、投獄された者は数多いたと伝えられる。 魔女裁判の歴史の発端は、街の子供の間で流行った奇病を持ち込んだ犯人探しとされている。そして主に奇病にかかった子供が住む屋敷の使用人をしていた女性が拷問にかけられ、魔女であると無理矢理自白をさせられたのだ。魔女裁判は頻繁に行われ、幾人の罪の無い女性たちが無惨な最期をとげたこととなる。 そんな悲しい歴史をもつセーラムに今回筆者は訪れた。ボストンから列車で30分弱、こじんまりした木造の駅に到着。単線、無人改札、海沿い、その寂れ具合がミステリアスさを盛り上げているように感じる。 さて、街を散策してみよう。この街はとても小さいので全ての観光スポットが徒歩圏内にある。ダウンタウンについてみると早速「奥様は魔女」で有名なサマンサの銅像がお出迎え。この銅像の立っている地点から先の道はウィッチストリートと呼ばれ、現役魔女やサイキッカー(超能力者)たちがこぞって店を出している通りである。ウィッチストリートにある店先に並ぶアイテムをよくよく見てみると、以下のモノが目に入った。