敵陣に味方あり

日本史に「敵に塩を送る」という話があったが、塩ぐらいならまだしも、敵方に「最高機密」を無償で提供するとか、追い詰められて敵方に飛び込んだら心よく助けてくれたなんてこと、普通にはあり得ない。
しかし現実の世界でそんなことが起きるのは、当事者の中に、敵味方を超えた「普遍的」なものに目覚めた人がいたからだ。
ところで、資本主義経済における「市場万能」も社会主義経済の「計画経済」も、ミルトン・フリードマンやカール・マルクスというユダヤ人によって生まれたものである。
政治システムまで含めていえば、マルクスの「共産主義」、フリードマンの「新自由主義」ということになる。
両者は正反対のシステムのようだが、共通しているのは、両システムとも「平等」を追求したもの。ただし社会主義では「分配の平等」、市場万能主義では「機会の平等」を追求した経済システムであるということである。
また、様々な分野で、ユダヤ人がいかにハジケだされずに生きていくかを追求したシステムなのではなかろうか。
ユダヤ人Mフリードマンの出生について述べると、貧しい「炭鉱夫」の子供として生まれ、奨学金をもらいつつシカゴ大学を卒業している。
市場経済というのは、自由主義経済の代名詞だが、見失いがちなことは、身分や出生は関係なく結果が出せるという点で、平等な世界でもある。
フリードマンが医療や教育など「生存権」に関わる分野においても極端な「市場万能主義」を唱えたのも、ある種の「ユダヤ的宿命」ということかもしれない。
なぜなら保護や規制というのは、ユダヤ人からすれば、むしろ「差別/排除」に繋がりやすいものだらだ。
ところでユダヤ人が一番多く住んでいる国はイスラエルではなく、アメリカである。
アメリカは「機会均等」を建国の精神とした国だから、ユダヤ人にとって世界で唯一住み良い国である。
自由が与えられさえすれば、必ず頭角をアラワすのがユダヤ人である。だからユダヤ人は規制が大嫌いで、規制するくらいならばいっそ社会主義になった方がチャンスがあると考えたかどうかはわからない。
理念上、同一基盤にたつことで、ユダヤ人の差別から解放されるからだ。
そして、ユダヤ人が生み出した両極端の「社会システム」を反映するかのように、ユダヤ人が操る金融の中心地アメリカでは「市場万能」がハバをきかす一方で、ユダヤ人の故郷たるイスラエルでの社会生活は、意外にも「社会主義的」なのである。
その最大の理由は1950年代のシオニズム運動でイスラエルに帰還人々は、ソビエトという社会主義圏から帰還したものがおおく、ソ連の集団農場に近い「キブツ」といった集団農場で生活を営んでいる。
ただし、キブツは国家管理されていているわけではなく、農業従事者の「自主管理」的要素がつよい。
またキブツは海外の旅行者をうけいれているのも面白い。旅行者にとってボランティアで宿と小遣い程度の金をえることができ、受け入れ側でも安くして働いてもらえばそれだけ利益になる。
それだけでなく、他国(例えばアラブ国家)から攻撃をうけるのをそれだけ防ぐことができるという「安全保障上」の理由もあるらしい。
こういうところにも、ある種「ユダヤ」的な宿命を感じざるをえない。
かつてイザヤベンタソンは、日本人とユダヤ人を「対照的」にとらえたが、あえて「共通点」を探すとすれば、両者ともに伝統的に「教育指向」が強かったことがいえる。
ユダヤ人はシナゴーグで子供達を幼きより教育していたし、日本も寺小屋教育の普及は相当なもので、江戸時代における「識字率」の高さは世界最高水準になっている。
ただユダヤ人が世界を流浪したがゆえに、どこで暮らしても生きて行けるよう教育を重視したのはわかる。その一方で鎖国体制の日本にあって教育を重視したのは興味深いことではあった。
近年、「ユダヤ的宿命」というものを強く思わせられた実際の話がある。
それは、2016年11月NHKスペシャル「盗まれた最高機密~原爆スパイ戦の真実」で明らかになった”驚天動地”という言葉がふさわしい内容であった。
なにしろ、アメリカ核開発計画「マンハッタン計画」の中心人物が、ソ連に「原爆の作り方」の情報をソックリ渡したというのだから。
さらに驚いたのはその「動機」である。彼は次のような証言をしている。
「わたしは原爆の秘密をロシア人に渡すことに決めた。これにあたって一人の人間がすべきことには、たった一つの答えしかないように思えた。なすべき正しいこととは、アメリカの独占を壊すように行動することだったと。 ロスアラモスで、原爆の破壊力を知って自問した。アメリカが原爆を独占したら一体どうなるのか。私には信念があった。核戦争の恐怖を各国の指導者が共有すれば、彼らは正気を保ち、平和が訪れると思ったのだ」。

満州は、戦後日本のいわば「実験場」であり、満州の「あじあ号」は1964年オリンピックの年に新幹線として実現する。
その両者の間に、新宿と小田原を結ぶ小田急線開発の「ストーリー」が介在する。
技術的見地からみて、「小田急電鉄特急」は「新幹線」の試作品というものだった。
驚くべきことに、その「試作品」は、狭軌鉄道としては、当時「世界一」という記録を出した。
さらに驚いたことに、その時小田急特急「SE3000」は、整備状態がよかった国鉄の線路上を走っての記録達成だった。
そもそも小田急にとって強力なライバルは国鉄であった。
東海道線が東京ー小田原間を75分で結ぶのに、小田急は戦時中の酷使で線路が傷んでおり、新宿ー小田原間が当時の車両で100分かかった。
新宿か小田原・箱根への温泉直通が「売り」の小田急であったが、このままでは東海道線にまったく対抗できない。
生き残りをかけて連日会議を重ねたが、ある日ひとりの男が劇的に軽量化した新型特急を開発しようという新しい提案をした。
提案者は、取締役運輸担当の山本利三郎で、戦前、鉄道省・東京鉄道管理局の列車部長だった人物で、首都圏における鉄道のあり方につき、様々なアイデアをもっていた。
そして1954年、山本の情熱が実ってスーパーエクスプレス(SE車)の開発が承認された。
目指すは劇的に車体が軽くてスピードがでる特急列車だったが、小田急の技術だけでは自ずから限界があることは明らかだった。
そこで山本は思い切った行動に出る。向かった先は、なんと国鉄の「鉄道技術研究所」で、そこは敵方の「心臓部」といってよい。
山本は大胆にも、ライバルから「鉄道技術の粋」を得ようとしたのである。
私鉄から特急開発の技術援助を求められるなど、鉄道技術研究所にとっても前代未聞のことであった。
しかし意外なことに、「鉄道技術研究所」はその申し出をこころよく引き受けた。
当時の「鉄道技術研究所」には、終戦で仕事を失っていた陸・海・空軍の優秀な技術者が集まっていたが、当時の国鉄本体は「高速電車」に対して否定的な意見が強かった。
そうした「否定的意見」を打ち消すためにも、小田急からの申し出は、鉄道技術研究所にとって「渡りに船」、「技術者魂」を揺さぶられる機会でもあった。
そして私鉄と国鉄の「垣根」を超えた新しい「車両開発」が進み始めた。
当時の鉄道技術研究所には2人の優れた技術者がいた。そのひとり、三木忠直は「モノコック構造」を提案した。
もう一人の松平精は台車の研究をして、台車にかかる重心をバネの組み合わせで分散させることで、安全でしかものりごごちのよい車両を作り出した。
特にこだわったのは、二車両で3つの台車をとりつける「連接車」のアイデアだった。
保守が難しくなることから小田急の工場担当者からは異論もでた。しかし通常、二車両なら台車が4つのところを3つにすることにより、車体を軽くできる。
また連接車は、カーブでの遠心力を抑えられるというメリットもある。遠心力が下がれば揺れも少なくなる。
ほかの技術者からも様々な提案があった。例えば高速での安定をますために、車高を一般のものより300ミリ低くし、重心を下げた。
こうして「新型特急構想」が「技術者魂」に火をつけアイデアがアイデアを生んだ。
ただ、高速運転をさせるとなると、確実に停止するための安全装置が必要である。そこですでに航空機に取り入れられていた最新技術を取り入れ、ディスクブレーキを採用した。
そして昭和30年、従来の取引や資本関係にとらわれない、純粋な技術的見地から車種が選ばれ、具体的な製造を開始した。
「小田急ロマンスカー」というモダンな名前がつき、初代3000形(SE)が、当時の線路状況が良い国鉄に貸し出されて、当時の狭軌鉄道における世界最高速度(145km/h)を樹立した。
このことは、日本の高速電車の広がりや「新幹線開発」に多大な影響を与えたことはいうまでもない。

田尻宗昭は、1928年福岡市生まれ、海上保安庁に入り李承晩ラインでの韓国側の日本船・拿捕(だほ)を防止するため、煙幕を炊いて、韓国の警備艇に体当たりなどして悪戦苦闘してきた。
しかし、勇気のなさと認識不足とから、何一つ成果をあげられないことに、不甲斐なさを感じていた
1965年のある日、陸沖で、猛烈な暴風雨にまきこれて生死を彷徨う中、「何と中途半端な人生だったことか。体をはって自分をかけたことが一度もなかった」という未練だった。
ハッと我にかえると、船がグーッと海面に浮上しているのがわかって、今度人生を終わるとき、二度とアノ思いをしないよう、鮮烈に生きていこうと決意した。
そして1968年7月に、田尻は、三重県四日市海上保安部の警備救難課長に就任する。
それまで釜石のきれいな海を見て来た田尻は「ここは海ではなくドブ溜め」というのが、四日市港の第一印象であった。
もともと、豊かな漁獲高を誇っていたものの、石油コンビナートが相次いで建築され、1955年ごろから工場の排水口近くでとれる魚が臭くなりはじめ、そうして漁場の35%が埋め立てなどで失われ、漁業従事者が31%減少し、水揚げ量が全盛期の1/4以下になった。
そうして、漁民たちは、他の漁場に「密猟」を行う他に生活の糧を得るスベを失っていた。
1968年7月、四日市に赴任した田尻宗昭が、初期に任された仕事の一つがこの「密猟」の取り締まりだった。
しかし田尻は、取り調べた漁民から、水産資源を守る法律を破って魚を殺したのは企業の側ではないか。
海保は企業の手先になって取り締まりをしているのかと、逆に詰め寄られた。
これらの漁民達の言葉を聞いて、田尻は深くショックを受け自分の見落としてきたことに気づく。そしてこれから自分がなすべきことは海を汚す企業側を摘発することであると思い至った。
それによって海保に居られるなくなることは覚悟のうえである。
1969年の10月ごろに、田尻の元に石原産業の労働者とおぼしき「匿名」の告発電話がかかってきた。
電話は「石原産業は毎日20万トンというケタはずれた量の硫酸水を流している、しかも何年も前からだ」という内容であった。
田尻は、工場20万坪、従業員3千人の「四日市天皇」と称され石原の摘発など相手が悪すぎる、まして、あの厖大な生産工程のすべてを、われわれの手で解明するのは不可能に近い。
そんな時、あの沈没の危機で味わった後悔がよみがえる。結果はどうあれ、とにかく一歩ふみだそうと決意した。
そんな時、海保の部下達が一緒にやろうといってくれた。
企業を裁判で訴えるためには、まず被害の科学的なデータを集めなければならない。
漁民に変装したり、釣り人に変装したりして「排水口」にちかづき、水をすくうなどして、水のPHを調べたりするなど「内偵」を進めた。
また、桟橋だけで荷役をする船が非常に短期間で冷却水系統のパイプに穴が空くといった物証を集めた。
そして1969年 2月1 7日、石原産業へ立ち入る一週間前というのは、「忠臣蔵」の討ち入り前夜のような心境だったという。
黒塗りの工場長の車が入って来ると同時にピタッとその車をつけて、石原産業に立ち入った。
工場に入ると、長大なタンクやパイプの存在に圧倒され、しかもほとんどがカタカナで書いてあり、これでは解明不能かと絶望的な気分になった。
もはや行き詰まったと思えた時、"敵陣に味方あり"。ひとりの労働者がそっと彼らに施設と汚染水に関する内部情報を伝えた。その情報をもとに、部下や巡視艇の10人の乗組員の血の出るような協力のもとに、「汚染水」の排出路とその量を割り出すことが出来た。
最後の難関は、それを企業が意図的に行っているかという「故意性」の立証が必要となる。
原料のイルメナイトから鉄分を溶解除去するために硫酸が使われる。
はじめのうち、そのときできるチタン工場の廃硫酸を硫安工場に回収して、これにアンモニアを加えて「硫安」をつくっていた。
ところが1968年の7月、第二工場を増設して、それまで月産4500トンだったチタン生産を月産6000トンにあげた。
このためチタン工場と硫安工場のバランスがくずれ、第二工場から流れ出てくる廃硫酸の処置がつかなくなってしまった。
このよう1日20万トンという「硫酸」を港の中にそのまま流さなければならなかったのは、法で規定された処理施設をつくらなかったからである。
通産省が指導するどころか、それを認めて、違法を承認していることに原因がある。
押収資料の中に、それを裏付けるメモがあったことから、ついに起訴に持ち込めると思ったが、検察庁の上層部から待ったがかかった。
背後に、石原側から圧力がかかったと推測され、田尻は、この問題を世論に訴える他はないと思った。
実は、田尻が佐世保時代に、地元出身の若き社会党議員石橋政嗣と面識があり、当時石橋が社会党書記長となっていた。
そしてこの「メモ」を石橋書記長に持っていった。それにより、公務員の「守秘義務」違反で処罰される可能性をも覚悟した。
石橋書記長は、1971 年2 月、衆議院予算委員会で、石原産業と通産局と談合の事実と、廃硫酸たれ流しについて、事実を挙げての爆弾発言をやり、佐藤栄作内閣の宮沢喜一通産大臣も談合の事実を認めざるをえなくなった。
そして同月、津地方裁判所に起訴手続きがなされ、日本史上初めての「公害刑事裁判」が始まった。
田尻の方は、公務員の「守秘義務」違反での処罰は免れたものの、四日市海保勤務を外され、コンビナートのない、木材積出し港の和歌山県田辺海上保安部へ転勤の辞令を渡された。
四日市を去る時、田尻の元には多くの漁民達が訪れ、涙ながらに感謝の思いを伝えた。
捨てる神あれば、拾う神あり。その後田尻は、社会党選出の美濃部亮吉東京都知事に招かれて、東京都の公害局主幹を務め、六角クロム鉱滓の大量投棄事件の陣頭指揮に立つなど、日本の環境行政の充実に大きな足跡を残している。

戦争に勝つためには戦場にいる兵士の士気を高めて、全力で戦えるようにしなければならない。
特に、最前線で戦っている兵士は、いつも不安な状態にあるので、些細なことで気持ちが萎縮させてはならない。
太平洋戦争中、日本発のラジオ放送で「東京ローズ」と呼ばれた女性から、アメリカ兵に向けて甘い声が流れてきた。
あんたの奥さん他の男と仲良くなってんのじゃないの、はやく故郷に帰らなくていいの、などと甘ったるい英語でササヤいた。
戦争なんかバカらしくやってられないと敵方を思わせられたら大成功。
戦場からは逃げ出すことは出来ずとも、少なくとも全力で戦う気は失せるかもしれない。
ラジオ電波に乗った「東京ローズ」の甘いササヤキは、太平洋の島々で日本軍と戦うアメリカ兵に大人気だったそうだから、実際の効果もあったのだろう。
見方を変えれば、極限状態にいる兵士は冷静にモノゴトを考えることができなくなっており、人間を「正気」にもどす効果があったともいえる。
そこにはアメリカ兵のナントモ複雑な感情が入り乱れていたことは想像に難くない。
実際、GHQが日本に上陸して真っ先にしたことといえば、「東京ローズ探し」だったらしい。
それは、あまりにも素敵な敵探しだった。
先日、太平洋戦争をめぐる3つの新聞記事に目がとまったが、一番目立ったのは、天皇陛下のパラオへ向かうという記事だったが、残りは新聞の片隅に並んででていた二つの死亡記事。
板津忠正氏の90歳、そして東江康治(あがりえやすはる)氏の86歳の死であった。
板津氏は1945年5月、特攻隊員として沖縄戦に出撃したが、エンジントラブルで鹿児島県・徳之島に不時着し生き残った。
戦後、特攻隊員の遺族を訪ね歩き、遺影や遺書を収集。86年から88年まで、特攻隊員の遺品や関係資料を展示する知覧特攻平和会館の初代館長を務めた。
東江康治氏は、沖縄名護市東江出身で、名桜大学の設立に尽力し、初代学長を務めた後、琉球大学の学長ともなっている。
東江氏は、太平洋戦争末期の沖縄戦で鉄血勤皇隊として動員され、米軍の攻撃で右胸を撃ち抜かれたが、一命を取り留める。当時、米国生まれの兄が米兵として沖縄に入り、「敵味方」に分かれた兄弟としても知られた。
兄弟が日米に分かれて戦う話といえば山崎豊子の小説「二つの祖国」がある。
この小説にはモデルとなった人達がいたが、東江康治氏の場合も、同じような体験の持ち合わせた人であったことを知った。

この4月に天皇ご夫妻が慰霊のために訪問したパラオ(ペリリュー島)は、第一次世界大戦後に国際連盟による日本の「委任統治領」となり、1922年南洋庁がコロール島に設置されて内南洋(うちなんよう)の行政の中心となっていた。
日本人はパラオに米食の習慣を定着させ、ナスやキュウリなど野菜やサトウキビ、パイナップルなどの農業を持ち込み、マグロの缶詰やカツオ節などの工場を作って雇用を創出した。
道路を舗装し、島々を結ぶ橋をかけ、電気を通し、電話を引いた。
1943年にはパラオ在住者は33000人おり、その内の7割は日本本土、沖縄、日本が統治する朝鮮や台湾などから移り住んできた人達であった。
パラオ本島(バベルダオブ島)には、民生用として小規模な飛行場が作られたが、1933年の国際連盟脱退後はパラオは重要な軍事拠点のひとつとして整備が進められた。
1937年にパラオ本島飛行場の拡張とペリリュー島に飛行場の新規建設が開始され、1941年太平洋戦争開戦時のペリリュー島には、上空から見ると「4」の字に見える飛行場が完成していた。
こうした日本海軍根拠地に対してアメリカ機動部隊は、1944年2月17日にトラック島を、同年3月30日にはパラオを空襲し、その機能を喪失させた。
そしてペリリュー島は1944年9月から11月にかけ、日本軍とアメリカ軍の陸上戦闘戦の舞台となった。
圧倒的な米軍に対して日本軍は、要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いた。
そして日本軍がこの時見せた組織的な抵抗、戦術は、後の硫黄島の戦いへと引き継がれていく。
1945年2月~3月の硫黄島の戦いには、ひとりの日本人のオリンピック金メダリストが参加している。
1932年ロサンゼルスオリンピックで馬術競技史上、日本人が獲得した唯一のメダリスト西竹一である。
西竹一は、西徳二郎男爵の三男として華族の生まれ、映画「硫黄島からの手紙」(2006年)で初めてこの人を知った人も多い。
西は、陸軍士官学校本科卒業後、陸軍騎兵学校で学び、1930年にイタリアで愛馬ウラヌス号に出会う。
しかし「誰にも乗りこなせない悍馬」ウラヌス号に対して陸軍から予算が下りず、かなりの高額ながら自費での購入した。
1932年8月のロサンゼルスリンピック。大会の閉会式の直前に行われる馬術大障害飛越競技は、当時のオリンピックにおける最大の「華」だった。
しかし西には逆風が浮いていた。満州事変を受け、日米関係は一層悪化し、「反日感情」が高まる中でのオリンピック参加だったからだ。
それでも西は、愛馬ウラヌス号を駆って障害を見事にクリア。減点数8で、優勝候補だった米国のチェンバレン少佐に4点の差をつけて優勝した。
10万人の観衆で埋め尽くされたコロシアムの記者会見で、最後の障害でウラヌス号自身が自ら後足を横に捻ってクリアしたこともあり、インタビューでは「We won」(自分と馬が勝った)と応じ、当時の日本人への敵愾心を越えて世界の人々を感動させたという。
そして、西の名は世界中に知れ渡ることになり、欧米で「バロン西(西男爵)」として親しまれ、社交界でも人気者だった。
また当時排斥されていた日系人のに対する見方をも変えたという。そして西は後にロサンゼルス市の名誉市民にもなっている。
金メダルの栄光から13年、西は馬を降り、戦車連隊長として最前線に赴くことになる。着任先は本土防衛の最前線、硫黄島であった。
1945年、硫黄島の戦いにて、小笠原兵団(第109師団)直轄部隊として戦車第26連隊の指揮をとることとなる。
硫黄島においても愛用の鞭を手にエルメスの乗馬長靴で歩き回っていたという。
1945年2月19日、硫黄島に米軍が上陸を開始すると、日本軍は栗林中将の指揮の下、見事な持久戦を展開し、上陸軍に多大な損害を与えていく。
しかし、敵の圧倒的な兵力を前に次第に苦戦を強いられるようになり、西の連隊も全ての戦車を失い、硫黄島東部に孤立してしまう。
西はこの戦闘で米軍の火炎放射器によって負傷し片目の視力を失う。
また800名は居た西の連隊は、この頃既に60名を数えるばかりだった。
結局、硫黄島の戦いで西の率いた戦車第26連隊は玉砕することとなったが、攻撃したアメリカ軍は「馬術のバロン西、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」と連日呼びかけた。
しかし、西大佐はこれに応じず、3月17日、父島に向けて「西部隊玉砕」を打電数名の残兵を率いて進撃中、硫黄島東海岸付近で戦死した。
西の遺骸は敵の手に渡らぬよう部下の手によって砂浜に葬られた。
西はこの時、乗馬靴に鞭、そしてウラヌスのたてがみを身に着けていたという。
西の戦死から1週間後、年老いた愛馬ウラヌスも東京世田谷の馬事公苑の厩舎で死んでいるのが発見された。

満州は、戦後日本のいわば「実験場」であり、鉄道においてもそれがあてはまる。
というのも、この「あじあ号」製作に深く関わった十河信二(そごうしんじ)こそが、日本の「新幹線計画」を実現した時の第四代国鉄総裁であったからだ。
十河は1909年に東京帝国大学卒業後、鉄道院に入庁、鉄道院では主に経理畑を歩み、1930年に南満州鉄道株式会社(満鉄)に46歳で入社し「理事」を務める。
1931年関東軍による「満州事変」が勃発すると、政府の方針転換により、1938年に辞職し54歳で浪人となった。
十河は満鉄の理事を辞職したあと浪人生活を送っていたが、愛知県西条市長、鉄道弘済会会長、日本経済復興協会会長を務めていた。
1950年代前半の国鉄は事業損益は184億円となって危機的状況にあった。当時の国鉄は幹線の輸送力増強が急務であり、その設備投資にかかる費用が莫大なものとなっていたからだ。
また、国会議員からローカル線の建設の要求が高まっており、その建設費が国鉄の財務を圧迫していた。
それに輪をかけるように、桜木町事故、洞爺丸事故、紫雲号事故と相次ぐ事故により、世間からの非難の的になっていた。
大事故のたびに総裁が引責辞任するため、3代目総裁が辞任した時には、後任のなりてがなかった。そんな国鉄を外部から見ていた十河信二は、国鉄の行く末を心配していた。
そんな十河だが、同郷(愛知県西条市)の三木武吉が国鉄総裁候補に推薦したことで、十河に白羽の矢がたった。
しかし十河は高齢を理由に、総裁就任を断った。すると三木は「君は赤紙を突きつけられても、祖国の難に赴くのを躊躇するのか。こんなにも国鉄が苦しんでいるのに、ただそれを見過ごすだけの不忠者か」とたたみかけ、 結局十河は三木の挑発に乗るかたちで、1955年5月、総裁の職を引き受けた。
ただし十河は、総裁就任にあたって「3つの条件」を出した。国鉄経営に自主性を与えること。国鉄経営について最終決定権を国鉄総裁に与えること。赤字線の建設を強要しないこと、以上3点である。
この時すでに東海道の広軌新幹線を実現したいと思っていたが、政治問題になるのを恐れて、まだ話には出さなかった。
ともあれ、国鉄は十河の下で経営の建て直しと信頼回復に努めることになった。
当時の東海道線は、すでに輸送量の限界近くになっており、新幹線開設が待たれていたが、これ以上の輸送力増加は不要と考える勢力も存在した。
それは、航空機輸送の発達と、モータリゼーションの時代の到来を見越してのことであった。
そうした勢力と戦うためにも、東海道線の「抜本的」な輸送力の拡大が求められていたのだ。
ただ、十河が総裁に就任する1952年には、赤字体質の改善と幹線の輸送量の増強を東海道線の「狭軌複々線」での輸送力増強がすでに決まっていた。
だが十河は「広軌新幹線」建設にこだわり続け、総裁に就任するやいなや副総裁と技師長に「広軌新幹線」の研究と報告を求めた。
しかし「狭軌複々線」での増強案が決まっていたから、当然ながら副総裁と技師長は「広軌新幹線」に乗り気ではなかった。その結果、報告の内容は既存のデータをなぞっただけの代物だった。
これを見て十河は、何より体制つくりが先決と考え、技師長を辞任させ、後任には桜木町事故の責任問題で国鉄を去っていた「島秀雄」を再び招き入れることにした。
島秀雄は、もともと戦争中航空機の開発をしていた人物で、当時、住友金属工業の取締役の職を勤めていた。
十河の再三の依頼にもかかわらす、島は国鉄に戻り仕事をすることに難色を示す。
かつて三木の依頼を一度は断った十河だったが、今度は島を強引に説得し「副総裁格」の技師長としてまねき、島は1955年12月1日に正式に就任した。
こうして国鉄は十河総裁、島技師長のもとで「広軌新幹線」実現へと動き出した。
十河は満州の「あじあ号」と同じく、機関車が客車を牽引する「動力集中方式」であった。しかし、島は「動力分散式」の電車を提案した。
島は、これまで電車の欠陥といわれる振動や騒音の改善が進んでおり、電車の数多いメリットを生かすべきであると主張したのである。
電車は車両を軽量化できるし、線路や鉄橋の建設コストを抑えることができる。エネルギー効率もよく、加速減速性能も優れている。
そうした利点は、東海道のように需要が多い地区の高速運転に向いていると説いた。
しかし十河は、「電車」による高速化の実現が、自動車の普及に間に合うのかということが心配だった。
そこで島は、小田急電鉄から鉄道技術研究所に開発依頼がきて、すでに特急電車の研究開発が進んでいることを報告する。
そして、小田急電鉄の運行が成功すれば、国鉄内部の「電車反対派」も説得できると訴えた。
アメリカという国の「天才的特質」は、新しくやってきた人々を吸収し、アメリカの海岸にたどりついた共通点のない多くの人々から「国家」としての独自性を築きあげていく力にある。
その点でアメリカを支えてきたものが二つある。
ひとつは、「奴隷制度」という原罪の傷はあっても、法の下で市民は「平等」という考えと中核に据えていること。
もうひとつは、他のどんな国にも劣らず、地位や肩書きや身分に関係なく来る者みんなに「機会」を提供してきた経済システムがあることである。
それで、「アメリカ」を人々の意識の中にスリコマセていく長期の過程が「大統領選挙」というもので、アメリがで国をあげての「お祭り騒ぎ」になるのは、「古い伝統」というものに訴えて国のアイデンテティを確保することがで期待できない、アメリカ独自の「国のまとめ方」なのであろう。
もちろん、ヨソの国の「お祭り」が古い伝統に戻ることと同様に、アメリカも大統領選で「建国の理念」に立ち戻るということをするということである。
当然にして、「ピューリタニズム」が語られるものであり、どんなに世俗的な力が働いていようと、そこには「聖なるもの」としての雰囲気がカモシ出されるように「装われる」ことになる。
それは、「アメリカの使命」と「人類の未来」が重ねあわせて語られる「ショータイム」と化す。
つまりアメリカ人であることは特別な「ミッション」をもつものであり、その代表者である大統領を皆で選ぶことにおいも「特別な意義」をもつものであることが、メディアや演説や討論会を通じてウエツケられていくのである。
だから、それほどにアメリカにおける「選挙」が神聖なものならば、「祭り」を汚す不正や腐敗があることは、ピューリタニズムという「建国の理念」を汚すことであり、1979年におきたニクソン大統領のウォーターゲート事件が、ドレホド深刻に「自画像」を傷つけたかということを、今更ながら思わせられる。
ところで、デカプリオ主演でその半生が最近「映画化」されたJ・エドガーは、1924年から72年の48年もの間、FBIの長官を勤めた人物で歴代の大統領が最も恐れた人物であった。
J・エドガーは、ケネディ一族との関係がしばしば取沙汰されるが、歴代の大統領の「暗部」を知りつくしていて、そのことが大統領に対する「チエック機能」を果たしていた面がある。
しかしニクソン大統領の時代には、そのチェック機能が働かなくなったことも大きい。
例えば、日本への「核の持ち込み」をマスコミに告発したエルズバークという人物は、今日のウイキリークスのジュリアン・アサンジと同様に、アメリカ政府にとっての「困りモノ」だったが、この人物の通う病院の精神科で火事をおこし、そのカルテを盗むことなどが計画されていたという。
つまり、エルズバーク氏を「精神病」に仕立てることをも考えたのである。
このように、「ウーターゲート事件」とは、民主党ビル侵入・盗聴事件ダケをサスのではなく、この事件をきっかけにアカラサマになったアメリカ政界の腐敗を示す「一連の出来事」なのである。
「ウーターゲート事件」により、アメリカが「誇り」や精神的意味での「使命」を失っていった。
その分、あとは「経済力」と「軍事力」といった力だけを頼りに、ホコリを取り戻そうとする国家となっていった。
それが最もよく表れたのが、レーガン大統領であったといえよう。
また1971年のニクソンショック、すなわち金とドルとの「交換停止」の意味するとこことは、世界で最後に「金本位制」を維持してきたアメリカがソレを放棄したことにより、世界が完全に「ペーパー・マネー」の時代に移行したということである。
またそれはアメリカだけが、お金を「印刷」するというコストだけで、ドルを自由に使うことができるようになったということでもある。
しかし、この自由は「クセモノ」でそこに何らの歯止めが利かないということだ。
20世紀の前半まで、アメリカは「世界の工場」であり、「世界の農場」であったのだ。 なぜならわたしには、…まるでナチス・ドイツを作るように一つの国を軍事的脅威に変え、その脅威を世界に野放しにすることになる"核の独占"などはあってはならない、ということが重要に思えたのだ。