思いを繋ぐもの

トルストイの小品に、ロシアの民話を題材にした短編がいくつかある。
靴屋である貧しい老夫婦が、靴が売れずに店をたたもうと思っていたところ、朝起きると 立派に仕上がった靴が置いてある。
そんな日が続いたので、夜こっそり仕事場をのぞくと小人(こびと)たちが皮を切ったり組み合わせて靴を仕上げていた。
この場面に、映画「トイストーリー」(1995年)のある場面を思い浮かべたのだが、ひょっとしたら「トイストーリー」のタイトルは、一瞬「トルストイ」の名から来たのではないかとさえ思ったほどだ。
それはないにせよ、映画「トイストーリー」は、制作者の中に小人の話が下地にある気がする。
実際、小人が鍵盤の上を歩いてピアノを奏でるというファンタジーがあったのを思い浮かべる。
さて、トルストイのこの小品のテーマだが、一言でいえば「思い」は通じるということ。
それは老夫婦の心のかよいあいだけでなく、貧しき人々の思いが天に通じるということ。そして、この小品全体にあるトーンは信仰と恩寵というものである。
聖書には天が開いて天使が上り下りする話があるが(創世記28章)、トルストイのロシア民話では、人の思いを伝えてくれたのは小人である。
ところで、芸術作品では人々の思いを伝えるものとして「風」が描かれることが多い。
秋川雅史の「千の風になって」や松任谷由美の「埠頭をわたる風」などだが、思い出すだけでも、「風よ伝えてよ」とか、「風の歌を聴け」とか、「君を守る風になる」とかいったフレーズが浮かぶ。
さて、東北に「風の電話」と呼ばれる電話ボックスがある。
ボックス内には、電話線が繋がっていないダイヤル式の黒電話である「風の電話」とノートが1冊置かれており、来訪者は電話で亡き人に思いを伝えたり、ノートに気持ちを記載したりできる。
電話機の横には次のように記されている。
「風の電話は心で話し 静かに目を閉じ 耳を澄ます。 風の音が又は浪の音が 或いは小鳥のさえずりが聞こえたなら あなたの想いを伝えて下さい」。
この「風の電話」は、2011年3月11日の東北大震災で、自宅から見える浪板海岸を襲った津波を目にした庭師の佐々木格(ささき いたる)さんが、死別した家族への想いを風に乗せて伝えられるようにと敷地を整備したもの。
もともとは、震災で死去した従兄ともう一度話をしたいとの思いから、海辺の高台にある自宅の庭の隅に白色の電話ボックスを設置したことに始まったという。
そこを、祈りの像や海岸に向かうベンチを置いて「メモリアルガーデン」を併設した上で開放したのである。
さて、人々の思いを繋ぐものとして次に思い浮かぶのは、オリンピックで引き継がれる「聖火」つまり「火」である。
福岡県の南部筑後地方を八女からさらに山間の地に向かうと星野村がある。
星野村はお茶の産地として知られ、その棚田の風景は心を和ませ、星野村の名前どおり日本で最も美しい星が見られるという謳い文句でとおっている。
この星野村には今なお、「世界初の火」が燃え続けている。
その火とは、1945年に広島に投下された原爆の残り火である。
その年の8月6日午前8時15分、人類史上はじめて広島市に原爆が投下され、灼熱の閃光は10万近くの人名を一瞬のうちに焼き尽くした。
その時、兵役の任務のために汽車に乗って広島近郊を移動していた一人の男性がいた。
この星野村出身の山本達男氏は、今まで体験したこともない大地を震わす爆弾音に衝撃をうけ、広島市で書店を営んでいる叔父の安否を気遣かった。
現場に近づくにつれその惨状に先に進むことができなくなり、ひと月の間をおいてようやく叔父の営む書店の場所へ足を運ぶことになった。
だが、あたり一面焼け野原となった書店の跡地に叔父の姿があるはずもなく、遺品になるものさえ見つけることができなかった。
しかし山本氏は、そこでなおもくすぶり続けている火を「叔父の魂」の残り火として故郷・星野村に持ち帰ることにしたのである。
その原爆の火は山本氏宅でそれ以後11年あまり絶やさず灯し続けられたが、その火のことを知った星野村全村民は1968年8月6日、平和を願う「供養の火」として永遠に灯し続けようという要望をだし、星野村役場でその火を引継ぐことになった。
さらに、被爆50周年を迎えた1995年3月には、「星のふるさと公園」の一角に、新しい平和の塔が建立され、福岡県被爆者団体協議会による「原爆死没者慰霊の碑」とともに「平和の広場」の一角が整備されたのである。
この「残り火」は、全国にも知られていき、神奈川県原爆被災者の会では、被爆45周年の記念として、星野村役場にお願いし、「分火」して戴き平和の祈りを込めて「原爆の火の塔」を建立している。
そして星野村から点火された「原爆の火」は、いくつかのプロジェクトによって全国に点火されている。

ここ数年、世界の名だたる都市の街角に出現し、密かなブームとなっているのが、誰もが自由に弾ける「ストリートピアノ」である。
ことの発端は、イギリス人アーティストであるルーク・ジェラム氏が始めた「Play Me. I’m Yours」プロジェクトである。
ジェラム氏は、町の中には無数のコミュニティがあるが、皆互い沈黙したまま時を過ごしてしまっている。しかし、もし町の中にピアノを置いてみたら、人々の間に会話が生まれ、町の中に動きが出てくるかもしれないと突然ひらめいたのだという。
2008年、まずはイギリスのバーミンガム市内に15台のピアノを設置した。
「私を弾いてみてください。私はあなたのものです」という無言の呼びかけに、約3週間で14万人以上の人々が、ピアノの弾き手として、また聴衆として、ストリートピアノを楽しんだ。
そしてこの成功をきっかけに、イギリスのロンドン、ヨーロッパのその他の都市、ニューヨーク、南米まで広がっていき、今では約50の都市にてこのプロジェクトは展開されている。
そこで、ひとりの若いオランダの女性が、ドイツを旅行した際に、町の中でストリートピアノを囲んで、人々が音楽を楽しんでいる様子に出くわした。
ピアノ演奏が大きな趣味である彼女は、「自分の住む国・町でもできないだろうか」と考え、駅で即興コンサートができたら、駅の雰囲気も良くなるかもしれない」と考え、オランダ国鉄(NS)に企画を持ち込んだ。
そして再三のアプローチが成功し、地元の駅舎にピアノを設置することができた。
今では、この動きはオランダ国内から世界に広がっている。
そのひとつが、佐賀県にあるJR鳥栖駅であるが、実は佐賀県はオランダとの関わりが深い。
それは、森永製菓の森永太一郎や江崎グリコの江崎利一などが佐賀県出身であることとも関わる。
彼らの創業の由来として思い浮かぶのが、「シュガーロード」(砂糖の道)である。
江戸時代、天領(幕府領)であった長崎と藩境を接していたのが肥前・鍋島藩であるが、ポルトガルから伝わった製法を下に数々の銘菓を育ち広がったのは、「シュガーロード」ともよばれる長崎街道の存在が大きい。
そればかりか、オランダ商館長が江戸参府をする際の通り道だったからだ。
この「ストリートピアノ」は、同じ佐賀県の長崎街道沿の街を通るJR小城駅にも設置されるという。
小城は、佐賀県のほぼ中央、佐賀平野の西端に位置する城下町・小城では明治初年から「羊羹作り」が盛んに行われていて、いまでも町には20軒あまりの羊羹店が軒を連ねている。
実は、我が地元福岡の飯塚で「千鳥饅頭」や「さかえ屋」が生まれたのは、飯塚もまた長崎街道沿いの街であることと関係している。
炭鉱において厳しい労働に明け暮れていた人々の体が、甘いものを求めて飛ぶように売れた。
さて、JR鳥栖駅にストリート・ピアノが置かれた理由は、オランダ繋がりばかりではなく、もうひとつドイツと繋がるピアノにまつわるエピソードがある。
このピアノが市民により寄贈されたことからも、それを伝えたいという鳥栖市民の願いがあるからではなかろうか。
太平洋戦争末期、鳥栖小学校の体育館にかつて1台の古びたピアノがあった。
子ども達が乗って遊んだりボールを投げたりで危険なため廃棄が決まった。
そのことを聞いた一人の女性教諭が教頭に語った思い出が、思わぬ波紋を広げてゆくことになる。
この女性教諭の証言から、テレビのドキュメンタリー番組が作られ、映画制作委員会が設立され、この話は1992年に映画「月光の夏」として全国的に知られることになった。
1945年6月、鳥栖小学校で音楽を担当する上野歌子先生は、校長室に呼ばれた。
校長室に入ったとき、上野先生は、首に白いマフラーを巻き飛行服姿で立っている2人の青年を見つけた。
青年達は、自分達が音楽学校ピアノ科の学生であり、出撃の前に思いをこめてピアノをひきたいと告げる。
当時、全国のほとんどの小学校にはオルガンしかなかったが、この鳥栖小学校には名器と呼ばれた「ドイツ製フッペル」のグランドピアノがあったのである。
2人の青年は、そのうわさを聞いて、長崎本線の線路を三田川の目達原(めたばる)飛行場から、3時間以上(12㎞以上)の時間をかけて歩いてきたのである。
上野先生は急いで2人を音楽室に案内し、大好きなベートーベンの「月光」の楽譜を持ってきた。
それは青年の運命を知っているかのようであった。なぜなら彼の専攻はベートーベンだったからである。
一人の青年が「月光」を弾き、もう1人の青年が楽譜めくった。
上野教諭は、1つ1つの音をシッカリと耳に心に留めておこうと、心をこめてその演奏に聴きいった。
演奏が終わり2人の青年が音楽室を去ろうとしたとき、上野先生は、この短い時間を「共有した証」を残してあげねばと思い、音楽室にあった白いゆりの花を胸一杯に抱いて二人に渡した。
そして、その時に学校にいた皆とともに二人を見送った。
二人は花束を抱え、何度も振り返りながら長崎本線の線路を走って戻っていったという。
その出来事から約2ヵ月後に戦争は終わり、上野先生は、終戦直後、鳥栖駅のベンチで、あの特攻兵が帰還するのを待ち続けたがそれもかなわず、彼らの消息は不明のままであった。
この当時の国鉄鳥栖駅に、このたび「ストリートピアノ」が設置されたのである。
終戦から、数十年を経て、「ピアノの廃棄」がきまって教頭に語った二人の特攻隊員の話が地元に広がり始めた頃、元新聞記者やテレビ局などの協力により、二人の青年の行方を探すことになった。
ただ十数年後、上野教諭は鹿児島の知覧平和記念館を訪れた時に、戦没者の写真によりピアノをひいた方の青年の死を知る。
しかしページをめくっていた青年の生存はどうかと、元音楽学校の名簿などをたよりにその人を探し出した。
その青年は出撃後エンジン不調のために帰還され生存され、阿蘇の自宅で音楽教室を開いていた。
しかし鳥栖でピアノをひいた特攻隊の青年のことがマスコミで話題になった時も、それが自分であることを家族にも語らず胸にしまっておいた。
というよりも、それを語ることはその人にとってあまりにも辛いことであった。
そして45年の時を隔て、上野先生はその青年と再会され、人々が見守られる中その人は鳥栖小学校でベートーベンの「月光」を演奏された。
JR鳥栖駅すぐ前のサンメッセ鳥栖に設置された「フッペルのピアノ」は演奏はできないが、今でも数多くの寄せ書きや絵画、書そして花束がおかれている。
2人の青年の出来事を伝えつづけた上野教諭は、1992年講演先で突然亡くなられている。
なお鳥栖文化会館では現在でもこの出来事を記念して毎年「フッペル平和コンサート」がひらかれている。
またフッペル社があるドイツのツァイツ市と鳥栖との間の交流も行なわれている。
このたび、JR鳥栖駅前のサンメッセ鳥栖に加え、その構内にもう1台のピアノが置かれたことになる。

わが地元福岡の繁華街といえば天神。その地下街は 全長590mのヨーロッパの街並みを基調とした大きな「劇場」としてデザインされている。
実は、西鉄福岡駅から天神地下街に降りるエスカレーターから見える「からくり時計」に目がひかれる。
この「からくり時計」は開業10周年を記念して昭和61年に設置された。
フランス・ ルネサンス音楽の作曲家クレマン・ジャヌカン作曲の「昔小娘」というシャンソンをロンド風にした曲を、30分おきに奏でている。
この「からくり時計」で思い起こしたのが、オランダの「カリヨン」である。
さて、ヨーロッパのシンボルといえば、教会の鐘。「鐘の音」が戦争の始まりを告げる場面として、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の中で、街の鐘がけたたましく鳴り響くシーンがあった。
それはトラップ大佐のファミリーが暮らすオーストリアの町に「ナチスが侵攻」したことを告げる鐘の音であった。
ファミリーは、コンクール会場を気づかれないように逃げ出し、そしてスイスの山をこえて逃れる。
オランダ・アムステルダムの「西教会の鐘」も、ナチスにまつわる歴史を秘めた鐘となった。
ベルギーと並んで、オランダもカリヨンの発祥地、カリヨンの本場といえる。
カリヨンとは、ラテン語の“4個で1組”が語源である。
フランドル地方(ベルギー、オランダ)の伝統楽器で、14世紀ごろ、時刻を知らせる教会や物見塔、鐘楼の大鐘が鳴ることを事前に知らせるための「前打ち」と呼ばれる小さな鐘が付け加えられたことに始まる。
アムステルダムの西教会のカリヨンは、1638年に建造された。
塔の高さは約85メートルで、アムステルダムで最も高い鐘楼で、7.5トンの時報(時打ち)用の鐘も付いている。
西教会とその鐘が世界中に知られるようになったのは、「アンネの日記」によるところが大きい。
アンネ・フランクの一家が、ナチス・ドイツら逃れて隠れた「隠れ家」は、西教会のすぐ側にあった。
隠れ家の小窓から、西教会の鐘楼がよく見えた。
隠れ家に移って5日目の1942年7月11日の日記には、「お父さんもお母さんも姉のマルゴットも、15分ごとに時を打つ、西教会の鐘の音にまだ慣れません。私は慣れるどころか、最初から、鐘の音がとても素敵に聴こえます。とくに夜は、鐘の音が私に何か安らぎを与えてくれます」と書かれている。
さて、鐘の音の哀切感をもっともよく表現したクラシックの名曲に「ラ・カンパネラ」がある。
正確にいうと「パガニーニによる大練習曲 第3番 嬰ト短調」がある。
いわずと知れたリスト作曲で、「ラ・カンパネラ」はイタリア語で「小さな鐘」という意味である。
リストは、1831年にパリのオペラ座で初めてニコロ・パガニーニの演奏を聴いてインパクトを受け、パガニーニの演奏技巧をピアノの「鍵盤上に再現」してみようと考え、全曲のピアノアレンジして出来たものである。
日本では、フジコ・ヘミングの演奏でこの曲はよく知られるようになった。
ヨーロッパの教会の鐘は、時を伝える小コスモスの中心、そして天上の曲を奏でるピアノやオルガンは人々の信仰心を繋ぐものなのだ。

それは何より、鳥栖の市民によりピアノが寄贈されていることからもうかがえる。
個人的に、佐賀県鳥栖に「伝説のピアノ」が保存してあるのを知ったのは、20年ほど前に訪れた鹿児島の知覧であった。
今から10年上も前に、鹿児島の知覧(特攻隊の出撃基地)の平和記念館に行った時、ドイツ・フッペル製の白いピアノが展示してあるのを見つけた。
その「解説パネル」の中に、終戦間際に鳥栖の小学校でピアノを弾いた二人の特攻隊員の願いを永遠に残そうと、特攻隊員の仲間たちが、知覧の地に「同じ型」のピアノを残すことにしたのだそうだ。
またこの時、二人の特攻隊員が実際にひいた方のフッペルのピアノが、JR鳥栖駅前の「サンメッセ鳥栖」に展示されていることを知ったのである。
それでは、日本に2台しかないコノ「フッペルのピアノ」の物語とはナンなのであろうか。
それは、映画「月光の夏」で世に知られることになったフッペルのピアノである。
特攻から帰還した者達をナニガ待っていたかについては、「月光の夏」(毛利恒之著)に書いてある。特攻にいったものが、帰還したのでは政府当局にとって都合が悪かったのだ。
ところで知覧の展示資料の多くを収集した板津忠正氏は、まさに「月光の夏」に登場した青年と同じように飛行機で出撃後、エンジン不調のために帰還されて終戦をむかえたのである。
その負い目から戦友の遺骨収集に精力を注がれ、それらが「知覧平和記念館」が誕生したということを付言しておこう。