「知的財産」雑感

現在、トランプ大統領が中国の「知的財産権」侵害を問題化し、それに対処するために鉄鋼・アルミなどの製品に対して関税を上げ、中国もそれに報復するという展開となっている。
「知的財産権」は、発明(特許権)やデザイン(意匠権)、著作物(著作権)などの分野で、今まで誰もやらなかったこと、思いつかなかったことにつき保護される権利が生じるというものである。
例えば、コンビニおにぎりは、海苔がパリパリの状態で食べられるように、ご飯と海苔がフィルムで分けられて包装されている。
外装のビニールをはがす時にフィルムが抜けて海苔がご飯に巻きつく仕組みだ。
以前は、包装の三角形の頂点にあたる部分を切り取り、そこから中のフィルムを引き抜く「パラシュート型」が主流だった。
その後、頂点から底辺に向けて直線状に包装をカットテープで切り取り、左右の二角を引っ張るとフィルムが抜ける「セパレート型」が多くなった。
いずれのやり方も、美味しいおにぎりをスムーズに取り出して食べられるよう、考案者がアイデアを絞り出し、工夫をこらしたものだろう。
それが独創的で商品の「競争力の源泉」になるものならば、簡単に他人に真似されたくないはずだ。
このようなアイデアや仕組み、発明品などを、考案者の財産として一定の期間保護する権利を「知的財産」という。
こうした知的財産権が社会全般に行き渡っていないと、ひとりの人生どころか人類の「共有財産」を失うということもありうる。
スンティーブン・フォスターは「オー スーザナ」や「草競馬」など数々の名曲を生んだ。
フォスターのは、オハイオ州シンィナティで兄が経営する本屋の手伝いをしつつ、作曲していった。
そして、自分が書き溜めた曲の楽譜を直接出版社に持ち込み、その中に最初のヒット曲「オー スーザナ」があった。
彼が作った曲は200にものぼり、「草競馬」「オ-ルド ブラック ジョー」「ケンタッキーの家」は彼が旅したケンタッキーを高らかに歌った名曲である。
ところが、田舎から出てきて右も左もわからぬまま、「音楽収益」のほとんどは出版社に取られてしまった。
一度は結婚し子供も一人できたが、貧しさのために家族と別れ、1864年にニューヨークの病院で一人静かに亡くなった。35年の生涯であった。
フォスターはアメリカ南部を舞台とした歌を多く創ったが、実はペンシルバニア州ピッツバーグの隣町ルイスヴィル生まれで、スーザン川を一度も見たことはなかった。
さらには、故郷の家族や家を歌った歌が多いが、彼が亡くなる時点では家も家族も持つことはなかった。
つまり、フォスターの作品は、彼自身の想像の産物なのだ。それは、アフリカにいったことのない人物が「ターザン」を書いたのにも似ている。
フォスターが亡くなって約10年後の1875年シカゴで生まれたバロウズは、36歳まで「不運続き」であったといってよい。
学校の試験はことごとく失敗、軍隊、牧場、鉄道、セ-ルスマンと次々に職につくもののクビになった。
「適応性」に欠け体も丈夫ではなかったが、「鉛筆削り」を売る会社の代行業をするようになった。
その仕事の合間、アフリカに投げ出された白人の赤ん坊がどのような人生を送るのかという「空想物語」を書き始めた。
そしてこの「空想物語」が、1912年ある雑誌で発表されるや、大変な人気を集めた。
「ターザン」が映画作品となるに及び、バロウズは大富豪となっていく。
ハロウズはまちがいなくアメリカン・ドリ-ムの体現者となり、世界各地を「豪華船」で巡り歩いた。しかしその彼も、自分の小説の舞台アフリカにはついに足を踏み入れることはなかった。
同じ「空想の産物」であっても、フォスターとハロウズはかくも異なる人生を送った。
「著作権」や「印税収入」などの権利が確立した時代であれば、フォスターはミリオネアーとして生涯を全うできたはずだ。それ以上に、さらに多くの「名曲」の数々を生み出したにちがいない。
S・フォスターの「悲劇」を思うと、「知的財産権」の大切さを痛感させられる。

2010年、岡本真夜さんの曲「素顔のままで」が、勝手に上海万博のオープニング・ソングに使われた出来事があった。
、 中国側も「曲を使った」ことを認め、岡本さんの方は「使ってもらって光栄です」と応じた結果、争いに発展することもなく、穏便に収まった。
ただ、国家的行事に歌手の曲を無断に使うなど、中国側の「知的所有権」に対する意識の低さを露呈したことは、間違いのない。
ところで、岡本さんの「使ってもらって光栄です」という言葉には、彼女が当時置かれていた「ある状況」について後から知らされた。
岡本さんは、小さいころからイジメにあって孤立しがちであったが、高校時代に何もかも話せる親友と出会った。
岡本さんがレコード会社に送った「Tomorrow」がヒットしたことを誰よりも喜んでくれたのも、その親友であった。
「素顔のままで」は、その親友が落ち込んだ時に励ますために作った歌だった。
岡本さんが仕事で忙しくなり二人はあまり会う機会も少なくなっていったが、それでも会う時はいつも昔のままの気持ちでいることができた。それを「素顔のままで」というタイトルに込めた。
しかし、ある日突然その親友が他界する。その衝撃は岡本さんの心から消えず、音楽活動がそれを忘れる唯一の方法であった。
ところが、岡本さんはその後突然の眩暈におそわれ立つことさえ出来なくなり、病院に行くとメニエール病という難病にかかっていることがわかった。
長年のストレスと疲労の累積が原因だという。
そして片方の聴力がほぼ失われて、ほぼ引退を決めていた頃、降って沸いたように起きたのが、上海万博「素顔のままで」盗用事件であった。
だが、この出来事は岡本さんを励ます結果となった。「素顔のままで」に再び世間の注目が集まり、ネットのダウンロードも急増し、テレビへの出演依頼も来た。
岡本さんにとって、この事件は作品の「盗用被害」どころか、天にいる親友からの「もう少し頑張って歌ってみたら」という「励まし」のメッセージのように感じられたという。
自分の創作物がフリーに使われることにつき、皆が嫌悪感を抱くわけではない。そのことを一番思わせられるのが作曲家の吉田正である。
吉田は、1942年に満州で上等兵として従軍し、敗戦と同時にシベリアに抑留されている。
従軍中には部隊の士気を上げるため、またシベリア抑留中には仲間を励ますために曲を作った。
その抑留兵の一人が詩をつけ、その歌が「よみ人しらず」として、いつの間にかシベリア抑留地で広まっていった。
1948年8月、いちはやくシベリアから帰還した抑留兵の一人が、NHKラジオの「素人のど自慢」で、この「よみ人しらず」の歌を「俘虜の歌える」と題して歌い評判となった。
吉田は、その直後に復員して「俘虜の歌える」が評判になったことも知らず、半月の静養の後に以前に勤めていた会社(ボイラー会社)に復帰していた。
ところが9月、ビクターよりこの評判の歌に詞を加えられて「異国の丘」として発売されてヒットする。
そして、この曲の作曲者が吉田正と知られるところとなり、翌年吉田は日本ビクター・専属作曲家として迎えられたのである。
その後、吉田は数多くのヒット曲を世に送り出し、1960年に「誰よりも君を愛す」で第2回日本レコード大賞を受賞している。
一方、昭和を代表する作曲家として若い歌手を育て、1998年6月肺炎のため77歳で死去したが、その翌月には吉田の長年の功績に対して「国民栄誉賞」が授与された。
近年、吉田が軍隊にいたときや、シベリア抑留中に作ったとみられる未発表の歌が、レコード会社などの調査で次々に見つかっている。
一人の抑留経験者の情報提供をきっかけに、吉田が所属していたレコード会社とNHKがさらに調査を進めたところ、同じ部隊にいた人達やシベリアの収容所の仲間が、ノートに書き残したり、記憶に留めたりしていた20余りの曲が発見・復元された。
吉田の戦後の再出発のきっかけとなったのが「異国の丘」(作詩:増田幸治 佐伯孝夫)だが、その原点ともいうべき満州時代に自らが作詩・作曲した「昨日も今日も」という習作があったことが判明した。
生前、吉田自身は、軍隊・抑留生活の中で作った作品を公にしてこなかったが、戦友や抑留経験者たちが“ヨシダ”という仲間が作ったという記憶とともに密かに歌い継いでいた曲だった。
しかし、吉田自身は当時作った曲を忘れたと話していて、それらを残そうという気持ちはなかったようである。
むしろそうした歌を「封印」したフシさえあるのだが、自らが知らぬうちに自ら創作した曲が「異国の丘」としてラジオで流れていたのを知り、吉田の心の中に戦後の復興へと向かう日本を励ます歌を作ろうという思いが芽生えたに違いない。
NHKのインタビューで、吉田は、自分の歌が「詠み人知らず」のように多数の人から歌われることこそが、自分の「理想」であることを語っている。
岡本真夜や吉田正のケースのように、作品は個人の資質に加えて周囲との「関係性」の中から生まれてくるのがよくわかる。
つまり芸術家の創作の源泉は、個人所有の井戸からではなく、共同の井戸からであり、そこから汲みだしつつ創造している。
さて、英語で所有を意味する言葉は、「have」「possess」「own」などいくつかある。この中で「own」という言葉は所有を意味するが、「所有」以外にも「負う」という意味もある。
人間が自分の「所有」と思い込んでいるものが、実際には他者に相当「負う」ているものが非常に多いということだ。
社会の発展にとって「知的財産権」の保護が必要である一方、それをシェアしていこうとする動きもある。
実際、世の中には、自分の「知的創造物」を惜しげもなく全面的に公開する人々もたくさんいる。
すぐに思いつくのは、1991年にフィンランドの一青年リナス氏が考え出したOSである「リナックス」である。
彼はそれをインターネットに公開し、このOSの開発を全世界似呼びかけ、人々はアイデアを出し合い、意見を交換し、リナックスは「異常な」進化を遂げることになった。
大事なことは、このOSを最初に開発したリナス氏が、莫大な利益を得るかもしれなかったのに、あえて公開して無数の人々の協力によっそれが進化することに喜びを見出したこと。
それよりも、彼の名を冠したOSが世に出回ることの方がよほど喜ばしいことだったということでしょう。

多くの人は、仮に何か斬新かつ有用な技術を発明した場合、まず「特許」を取得することを考えるに違いない。
しかしそれはありうる選択肢の一つにすぎない。
場合によっては、特許を取らず、「別の方法」を取った方が長期的に見て、発明者の利益となることがある。
この別の方法を取っていることで有名なのが、コカ・コーラである。
その「原液の製法」は、特許を取れば、法的に他者がその製法でコーラを作ることを禁じることができるが、その期間は最長で20年である。
そして、その製法は「公開」しなければならない。すなわち、20年経ってしまうと、誰もがコカ・コーラを自由に製造できてしまう。
「公開」されるので、多くの業者に真似されると、差止請求や損害賠償請求には多大な費用・時間・労力が必要となる。
そこで考えられる特許以外の手段とは、簡単に言えば、「ひたすら秘密にする」というものである。
万一、当該秘密がバレて他者が「無断」でその秘密を利用した場合、特許を取得していなくても法的に差止請求や損害賠償請求をできる(不正競争防止法2条、3条、4条)。
コカ・コーラ社もコーラの原液の製法を厳重に管理しており、一説によれば、同製法を知っているのは、この世に二人だけとも言われている。
要するに「原液の製法」は秘伝中の秘伝なのだ。
「コカコーラ」とは違う「別の方法」を採ったのが博多の味「メンタイコ」である。
キムチをスケトウダラにつけることを考案した福屋の川原俊夫は、その製法をフリーにした。
その製法をフリーにしたことが、競争相手を作ったとしても、自社が宣伝しなくとも、他社が「博多の味メンタイコ」を宣伝してくれる。
ただし、その味つけや加工法については「企業秘密」にしており、そこに絶対的に自信があったからであろう。実際に「福屋の明太子」は、そのプリプリ感など他社の追随を許さないように思える。
そして、新幹線開通を契機として全国的にブレイクした。
「博多の味」といえば、最近成長著しい「とんこつラーメン」店の一蘭がある。
最近では糸島に東京ドーム二個分の工場ができ、「一蘭の森」と銘打って多くの見学者が訪れ、地域経済への貢献も半端ない。
さて、「一蘭」の売りといえば一人ひとり仕切られた「味集中カウンター」で、一蘭はこの「味集中カウンター」で特許まで取得している。
女性でも一人で気軽に入って人目を気にすることなくラーメンを食べられる。
このカウンターは他にも沢山のメリットがある。まず、深夜呑んだあとに大勢で来ても一人ひとり分散してあまりお互い喋らないので酒呑んで長居することもない、むしろ回転は普通より早くなる。
またカウンターに座ると、競走馬がゲートに入ったような気になって食べるのが幾分早くなる気がしないではない。
近年、この一蘭のパクリ店が、タイで大ブームになっているという。そのパクリの中でも問題になるのが、一蘭が元祖とする「味集中カウンター」である。
ある弁護士によれば、「原則として、特許請求に記載されている要素がすべて利用されていなければ特許権侵害とはならないので、いくら"パクリ"としか思えない要素が目についても、それだけでは直ちに特許権侵害にあたるとはいえない。対象店舗のシステム全体についても検討する必要がある」と。
ちなみに一蘭の「秘伝のたれ」の製法は、代表者を含めて数名しか知らないということなので、法的に言えば不正競争防止法上の「営業秘密」として守られている。
この一蘭の「味集中カウンター」をタイの模倣店が表れ批判されていることにつき、堀江貴文は、特許制度を「社会の発展のなんの足しにもならない20世紀までの遺物制度」と批判している。
また、特許になりえる技術やアイデアなどを公開し、外部の発想を交えて革新的価値を生み出す「オープン・イノベーション」が世の中の主流だと主張した。
人々の中には、経済的利得よりも、自分の作品が広く行き渡り、一人歩きしながらも進化していいくことに喜びを見出す人もいる。
そして自分がその発明者・発案者であることの名誉心を得ることの方が、金銭欲よりもはるかに優っているという人もいる。
この時代、「シェアする」ことや、「いいね」と承認されることが、人々の欲求であるように思う。
思いついたアイデアを、皆でシェアしてブラッシュアップするというのも、「知的財産」に対する時代に即した行き方でしょう。