飛出し女子

終戦から復興期にあって、自らの意思で一人海外に向かった日本人女性が少数ながらいた。 彼女らは何をもとめ、その後どのような人生を歩んだのか。
さて、淀川長治の解説で「日曜洋画劇場」というものがあって、イタリアの貧しき人々をリアルに描いた二つの名画が記憶にある。
「鉄道員」と「自転車泥棒」で、それらが記憶に残ったのは、世の中の「不条理」のようなものが、幼い自分にも伝わったからにちがいない。
映画「鉄道員」(1956年)は、主人公が運転する列車に若い男が飛び込み、気持ちが動転したために信号を見落とし衝突事故を起こし左遷された男とその家族を描いた。
映画「自転車泥棒」(1948年)の方は、ポスター貼りを仕事にする貧しい親子が自転車を取られて仕事ができなくなり、父親が再び雇ってもらうために自転車を盗もうとしたところ警察に捕まるという話。
誰よりも真正直で健気に生きてきた人々が、なお家族や友人の温もりを支えに生きていこうとする切なさが感動をよぶ名作である。
こうした映画の公開とそれほど時を隔てていない1953年、まだ戦後の混乱も収まらぬ中、須賀敦子という女性が、ひとりヨ-ロッパに飛び立った。
そして、彼女は日本での生活とはほど遠い、イタリアの貧困と不条理に深く触れることになる。
須賀は阪神芦屋生まれの裕福な家庭に育ち、東京広尾の聖心女子大学に進み、慶応大学大学院で学んだ。
聖心女子大学第一回生の彼女と同期には、後の国連高等弁務官となる緒方(中村)貞子や、その少し後輩には同大学英文科を首席で卒業した正田美智子がいた。
また、須賀敦子の行動的力は朝日新聞の下村満子を思い起こす。
下村の方が4歳ほど須賀より若い、父は鉱山に勤め、母は医師の東京生まれ。
終戦を迎え、小学校・中学校と文章を書くことが好きだった下村はジャーナリストになるという夢をいだき慶應義塾大学経済学部へ進んだ。
成績は申し分なくジャーナリストを目指し就職活動に臨むが男性社会の壁に阻まれ、男性にも負けない武器を身につけようと単身アメリカへ留学することになる。
帰国後、再びジャーナリストへの門をたたきますが日本は依然として男性社会であり、またもその道は阻まれ、東京オリンピック開催の時にようやく新聞社の通訳のアルバイトに採用された。
そしてようやく新聞に記事も書くというにチャンスを手に入れることになる。
その後、下村はある週刊誌に嘱託記者として迎えられ、クーデター直後のオマーンへ行き見事に謎に包まれていた王女のインタビューに成功し、世界中を揺るがす大スクープをものにした。
さて、須賀敦子は1971年にヨ-ロッパから日本に帰国し、社会改革運動などにも関わるが、大学講師から教授を経た後に翻訳家としてすでに知られていた。
須賀はイタリア人の夫とともにイタリアの詩を日本語に翻訳したり、日本の作家(谷崎潤一郎や川端康成)の作品をイタリア語に訳したりしている。
それだけに、優れた言語感覚をもち、流麗ともいうべ文体は多くの読者を魅了した。
そして61歳で書いた「ミラノ霧の風景」は女流文学賞を受賞し、その後、堰を切ったようにその体験記を書き綴った。
そのイタリアでの生活の息吹は、バブルに踊り、弾けた日本人の心に静かに染み透っていった。
個人的な話だが、1998年に新聞の片隅に出た彼女の死亡記事に、しばらく目が留まった。
その経歴とともに、我が大学時代にキャンパスを歩かれていた一人の先生の姿が、須賀女史と確認できたからであった。
その後に見た、NHKの特集番組で、あらためて須賀敦子の人生のことを知った。
さて芦屋出身で外国に飛び出した女性といえば、小池百合子がいる。
実は、小池百合子というニュースキャスターをテレビで見かけたのは、「竹村健一の世相講談」という番組でアシスタントキャスター(1979年から85年まで)をしていた頃。それは、奇しくも須賀敦子が帰国して本を書き始めたバブル期の入り口の頃であった。
小池百合子は、兵庫県芦屋市生まれ、高校卒業後、関西学院大学社会学部に入学する。
たまたま、「国際連合の公用語にアラビア語が加わる」という新聞記事をきっかけに、アラビア語通訳を目指すことにした。
1971年9月に大学を中退してエジプトへ留学。
父親の小池勇二郎は、海軍中尉、満鉄経理部に勤務、復員後ペニシリン販売で財をなし、得意の英語力を生かし、石油会社など4つ会社を経営した実業家で、関西経済同友会の幹事をつとめ人だった。
石原慎太郎の新党結成を見据えた会の推薦を受けて、1969年旧兵庫2区から衆議院議員総選挙に立候補している。結果は落選したが、小池が政治家を志し、東京都知事の前任と後任がこうした関わりで結びつくのも、人の世は面白い。
ところで、須賀敦子が1953年ヨ-ロッパに渡り最初に学んだのはパリ大学だったが、あまりの個人主義と理屈っぽいフランス人の性格に疎外感を感じたという。
それは、慶応仏文科の遠藤周作が戦後初のフランス留学生として味わった疎外感と重なり、芥川賞受賞作「白い人黄色い人」にもよく描かれている。
須賀自身はその疎外感を「この国のひとたちの物の考え方の文法がつかめない。対話だけでなく出会いそのものが拒まれている。岩に爪をたてて上ろうとするが、爪が傷つくだけだった」と強烈に表現している。
1955年気質的には合わないパリから帰国し、その3年後には知りあいの勧めで陽気で明るいイタリアの地に渡った。
ロ-マのレジナムンデイ大学で友人と旅を楽しんだり歌ったり踊ったりで笑いの絶えぬ留学生活を送ることになる。
須賀が「ミラノの深い霧」で題材としたのは、1960年から11年間暮らした当地でのできごと。
10代でカトリックの洗礼を受け、20代で信仰を生活にどう位置づけるか模索するために留学し、パリやローマの大学で神学を学んだが、答えは出なかった。
そして、彼女はついにミラノで居場所を見つけ出す。そこは1960年、教会の側に造られた「コルシア書店」という小さな書店であった。
それは、居場所というよりもイタリア社会の裏面に近づく入口であり、後の創作の源となる場所ともなった。
彼女は、「コルシア書店」が単なる本屋ではなく、カトリック左派とよばれるインテリ集団のサロンとなっていることを知る。
須賀はその仲間に受け入れられ、その仲間との交流を「コルシア書店の仲間達」という本に書いている。
そして、1961年に仲間達に祝福されて夫のペッピーノと結婚する。
ペッピーノは、細い目でほほえみを絶やさず、やせっぽちでぼそぼそしゃべる。でも教養に裏付けられた皮肉とユーモアを持っていたから、多くの人が集まった人物であった。
無類の本好きで、生活は質素。須賀を最初に下宿させた一家の女性は、「二人は最初から一緒にいた気がするくらい、同じ気質を持っていた」と話す。
その一方で、彼女は鉄道員であった夫の実家との出会いにより「イタリアの裏面」を知ることになる。
須賀の夫ペッピ-ノの「鉄道員」である実家は線路に面したの官舎にあり、わずか半畳の広さの中で仕事を行う信号夫であった。
それは、芦屋のお嬢様には想像もできなかった貧困とそれにともなう一族の相次ぐ結核死などの運命の酷薄さであった。
「たしかにあの鉄道線路は、二人の生活のなかを、しっかりと横切っていた。結婚したのは、夫の父が死んですでに十年近かったのに、鉄道員の家族という現実はまだそのなかで確固として生き続けていた。
私自身にとってはおそらく、イタリア人と結婚したという事実よりも、ずっと身近に日常の生活を支配していたように思える」と書いている。
鉄道員の夫の家族との出会いは単なる異国での体験以上に、彼女が生まれて初めて知る貧しい労働者の生活との出会いを意味した。
夫の実家を次々と襲う不幸、その「孤独」が毒のように当時の彼女の心を「いつやむともしれない長雨のように」蝕んでいった。
イギリスの作家・ディケンズの「信号手」は、手をふる人影は事故で死んだ信号手という恐ろしい短編であったが、まるで須賀が真夜中に聞く列車の音は彼女のミラノでの運命を暗示するように不気味なキシミをもって響いていく。
そして彼女の内面でわだかまっていた不安が的中することになる。夫のペッピーノは肺を病み、41歳の若さで他界する。
須賀は夫の死後もしばらく書店の経営を続けたが、それも4年をもって日本に帰国する。
しかしコルテア書店で受けたカトリック左派の思想的な影響で、東京練馬で社会改革運動「エマウス運動」をはじめた。
つまりキリスト教精神を基にした貧富の格差解消のための運動で、廃品回収業をしてその純益を福祉事業にあてるというフランスではじまったボランティア活動であった。
NHKの特集で、この時の須賀と一緒に活動した一人の女性の発言が印象的であった。
廃品の家具を運びこみ手についた汚れを見つめる彼女の眼差しがどこか遠いものを見つめているように距離があった、と。
後に彼女はこの活動について、「間違えた場所に穴を掘ってそのことに気づかないウサギみたいだった」と振り返っている。
須賀は帰国後、JRの駅に近い原宿のマンションに居をかまえ執筆活動をした。
須賀はもともと活動的な人で、ミラノで襲ってきた霧を追い払うかと思えたが、むしろ「霧の正体」を見つめ続けるように執筆していった。
「ミラノ霧の風景」の中で、ミラノに霧の日は少なくなったというけれど、記憶の中のミラノには、いまもあの霧が静かに流れていると書いている。
執筆の絶頂期の1998年にガンを宣告され、69歳で他界。

石井好子といえば福岡県久留米出身で、日本におけるシャンソンの「草分け」といってよい。
そして父親は佐藤栄作内閣時代の石井光次郎自民党幹事長である。
石井は東京藝大学卒業後クラシック歌手をめざしていたが、ティーブ・釜萢(かまやつひろしの父)や森山久(森山良子の父)がいたジャズバンド「ニュー・パシフィック・バンド」に入り、ボーカルを担当した。
そして駐日連合国軍(主にアメリカ軍)の将校クラブやキャンプ等で演奏活動をするうち、バンド仲間の一人と最初の結婚をする。
しかしアメリカ育ちの夫と価値観があわず結婚生活は4年で破綻した。
すすむべき音楽の道を模索するなか、手探りでシャンソンを歌い始めた。
離婚の痛手から立ち直れず、また目標も定まらない中、石井は単身アメリカに渡ることを決心した。
父親は別荘を売って費用を出したという。
そしてサンフランシスコの一番高い丘の上の高級住宅地にある音楽学校に入学が許可され、8人の女性が下宿するアパートで暮らした。
プライベートレッスンに通う毎日の中でオペラからミュージカルまで色々なものを見て過ごし、お金はどんどん消えていった。
そんな中、石井好子に運命の転機がおとずれた。
石井は当時「黒真珠」と呼ばれたジョセフィン・ベーカーの歌うシャンソンの虜になっていた。
学校の午後の授業は全部さぼってベーカー出演の劇場に入り浸っていたが、劇場の支配人がベーカーと会わせてあげようと声をかけた。
会うだけでも感動なのに、石井を楽屋へ連れて行ってくれたのである。
ちょうどジャズピアニストの秋吉敏子がオスカー・ピーターソンと出会った時のような運命的なものだった。
その時ベーカーは石井に、シャンソンを勉強したいなら、パリへ行かなくてはだめとアドバイスしたという。
1952年、石井は当時のアメリカ人のボーイフレンドを振り切ってパリへ渡った。
その二日目に「パスドックの家」という店で、歌手としてのテストを受けることになった。
ある歌を歌うと、一人の紳士がこの歌を作ったのは私だと近寄ってきた。そしてその紳士・ミシェル・エメの推薦でその店で歌うことになった。
石井はそれがシャンソン歌手としてのスタートであり、自分の進む道がシャンソンであることを確信した出来事でもあった述懐している。
そしてある日、当時パリで名声を得ていたいた画家・藤田嗣治が、石井の舞台を訪れた。
新聞で見た日本女性を応援しようとやってきたのだが、フジタが花を捧げた歌手というので、翌日から石井を観る観客の目が変ったという。
それほどフジタはパリでは有名な画家だった。
その後、モンマルトル広場にある「ナチュリスト」という店で、なんと365日無休で舞台出演という契約を結んだ。
この体験が拠り所となって、どんなつらいことでも乗り越えられると思うようになったという。
石井はだんだんパリの虜になり居ついてしまいそうな気がしてきた。フジタもそれを勧めたが、石井は日本でスベキことがあるように思い帰国した。
しかしパリで成功した石井を、当時の新聞は大々的に取り上げ、父が自由党の幹事長ということもあって世間は放っておくはずはなかった。
一方でこの状態では、まともな仕事ができないという危機感を覚え、石井は再びパリヘ戻った。
その後革命前のキューバ行きの話があったが、かつての恋人がいるニューヨークへ向かった。
ところがニューヨークで出会ったのは、読売新聞の特派員の男性であった。
「運命の人だ」と感じたが、互いに会うこともなく、手紙のやりとりだけで4年間の時を経て、再婚している。
この時石井はすでに39歳であった。媒酌人は佐藤栄作首相夫妻であったという。
しかし石井が歌手生活35周年を迎えたようとした年、最愛の夫がなくなりその9ヵ月後、父・光次郎も逝ってしまう。
ちなみにシャンソン歌手として有名なエディット・ピアフが歌った「愛の賛歌」は、恋人であったボクサー、マルデル・セルダンに捧げたもの。
セルダンは、ピアフのニューヨーク公演を見に行く途中に、飛行機事故で亡くなった。
パリの日本街近くに今も「オランピア劇場」あるが、ここがピアフが長く専属歌手をつとめた劇場である。
「愛の賛歌」は、岩谷時子が翻訳した歌詞を越路吹雪が歌い大ヒットしたのは、あまりにも有名である。
岩谷は越路とは姉妹以上の繋がりで、日本を代表する作詞家となっていく。
ところで石井好子という一人のシャンソン歌手にしては、交流の多彩さに目を見張る。
それは石井が日本の「閨閥」に属するからばかりではなく、それだけのスケールを持ち合わせた人だったからにちがいない。
それは多くのシャンソン歌手を発掘し、育てたことにも表れている。
1957年、石井が帰国したころは日本でシャンソン・ブームがおこり、紅白歌合戦でも石井、越路、高の他に、淡谷のり子、中原美沙緒、芦野宏など多くのシャンソン系の歌手が登場した。
1961年に石井音楽事務所を設立し、岸洋子、芦野宏、加藤登紀子、田代美代子などのマネージメントを行った。
筑後川に近い久留米市総合スポーツセンターの陸上競技場の片隅に、衆議院議長、日本体育協会会長などを務めた父・石井光次郎の胸像が建っている。

「夫の出張で、姑の家に泊まっていることだけもせつないのに、この音で目覚めてしまうと、なぜか心細さがどっとおしよせてきて、自分が宇宙のなかの小さな一点になってしまったような気持ちになる」
さて小池百合子21歳の頃、同じく日本人留学生だった一般人男性と結婚したこと(その後直ぐに離婚)。
その後、一家はエジプトに渡り、 現在のカイロで日本料理店「なにわ」を経営している。
カイロで日本料理店を始めたのは、母恵美子さんが発案者で、家族の猛反対を押し切って、20年間もの間、カイロで店を切り盛りしたという。
小池百合子の方は、大学卒業後はアラビア語の通訳として活動したり、テレビのアシスタントやキャスターを務めている。