予期せぬ産物

九州の門司港は、地理的に中国大陸に近いことから国際貿易港として発展してきた。
日清戦争以来、前進基地としての役割を果たし、多くの将兵や弾薬、食料、軍馬などを数多く運んできた。門司港のすぐ近くには「出征軍馬の水飲場」の遺跡が残っている。
また、この門司港対岸の下関の彦島に牛馬の牧場があり、そこに検疫所がもうけられていた。この牧場をもうけたのは、日本の牛乳屋では先駆的な「和田牛乳」である。
そして、この和田牛乳と和田一族には、日本の近代史と共に歩いた家族史があり、一人の女優誕生もその小史の一コマとして存在している。
和田牛乳は、徳川慶喜に仕えた幕臣であった和田半次郎よって創業されたもので、いわゆる士族授産の一環として誕生したものであった。
当時、50歳を過ぎていた和田半次郎がたまたま住んだ所に、オランダ人に乳牛を学び日本で始めて牛乳製造販売を行っていた前田留吉という男に出会い、その感化を受けた。
さらに半次郎は西洋医学者で初代の陸軍軍医総監の松本良順らによる牛乳が健康に良いという奨励がなされており、牛乳の需要が伸びると見込み乳牛業をはじめた。
ちなみにこの松本良順が、日本で最初の海水浴場を大磯につくった人物である。この大磯には、吉田茂首相の自宅があった。
和田家は日本における牛乳業の草分け的存在で日本で最初の低温殺菌牛乳をつくった一族として歴史に名を刻んでいる。
秋葉原駅近くの旧二長町に牛乳本店とミルクプラントをもうけ、後に北千住などに牧場をもっていた。 二代目和田該輔(かねすけ)の長男の輔(たすく)が後を継ぐべく期待されたのだが、あまりに風来坊気質が強すぎて、とうてい乳牛業にはむかず、輔の弟である重夫が和田牛乳・三代目となるが、この重夫が日本初の低温殺菌牛乳を生んだのである。
ところで、東京神楽坂に「和可菜」という料亭がある。和可菜はいわゆるカン詰用の料亭でここで多くの小説やシナリオが書かれた。
この料亭のかつてのオーナーは、和田つま、つまり木暮実千代として知られた女優である。とはいっても、実質的な経営は、つまの妹が行っていた。
木暮は、和田牛乳の三代目と期待された和田輔(たすく)の子供で、四人姉妹の三女として生まれた。
親の期待を裏切り、三代目に成り損ねた輔ではあったが、中国や朝鮮から運ばれてきた牛馬を検疫するために下関の彦島に牧場をつくった。
これが下関彦島検疫所となり、戦時下にあって和田家が「官」と繋がることにより、その牧場も政治的な関わりをもつことになったのである。
そのため和田輔の娘・木暮実千代は下関生まれで山口の梅光学院を卒業した。
木暮が日大芸術学部の学生時代に、その美貌が目にとまり松竹にスカウトされ女優の道を志すことになったが、木暮の同期の学生には三木のり平や女優・栗原小巻の父・栗原一登などがいた。
木暮は、女優として成功し、後にいとこで20歳も年上の気鋭のジャーナリスト和田日出吉と結婚する。
和田日出吉は牧場経営には全く関心を示すことはなかったが、新聞記者として当時の政財界を揺るがした帝人事件を題材にした小説「人絹」を書き、一躍「時の人」となっている。
さて1960年代、和田静郎が「すらりとやせる和田式美容体操法」を考案し、実践者の内から「ミス日本」が生まれ大ブレイクする。
2015年、和田の業績を讃え、各界で顕著な活躍を見せ、将来の期待を秘めた女性に対して、「和田静郎特別顕彰ミス日本」が新設され、その第1号に、新体操日本代表の畠山愛理が選ばれた。
ただ、この美容法が「馬の痩身術」からあみだされたものであったこと知る者は、和田一族以外それほど多くはない。

和田牧場があった彦島近くに浮かぶのが、宮本武蔵と佐々木小次郎の対決で知られる巌流島である。
今から約400年前、宮本武蔵に戦いを挑み敗れたという体験を持つ一人に、夢想権之助(むそうごんのすけ)という人がいた。
その夢想権之助により創始されたのが、「神道夢想流杖術」という武術である。
宮本武蔵との敗れた後、福岡の霊峰・宝満山で武術を磨いて「夢想流」という流派を築き「一門」を開くまでになっていった。
それは剣術というよりも「杖術」であり、「杖」を駆使した変幻自在な戦法で、相手の急所をツく。
テレビでその杖使いを見てハットした。
どこかで見た「杖使い」。
かつてテレビでやっていた新人警察官の訓練で見た棍棒使いと実にカタチが似ている。
夢想権之介は宮本武蔵と戦った際に120cmの長い木刀で挑んだのに対し、武蔵は短い木切れで受けてたち、撃退された。
夢想権之介は数多くの剣客と仕合をし、一度も敗れたことはなかったが、宮本武蔵と仕合をし二天一流の極意「十字留」にかかり、押すことも引くこともできず敗れてしまう。
権之介は、この武蔵の「剣術」に目覚めさせられたのである。
以来、武者修行の為諸国を遍歴し、筑紫の霊峰・宝満山に祈願参籠し、「丸木をもって水月を知れ」との御神託を授かった。
権之助は御神託をもとにさらに工夫を重ね、ついに四尺二寸一分、径八分の樫の木で、槍、薙刀、大刀の3つを統合した「杖術」を編み出したという。
権之介は宝満山で修行し、その後「杖術」の使い手となる。
福岡藩に召抱えられて、術を広め「夢想流」という武術一派を確立した。
「傷つけず 人をこらして戒しむる教えは 杖のほかにやはある」。
杖は、四尺二寸一分、直径八分の樫の円形である。
一見、杖そのものには、他の武術がもつ様に、それ自体の力強さは何一つとてない。
則ち、先もなけれな後もない、見るからに平凡であり、平和そのものでさえある。
武術として、最も非攻撃的であるかの様にみられるこの杖が、ひと度難局に面した時、その繰り出す技は千変万化なのだ。
伝書の中に「突けば槍 払えば薙刀 持たば太刀 杖はかくにも 外れざりけり」とあるが、「杖」は左右の技を連続的の使い、相手をして応戦に暇なしからしむ状態に陥し入れるのが特色である。
「神道夢想流杖術」は当初黒田家の「男業」の一つとして、主に足軽、士分の者、家老等の武士の家臣が学んだという。
そして、「黒田の杖」といわれ無頼の徒に恐れられたが、 幕末までは「杖を学んでいる者を数えるのに暇がない」ほど門弟も数多くいたが、明治維新の改変に伴う廃藩置県で、藩の庇護をはなれ急速に衰えて行った。
しかしが白石範次郎重明という人物が「杖術」の伝統を守り抜いた。
白石没後(1927年)、一人の高弟が福岡道場を発足させ、流派の「継承」に尽力した。
昭和の始め、もうひとりの高弟が「杖術」普及をめざして上京し、頭山満、末永節等の玄洋社社員の後援を得て普及発展をはかった。
その後「大日本杖道会」を発足し、それをもって柔道の講道館で警察の警杖術を指導したのだという。
そして、「神道夢想流杖術」の技法の一部は、日本の警察で「警杖術」として採用され、全日本剣道連盟の杖道形として普及し、剣道の理合と融合した武道の「杖道」となったのである。
テレビで見た「夢想流」は、やはり警察官の「棍棒使い」と繋がっていた。
宮本武蔵からすれば、己の短い木刀使いが対戦相手を目覚めさせ、間接的ながら近代警察の棍棒術につながるなど思いもよらぬことであったろう。

スターリン時代のソ連は、ヒットラーに優るとも劣らぬほどユダヤ人を弾圧していたが、ウクライナ地方キエフの町にユダヤ人レオ・シロタ・ゴードンという音楽家と貿易商の娘との間に、ベアテという娘が生まれた。
父レオ・シロタはオーストリアのウイーンに留学し、1920年代「リストの再来」と評され、世界の三大ピアニストに数えられるほど、超絶技巧を誇るピアニストとして注目されていった。
しかし、1917年のロシア革命の混乱で帰国不能となり、家族と共に「オーストリア国籍」を取得した。
しかし、当時のヨーロッパ経済は不安定で公演のキャンセルが続き、ドイツを中心として「反ユダヤ主義」が台頭していたこともあり、一家三人は半年間の「演奏旅行」のツモリで1929年の夏、シベリア鉄道でウラジオストックへと向かった。
そしてレオ・シロタはこの演奏旅行の途中で、日本を代表する音楽家・山田耕筰と「運命的」な出会いをする。
ハルビン公演を聞いた山田耕筰がホテルを訪れ、日本での公演を依頼したのである。
レオはその年に訪日して1カ月で16回もの公演を行ない、山田耕筰によって東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授に招聘された。
さらに世界恐慌でのヨーロッパ情勢の不穏の中、ゴードン一家は日本に滞在し続けるのである。
現在、東京・赤坂の東京ミッドタウンがある一帯は、かつては赤坂区檜町と呼ばれていた。
古くから著名人や外国人などの集まる地区の一つであり、ウィーンからシベリヤ鉄道経由で日本にやってきたゴードン一家もここで暮らすことになった。
ゴードン一家では、父レオが上野の音楽学校から帰ってくると、ベアテと両親に家庭教師を含めた4人で食卓を囲んだ。
ベアテは、6歳ごろからはピアノ、ダンスを習い始めたのだが、自分にピアノの才能がないことは、父レオが自分よりも他の生徒達を熱心に指導することなどから、自然に悟らざるをえなかった。
ただ、ベアテには自然にもうひとつの道が開かれんとしていた。
実は、ゴードン家では、母オーギュスティーヌがたびたびパーティを開き、山田耕筰や近衛秀麿、ヴァイオリニストの小野アンナなどの芸術家・文化人、在日西欧人や訪日中の西欧人、徳川家、三井家、朝吹家など侯爵や伯爵夫人らが集まるサロンと化していた。
ゴードン一家での会話や、ゴードン家に集まる人々との情報のやり取りの中で、ベアテはさまざまなことを吸収していった。
とりわけ、日本語をはじめとする5カ国語の会話とラテン語をマスターしていったのである。
ちなみに、近衛秀麿がヨーロパ演奏旅行の中で密かにユダヤ人の亡命を支援するのは、ここでのゴードン一家との接点が原因かもしれない。
さてゴードン家は、洋画家・梅原龍三郎の家のすぐ近所でもあったが、近所に著名なピアニストが引っ越してきたと聞いた梅原が、自分の娘にもピアノを教えてもらえないかと訪ねてきた。
梅原は、5年間ほどフランス留学の経験からフランス語が話せ、両家の間で自然に交流が生まれた。
そしてゴードン家から梅原に、家政婦さんを紹介してくれないかという申し出があり、紹介されてやってきたのが小柴美代であった。
小柴美代は、静岡県沼津の網元の娘で、高い能力がありながら、「教育を受ける機会」がなかったという、当時の日本人女性を代弁しているような女性であった。
ベアテは、5歳から15歳という多感な時期を日本で過ごすが、小柴は毎日の生活の中で一番身近に接していた日本人女性であったといえる。
そして好きな人と結婚することもできず、父母の決めた全然知らない人と結婚させられること、正妻とおめかけさんが一緒に住んでいること、夫が不倫しても妻からは離婚は言い出せないことなど、「子守唄」を聞くようにして日本の女性についての情報が蓄積されていった。
ただベアテにとって、このことがどんなに大きな人生の展開を生むかは知る由もないことだった。
また幼いベアテにとって忘れられないの日があった。
1936年2月26日の大雪の日である。226事件が起こった際には、ベアテの自宅の門にも憲兵が歩哨に立ったのだが、日本人は表立っては優しいのに、内面にはかり知れないものを秘めていると思わせられたという。
また軍神・乃木希典をまつった乃木神社には、戦地で亡くなった兵隊達の葬列を見かけることが増えるにつれて、日本の雰囲気が次第に慌しくなっていっていることも、子供心にも感じとった。
1939年5月、ベアテは日本のアメリカンスクールを卒業し、もうすぐ16歳になろうとしていた。ヨーロッパでは、「ユダヤ人敵視」をかかげるナチス・ドイツが目覚しい台頭がを見せつつあった。
両親は、ベアテをアメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ近郊のオークランドにあるミルズ・カレッジに留学させることにした。
ミルズ・カレッジはアメリカでセブン・シスターズとよばれる名門女子大のひとつであった。
ベアテは、大学卒業後アメリカ国籍をとり、一時期ニューヨークのタイム社でリサーチの仕事をしていた。
1945年太平洋戦争の終結とともに、一刻も早くに日本にいる両親に会いたくて、日本に入国可能な軍関係の仕事を探した。
そして、偶然にもGHQの民生局の仕事を見つけ、さっそく民生局課長ケーディス大佐の面接を受けて、政党科に配属された。
ただGHQ民生局のメンバーとして日本に帰ってきたベアテにとって、美しい風景が無残な焼野原に変ってしまていることに、悲しみを抑えることができなかった。
ベテアの両親は軽井沢に難を逃れていたが、乃木坂の家は焼けつくされていた。
日本に帰って1ヶ月ぐらいして、突然に民生局に「憲法草案作成」の指令が出た。
そしてベアテの抱いた悲しみは、日本で新しい憲法草案を作るという使命感によって打ち消されていった。
そればかりか、世界に誇れる民主的な憲法を作ろうという理想にも燃え立っていた。
そしてケーディス大佐は、この大学を出て間もない22歳の女性に、「女性の権利」についての条文を書くことを命じた。
しかし、そんなベテアの仕事は極秘事項であり、両親にさえ口外することが許されていなかった。
もしそれがわかったら、そんな小娘に日本国憲法が書かせたのかと、反対勢力に利用される可能性があったからだ。
ベアテは10年にわたる日本の暮らしから、日本人女性に何の権利もないことを知っていた。
まずはジープで図書館を回り、世界の憲法が「女性の権利」をどのように定めているかをリサーチした。
ベアテは草案の中に、母親・妊婦・子供、養子の権利、職業の自由までをも含めて書き、それを民生局課長ケーディス大佐の所にもっていた。
しかし大佐は「社会保障について完全な制度をもうけることまでは民生局の任務」ではないと一蹴し、その権利条項の大半が削られた。
ベアテはその時、悲しさと悔しさで涙が止まらなかったという。
それにしても、家政婦として働いていた小柴美代が幼きベアテに語った話が、ベアテにとって不十分な内容であったものの、後の日本国憲法「両性の本質的平等」(憲法24条)に繋がるとは予期せぬことだったに違いない。
さて、家政婦の美代をゴードン家に紹介した梅原龍三郎と並ぶ同時期の洋画家・赤松麟作には自分の幼い娘を描いたおかっぱ頭の「良子」という作品がある。
この「良子」こそ、後にベアテが涙をのんで削除した「女性の権利」を、約40年後に「男女雇用機会均等法」として実(じつ)あるものにした女性キャリア官僚の先駆け・赤松良子である。

布施明の大ヒット曲「シクラメンのかおり」の歌詞(小椋圭作)の一節、「真綿色したシクラメン」とは大嘘である。そしてこんな恋愛も。
シクラメンは赤色しかなく真綿色のシクラメンなどあるはずがなく、小椋氏のイタズラ心の所産にすぎない。
加えていえばシクラメンの球根は豚のエサとなるもので、和名で「豚の饅頭」という名前がついて、見た目とは裏腹に、実情はスガシイと言える花ではない。
しかし、嘘が真になってしまうのが、この世の中の面白さであり、または恐ろしさでもある。
この歌のヒットを機に、なんとか「白いシクラメン」をつくろうという努力をした人がいて、今や実在する花になってしまった。