桑田君、取手に現る

夏がくるといまだに思い出す。
1969年8月17日、松山商業と三沢高校の決勝戦。
延長18回の死闘で0-0のまま決着がつかず、翌日に再試合が行われれ、松山商業高校が4-2で三沢高校を破り優勝した。
太田幸司は甘いマスクで甲子園のアイドル一号となった。
1970年、近鉄に入団し、実績もなくオールスターゲームに選ばれたりもした。
その後、巨人から阪神に移籍し、1984年に引退した。
プロ通算58勝85敗4セーブで、プロ選手としてもそこそこの活躍をしたが、大田幸司の雄姿は、甲子園のマウンド上に「止まった」ままだ。
家庭のおいてビデオ録画がかったおかげで、松山商業が「延長16回・17回」のノーアウト満塁など絶対絶命のピンチを凌いだ経過を何度も反芻した。
その結果、あの試合が自分の中で「永遠化」しているといっても過言ではない、
三沢高校ではこの歴史に残る試合を記念して、地元では「顕彰碑」を建てようという動きが起こった。
しかし、当時の校長は、この碑に野球部員たちの「名を刻む」ことに反対した。
あの「延長18回再試合」という試合の重荷をこれからずっと彼らに負わせてしまうことになるからという判断からだった。
実際に、両校球児の「その後」を追跡した本によると、若き日の「栄光」を維持して生きていくことはなかなか大変なことだとわかる。
その意味で、あの試合後の感動の余韻の中で、あえて「若者の名を刻む」ことを拒否した校長の「見識」こそ顕彰ものといえる。
そして1984年夏の甲子園決勝戦、「世紀の番狂わせ」といわれた試合も、いつまでも脳裏に刻んでおきたい試合となった。
その試合とは、桑田・清原擁するPL学園と茨城県代表の取手二高の決勝戦である。
監督は、後に常総学園の監督として名を馳せる木内幸男監督で、取手二高の全国制覇こそが「木内マジック」の幕開けであった。
この決勝戦のマウンドに上がった桑田は、カーブの投げ過ぎでマメが潰れての投球だった。
それでも、傍目には負けるはずのない相手だった。わずか2カ月前の練習試合では13-0と圧勝。それも1安打完封に抑え込んでいたからだ。
ただ桑田自身は、決勝まで駆け上がってきた取手二高の「勢い」に不安を覚えていた。
それはその前年、1年生で甲子園の優勝を経験した桑田自身を乗せた「甲子園での勢い」というものを肌身で感じていたからでもあった。
優勝候補ではなかった取手二高は試合中に笑顔を見せ、大きな声を出し、感情を表しながら勝ち抜いていった。
雨が降って試合開始が危ぶまれる中、桑田は十分なピッチングもできず上がった1回。順調に2アウトを取ったものの、グラウンドの状態が悪く、不運なエラーで2点を失った。
桑田によれば、ここから負のスパイラルが始まっていったという。
それでも、やはりPL学園の勝利かに思えた場面がやってきた。取手二高校1点リードの9回裏、PL学園は先頭の清水哲が同点ソロを放つ。
PLはここから更にチャンスを作り「また逆転サヨナラ優勝か」という空気が流れはじめた。
その時、木内監督はふて腐れ気味のエース石田文樹を右翼に下げ、左腕の柏葉勝己をマウンドへ。
そして4番・清原和博を迎えたところで再びエースを登板させるという継投で、一瞬にしてその流れを断った。
当時の甲子園では一旦投手を外野にまわし、ワンポイントリリーフを送るというような策はみたこともなかった。
主将の吉田はこの時の石田の様子を、清原相手に意気に感じたのか、表情が全然違っていたと振り返っている。
取手二の主軸の中島は、何で同点にされるんだと怒られると思っていたら、真逆で「せっかく甲子園で決勝戦ってんだから、1イニングでも長くやっぺよ」と励まされた。
そう、最近お笑いコンビ「カミナリ」のブレイクで知られるようになったアノ茨城弁で。
木内監督は日頃はよく叱ったが、甲子園に来たら、好きなようにやらせてくれた。一方 木内の激励でピンチを凌いだ取手二高は、延長10回、桑田をとらえた。
160球目を中島が決勝3ランに。あの大根切りのスイングこそ、取手二らしかった。
結局、8-4で取手二校の勝利。PL学園は敗れた。被安打12、失点8は桑田の甲子園ワースト記録となった。
しかし、取手二高のこの勝利はけしてフロックではなかった。この年の国体でリベンジを期すPLを「4-3」で返り討ちしている。

先日、NHKアナザーストーリーで「桑田・清原の運命の分岐点」というタイトルでその試合にまつわるエピソードの紹介があった。
その中でも印象に残ったエピソードがあった。
それは、国体の試合後、桑田真澄がPLの寮から、一時「行方不明」になったことがあった。
そして、桑田が現れたのは、関東の茨城・取手の地であった。
取手は、南北に水戸街道(国道6号)が通り、利根川の水運とあいまって、古くは宿場町だった。
桑田はなぜ取手二高のある取手を訪問したのか。
その前に、この夏の甲子園で取手二高の選手たちが見せた「武勇伝」を紹介したい。
初戦でプロが注目する2人のりの剛腕(島田・杉本)を擁する和歌山県・箕島高校に勝利。
この箕島戦に勝利した後、ナインは勝利の雄叫びに夢中、通路で馬鹿騒ぎをしてなかなか整列しなかったナインは大会本部から大目玉を食らった。
ちなみに、吉田剛主将は、プロ入り後(近鉄)も“お祭り男”として名をはせた。
この試合の6回裏PLの攻撃。1点返して「1-2」となり尚無死2塁、 相手打者はレフト前ヒットを放つ。
ここで、投手はバックホームが逸れるのに備え、捕手をバックアップするというのが定石。
レフト前ヒットを放った選手は当然バックホームの隙をついて二塁を狙う。
しかし捕手のバックアップをせずマウンド付近に“立っていた”石田投手は レフトからの返球をカットし二塁へ送球。打者走者をアウトにする。
その後、8回裏にも同様の場面があったが。 再びカットしようとした石田投手だが今度は触っただけで捕球できず、 返球が逸れる間にランナーが帰り1点差に詰め寄られている。
辛口解説者なら“酷評”するようなプレーだった。
吉田は、3回戦の福岡の大濠高校戦で9回ダメ押しの本塁打を放ち8-1で勝利した試合後、「こんなところでホームランを打っても全然面白くない」と語っている。
そしてPLとの決勝戦で吉田は、2本塁打を桑田から放っているが、その際、“これでもか”というほどのガッツポーズをしてベースを回った。さらには、ベンチの奥で何人のもメンバーと抱き合うという喜びようだった。
当時の取手二ナインは、男女交際OKで、彼女からもらったお守りを首から下げる選手もいた。
その辺、いいところ見せたい煩悩は人並み以上だったかもしれない。
それにしても、あの年の取手二高は、木内監督がその後作りあげた「常総学院」のスキのない野球は全く違っていてチームカラーも対照的である。
木内監督は、この2年前、 主力6人(吉田・佐々木・下田・桑原・中島・石田)が入部してきた時、「公立校でこんなチームができたのは奇跡」と身震いしたという。
彼らは、バントが嫌だとわざとファールにする等、巧に監督の指示を無視したり、「一度木内監督に反発し3年生が集団退部したことがあったが、木内監督は、「神が私に与えてくれた一生に一度のチーム」と語っていたという。
また集団退部をしても「許して」くれた監督の為にも「やらなきゃイカン」という雰囲気が生まれた。
これもすべて木内監督の計算の中の人心収攬術のひとつであったであろう。
また、監督木内の繰り出すアイデアも規格外で、初戦・箕島戦の前には勝った場合、「ご褒美と」して、海に連れていくことを約束し、実際に海水浴場に繰り出したりしていた。
つまるところ、海千山千の木内監督の方が一枚上手で、しっかり「悪がき集団」を掌握していたようだ。
ところで話を戻して桑田は、取手をなぜ訪問したのか。
桑田は、日韓高校野球の全日本チームに選ばれた際に、取手二高の投手の石田や捕手の中島と親しくなっている。
しかし、桑田は旧交を温めるために取手を訪問したわけではない。
桑田には、練習試合では大差をつけたチームに、なぜ負けたんだろうという思いが燻っていた。
その「なぜ」を消化するため、秋の国体後、取手に足を運んだ。
PL学園は寮生活のため、よほどの理由がない限り外出は認められないため、異例の行動だった。
桑田にとって、野球とは寡黙にひたむきに、歯を見せないで厳しい練習に耐え抜く、というのが当時の野球界の常識だった。
そして自分の「野球観」の中にはなかった、のびのびした戦い方をする取手二高校の選手達や彼らが育った地域、そして選手たちはどういう環境で、どんな練習をしているのか、自分の目で確かめたいと思いたったという。
桑田はまず 取手二高が普通の県立校であることに驚いていたという。
ハード面だけを見れば、野球部専用のグラウンドを持つPL学園を上回るものは見つからなかった。
ただ石田や主将・吉田剛らの家も行き来し、対戦だけでは分からなかったものを桑田は見つける。
取手二高の「のびのび野球」から、失敗を恐れずプレーし、笑顔で野球を楽しむというスポーツの原点を再確認することができた。
桑田は、その経験から目的は同じでもいろんなアプローチがあること、いろんな準備が必要なこと、そして「理不尽」なこともたくさんあるということを受け入れられるようになったという。
その理不尽なことといえば、当時桑田がいまだ知らざるいくつもの体験から思い知らされることにもなる。
巨人を熱望していた清原ではなく、自分がドラフト1位で巨人に入団したことや、「投げる不動産屋」と週刊誌に揶揄されたこともあった。
そして、取手二高の選手達のその後にも「理不尽」とも思える様々なドラマがあった。
取手二高のエース石田文樹は、ドラフト5位で横浜ベースターズに入団した。しかし41歳で直腸ガンのために他界している。
桑田が、「大舞台でどうしてあれほどのびのびと野球ができるのか」と不思議に思い、茨城にある実家を訪れたあの石田文樹のあまりにも若すぎる死であった。
葬儀において、ユニフォーム姿の横浜ナインが見守る中、同期入団の石井琢朗が弔辞を読んだ。
石田は、甲子園を沸かせながら、早稲田大に推薦で入学するも、大学の体質になじめず、すぐに中退。
日本石油を経て、ドラフト5位で横浜へ。
社会人を経て横浜に入団したものの、プロの世界では思うような結果を残すことができなかった。
実働6年で25試合に登板。1勝0敗の成績を残した。
現役を引退した後は打撃投手を務め、1998年には38年ぶりの日本一に貢献した影の立役者ともなった。
自分が恩返しできることは裏方としてチームを支えるこだと、「打撃投手」として黙々と投げ続けた。
当時の権藤博監督は文句を言う姿を見たことがなく、打者を気持ちよく試合に臨ませてくれるチーム愛にあふれた男であった。
皆が、陰からチームを支えた功績を高く評価されていた。
石田の長男も取手二高で野球をやっていて、昨夏ベスト8に進出したから、今年は楽しみだと話していた。
高校野球担当記者によれば、「首をやや右に傾けて、親父そっくりのフォーム」だという。
県予選で息子が力投し、2回戦突破に導いたのは、親父が逝った翌日のことだった。
また「理不尽」といえばPL学園の清水哲選手。甲子園決勝戦、取手二高9回裏4-3で負けている土壇場で同点ホームランを打った。
その後、同志社大学に進学し野球を続けたが、試合中の事故で半身不随、車椅子生活となる。
現在は、講演・執筆活動のほか、障害者のサポートを行っている。
車椅子は、桑田・清原からのプレゼントだそうだ。

人は日頃戦っている相手に似てくるといわれる。
警察がヤクザのアジトをガサいれするのを見ればよくわかる。どっちが警察かヤクザか。
この法則は夫婦の間でもあてはまるかもしれない。日頃の「研究対象」に似てくるのだ。
桑田について、寮で同室の後輩・野村弘樹(後の横浜ベイスターズ)は、取手二高との対戦以来「ピンチで笑顔をみせることが多くなった」という。
桑田も取手二高の選手に幾分、同化していたのだ。
同化というより「学んだ」というべきか。
最近、作家の津村記久子が、スポーツを「他者のこと、考える機会に」という視点から新聞に寄稿していた。
津村女史は、3年前くらいから、「ディス・イズ・ザ・デイ」というプロサッカーの2部リーグのサポーターたちの小説を書くのに、日本各地のJ2やJ3の試合を見てまわった。
W杯を見るのと、スタジアムで地元チームの試合を見るのは、全く違う体験ではあるん共通するのは、対戦相手という「他者」を知る機会であることだ。
日本人は、東京にいたら東京のことしか考えないし、地方から上京して働いている人は、基本的に東京と出身地のことしか考えんと思うんです。
でも、サッカーだと、対戦相手の地方のことを考え、地方と地方が平気で結びつく。
これまで関心がなかった場所が、すごく身近な存在になってくるのが面白い。
W杯でも、全然関係なさそうな国と国が結びつく。
日本が1次リーグで一緒になったコロンビアもセネガルもポーランドも、これまでは意識さえしなかったのに、どういう人がどういう暮らしをしているのかを知りたいと思うようになる。
日本にいてしんどい人は、この国なら合いそうやなとか思うかもしれないし。
W杯で活躍した選手が、普段は小さな町の小さなチームでプレーしていることもある。そういう町の人は何をしてるのかなと想像してみる。
他者のことを考える機会にするというのがすごく大事だということ。
ところで、桑田の性格について「頑固」と評する人が多い。それはフィギュアスケートの羽生結弦と二刀流の大谷翔平とも共通するようだ。
ただ、高校生・桑田君の素晴らしさは、ひとつの負け試合を甲子園よりはるか広い視野から捉えようとした点。もしこれが、高校生の夏の「課題研究」なら、自らの疑問を足を運んで調べたことなどを含めて、秀逸なものになるであろう。
最近、日本大学アメフト部、アマチュアボクシング連盟、レスリング協会など、その世界の権力者の悪しき支配が、才能ある選手を潰し、あるべきスポーツ精神をも台無しにしてしまった感がある。
ドス黒いスポーツ界のニュースのなか、甲子園100周年記念番組で知った桑田君の「取手訪問」は、霞ヶ浦の沼に咲く蓮の花のようのもの。