通訳と二人三脚

最近のテレビニュースで、たまたま二人の通訳に目が留まった。大谷翔平の通訳とハリルホジッチ監督の通訳である。
二人をみると、単なる通訳というよりも、生活先般のサポーターという点で共通している。
そのため、おそらく互いの「相性」がよくなければ、プレイヤーの心の安定は期待きず、チーム内の人間関係にも影響を及ぼしかねないということが推測できる。
とはいえ、二人の通訳の置かれた状況は、日の出と日の入りのように対照的である。
アメリカで大谷と二人三脚の新しいスタートを始めた水原一平と、ハリルホジッチ監督の解任とともにその役割を終える樋渡群(ひわたしぐん)。特に樋渡はハリルホジッチ監督の「ゴミ箱に捨てられた状態である」という言葉を、涙を流しながらに通訳していた。
ハリルホジッチ監督の解任理由は、「チーム内の雰囲気が悪く選手とコミュニケーションが取れていない」というもの。
樋渡の涙には、コミュニケーションの仲介役たる「通訳」としての責を感じた部分も含まれているのだろう。
さて、ロサンゼルスで大谷選手の生活をサポートするのは、通訳の水原一平だが、水原の実家はなんとエンゼルスの本拠地アナハイムにある。
もともと水原は、北海道苫小牧市出身で、現在の年齢は32歳、大谷より約10歳ほど上になる。
日本料理の板前である父の仕事の関係で、6歳のころにロサンゼルスに渡った。
2017年/18年の日ハムアリゾナキャンプの春季キャンプで選手食堂でもシェフを務めていたため、日本ハムとの繋がりができた。
したがって水原の場合は、渡米というよりも「帰郷」という方が言葉として適切であろう。
水原は、これまでスポーツ経験はサッカーとバスケだけ。野球の経験はない。
本人は、トルネード投法で大リーグを席巻した野茂英雄がロサンゼルス・ドジャースに在籍していたことから、メジャーリーグに興味を持つようになった。
その後、岡島秀樹投手がメジャーリーグ(ボストン・レッドソックス)在籍時に通訳を担当している。
その後、日本ハムが通訳募集をしていること知り応募し、2012年から日本ファイターズの通訳になる。
2017年、大谷選手の通訳となるため日本ハムを退団し、18年2月、大谷選手とともに渡米した。
調整段階とはいえ大谷が軽く投げたボールを捕り損ねるなどして、悪戦苦闘中なのだという。
大谷自身は「捕って返してくれたらいいだけ」というが、力をいれない軽いキャッチボールとはいえ、日本球界最速投手が投げるボールを野球未経験者が受けるのは怖さもつきまとう。
水原は、今のところキャッチボールはあまりしたくないというのが本音のようだ。
そんな大谷が水原を通訳に選んだの理由のひとつは、水原の実家が、エンゼルスタジアムから車で15分ほどの距離にあるということも大きい。
寮生活からいきなり異国で一人暮らしとなる大谷にとって、水原は欠かせないパートナー 。
大谷が腹がすいたら、オヤジが日本からうまい魚や野菜を仕入れたのでウチの実家に行きましょうなんてことにもなるかもしれない。
つまり、水原は、家族ぐるみで大谷選手をサポートできる環境が既に整っていることが強みである。
また、免許持たない大谷を乗せて現地で運転するのも、報道陣への広報役も水原が務めることになる。
というわけで、大谷にとって気心の知れた水原はパートナーを超えて「分身」とも言える存在で、アメリカにおける「二人三脚」の戦いが始まった。

先日、空港でハリルホジッチ監督辞任のコメントを涙を流しながら通訳していた樋渡群は、スキンヘッドで一体どういう人物なのかと興味をそそられた。
樋渡は、野球未経験の水原通訳とは異なりサッカー経験豊富。というよりも日本のサッカー指導者といってよい人物である。
さて、ハリルホジッチ監督は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ出身だが、フランスリーグで選手・監督として活躍しフランス語は堪能である。
一方樋渡は、1978年 広島県で生まれで崇徳高校卒業後、東京都立大学経済学部卒業後にフランスに渡り、パリ・サンジェルマンのU12の監督をつとめている。
樋渡はフランスで監督として活躍した経験を持ち、日本サッカー協会公認A級ライセンスと仏サッカー協会公認指導者ライセンスのダブルライセンスをもっている。
そんな樋渡に、ハリルホジッチ監督の通訳に白羽の矢が立ったのは自然なことといえるだろう。
樋渡が、いかにうってつけの人材であったかということがわかる。
樋渡は帰国後、JFAアカデミー福島にてコーチに就任、男子U14、15監督を経て、女子U16-U18監督に就任し、「ヤングなでしこ」の育成に関わり、多くの名選手を育て上げた。
「なでしこ」といえば、佐々木則夫監督にばかり注目が集まるが、その影に樋渡の努力があったのだ。
さて、日本代表には、ハリルホジッチ監督より前に6人の外国人監督がいた。
オフト監督(オランダ、1992~93年)のときには協会もまだ財政が豊かではなく、協会職員の人物が通訳にあたり、英語でコミュニケーションがとられた。
ファルカン監督(ブラジル、94年)には、ポルトガル語通訳が務めたが、日本サッカー協会から「コミュニケーション不足」を指摘され、わずか1年で任を解かれた。
しかしこれは通訳が悪いのではなく、日本サッカー協会が「外国人監督」の扱い方に習熟していなかったことが最大の要因といわれている。
そうした監督と通訳とのズレや行き違いを経て、1998年は、日本サッカー協会がサッカーにおける「通訳」の重要性をようやく認識した年といえるかもしれない。
1998年にフランスからトルシエ監督が就任するが、その会見の背後の通訳の日本人女性がいたのは記憶に新しい。
その日本人女性こそは「日本のフランス語通訳の第一人者」と言われる臼井久代あった。
その後のジーコ監督(ブラジル、02~06年)やオシム監督(ユーゴスラビア、06~07年)とのそれぞれの通訳の出会いは、何かに導かれたかのような感動的なものであった。

サッカー日本代表の監督も務めたジーコの通訳を長らく務めたのが鈴木國弘。そのブラジル渡航のドラマがすごい。
鈴木はその時中学3年生。横浜港にいくと眼前に夢の国ブラジルへ誘ってくれる巨大船が停泊していた。
クルーが忙しそうに動き回っているので、船内を自由に歩き回る見知らぬ少年を咎めたりしない。
鈴木は階下の倉庫の様なスペースに忍び込んだ。
ビザとは何?パスポートとはどんな食べ物?と何もしらない無謀さだった。
この頃鈴木を突き動かしていたのは、ペレーを中心に世界を席巻したボールのマジシャン集団ブラジルのサッカー見たさだけだった。
突然、倉庫のドアが開き懐中電灯の強烈な灯りに照らし出される少年の姿。
鈴木が千葉の自宅に戻った時はすでに辺りは真っ暗。自宅内は友達や警察官、近所の人々でごった返していた。
日頃から特に厳しかった親父からは体罰を覚悟したが「高校だけは出とけ」の言葉だけだったことに意表を突かれ、さらに涙が出た。
ただし、多感な中学生時代に体験した強烈な出来事は大きな挫折ではあったものの、後の45年間をずっとブラジル・サッカーが生業となっていくことを決定づける出来事だったかもしれない。
そんな鈴木がブラジル・サッカーとの出会ったのは中学1年の時。部活で毎日ボールを追いかけていたある日、大阪のヤンマーディーゼルに日本初の外人助っ人としてネルソン吉村がやってきた。
鈴木は、日系ブラジル人選手のプレーを目の当たりにした時、まるで「地獄で仏を見た」様な歓喜を味わった。
というのも、当時の日本サッカーはドイツ流一辺倒で厳しいボディコンタクトの応酬であった。
身体の小さかった鈴木にはまるで格闘技のように思え、どうしても馴染めなかった。
ところが生粋の日本人のネルソンのプレーはまさに別次元で、ボールをまるで身体の一部の如く自由自在に柔らかく扱う。
当時のサッカーで見たこともない光景に、中学生の鈴木はブラジルサッカーに一気にハマった。
中学3年生といえば、高校受験勉強に励むが、鈴木は頭が全てブラジルに占領されてしまっていた。
だが英語は必死で勉強したという。なぜならブラジルの母国語ポルトガル語は複雑すぎて独学では無理なので、英語でなんとか乗り切れるだろうと考えたからであった。
しかしながら屈辱の「中学生密航失敗」で、ブラジルへの夢が一旦消え去った。
高校進学後は、どうにかしようと当時としては画期的なミニサッカー・サークルなるものを立ち上げた。
そんなある日、ブラジルからもうひとりトンデモない選手が来日した。
セルジオ越後という選手で、学校を休んで観に行ったところ、眠っていたブラジルへの夢が一瞬で呼び覚まされた。ちなみにセルジオ越後は、現在、TVのサッカー解説で有名である。
鈴木は高校卒業後、テキストも少ないポトガル語の学習を様々な機会をつかっておこなった。
日中はブラジル大使館でアルバイトをし、夜中は四谷のブラジリアンバーでバーテンダーをやり、その時、ラモス(瑠偉)とも知り合った。
語学はあくまでも生活のためのツールだと思っており、語学を極めようという意識はあまりなかった。
ただサッカーをやって不便にならない程度に学んでいった。
そして高卒後1年たった19歳の時、苦い思い出のある横浜から憧れのブラジルに渡った。
現地で通訳コーディネーターとしてブラジルサッカーと深く関わった。
日本に帰国後、1991年から「鹿島アントラーズ」の通訳としてジーコと二人三脚で歩んだ。
というよりも、鈴木は鹿島アントラーズ設立の功労者といってもよい存在なのだ。
ジーコはこれまでトップでやっていた選手で、鈴木はアマチュアでやっていたレベルにすぎない。
ジーコは鈴木を介して話すが、サッカーの知識と語彙力で伝えようとしても、ある程度ジーコのサッカーの哲学を学んでいないと成立しない。
そこでジーコが、通訳としての最低限のサッカーの知識と、自分の考え方、行動様式みたいなものを1ヶ月くらい毎日教育した。
そういうものを学んで初めて彼の言葉を伝えることができるレベルに達した。
しかしプロとしては勝ってナンボなので、日本人選手がノリノリな状態でプレーしないといけない。
ジーコに怒られたということでビビって動けなくなってはいけないと、ジーコが厳しい言葉を浴びせているのに、雰囲気を読んで褒め上げているように見せることさえできるようになった。
一通訳としてはよろしくないが、ジーコが日本の文化を知った来日3年目くらいからは、「日本人はこういう風にのせないとダメ」ということをジーコ自身がわかってきたので、直訳ができるようになった。
鈴木圀弘は、2006年W杯においてジーコ率いる「日本代表監督通訳」としてベンチ入りを果たすことになる。

千田善(ちだぜん)は旧ユーゴスラビア関係の著書をいくつももつ国際政治学者・ジャーナリストだが、敬愛するオシム監督の通訳を自ら志願している。
そこには千田とオシム監督の不思議なめぐり合わせがあった。
千田は岩手県立水沢高校学んだが、田舎は塾もなかったので、中学2年から高校3年まで「ラジオ講座」を聞き続けた。
高卒後、東京大学文科1類という法学部進学コースに進むが、法律の授業を受けてすぐ、絶対向いてないと法学部をキャンセルして教育学部に行った。
ただ、そこもしっくりこなくて、次は国際政治に興味が出てきた。
そんな時に募集をしていた留学先が、ユーゴのベオグラードとドイツのベルリンだった。
どちらへ行こうか迷ていたら、もうベルリンは締め切られてしまった。
そこでユ-ゴスラビアの首都ベオグラードに行くことになった。
ベオグラードでは、語学学校に1年行ってから大学院へ行くというかたちだったが、中学時代にサッカーをやったこともあり、土日はサッカーを観に行っていた。
千田留学時のユーゴスラビアには四強(ビッグ4)があり、ベオグラードは2つのビッグクラブが交互にホームで試合がをする。
その当時、オシムはサラエボのチームの監督で、非常にエレガントで運動量が多くてボールがよく走るというサッカーを、当時から一貫して行っていた。
1991年から戦争がはじまり長期化の様相をみせ、千田はある新聞社の取材もしたいと思ったが、お金もなくなってきたので帰国することにした。
千田は1983年にユーゴに行って1993年に帰国をしたので、足かけ10年住んでいたことになる。
帰国後は、外務省と一橋大学で働きはじめた。一橋では非常勤講師であった。外務省では研修所でセルビア語の担当をしていた。
オシムが日本に来た時はさすがに驚いた。ただ引退間際の大物外国人選手がたくさん来日していたし、オシム監督ももキャリアの晩年で金稼ぎに来たのかとも思った。
ところが、ジェフ市原がいきなり優勝争いをしているのを見て、これは本物だな、さすがオシムさんだと感じ入ったという。
2006年6月ドイツW杯が終わった直後、ジーコ監督を引き継ぐかたちで、7月21日オシム監督就任記者会見兼調印式あった。
千田はその記者会見を「よしよし」と思いつ傍観者的に見ていたが、その2~3日後、千田とオシム側との知り合いから「オシム監督の通訳はどうか」という電話がかかってきた。
そして、二つ返事で、大学の仕事はあきらめる覚悟で、日本サッカー協会に行って受け入れることを伝えた。
ところが千田の通訳としての仕事は、思わぬ展開をみせる。
オシム監督が2007年11月に倒れた時は、集中治療室から出るまで1カ月半、自宅に帰らずにつきっきりとなった。
最初は医師団と家族のあいだ「医療通訳」となった。
意識を回復した後は本人と医師、看護師さんたちとの通訳。集中治療室から退院した後は、「リハビリ通訳」となる。
かつてオシム監督が「もっと走れ」とか言うのを訳していたが、その関係は逆転して、「肩を上げて」とか「ひじを伸ばして」とかを伝えた。
千田は、代表通訳とあわせて3年弱、オシムと「二人三脚」で過ごしたことになる。
千田がベオグラードにいたときに日本人と現地の人が結婚したが、夫婦喧嘩になってお互い何を言っているかが理解できないので、千田が夫婦喧嘩の通訳をした。しっかり伝えないと怒りも伝わらなし、ジョークを話したときにオチで笑うことができない。
そこで心がけたのが「言った通りに訳す」というあたりまえのことであった。
千田がオシム監督の通訳として働いて思うことは、ヨーロッパの知識人と話している感覚と変わらないものだったということである。
その点においても、国際政治学者・千田善とオシム監督とのユーゴスラビアと日本を結んだめぐり合わせというものを痛感させられる。