会津ツインピークス

福島県会津若松には、「ツインピークス」などという丘は存在しない。
しかし、NHKの大河ドラマとなった、山川健次郎と新島八重兄妹はじめ、すごい兄弟が何組もいる。
兄弟を並びたつ二つの頂(いただき)という意味で、「ツインピークス」とよびたい。
わざわざ英語にしたのは、いずれも驚くほど国際人であったからだ。
1900年の初夏、山東省に蜂起した義和団は清国に進出した西欧勢力とキリスト教徒を本土から追放しようと勢力を増し、それがために北京城の外国人たちの不安は高まった。
そこで籠城することになった各国公使館はそれぞれ守備隊を編成し武官会議を開いた。
イギリス公使のマクドナルド(のち駐日大使)が全体の指揮をがとることになったが、軍人出身のマクドナルドは会津出身の軍人・柴五郎大佐の才能を見抜き、五カ国の兵の指揮官に命じたのである。
そのうち、外国人たちも柴大佐の能力を自然に認め、作戦用兵の計画は柴大佐の意見で決まっていった。
柴大佐は英語・フランス語に堪能であり外国人武官に作戦をよく説明できたし、また連絡文もみずから書いたいう。
北京に籠城した人員は4千人以上であるが、義和団は何万という数にものぼっていた。
柴大佐はかつての諜報員であった面目躍如で、密使を使い天津の日本軍と連絡をとり、55日簡の北京籠城戦を持ちこたえた。
ところで列強それぞれの守備隊が組織されていたが、その中にロンドン・タイムス北京特派員のモリソンがいた。
オーストラリア人ジャーナリストG・E・モリソンは柴大佐の存在を知り、二人は友人になる。
1963年の映画「北京の55日」はチャールトンヘストンがモリソンを演じ、伊丹十三が柴五郎を演じたということは、案外しられていない。
また、マグドナルドは義和団事変で柴大佐と戦火を共にし、その能力を大いに認めたという関係であった。
義和団事変後、1902年に日英同盟が成立したが、同盟締結を推進したのは、駐日公使となっていたマグドナルドであった。
イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐという点で利害が一致したからである。
しかし、「超」のつく大国イギリスが、その長年の伝統である「光栄ある孤立」政策をすて、なおかつその相手がアジアの非白人国・日本であるというのは、いかにも思い切った決断である。
マクドナルドの胸中において、柴五郎大佐の像が信頼するにたる日本人像を形作っていたのかもしれない。
ところで 後の陸軍大将・柴五郎は、「ある明治人の記録」という自伝を書いている。
そこには戊辰戦争の敗戦で会津藩士達が辿った苦難の姿と、藩士たちの心情が切々と綴られている。
柴五郎は、1860年に会津藩士柴佐多蔵の五男に生まれた。8歳で藩校日新館へ入学し、戊辰戦争が勃発すると、新政府軍が城下へなだれ込む直前、母親の強い勧めで大叔母の家にいて、難を逃れた。
しかし、祖母・母・妹らは自邸で自決し、屋敷は消失した。
柴は会津若松落城のときはわずか10歳であった。
会津藩は降伏し、城内にいた父と兄は東京へ送られ、翌年柴も東京へ護送された。
その後、土佐藩の公用人宅に学僕として住み込み、さらにその後旧会津藩の藩士らは青森県・下北半島の斗南へ流され、柴もそこへ行った。
北の冷涼でやせた大地で、藩士たちは飢餓のため、生死の境をさまよったという。
「挙藩流罪」とも言える敗者へのこの仕打ちに、父は「薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、ここは戦場なるぞ」と叱責したという。
柴は、藩の選抜で青森県庁の給仕となったのを機に上京、旧藩士らを頼りながら、陸軍幼年学校へ15歳で入学することができた。
ちなみに陸軍幼年学校で柴は秋山好古と同期である。
日清戦争後は台湾総督府の陸軍参謀、ロンドンの公使館付き陸軍武官を経て1898年に米西戦争の折にアメリカに行き秋山真之と一緒となっている。
つまり柴は、士官学校を経て、軍人としての頭角を表し、薩摩・長州の藩閥によって要職を独占されていた明治政府で、陸軍大将にまで昇ったのである。
また、その兄もなかなかの人物であった。意外なことにに明治の初期、日本の軍人とエジプト独立運動の志士の真摯な交流があった。
その軍人こそ、柴五郎の兄にあたる柴四郎である。
柴四郎は、その兄弟と同様に藩校日新館で学び、少年期に会津藩士として戊辰戦争に兄弟と共に従軍した。
最後まで新政府軍と戦った賊軍の会津藩士には、官界や軍隊の中で立身出世する見込みはなかった。
しかしその例外的存在が、この柴兄弟である。
1877年、別働隊として参戦した西南戦争において熊本鎮台司令長官・谷干城(たにたてき)に見出されたのが大きな転機となった。
ちなみに土佐出身の谷は、戊辰戦争で会津と戦った間柄だったから面白い。
柴四郎は27歳のとき岩崎家の援助を受けてアメリカに留学し、ペンシルベニア大学及びビジネス・カレッジを卒業して、1855年に帰国した。
この年、アメリカ生活で培った持論「国権伸長論」を基調とする「佳人之奇遇」を「東海散士」の名で発表して、その本がベストセラーとなり一世を風靡した。
そして「佳人之奇遇」の内容は、当時の政治小説の内容としては、実に驚くべき内容を含んでいた。
その内容は、自身の体験と歴史的事実が織り交ぜながら語られている。
小説の前半、会津の遺臣である人物がアメリカにわたりフィラデルフィアで、アイルランドやスペインの高貴な女性とめぐりあって交流し、後には中国の明朝の遺臣もそのサークルに加わり交友を築いていく姿が描かれる。
いずれも「亡国の憂い」を抱き、権利の回復運動に進もうとしており、ハンガリーのコシュートが亡国の代表として「実名」で各編に登場している。
後半では、エジプトの指導者アラビ・パシャの運動やスーダンのマハディの反乱なども取り上げられるなど世界的「民衆史」への共感がみられる。
そしてこの小説の白眉は、明治政府の農商務大臣となっていた谷干城が、通訳(柴四郎)と共に1886年の欧州視察旅行の途中に、イギリスによってセイロン島に流刑となっていた「アラビ・パシャ」を訪れた話である。
そして二人が、パシャからエジプトがイギリスによって植民地されていく過程を涙を流さんばかりの気持ちで聞く場面である。
実は、これ作り話ではなく、実際の体験に基づくもので、柴四郎は、実際にアラビ・パシャとセイロンで再会したのである。
アラビ・パシャは、エジプトの民族運動指導者で、西欧列強の内政干渉に抵抗し武装蜂起し、一旦はイギリスに破れその支配下におかれるものの、後の独立運動に影響を与えた「伝説の人物」である。
また柴四郎は、谷干城農商大臣の通訳としてエジプトを訪れ、1899年にエジプト民衆の立場から「近世埃及(エジプト)史」という大著を著している。
日本人の手になるはじめての「エジプト史」であるが、東海散士こと柴四郎は、なぜそれほど熱心にエジプトを描いたのか。
柴四郎は自ら賊軍であり会津藩士として苦しみを味わった人物であったことも大きいであろう。
柴四郎は「会津の運命」と世界次元で見た当時の「エジプトの運命」を重ねていたのかもしれない。

徳島県坂東には、四国霊場めぐりの一番札所である霊山寺があり、昔より心傷ついた者達を暖く受け入れてきた。
第一次世界大戦の時代の日本軍は中国青島で捕らえたドイツ人捕虜達を日本国内各地の捕虜収容所に送り込んだが、1920年この坂東の村に「ドイツ人俘虜収容所」がつくられた。
この収容所の所長は松江豊寿(まつえ とよひさ)で、会津で生をうけたがゆえに、収容所長にして松江ほど敗者の側の気持ちを理解できるものはいなかったにちがいない。ちなみに久留米収容所長は、後に226事件の皇道派の影の大物・真崎甚三郎である。
松江は次のようなことを言っている。
「我々は罪人を収容しているのではない。彼らもわずか5千あまりの兵で祖国のために戦ったのである。けして無礼にあつかってはならない。」
そして国際法にのとってドイツ兵を遇した。そして日独の驚くべき文化交流がうまれた。
坂東俘虜収容所には、兵舎・図書館・印刷所・製パン所、食肉加工場などが設置されまた収容所内部では新聞までが発行されていた。
また統合された収容所であったために楽団がいくつかあった。
ドイツ兵の外出もかなり自由に認められ、住民との交流の中、様々な技術や文化が伝えれれていった。また霊山寺境内や参道では物産展示会も行われた。
そして多くのドイツ人俘虜が日本敗戦後も日本にとどまり、化学工業・菓子つくり・ソーセージつくり等の分野で大きな足跡をのこしている。
彼らの多くにとって坂東での体験が宝となっていたからである。
エンゲルをリーダーとする楽団で日本で始めてのべートーベンによる交響楽第九番が演奏されるのである。
エンゲル楽団の演奏会には、徳島の有志の人々も招待された。
その中には練習場として使った徳島市の立木写真館の人々もいた。
エンゲル楽団は日本を去っても「第九」は残り続け、毎年大晦日に「第九」の合唱が響いていくようになり、それは今でも続いている。
その松江豊寿の弟に、後に「砂糖王」とよばれる松江春次がいる。
1896年生まれで、1899年に東京工業学校(現東京工業大学)を卒業し、大日本製糖(現大日本明治製糖)に入社する。
1903年に農商務省の海外実業練習生試験に合格し、ルイジアナ州立大学に留学。同大学院で修士号(マスターオブサイエンス)を取得した。
また全米各地の製糖会社を回り製糖技術を学んでいる。
1907年に大日本製糖に戻り、大阪工場の工場長となる。このときに日本で最初の「角砂糖」製造に成功している。
ところが日糖事件の汚職発覚で大日本製糖が混乱の極みに達したことと、かねてより台湾での製糖業に関心を持っていたことから、大日本製糖を退社した。
その後、台湾のふたつの製糖会社の経営に参画するが、両社とも他社に吸収合併されるなどの理由で退社している。
1921年、松江はサイパン島とテニアン島の実地調査を行い、この地での製糖業の発展に確信を抱き、内地に戻るや製糖業による南洋開発の開発を関係各所に説いて回った。
そして同年11月、政府と東洋拓殖の協力の下に、「南洋興発」を創業し、その最高経営責任者(専務取締役)となった。
創業3年目で経営を軌道に乗せ、そしてテニアン島にも製糖工場を建設したのを機に、欠員だった取締役社長に就任した。
その後、製糖業以外にも事業を拡大し南洋群島における最大の企業へと発展させた。
これらの経営手腕から、松江は「砂糖王(シュガーキング)」の異名をとるようになり、工員の為に様々な娯楽施設(映画館・理髪店・演劇場・酒場など)までをも整備し、インフラした。
1934年8月には現職社長としては異例の松江の寿像建立されることになり、この松江像はサイパン戦の戦火をくぐり抜けて、現在も「砂糖王公園」のシンボルとして残っている。
松江春次は、健康上の理由から社長を辞任して会長に就任するが、1943年には、相談役に就いて南洋興発の経営から完全に身を引くことになった。
その後、海軍ブレーントラストに海軍省顧問として参加するも、1954年11月、脳溢血で死去している。
松江が亡くなったその日は、奇しくも南洋興発の創業記念日でもあった。戒名は「顕光院殿春誉南洋興発大居士」である。

井深大(いぶか まさる)といえば、盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人である。盛田によると、井深は「温故知新」とは違い遠い未来から近未来を考える人だったという。
大学時代(早稲田大理工)から奇抜な発明で知られてしたが、晩年は「エスパー研究」(超能力)に興味をもち、様々な実験を行っていたという。
井深大は、栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に生まれたが、一族に飯盛山で自刃した白虎隊士・井深茂太郎がいる。
井深大は、幼少の頃、青銅技師であった父親の死去に伴い、愛知県安城市の祖父もとに引き取られ、そこで育った。
愛知県といえば、相方の盛田昭夫は名古屋市の造り酒家で生まれている。
さて、井深茂太郎は、会津藩内における青年文士の筆頭に数えられた秀才であったが、戊辰の役が起きると、茂太郎も白虎隊に編入された。
西軍破竹の勢いをもってまさに城下に迫らんとするや、これを戸ノ口原に迎え撃ったが戦い遂に利あらず、退軍して飯盛山上に自刃した。この時茂太郎16歳であった。
さてその子孫・井深大はソニー創業者という実業家以前に、優れた電子技術者であったが、白虎隊には後に電気技師となる飯沼貞吉という人物がいた。
井深茂太郎は白虎隊の「記録役」を命じられて戦いにおける行動を記録したが、実は、「白虎隊」の出来事の多くは、ただ一人命をとりとめた飯沼貞吉(当時15歳)の「口伝」によって伝えられたのである。
飯沼貞吉は、1872年、工部省の技術教場に入所して電信建築技師となった。日清戦争には歩兵大尉として出征、帰還後は再び逓信省に戻り、最後には仙台逓信管理局の初代公務部長を務めている。
1931年78歳で没したが、この飯沼貞吉の弟の飯沼関弥は、旧当主松平容大(かたはる)の家司を務めた。松平容大は幼くして斗南藩主となった人物で、彼の実父こそは旧会津藩主の容保(かたもり)で、現在の文京区音羽に近い邸で、1893年に没している。
そして子の容大も1910年に没し、松平容保と容大の墓が、東京の正受院から会津の「院内御廟」へ移された1921年を機に、飯沼関弥は23年間勤めた松平家を退職している。
さて、ここまで見て飯沼貞吉と飯沼関弥という兄弟は、「会津ツインピークス」とよぶほどの存在とは思えないかもしれない。
しかし飯沼貞吉が当事者として語った白虎隊の物語は、イギリスのベーデン・パウエル卿の心を動かし、「ボーイスカウトの精神」に取り入れられた。
ところで、1949年、戦後初の地方特別自治法「広島平和都市建設法」が成立した。
それを実現したのは、自ら被爆体験をもつ浜井初代市長であった。
浜井が「死んだつもり」で広島復興に賭ける姿は、癌宣告をうけて公園設立に命をかけた黒澤明の「生きる」の主人公と重なるものがある。
1968年2月26日、広島平和記念館の講堂で開かれた、広島地方同盟定期大会に出席し、不動の信念と抱負を訴え終えた直後、来賓席に戻ると同時に心筋梗塞で倒れ他界した。62歳であった。
実は、この「広島平和都市建設法」の成立に、一人の福島県人が多大の尽力と貢献をないている。
飯沼一省(いいぬま かずみ)という内務官僚で、その人こそが、飯沼関弥の息子である。
飯沼一省は、その後静岡県知事、広島県知事、神奈川県知事などを歴任し、公職を退職後も、都市計画の顧問として活動を続けた。
自ら被爆し広島復興に命をけずった浜井市長と、賊軍として苦しんだ会津人を父に持つ飯沼一省は、互いに気持ちが通じ合うものがあったにちがいない。

驚いたことに我が福岡と少々縁がある。幕末から明治になると、「廃藩置県」で東京在住となった福岡藩「最後の藩主」黒田長知は藩知事として東京文京区水道端2丁目に住んでいた。
しかし、長知が知らない間に福岡藩内で太政官札贋造があったためその責任をとられ「藩知事罷免」となった。
結局、福岡藩は奥羽関東の戦功でうけた章典の一部を東京府の教育費に「返上」寄付したのである。
そしてこの寄付をもって東京府は小石川小日向町に学校を新設し、学校名を「黒田尋常小学校」と称したのである。
実は、黒澤明はこの小学校の卒業生であり、先輩には永井荷風がいる。
そして、この小学校の校章は黒田家門の藤巴にちなみ「藤の花」となり1946年学制改革で「文京区立第五中学校」に改称されてされた。
現在、神田川が流れる地下鉄江戸川橋駅近くに区立第五中学校がある。
そして正門すぐ側には今なお藤棚が設置されている。