「博多~吉塚」人間ドラマ

JR鹿児島本線「博多~吉塚」間といえば駅一つの距離。この沿線域において歴史を紐解けば、古代から中世、さらには現代まで様々なことが起き、そこには意外な人々の存在と出入りがあった。
まずは、「吉塚」の地名だが、意外にも人名に由来する。
戦国時代、九州北部では島津氏と大友氏とが激しくぶつかった。破竹の勢いで北上する島津軍の最終目的地は商都・博多である。
大友軍はこれを許さじと宝満山城その出城である岩屋城を守るのが兄・高橋紹運、東区の立花山城を守るのがその弟・立花宗茂。後の初代柳川藩主である。
島津軍は本隊に加え、筑後勢を率いる星野吉実・吉兼兄弟、日向勢、同盟軍の秋月氏等合わせて2万以上。1586年7月に島津軍の攻撃が始まり死闘の末、星野吉実により高橋紹運は戦死した。
その間に総兵力20万ともいわれる大友支援の豊臣秀吉軍が九州に接近し、形成は逆転する。
大友方の立花宗茂は島津軍を追撃し、星野吉実・吉兼兄弟を倒し、兄・高橋紹運の報復を果たす。
立花宗茂は星野吉実を弔い、現在の県庁近くに塚を築いた。その塚は「吉実塚」と呼ばれ、それが短縮して「吉塚」となる。
現在、吉塚商店街の入口に祠が立つ処である。
というわけで、吉塚の地名の由来は、現在の奥八女の「日本で一番星ががきれいに見える」星野村に勢力をはった「星野吉実」という人物名に由来する。

奈良の都には、東大寺ばかりではなく西大寺という寺もあった。東大寺は繁栄し、西大寺は没落する。
しかしながら、近鉄の駅名として名を残したのは「西大寺」の方である。そして最澄の師は西大寺である。
少しそれに似た関係が博多にもある。東長寺は繁栄し、東光院は没落している。
ただし、「東光」は小中学校の名前にもなっているので、人々が馴染んでいるのは「東光」の方。
とはいえ、多くの人々は、博多駅と吉塚駅の間の閑静な住宅街の中に在る「東光院」の存在にすら気づいていないようだ。
実際、1日に数人しか訪れていないようなコノお寺は、まごうことなく、あの最澄、つまり「伝教大師」が806年に建立したお寺なのである。
遣唐使船といえば、804年「同じ船団」で平安仏教の両雄「最澄と空海」が唐に渡っている。
最澄38歳、空海31歳の時、7月6日九州肥前田浦の港を発った遣唐使の船は4隻の船団で出発した。第一船に乗り込んだ23名の中に空海、第二船に乗り込んだ27名の中に最澄がいた。
空海が唐に長期間とどまって学ぶ「留学」だったのに対して、最澄は「還学生」であった。
「還学生」というのは、すでに学業なった短期の視察旅行をさせるためのもの。 最澄はすでに桓武天皇の寵僧であり、一方、空海は山野を浮浪する乞食僧の如き生活を長い間送り、入唐の前に急いで戒を受けた無名の僧であった。
いわば最澄は東大教授の留学、空海が私費留学生であり、全く格が違っていた。
実はこの船団は運命をわける航海でもあった。
出発してまもなく暴風雨に会い、四散する。第三船は帰国し、第四船は沈没している。
空海の第一船は海上を漂ったあげく、福建省霞浦県に漂着し、最澄の第二船は、明州寧波府に漂着している。
空海は774年讃岐の国に生まれ、31歳の時、入唐留学生として遣唐使の一員となる許可が与えられ804年遣唐使一団に混じり、一路唐の長安をめざした。
空海が学ぼうとした長安の高僧青龍寺の恵果(けいか)は、胎蔵界つまり真理(大日如来)が宇宙で運動する発現形態、と金剛界つまりその運動が真理へ帰一していく形態の両方(両部)に通じていた。
しかし、それらの奥義を伝えるべき弟子に恵まれていなかった。 恵果は一目で空海にその資格ありとみた、というよりも恵果は空海を恵果自身の師匠である三蔵の「生まれ変わり」とみたのである。
そして自分の持つものすべてを空海に惜しげもなく開陳したうえで、空海に早く帰国して日本に密教の奥義を伝えることを願った。
そして空海は、師・恵果のすすめで2年あまりの滞在で帰国を決意し806年10月帰国したのである。
しかしこれは「国法を犯す」ことだった。
なぜならば、契約によれば20年は中国で学問の研鑽を積まねばならなかったからだ。
そのため空海は806年留学先の唐から帰国してすぐには都にのぼれず、嵯峨天皇の許可がでるまでの1年半博多に留まった。その証(あかし)が博多駅近く祇園に空海が設立した東長寺である。
東長寺の門には「密教東漸第一の寺」とあり、「東長寺」の名は空海が東に長く密教が伝わることを願ってつけた名前である。
その一方、最澄が博多に建立した「東光院」は、常時30躯の仏像が並び、その名は広まり多くの僧侶が育ったが、その後博多の承天寺の末寺となり、戦国時代の博多焦土化にて衰退した。
1981年に宗教法人を解散され多くの県重要文化財などは福岡市美術館に寄贈されている。
そして今日、我々が博多で目のあたりにするのは、最澄の東光院の停滞と空海の東長寺の繁栄という著しいコントラストである。

博多駅から吉塚へと向かう間には閑静な住宅街の中に、東光院がひっそりと存在するが、その辺りに「外尾質店」という看板を多く見かける。
この外尾家こそは、TVで「コーヒー・ネスカフェ」のコマーシャル「違いがわかる男」に登場したこともある外尾悦郎の実家。悦郎はその次男坊である。
外尾悦郎は、1953年生まれ、 福岡高校から京都市立芸術大学美術学部彫刻科を卒業。1978年石工になるべく25歳で日本を飛び出し、バルセロナに渡りアントニ・ガウディの建築、「サグラダ・ファミリア教会」の彫刻に携わる。
外尾は、ガウディの遺志を受け継ぎ、「生誕のファサード」と向かい合う。
ファザードとは、建築物正面のデザインのことだが、丁寧で粘り強く創造性に溢れた仕事ぶりが評価され、現在は、「主任彫刻家」を務めている。
そして2000年に完成したサクラダファミリアの「生誕の門」は、世界遺産に登録された。
外尾は、大学の時の一人の先生と出会う。元特攻隊員で、戦争で死ぬはずだったという先生は、「変わらぬもの」を求めて石にたどり着いたという話を聞き、石への興味が始まったという。
サグラダファミリアに来たのも、石を掘りたかったからだが、まずはガウディを知らなければならないと勉強をはじめた。
周囲は、石を掘ることに過去は関係ないと思いがちだが、外尾はひたすらガウディについて勉強した。
ところが、学べば学ぶほど、ガウディと自分の間には深い溝があると感じた。
或る時、ガウディは自分など見ていなかったし、自分もガウディを見ることをやめようと決意した。
それより、ガウディが見ている未来と同じ方向を見ることにしたら、自分がガウディの中に入り、ガウディが自分のの中に入ってきたと感じた。
つまり自然と、ガウディが「何を」作りたいかが分かるようになったという。
外尾によれば、我々は無限の時間と空間の中にいる。そして時間を移動している。
時間は自分の周りを過ぎていくと受け身にならずに、自分たちで移動していく。
例えば、2022年をこうしたい、という到着地点を決めてから、それに向かってまるで石を彫るようにがむしゃらに進んでいく。
だから時間を移動している感覚を持って、自分の人生と未来を「掘り下げ」ていこうという思いだ。
今情報が溢れている中で、一旦情報を捨ててオリジンに戻ること。自分と向かい合って行くこと。それは原体験を自分で探しにいくことが「掘り下げること」なのかもしれない。
そこで外尾は護送ツアーの様な形で海外に出るよりも、「一人旅」を勧めている。
自分と向き合うことのできる「旅」は、そのオリジンに戻る手助けをしてくれるはずだという。
外尾が最初に取り組んだのは、「愛徳の門」に設置される扉で、この二つの扉はサグラダ・ファミリアの礎となったマリアとヨセフに捧げられている。
外尾が最後に取り組んだのは、「信仰の門」である。 棘のない幾千ものバラがこの門を彩っている。
ガウディの生前に建設されの「生誕のファサード」は、その門の到着を待っており、その制作者を選ぶコンクールで外尾悦郎氏が優勝したのが始まり。
このファサードが完成したのは、2015年のクリスマスの頃であった。
外尾は、1年ごとに更新されていく契約で、なんと35年もの間、勝ち残れている。
実際、その作品がこれほどまでに美しいものになると誰が想像することができたであろうか。
そればかりか、その門は、設置された最初の日であったにも拘わらず、まるでずっと昔からそこにあったもののように見える。

JR博多駅と吉塚駅の間、福岡高校ラグビー場近くに「吉野公園」がある。この公園が今村昌平監督の映画「復讐は我にあり」(1979年)で描かれた「実際」の事件と少々関わりがある。
、 1964年寺の住職で教誨師であった古川泰龍氏宅に弁護士を名乗る男が突然やってきた。
男は、当時古川氏が行っていた「死刑囚助命運動」への協力を申し出た。
その男はそのまま古川宅に居候することになるが、古川氏の三女(当時11歳)は、この男が逃亡中の連続殺人犯・西口彰であることを見破り、家族が警察に通報し西口彰はついに逮捕された。
西口彰の犯罪については、映画「復讐するは我にあり」に詳細に描かれている。
実はこの時古川氏が関わり、「死刑囚助命運動」を行っていた事件が、1947年戦後の混乱期におきた福岡事件(福岡ヤミ商人殺人事件)であった。
1947年5月20日、博多駅近く鹿児島本線沿いにあった工場試験場で二つの死体が発見された。
死体には銃で撃たれ日本刀や匕首で刺されるなど乱闘を思わせる傷があった。
捜査当局が調べたところ軍服の闇取引を行っていた中国人衣類商と日本人ブローカーの死体であることがわかった。
この事件の犯人とされたのは、この闇取引に関わったとされた芸能社社長の西武雄と、この取引に立ち会った石井建治郎であった。
当時は旧軍関連の物資の「闇取引」が盛んで、そのために暴力団の抗争などもおきていた。石井は護身用に旧日本軍の拳銃を持参したが、取引の最中に、数人いた中国人との間で行き違いがあり、誤認により二人を射殺してしまった。
警察は「架空の軍服取引を持ちかけ、被害者2人をおびき寄せた強盗目的の計画的犯行」と断定し、いずれも元軍人だった西武雄を「首謀者」、石井健治を実行犯として、強盗殺人容疑で計7人を逮捕した。
しかし西も石井も「強盗殺人計画」は事実無根、事件はあくまで偶発的なものであって、共謀したものではないと主張し、強盗殺人を完全に否定した。
しかし1948年西と石井の両名は、福岡地裁で死刑判決を受け、1956年に最高裁で刑が執行された。
この西および石井と福岡刑務所で会い、「冤罪」を確信したのが古川泰龍氏であった。
そして他の受刑者の証言などから、逮捕後の西が水攻めの拷問を受け自白を強要されていた事実が判明した。
さらに、この事件の時代背景として、終戦直後の混乱期で敗戦国日本は戦勝国「中国」に負い目をいだいており、中国に対しては腫れものにさわるような雰囲気さえあったことがあげられる。
そこで傍証席から中国人達が容疑者を死刑にしろといった声もかかり、裁判官が被害者側の心情にかなり傾いた判決となった可能性もあるという。
古川氏は原稿用紙2000枚にもおよぶ「真相究明書」とまとめ法務大臣に提出し、その印刷代を捻出するために実家である温泉旅館は廃業して、家族ともに全国を托鉢してまわった。
実はこの福岡事件で1948年2月に死刑判決がでたが、戦後初の死刑判決というばかりではない。日本裁判史上初めての「死刑執行後の再審請求」となったが、今のところ実現していない。
連続殺人犯・西口彰は、「弁護士」を名乗って、刑務所を訪れる人々や弁護士とコンタクトをもち、福岡事件の「再審請求」をしている古川氏の名前を知り、古川氏の善良さにツケこんだのかもしれない。
博多~吉塚間の「吉野公園」こそが「福岡ヤミ商人殺人事件」の現場で、数年前に、古川氏がここでで祈りを捧げているのがテレビ放映された。

博多駅と吉塚駅の中間点に(博多区千代一丁目)にあるショッピングセンターがパピオンプラザ。
日本たばこ産業(JT)福岡工場の跡地を再開発して1993年12月開業した。
そのJTの前身、戦後に誕生した「専売局」は大蔵省の外局で、「たばこ・塩・樟脳」の三政府専売事業を一括して管掌する事業官庁。
専売益金を国に納付して歳入を確保する財政専売を目的で設置されたが、収益の大部分はたばこ専売事業からあがる益金であり、終戦後も財政事情からたばこ益金への期待は高く、増収をめざして専売機構の拡充が行われた。
GHQの指令により、1949年6月1日に、公共企業体である日本専売公社に改組された。
ところで、「王将」のヒットで知られる村田英雄は、この吉塚の専売局と「接点」をもったことがある。
村田英雄は、福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)に、旅芸人夫妻の子として生まれる。生後まもなく養子となり、その後、佐賀県東松浦郡相知町(現・唐津市)へ引っ越す。
4歳の時、両親が雲井式部一座に加わり巡業先で雲井式部から京山茶目丸と名付けてもらい、宮崎県の地方劇場にて初舞台を踏んだ。
その後大人気の浪曲師に因んで少年 酒井雲と改名。無許可で名乗っていたが、本家の知るところとなり、これが機縁となり大阪道頓堀の劇場に出演中の酒井雲本人を訪ね弟子入りし、大阪市西九条に移住し修行を開始する。
師匠から酒井雲坊の名前をもらい、13歳で真打昇進、14歳で「酒井雲坊一座」の座長となり、その後も九州にて地方公演を続ける。
1947年に少女浪曲師のと結婚するものの、「日本一の浪曲師」を夢見て、妻子を九州に置いて上京し、25歳で村田英雄に改名し、ラジオでの口演や実演で少しずつ名前が売れ出し、若手浪曲師として注目を集めるようになる。
1958年、たまたまラジオで村田の口演を聴いた福岡大川出身の古賀政男に見出され、すでに映画や演劇で知られていた十八番の芸題(演目)であった浪曲「無法松の一生」を古賀が歌謡曲化(歌謡浪曲)、同曲で歌手デビューを果たした。
わずかに「人生劇場」のリバイバルヒットがあったのみがヒットに恵まれずにいたが、西條八十作詞船村徹作曲の「王将」がミリオンセラーとなり、翌1962年に日本レコード大賞特別賞を受賞する。
「王将」のヒットで、以前出した「無法松の一生」「人生劇場」なども相乗効果でヒット、人気を確立した。
村田は1945年、16歳で海軍に志願し、佐世保鎮守府相浦海兵団輸送班に配属される。
福岡市吉塚の専売局に砂糖を輸送する任務に就いた際に、福岡大空襲に遭遇している。
その避難所であった旧十五銀行福岡支店(現在の博多座あたり)の地下室は、停電による扉の不作動で避難民が閉じ込められたうえ、空襲の高熱で水道管が破裂した。
熱湯と化した上水が地下室に流れ込み、62人が熱死するという惨事も起きた。
村田は翌日、地下室の遺体搬送作業に従事している。