岐路としての女系天皇

愛子様がしばらく学校を休まれたことが報道された。
学習院で男の子のらんぼうな行動が原因で登校に不安を覚えられているという。
男の子が、プロレス遊びしたり、窓から飛び降りたり、廊下を走り回ったりするのは 自然なことだから、愛子様がごく普通のガキの様子をガクシュウ するのもインじゃないかと思う。
しかし、それが原因で学校を休んだとしても、いちいちテレビで取り上げられたのでは、愛子様も、これから気軽に学校を休むことができなくなってしまうのではなかろうか。
小ランボ-の親達も、息子のたわいもないらんぼうがテレビ報道までされて、身の置きどころもないに違いない。
かつて昭和天皇が崩御された時に、体の中身までも図解いりで新聞一面トップで報道されたことがある。
血圧、脈拍、吐血、下血などの数値を逐一報道することにいったいどれだけのメリットがあるのかと思ったことを記憶している。
天皇は御重体であられる、あるいは小康を保っておられるぐらいの報道で充分で、天皇という存在のあまりのプライバシーのなさに気の毒さを覚えたりしたが、今回の愛子様「ご欠席」についてもそっとしておくべきではなかったかと思う。
どうせならば、戦前の「満州某重大事件」や「宮中某重大事件」などのように「某」をつけて、「学習院某些少事件」ぐらいの扱いで報道するのが安全かとも思ったりするが、「知る権利」がとやかく言われる現代に「某」なんかつけて報道したりしたら、それこそマスコミの憶測と邪推の餌食になってしまうにちがいない。
「宮中某重大事件」について簡単にふれると、1919年皇太子裕仁親王と久邇宮家の長女良子女王との婚約が成立したが、翌年、良子女王の母方の島津家に色覚異常の血統があることが判明した。
皇室に色覚異常の血統が入ることをおそれた元老山県有朋らは婚約解消を図り、久邇宮家にその辞退を求めた。
しかし、久邇宮家はこれに強く反発し、また東宮御学問所御用掛らも婚約取消しは人倫に反するとし、山県が皇室の慶事に干渉したことを激しく非難した。
この色盲遺伝云々は、宮中での薩長両派の勢力争いや、民間国家主義団体の山県攻撃なども加わり、深刻な政治問題に発展していった。
しかし結局、192121年2月宮内省から「皇太子妃内定に変更なし」が発表されて問題は落着したが、宮内大臣は責任を負って辞任した。
また山県はいっさいの官職栄典の返上を申し出たが却下されたという。
以上のように皇室に関わる問題は、些少や僅小のように思える事がらでも非常に大きな展開をみせることがある、つまりマッチの火が森をもやしていしまうこともあり得るわけで、マスコミの報道には相当気を使わなければならないことと思うのだが。
最近の週刊誌では愛子様に笑顔がないとか無表情であるとか書かれたりしているのをみると、人の個性の問題にすぎないかもしれないものを、女性天皇または女系天皇反対論者らの背後操作で、愛子様は御病気であるという印象を宣伝しているのかと思わないわけでもない。
というか、それはおおいにあり得ることかもしれない。
今度の「ご欠席」にもそういう意図が絡んでいるかどうかまでは分からないが、秋篠宮に男の子が生まれて「女性天皇/女系天皇」問題はひとまず落ちついたかに思えたものの、まったく終息したわけではないことを改めて思い知らされる結果となったのである。
小泉内閣の下に「皇室典範に関する有識者会議」が開かれて、「第一子優先」すなわち女性天皇ありそして「女系天皇」の可能性が打ち出された。
小泉以降の首相らが皇室典範改正につき慎重論を唱えたため、またあまりにタイミングよく秋篠宮ご長男誕生のため、この問題への関心はすっかり下火になったにもかかわらず、むしろ「愛子様ご欠席」で「女性天皇/女系天皇問題」を思い起こしてしまった。
遅ればせながら、女性天皇や女系天皇について調べてみると、この問題が単なる男女同権問題などのレベルの問題などではなく、日本文化の根幹にかかわる重大問題であることがわかった。
そこで重大なのは「女性天皇」の即位なのではなく、「女系天皇」の即位であり、これこそが日本文化の根幹に関わるものである。
では、女性天皇と女系天皇はどのように違うのであろうか。
日本の歴史上、推古天皇や持統天皇など女性天皇は八人いたが、いままで「女系天皇」は一人も存在していないのである。
現行の皇室典範は皇位継承資格を「皇統に属する男系男子」に限っている。もしも改正が実現し、愛子様が将来即位すれば、「男系の女性天皇」となる。
「男系」とは父方に天皇の血筋があるということであり、「女系」とは母方にのみ天皇の血筋があるということだが、仮に愛子様と「父方に天皇の血筋のない男性」との間に生まれた子が即位したとすると、その子が男女にかかわらず「女系の天皇」というように位置づけられる。
愛子様が天皇となり、仮に「藤原道彦」という名前の夫を迎えたとする。そして「藤原頼彦」という玉のような男子が誕生したとする。
そしてこの子・藤原頼彦が天皇になったとしたら、ここに「女系天皇」が誕生することになる。
このことは、単なる日本初の「女系天皇」誕生を意味するだけではなく、「藤原王朝」の始まりを意味し、この時点で万世一系の天皇家の血筋には終止符が打たれることになるのである。
天皇の「姓」の問題がどう扱われるのかはしらないが、少なくともこれが「世界の常識」なのである。
では女性天皇が天皇の血筋とは関わりのない一般から婿を迎えるということがありそうもないと思うかもしれないが、戦後の皇族の離脱などで、皇族の数は少なく適当な年齢の皇族男性は全くいないために、愛子様の夫は一般から迎えざるをえず、「女系天皇誕生」ということはほぼ間違いない流れとなるのである。
単純かつ重大な話であるにもかかわらす、この点についての国民の認識は希薄といわざるをえない。
こうした「女系天皇」の問題をリアルに考えるために、イギリスの王室の経緯を調べてみると、次のようなことが起きていることが判明した。
イギリスの女王は、スペインの無敵艦隊を破ったエリザベス女王をはじめ、歴史上に何人もいる。
しかしイギリスの女王の中で在位中に結婚して子供をもったのは、1837年に即位したビクトリア女王である。
王朝名はハノ-バ-王朝といったが、ビクトリア女王は、ナポレオンと戦った英国王ジョ-ジ三世の息子を父とする「男系女王」であった。
女王は1840年に結婚し子供を作ったのだが、夫君はドイツのサックス・コバ-グ・ゴ-ダ家の息子のアルバ-トというドイツ人であったがために、イギリス人は、ドイツ人に王室が乗っ取られるのではという「反ドイツ感情」までもが生まれたという。
そして実際に、このアルバ-トとビクトリアとの間に生まれたエドワ-ドが1901年に即位してエドワ-ド7世になった時に、王朝名はそれまでのハノ-バ-朝から「サックス・コバ-グ・ゴ-ダ王朝」というドイツ的な名前に変わった。
イギリスの王朝名がビクトリア女王の夫君の生まれた家の苗字を冠した王朝に変わったのであるから、ますますイギリス国民のドイツへの警戒心や嫉妬心が増幅していく傾向が生まれていった。
そして第一次世界大戦が起こると、「サックス・コバ-グ・ゴ-ダ王朝」というあからさまな敵国ドイツ風の響きの王朝名を嫌って、原則に反してとうとう「ウインザ-王朝」と改名したのである。
この「ウインザ-」という名は、王室の本来の居城がウインザ-という所にあったからだという。
さらにイギリス王朝は、エドワ-ド7世の後ずっと男系できているから、いまもウインザー王朝は継続しているといいうことになる。
現在の女王・エリザベス二世もヒットラ-と戦ったジョ-ジ6世の長女であるから、男系の女王である。
仮にエリザベス二世がなくなり、長男で現皇太子のチャ-ルスが即位して国王になると、父方つまりエリザベス女王の夫君エデンバラ公フィリップスの姓である「マウントバッテン王朝」へと王朝名が変わるということになる。
イギリスの王朝でわかることは、女王が夫を迎える時、その「婿」の出身家系や人脈、さらには文化や政治的権力関係さえもが王室に入ってくることになる。
そこで、あるゆる手立てでで「王室の乗っ取り」を防ぐ法制や監視体制が整えられるのである。
しばらく前にアンジェリーナ・ジョリーとブラット・ピットの互いが敵対するスパイ同士が愛しあう夫婦であるというアリエナイ関係を描いた映画「Mr.&Mrs.スミス」をみたが、女王夫妻には夫婦とはいえ少々それに近い「緊張関係」があるのかもしれない、などと思った。
要するに、王室に婿を迎えるということは、王朝の性質がドラスチックに変えられていくことを意味する。
ヨ-ロッパと他国から「婿」をむかえる可能性のない日本の場合とは違うし、天皇の夫君になった人物の「家風」がどれくらい皇室を変えうるかというと、大したことはないとは思うのだが、その子である「女系天皇」が誕生すると「姓」の問題もあり、皇室の根本が溶解する可能性さえ出てくるのである。
一般からむかえた夫の血筋が皇室を変えるほど皇室はヤワではないのかもしれないが、一端踏み込んだ「女系天皇」の誕生というパン種がパン全体を変えてしまうこともありうるのだ。

最盛期の堀江貴文つまりホリエモンが次のような内容のことを語ったことがあった。
「憲法が天皇は日本の象徴であるということから始まるのは違和感を感じる、歴代の首相、内閣、議会が変えようとしないのはたぶん、右翼の人たちが怖いからで、インターネットの普及で世の中のスピ-ドが速くなっているから、リ-ダ-が強力な権力をもつ大統領にした方ほうがよい。」
こういう意識は今の人々にかなり共有された意識なのかもしれない。
しかし、どんな人間でも曰くいいがたい信仰や文化の複合的要素を胸に抱えているが、それを考えうる「言葉」がなければその存在に気付かないことが多いものなのである。
そこで「言葉不足」ならば、モノでも人でも「象徴」としての何かが存在すれば、自分の心に潜んでいる「何か」を言葉にする契機ぐらいは生まれるのではないかと思う。
自分が唯物論者であるという自認している人間は、事物に霊魂が宿るなどという「アニミズム」は絶対信じないと語る。
しかし、この唯物論者が額縁のある母親の遺影をあたかも母親自身を抱くように大切にしたりするものである。
この時その唯物論者に、その額縁の中に故人の魂を感じているのではないかと指摘してあげると、その額縁というモノに霊魂がやどるというアニミズムの世界をグ-ンと理解してくれるに違いない。
つまり、多くの日本人がアニミズムの世界観にドップリつかっていることに気がつかないのである。
今の天皇は憲法上「象徴」という位置づけである。
私は天皇を崇拝したりしないのだが、もしも天皇という存在、天皇という言葉がこの日本から消えたならば、日本人としての自分の心の内側を探る大きな「よりどころ」を失ってしまいそうである。
つまり、天皇制を過去の遺物としか捉える他はなくなってしまい、政治学者丸山真男がいうところの今そこにある「古層」を照らす手がかりを失ってしまうということである。
そしてホリエモンのように、自己を「歴史の産物」として重層的に捉える視点を喪失する人々が、ますます増えていくいくのではないだろうか。
終戦直後の昭和天皇の「人間宣言」で神話との繋がりを否定する発言があったにせよ、また仮に現実の天皇の人間性がどんなにダラシなくヘンだったにせよ、日本人の古層を最もよく担った存在として今に至るまでで引き継がれて来ているという意味では、自分の内面でどこか「聖なる」ものとしてとらえていることは間違いない。
今に至るまで「女系天皇」が存在したことがなかったことは、「皇室典範に関する有識者会議」のある有識者が語ったように、何となく根拠もなく続いてきたというのではなく、むしろそこに強力な意思が働いてきているのである。
その「継続性」を断絶させる、ひいては天皇の上述の意味での「聖性」をハギトルことに繋がる「女系天皇」の登場には、男性天皇であれ女性天皇であれ、個人的にはどうしても賛成できない。