いまだ余熱は冷めず

夏の甲子園が始まると、自然に還ってくる日がある。
1969年8月17日 松山商業と三沢高校の決勝戦。延長18回の死闘で0-0のまま決着がつかず、翌日に再試合が行われれ、松山商業高校が4-2で三沢高校を破り優勝した。
甲子園の高校野球史には幾多の感動の試合があった。最近の早稲田実業と駒大苫小牧高の試合も、特別に感動を呼び起こした。
しかし、そのプレイのほとんどは、(私にとって)すでに霞みつつある。
しかしあの日の試合のことは、40年を経ても鮮烈に蘇り、胸がしめつけられるばかりか、涙まであふれそうになる。
しかも、この試合を球場で見に行ったわけではなく、今日の地デジのような鮮明な画面で見たわけでもなく、白黒テレビの小さな画面で見たに過ぎない。
以来40年間自分がやってきたことの大半を忘れているのに、あの日、あの試合のことをいいまだに忘れないとは!
そんな日が生まれたこと自体が、とても不思議なことに思える。
甲子園には、しばしば「魔物」が住んでいるとわれるが、あの日、確かに甲子園には「何か」が住んでいたように思う。
そうでなければ、あの「特別な日」は生みだされなかったに違いない。

あの特別な日を生みだした1969年とは、どんな年だったのだろうか。
当時甲子園で、北海道や沖縄の高校のチームが勝利することが、まだまだ「驚き」または「意外」な出来事であったことははっきりと憶えている。
ちなみに復帰前の沖縄県代表チームが、甲子園の土を持ち帰ろうとしたことから、試合に敗れた球児達が甲子園の土を持ち帰ることが始まった。
ところが沖縄の首里高校が持ち帰ろうとしたその土は、検疫で引っかかって捨てられた。
沖縄の高校生にとって、アメリカ占領時代の苦い思い出になるところだったが、この話には後日談がある。
高校野球ファンだった日航の客室乗務員が、せめてキレイな小砂利でもと、検疫に触れない大阪の小石十数個を同校にプレゼントしたのだという。
実は、この年1969年は、佐藤首相とニクソン大統領の会談で沖縄が3年後の1972年に返還されることが決まった年であったのだ。
当時米軍は、ベトナム北爆を続け、沖縄をはじめとする日本の基地からも多くの戦闘機が飛び立っていた。
一方で、世界的に反戦運動が広がり、パリでフランシーヌという名の女性が焼身自殺した。
日本でこの年、この出来事を伝える、新谷のり子さんが歌った「フランシーヌの場合」が大ヒットした。
また、東京大学の安田講堂で機動隊と攻防を繰り返したが、この年、学生が築いたバリケードも、学生自身も撤去されたのであるが、まだまだ学生運動は全国的な広がりをみせ、各地でフォークソング集会が開かれていた。
前年からこの年にかけて連続ピストル射殺事件が人々を恐怖に陥れたが、この年に逮捕された永山則夫は、北海道の網走で生まれ、青森から東京に集団就職した少年だった。
一方、「あの日」のほぼ一ヶ月前の7月20日にアメリカは、人間を月に送り込むという歴史的な偉業をなしとげた。
それはアメリカの栄光と力の頂点にある出来事ではあったが、反面で「アメリカの正義」に対する疑いも噴出した時代であったといえる。
実はこの年、甲子園でおこなわれた全国高校野球大会で、米軍基地の町で育った三沢高校のチームの決勝進出の快挙にも、この年の一連の出来事は微妙な影響を与えたかもしれない。
1969年という年を、もしも一つの言葉で総括すならば「騒然」という言葉がもっとも当てはまるかもしれない。
そういう年にあって、あの日の甲子園球場は、まるで時代の「エア・ポケット」にでも入り込んだように、極限に近い人間ドラマを生み出し、多くの人々がそのエア・ポケットに吸い込まれていった。

「あの日」の観衆は満員の5万5千人で、観客席は立錐の余地もなかった。
青森・三沢高校のエース太田幸司投手は、174センチ、74キロ。一昨日の準々決勝、京都・平安高校戦から3連投になった。
日本人の父と白系ロシア人の母とを両親に持ち、真っ向から投げ下ろすフォームとその風貌は、かつての名投手スタルヒンを彷佛とさせた。
一方、愛媛・松山商業の投手は井上170センチ、65キロと体格には恵まれないが、コントロールには絶対の自信をもっていた。
さらに春センバツ2回、夏選手権3回の優勝を誇る四国の名門校としての誇りを胸に、この日戦後3回目の優勝を目指していた。
松山商は、全国制覇だけを目標に猛練習に明け暮れたといってよいチームだったのに対し、対照的に三沢高校は小学生の時から顔なじみの選手たちが集まった田舎のチームにすぎなかった。
何のイタズラか、その両校が決勝の舞台で一歩もひかない死闘を繰り広げたのである。
最も忘れがたいシーンは延長15回裏と延長16回裏におとずれた。
延長15回裏、三沢高校が一死満塁の大チャンスを迎える。
三沢の9番打者立花に対し、松山商の井上投手はスクイズプレイを警戒し3球連続でボールを出しカウント0-3となった。
あと一球ボールがきて、三沢高校の「押しだしサヨナラ」が濃厚な場面を迎えた。
この時、「松山商業の優勝」を予想できた人は、視聴者の中に一人もいなかっただろう。
観客は固唾を呑んで試合に見入った。
そして、次に井上投手が投げた4球目はストライク。応援席の叫びにも似た声が大歓声へと変わった。
その後も何度も歓声と悲鳴を交互に聞いたような気がする。
しかし、守る松山商ナインはそれほどでもなく、井上のコントロールを絶対的に信じていたという。
井上には、練習の時、10球続けてストライクを投げなければ練習をやめないという方法でコントロールを磨いたというエピソードが残っている。
しかし、この日で一番忘れがたいシーンは、次の5球目と6球目であった。
それは、いまだに鮮烈に蘇ってくる。
井上投手が投げた5球目は山なりとなり、低めに外れたかに見えたが、振る気の無い打者に大森捕手は咄嗟に前に出て捕球した。
打者や走者、そして相手ベンチの動きからウェイティングで来ると確信していた大森は、低めいっぱいに来た球にニジリヨリながら通常より50センチも前(投手寄り)でキャッチしたのだ。
打者・立花は歩きかけたが、郷司球審は一瞬の間をおいてストライクと判定し、フルカウントとなった。
このストライクは大森捕手の咄嗟の判断によるファインプレイだった。
しかし、試練は次ぎのボールである。打者が打ってくるとわかった上で、次のストライクを投げることは、さすがの井上投手でも至難の技に思えた。
そして立花は、次の6球目を強打した。
打球はワンバウンドで飛びピッチャーを強襲、井上投手はボールに飛びついたがボールを大きく弾いた。
その瞬間、本当にゲームが終わったかに思えた。
しかし次の瞬間、弾いたボールを拾ったショート樋野が矢のような返球を本塁に投げ、三塁走者は間一髪本塁アウトとなった。
ボールがライナーに見えた為、三塁走者の飛び出しが遅れたこともあったが、松山商業の底知れない力を見せつけた場面であった。
松山商内野手からすれば、この場面は何度も練習した場面であったという。
そして次打者はセンターフライに打ち取り、松山商が絶対絶命のピンチをしのぎ0点に抑えた。
井上投手にとっては、まさに奇跡の25球であった。
一塁側アルプススタンドは総立ち、松山商業ナインを大歓声で迎えた。ベンチ前では笑顔の一色監督が両手を広げて選手たちを称えた。
そしてベンチに戻った時、松山商ナインは泣いてた。
そして延長16回裏、松山商にもう一度、大試練が訪れた。この回の先頭打者、2番の小比類巻が四球で一塁に歩いたところから、球場内は再び異様な雰囲気に包まれる。明らかに井上の様子がおかしい。
当然、疲労もあるだろうが、15回ウラの追い詰められた状態を引き摺っているよいうに見えた。
三沢高校の送りバンド、ヒット、そして敬遠のフォアボールで、松山商にとってもう一度一死満塁の大ピンチがおとずれた。
しかし、今回三沢高校はスクイズを松山商に見破られてチャンスを逃した。
この時、三塁走者が三塁のところでタッチアウトになるが、タッチした直後に3塁手谷岡が落球した。
アット!と思ったが、三塁累審の判定は変わらず、といった場面があった。
ところで、15回裏の郷司球審のストライク判定については、色々いわれた。
低めのボールかに見えたとき郷司球審の手が、一瞬間を置いた後に力づよく上がり、何度も空をつきあげたシーンをよく憶えている。
井上の投球練習は冬場の投込みが五百球を越し、あの日の投球数は実に二百三十二球と多かったが、「あの日」の過酷さに持ちこたえられたのも、それだけの練習の裏づけがあったからである。
引退後、郷司球審はこのシーンのビデオを見て「確かにこうしてビデオで第三者の目で見ると、外れたようには見える。
だけど、私はあの現場で見て、ストライクだと思った。自分にウソはつけないからね。今でもあのボールはストライクだと思っています」と語った。
苦しくて泣き出しそうな表情で必死に投げる松山商・井上投手であったが、この時の三沢高校の打者の回想が、なんともえずこの日の気持ちを物語っている。
「井上はストライクがはいるといいのになぁと思った。四球はかわいそうだなぁと思ってました」と。
三沢高校の他の選手もおおむね似たようなことを話していた。
「あそこで四球になれば、ここで幕切れとなり優勝できる」とは思っていなかったのだ。
ある部分で勝敗というものを超越したところで、戦っていたということだろう。
見るもの大半がそうであったように、どちらにも負けて欲しくないという気持ちが、観客ばかりではなく、当の本人達にも働いていたのかもしれない。
延長18回裏、1塁走者の太田が2盗に失敗して球史に残る4時間16分の死闘は引き分けで幕を閉じた。
2塁ベース上でショートの樋野にスパイクした太田は帽子をとって最敬礼し、樋野と手をつなぐようにしてホームまでかけてきた。
高校野球らしい清々しいフィナーレだった。
この日、宿舎で就寝の床についた生徒たちの間からから、すすり泣きの声が消えなかったという。
ところで、太田幸司は一人で全試合を投げてきたが、松山商業にはもうひとり中村という好投手がいた。
捕手からみて一回と十八回とでは、まったくスピードの差はなかったいう井上投手は、再試合にあっても一人で投抜きたいという気持ちが強かったが、もう1人の中村投手も前日の若狭戦で好投していた。
再試合において松山商業は、1回途中から早々と中村投手が救援した。
再試合は、初回に松山商がいきなりホームランで2点を先取し、4対2で三沢高校に勝利し、優勝を果たした。

太田幸司は甘いマスクで甲子園のアイドル一号となったといってよい。
1970年、近鉄に入団し、実績もなくオールスターゲームに選ばれたりもした。その後、巨人、阪神に移籍し、1984年、引退した。
プロ通算58勝85敗4セーブで、プロ選手として大きな活躍をしたわけではなかった。
井上投手は、その後、朝日新聞社大阪本社スポーツ記者として自らの体験をベースに記事を書いた。私も、しばしば井上記者の記事に出会い、興味深く読んだ。
投球スタイルと同じように、冷静に試合を分析したコメントを書いていた。
ところで、三沢高校ではこの歴史に残る試合を「顕彰する記念碑」を建てようという動きが起こったが、当時の校長は、この碑に野球部員たちの名を刻むことに反対した。
あの延長18回の試合という重荷をこれからずっと彼らに負わせてしまうことになるという判断からだったという。
「延長十八回終わらず―伝説の決勝戦”三沢VS松山商”ナインたちの二十五年」 (文春文庫)という、「それから」の両校球児を追跡した本がある。
「あの日」の試合に出場した選手の卒業後の人生は、うまくいった人もいれば転落してしまった人もおり、(出版時からみて)25年という歳月の長さを感じさせるものであった。
10年前に、松山商業と三沢高校の40年ぶりの試合が行われたことがあった。
1999年11月6日、当時のメンバー達が甲子園に集まり再会し、試合をした。
結果は13-8で松山商OBが勝利した。
この試合の「MVP」は、松山商業・三好威徳マネジャー(当時)だった。
守っては、6回から井上投手をリリーフして2イニングを完璧に押さえ、打っては、勝ち越しのタイムリーヒットを放ったりと大活躍した。
30年前はベンチ入りできなかった彼の言葉は、”30年間、この日を待っていたんです!”。

あの頃、家庭用ビデオが普及していない時代であったことを幸いであったと思う。
それは「あの日」のことをマブタに、または心の奥に、自然に焼き付けてきたからである。
そして甲子園の夏が来ると、あの日の「余熱」がいまだに消えないことを知る。
その「余熱」の為か、これまで何度も甲子園に足を運んだ。
ところで我が息子は昨年まで、福岡県大会で優勝した福岡市立中学校の野球部に所属していたが、彼らレギュラーの中から素質のある生徒は、青森山田高校、福島聖光学院といった野球名門校へと進学していった。
その南北のネットワークの広さに驚いたのだが、それを思うと名門高校野球チームであるほどに「地域性」が消えつつあることを、少々残念に思う。
かつて甲子園のアイドルで、”サダ坊”こと定岡正二のいた鹿児島実業チームが、定岡以外は皆ズングリした南国風の高校生ばかりであったことが記憶にあるが、それが見た目にスガしかった。
松山商業と三沢高校とは対照的なチームのようだが,両校とも地元の選手で構成されていた点では共通していた。
ところで三沢高校ナインのうち5人が幼少から同じチームで野球を始めていたのだが、彼らが力をつけたのも駐留米軍の子弟相手に練習試合を行ったからだ。
つまり両チームとも、地域が育てたチームだったのだ。
そうした地域の繋がりのことを思うと、「あの日」の試合がさらに輝きを増して、今年も還ってくる。