ドッキリなポップス

かつて坂本九の「上を向いて歩こう」がアメリカで「SUKIYAKI SONG」というタイトルで全米NO1の大ヒットをしましたが、最近、その英訳がとんでもないシロモノであることを知り、ショックを受けました。
以来、昔聞いたアメリカンポップスのオ-ルディ-ズが気になって、日本語訳を調べたり自ら少々訳したりしてみたら、意味も知らずに聞いたり歌ったりした曲が、こんな歌だったのか、あらためて「新鮮」な驚きに満ちていました。
そしてまだまだ知りたい歌詞が浮かんできます。
映画「卒業」で、アン・バンンクロフトが演じた女性を歌ったサイモンとガ-ファンクルの「ミセスロビンソン」は?、ジェ-ムス・テーラー夫人のカーリーサイモンの日本語で「うつろな愛」と訳された「Yu're So Vain」の本当の意味は?、 映画「イチゴ白書」でラストに流れた「サ-クルゲ-ム」は?、という具合にです。
そして多くのアメリカンポップスが、実は民衆の間で歌われていた「伝承民謡」を現代流に解釈し、アレンジを加えて優れたフォークに作り変えて作りました。
サイモンとガ-ファンクルの「コンドルは飛んでゆく」は、南米ペルーの民謡をアレンジしたもので、ピ-タ-・ポ-ル・アンド・マリ-の「パフ」やアニマルズの「朝日のあたる家」なんかもそうです。
朝日のあたる家は、ある民謡研究家が1937年にケンタッキー州ミドルスバーグの炭鉱夫の娘から教わって採譜したもので、ライジング・サンすなわち「朝日屋」という娼婦の館です。
ところで「伝承民謡」の一番の宝庫が実は刑務所なのだそうです。
囚人たちは、服役中に各地、各層の歌を聞き憶え、出所する肉体労働のかたわら街頭で歌って生活していたからです。
ところでトム・ジョ-ンズが歌った「思い出のグリ-ングラス」というカントリー・ウェスタン調の曲は、とてもあったかい感じのする望郷ソングかと思っていましたが、歌詞の中にとんでもない情景が出てきます。
”Then I awake and look around me At four gray walls that surround me And I realize, yes, that I was only dreaming. For there's a guard, and a sad old padre. On and on we'll walk at daybrake.” の部分は、
「目がさめると、灰色の壁に囲まれた部屋にいる自分。そうか、夢を見ていたんだ。 自分の廻りには、守衛に、年老いた神父」~ドッキリ!。
「白い壁」が病院を表すように、「灰色の壁」は刑務所の象徴だそうで、そこに神父さんが出て来るということは、死刑囚に「お迎え」が来た時の情景なのです。故郷や恋人の思い出から一転して現実に引き戻される、というものです。
つまり「思い出のグリ-ングラス」は死刑囚が作った歌だったのです。
日本語バ-ジョンの「思い出のグリーングラス」は森山良子さんが歌っています。
「悲しい夢見て、泣いてた私 ひとり都会で迷ったの 生まれ故郷に立ったら 夢がさめたのよ 思い出のグリーン・グリーン・グラス オブ ホーム」
元歌と比較すると、なんと甘っちょろい望郷ソングではありませんか。
そういえば1957年にエルビス・プレスリーの歌に「監獄ロック」というのがあります。
これは、州立刑務所のバンドをテーマにしたパーティー・ソングなのだそうです。
日本語の訳詩では、
「しゃれた看守のはからいで 監獄でパーティーがあったとさ 監獄バンドがジャンプすりャ 石の壁さえスイングする/47号がいうことにゃ 3号は本当に可愛い奴 お前と仲良くしたいもの 一緒に踊ろよ 監獄ロック」
監獄が本当にこんなに楽しけりゃ みんな行きたくなりそうですが、冗談で「看護婦ロック」という歌をネットで検索したら、ありました。ユニコーンが歌った「看護婦ロック」というものが。
作詞作曲はリーダーの阿部義晴という人で、現在の業界で唯一、音楽で本気に遊ばせたら右に出る者はいないというオバカ・ミュージシャンなのだそうです。

マドンナの歌のなかには、歌詞を知ってドッキリというのが結構あります。
例えば、マドンナの代表曲の一つ「パパ ドント プリ-チ」などです。
日本語訳すると「父ちゃん 説教はやめて」ですが、ティーン・エイジャーの妊娠問題が歌われています。
マドンナの歌は、「マテリアルガ-ル(物質的少女)」といい、かなり社会派ですね、「モノが全ての世界に生きてるんだからそしてあたしはモノが全てのオンナだもの」
「パパ ドント プリ-チ」の方は、「パパはいつも何が正しいかを教えてくれた、助けてほしいの、パパ お説教はやめて 夜もねむれないの だけど私の気持ちはきまっている、お腹の子をおろすつもりはないわ 何があろうと赤ちゃんを産みたい」
この歌詞を歌って、しかもアイドルでいられる歌手っツゥーのは、日本にはマズいないでしょう。
ところでエルトン・ジョンは、一度ドイツ人の女性と結婚しましたが離婚しています。
2005年には男性の恋人と再婚して大きな話題を呼びました。初めての世界的なヒットになった「僕の歌は君の歌」は、同性愛者に捧げられたものといわれています。
歌詞には明白に男から男へのラブソングであることを示す言葉はありません。
この歌の「決めゼリフ」は、"How wonderful life is while you're in the world "(君がいるかぎり、人生はすばらしい)ですが、もうひとつ"You can tell everybody"「みんなに言っていいんだよ」という言葉の中に、同性愛者が社会の偏見に負けずに自分に誇りを持って生きるよう訴えているようにも聞こえます。
ドッキりのポップスということになると、エリック・クラプトンの4歳の子供の死を歌った「ティアズ・イン・ヘブン」があります。
1991年3月20日、エリック・クラプトンの46歳の誕生日の10日前、ニュー・ヨークの53階のアパートの窓から息子は落下し、 死亡しました。
少年は、エリック・クラプトンとイタリア女優ロリ・デル・サントとの間に生まれたのがコナー・クラプトンです。
この時まだエリック・クラプトンはデル・サントは正式には結婚はしていなかったのですが、当時二人が会うために彼女はイタリアから出てこのアパートに住む一方、クラプトンは近くのホテルに滞在していたのでした。
アパ-トのハウスキーパーの男性が部屋の掃除を終えて換気のために窓を開けておいたところ、走ってきたコナーが誤って窓から落ちてしまったのです。
ニューヨークの建設基準法では3軒以上のテナントが入っているアパートは窓にガードがなくてはいけないけれど、コンドミニアム(マンション)はこれが免除されているらしく、コナーらのいたアパートには窓にガードがなかったのです。
コナー少年を追悼するために作った「ティアズ・イン・ヘブン」 は1993年年間最優秀曲に選ばれ、またこの曲を収録した「アンプラグド」も最優秀アルバム賞を獲得しました。
クラプトン自身も最優秀男性ポップ歌手また最優秀ロック歌手に選ばれるなど主要6部門をすべて獲得しました。
クラプトンが渾身の力をこめて作った曲であったに違いありません。
「もし天国でお父さんがお前に会ってもお前は私の名前がわかるだろうか/もし天国で会っても昔のままだろうか/私は強くなくてはいけない、生き続けなくてはいけない/私は天国にいるような男じゃないことはわかっているから」

クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルが歌ったあの有名な「プラウド・メアリー」もその意外な歌詞の内容に驚き、耳からラ-メンが出そうになりました。
私はすっかり「メアリ-」という誇り高い女性を歌った歌とばかり思っていましたが、「メアリ-」は人間の女性ではなく、ミシュシュピー川を上り下りする外輪船「プラウド・メアリー号」のことでありました。
一応、船は英語で”she”、「女性名詞」ではありますが。
煙を吐いて外輪を回して悠久のミシシュッピ河を渡る、そのゆったり行き来する姿が”ローリン、ローリン”というフレーズだったわけですね。
大河の川辺で女性が転げまわって(ローリング)させて肌を焼いている姿かなんか想像しちぁダメなわけです。我がヒアリング力は、全くのハズレでした。

次に少々「政治色」のある歌についてふれたいと思います。
盲目の歌手・スティービー・ワンダーは、ある日雑誌で、南アフリカのアパルトヘイトで「終身刑となったネルソンマンデラが自宅軟禁となり、マンデラ氏の妻ビキアが自宅に軟禁状態になっているのを知り大きな憤りを感じます。 そして二人の思いを想像して「心の愛」という歌をつくりました。
つまり「心の愛」は、牢獄に捕えられ、面会もほとんどできないでいるマンデラ夫妻の心のふれあいを歌ったものだそうです。
”I just called to say I love you” のフレーズが繰り返されますが、日本語に訳すと「ただ愛しているというために電話した /祝う正月がない/あげる為のチョコでコーティングされたお菓子もない/春の始まりもない/ 歌う歌もない/ここにはいつもと同じ普通の日があるだけだ/
4月の雨もない/花も咲かない/6月の土曜日の結婚式もない/でもあるのは本物だ/ あなたに伝えたい三つの単語で作られたもの/ ただ愛している(I love you)というために電話した/ どれだけ想っているか伝えるために電話した/ただ愛しているというために電話した 心のそこからそう思っている」。
この歌は映画「ウーマン イン レッド」の主題歌となり、アカデミー主題歌賞をもらいましたので、単なる恋愛ソングだとばかり思っていたのですが、アパルトヘイトへのプロテスト・ソングにもなっています。
しかし、スティービーはかつて「パ-トタイムラバー」というノリのいい曲で、
「パートタイムラバーに抜かりはない。/もしカミさんがいる時はライトを点滅する/今夜があの夜になるって君に教えるために。/ボクとパートタイムラバーの君の夜さ」
と軽快に歌ったスティービー・ワンダーは、こういう真実な純愛ソングも作ったのです。
ちなみにスティービー・ワンダーが、「心の愛」でアカデミー章をもらって一番喜んだのは、国連アパルトヘイト委員会であったといいます。

大概、ロックンロールのハシリといわれる人は、波乱の人生を送っています。
ロックンロールの「代名詞」チャックベリーは、「ベートーベンをぶっとばせ」などのロックンロール曲で有名ですが、暴行から脱税にいたる容疑で刑務所にはいること3回、ビ-トルズ初め多くのロック歌手がなぜか彼の曲をカバーしたてめに、歌手生活の初期には知らなかった「著作権法」に守られて、ミリオネアとして余生を送りました。
ところがロックンロ-ルの時代にチャクベリーやエリビスプレスリーとは対照的な「清潔な好青年」が彗星のように登場します。
パットブ-ンという名の青年が歌った、「砂に書いたラブレター」が世界的にヒットしますが、彼の登場は、ある意味で衝撃的でした。
パット・ブ-ンは、アメリカ開拓史上にその名を残すダニエル・ブ-ンの子孫で、アメリカでは貴族扱い家に生まれています。
「絵に描いた」というよりも、「天然記念物」のような「好青年」でした。
1734年生まれのダニエル・ブーンは、アメリカ西部における初期の開拓者としてケンタッキーを探検し、狩猟活動を行った人物です。
ダニエルは、勤勉なクエーカー教徒の両親の息子としてペンシルベニア植民地の辺境で生まれました。
農夫であり鍛冶屋であった両親からは鍛冶の手ほどきをほんの少し受けただけで、学校教育はほとんど受けなかったといいます。
狩猟と原野を愛し独立心に富んでいたブーンは、すでに13歳のときから狩猟し鉄砲うちの名人といわれていました。
ダニエルの勇敢な冒険談は小説にも書かれ、アメリカのみならず世界的にその名を知られました。
その子孫たるパットブーン・ファミリーは、アメリカのキリスト教の伝道番組で「理想家族」として毎週テレビで、歌と語りを通じて、あるべきキリスト教の信仰を伝えていきました。
麻薬とロックの時代に、アメリカの保守的な家族の原像をそのまま保持し、現代に至るまで示してきたといえます。

パットブ-ンファミリーのように保守的な環境と家系には、それに相応しい雰囲気の歌手が生まれるものかもしれませんが、保守的な南部の町から稀に「超過激な」ミュージシャンが生まれたりもします。
その典型がジャニス・ジョップリンで、彼女こそ生ける「ロック魂」といってよいでしょう。
ジャニス・ジョプリンは1943年テキサス州ポート・アーサー生まれで、彼女の家は、どこにでもある中産階級のサラリーマン家庭でしたが、彼女自身は明らかに他の子供たちとは違っていたようです。
詩を書いたり、絵を描いたりするのが好きで、自分の中にある何かを常に吐き出さなければ苦しくて生きてゆけない、情熱の固まりのような少女だったと言います。
幼い頃は、級友達から無視される今のイジメの対象になっていたようです。
しかし彼女が10代にして目覚めたのは親が期待するものとは違い、過激な自己表現を持つビートニックと呼ばれる若者文化でした。
そしてもコーヒーハウスみたいなところで、ブルースを歌うようになります。
そして、保守的な南部の町でかなり浮いた存在になります。
今でこそドロップ・アウトとか学校からでも社会からでも既成のワクの中から抜け出ることは、そんなに珍しいことではありませんが、ジャニスは17歳の頃に家出しことは古い価値観の町では驚天動地のことでした。そしてジャニスが向かったのはサンフランシスコでした。
まだヒッピーなんて言葉が生まれていない頃でしたが、やがてサイケデリックと呼ばれる幻覚と陶酔を求める芸術形態が持てはやされ1866年、ジャニスはその一つビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーのヴォーカルに迎えられたのです。
  彼女のヒット曲に、アメリカ南部の風景をバックに流された名曲中の名曲「サマー・タイム」があります。
 ビリー・ホリデイ、エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングもカバーしている曲で、ジャニス・ジョプリンは「とことん激しく、とことん哀しく」歌っています。
この曲のどこがそんなに名曲かとおもえるのですが、森山良子さんの「サトウキビ畑の歌」と同じで、 歌の真実を知ると大変哀しい曲です。
「夏になれば 暮らしは楽になる/魚は跳ね 綿がみのる/父さんはお金持ちで 母さんは美しい/だから坊や 泣かないで/ある朝 あなたは 唄いながら立ち上がる/翼をいっぱいに広げ 大空に飛び立つ その朝が来るまで/何も心配はいらない/父さんと母さんが ついているからね」
この曲は、いっぱいイイこと言ってでも赤ん坊泣き止ませないと叱られるから、という子守りする黒人少女の哀切を表現した、嘘も本当も承知のうえでの「子守唄」なのです。
  1970年10月4日、ジャニスはアルバムの録音のため滞在していたロサンゼルスのホテルで死亡しているのが発見されました。
使用したヘロインが通常のものより高純度であったため、致死量を越えたことが原因であるとされています。
  この時彼女は27歳で、遺灰は、カリフォルニアで海へ撒かれました。