民族の悲劇と再生

最近、アフリカのルワンダの現状を伝えるテレビ番組を見て、あらためて民族の盛衰を考えさせられた。
そして、民族にも植物同様に、「タネ」と「コヤシ」に当たるものがあるのではないか、と思った。
「タネ」がその民族にとって避けることのできない宿命ならば、「コヤシ」の方は民族にとっての苦難の体験といいかえてもよい。
「芸の肥やし」という言葉があるように、もしも民族の大きな体験が新たな「生命力」となるか、つまり「コヤシ」が「肥やし」となるかが、民族の運命の分かれ目ともいえる。
ただ、民族のタネが植物の種子と違うのは、咲かせる花の姿はなかなか測り難い。
(そもそも花といえるものなど咲かないかもしれない)

1960年は「アフリカの年」といわれている。西欧諸国から植民地支配をうけていた国々が次々に独立し、アフリカだけで17の国が独立した。
その先陣を切ったのがアルジェリアの独立なのだが、アルジェリア独立は「アリジェの戦い」という映画に よって見事に再現された。
1954年11月1日、仏領アルジェリアのカスバを中心として、暴動が起きた。
それはアルジェリアの独立を叫ぶアルジェリア人たちの地下抵抗運動者によるものだった。
激しい暴動の波はアルジェリア全域から、さらにヨーロッパの街頭にまで及び、至る所で時限爆弾が破裂した。
1957年10月7日、この事件を重大視したフランス本国政府は、マシュー将軍の指揮するパラシュート部隊をアルジェに送った。
独立運動地下組織の指導者はサアリ・カデルという青年であった。
彼はマシュー将軍の降伏勧告に応じようとせず、最後まで闘う決意を固めた。
まさに“事実は小説よりも劇的だ”といわれる見本みたいな映画だった。
この映画、社会的背景などさっぱりわからない小学生であったにもかかわらず、その「迫真性」は今でもおぼている。
あの感動は一体何だったのだろう。
1954年秋、アルジェリア解放戦線が6人のアラブ人青年によってアルジェ市の裏通りの靴屋の二階で結成されている。 映画の中でジャファルを演じているヤセフ・サーディは現実にカスバで地下組織を指導した闘士の一人で、同志をフランス落下傘部隊に殺害されている。
現在はカスバ・フィルムの社長として全財産をなげうちこの映画のプロデューサーをつとめたという。
戦車、大砲、トラック、ヘリコプター、小火器などすべての武器はアルジェリア軍当局から提供をうけ、すべてを忠実に再現するため衣裳などは全部新らしく作られた。
後にヤセフ・サーディは、「私は機関銃をカメラにとりかえたのです。当時を再現し、あの感動を再びよびさますことによって、ある国家や国民を審判するのではなく戦争や暴力のおそろしさを伝える客観的な映画を作りたいと念願していたのです」と語っている。
そして、8万人に及ぶ全住民がエキストラとして感動的なクライマックス・シーンに出演した。
かくしてヤセフ・サーディ社長の「前代未聞の映画構想」は見事に当たり、「事実は小説よりドラマチック」を証明する映画ができたといえる。
そして、「アルジェの戦い」の撮影の舞台となったのが、アルジェのもっと古い地区で「城塞都市」のカスバというところである。
余談になるが、日本の昭和歌謡の中で「カスバの女」という歌があった。外国人兵士に恋する女性を歌ったものである。
カスバは、ジャン・ギャバンの主演の「望郷」の舞台ともなっている。

この当時のアフリカ大陸の国境線を地図で見ると、直線が多いのが目立った。
国境が緯度や経度に沿っていとも簡単に引かれた国境というかんじである。
こうした国境線をひいたのは、アフリカ大陸を戦争中に植民地支配した西欧の列強諸国である。
彼等は、現地の民族間や部族間の事情などにあまり考慮をせずに線引きを行った ために、対立する民族が一つの国で複数存在するなどのことが生じた。
それは内戦がおきる種子が蒔かれたということもある。
最近、NHKで「ルワンダ奇跡の復興」という番組があっていたが、まずはそのタイトルに驚かされた。
内戦で100万人が殺戮されたという、そんな荒廃した国に一体どんな復興があり得るのか。
番組では、ルワンダが奇跡の復興をとげている姿を「一大インテリジェント都市」の計画という形で伝えていた。
実は、ルワンダの経済復興を可能にしたのはディアスポラ(離散者)だという。ルワンダにもユダヤと同じようなディアスポラ体験が、民族の「コヤシ」として大きな意味を持つ事を知った。
それまで、ルワンダにはフツ族とツチ族という二つの部族があったが、どうにか共存してきた。
戦争中にベルギーがこの国を植民地支配したが、その際に人口の1割にしかあたらないツチ族が重用され支配階級を形成した。
ベルギ-支配下でツチ族が優遇されたのは、ツチ族がフツ族に比べて外見上、「背が高く鼻筋がとおって西欧人に近い」という、それだけの理由からであった。
そして、人口の9割にあたるフツ族に大きな憤懣と怒りがふつふつと高まった。
戦争がおわり1960年いわゆる「アフリカの年」をむかえ、アフリカの国は次々と独立し、ルワンダも1962年に独立を達成した。
その結果、長年差別をうけた圧倒的なマジョリティを占めるフツ族の怒りが爆発し、多くのツチ族が襲撃されることになった。
ツチ族も武装戦線を結成して軍隊を派遣し、ルワンダは泥沼の内戦状態にはいったのである。
そして10年間の内戦の結果、約80万人~100万人のツチ族が虐殺されたという。両部族の憎悪は沸点をはるかに通り越した状態に達したといえる。
そしてこの時ツチ族は、その弾圧を逃れるために世界各地に「離散した」(ディアスポラ)というわけである。
そして海外に離散したツチ族は、下働きをしながらも外国の文化や技術を多く学んだ。
離散した彼らの中にはビジネスを学び資産さえ築くものもあった。
そして彼らの内の少なからぬ人間が、母への思いと同じく荒廃した国への思いから、祖国復興のために自分が得た知識と財力を生かそうとした。
番組ではルワンダの首都を超ハイテク都市に生まれ変えようという黒人不動産王の姿が描かれていた。
彼は自分の離散時代に築いた人脈を元に世界にパートナーを求め、都市構想の第一号となるインテリジェント・ビルの建築に携わった。
そしてこの黒人不動産王が、ビジネスの基本を学んだのが日本の大阪の中古車会社で働いた経験なのだという。
勤勉に働き、一つの目標に全精力を注ぎこむ日本人の姿こそが、彼の生き方の基本となっている。その後、アメリカの食品会社で働き、財産を築いた。
ところで離散後祖国に戻りふたたび活躍し始めたツチ族の影響力を増すにつれ、鳴りをひそめていた部族間の敵意が表面化し、ツチ族ビジネスマンが殺される事件がしばしばおきるようになった。
またツチ族とフツ族を共同してビジネスをしようという試みがなされたが、働くフツ族からすれば、金はすべてツチ族の上層部に持ち逃げされるのではないかという恐れとか、不動産の所有権が明確にされていないなどの不信感が噴出し、なかなか事業が軌道に乗っていかないという。
しかし両部族は、ベルギーによる植民地支配(=コヤシ)によって引き裂かれたものの、もともと平和に共存した記憶(=タネ)をもっている。
その記憶を未来への架け橋として、復興にあたっているのだという。

ルワンダ内戦は結局、帝国主義の時代に蒔かれた種子が招いた悲劇ということである。
もうひとつ現代で最も激しい内戦となったのがボスニア・ヘルツェゴビナである。
こちらの内戦は、冷戦時代に播かれた種子が大量殺戮に繋がったといえる。
ボスニア・ヘルツェゴビナとは当初あまり聞きなれない地名であったが、聞きなれない名前の地を探す一つの方向性はバルカン半島付近を探してみることだ。
バルカン半島付近にはかつてユーゴスラビアという国があった。
この辺りはかつてハプスブルク家とオスマントルコが接する「火薬庫」で、そこに建国されたユーゴスラビアという国は多民族のモザイク国家であった。
この国を見事にまとめたのがチトー大統領である。
第二次世界大戦後、ドイツから西ヨーロッパはアメリカによって解放され、東ヨーロッパはソ連によって解放された。
これに対して旧ユーゴスラビアだけはチトーを中心にした共産党がドイツ軍を打ち破り、自力で独立を勝ち取った。
戦後、チトーは共産党による独裁政権を作ったが、「自力で国を解放した」という自負が強く、ほかの東欧諸国のようには旧ソ連のいいなりにはならず、社会主義にも資本主義にも属しない「非同盟中立」の独自路線を歩んだ。
そこでユーゴスラビアは強大な軍事力をもつソ連と真っ向から対立したために、国民はその恐怖心から民族とか宗教の違いを乗り越えて団結する力となった。
そればかりではなく、チトーの「民族の権利」を認めるという統治の巧みさも光っていた。
つまり、連邦国家の中に「共和国」と作り、さらには「共和国」の中には「自治州」を作って、対等な立場で「連邦」を形成するという絶妙なバランスの仕掛けを作った。
そしてそれぞれの共和国は独自の警察を持つが、軍隊は連邦軍になるという形をとった。
その一方でチトーは、独力でナチス・ドイツを破った経験から「全人民武装」をおしすすめた。
高校生になると、軍事訓練をして武器の使い方を教え、自宅に銃を保管させ、この結果、国民のほとんどが武器を 扱うことができるようになっていた。
しかし皮肉にも、民族間の対立が深まり紛争がおきると、互いに武器をもって戦うとその悲劇が「増幅」される結果となったのである。
1980年に「建国の父」であるチトーが亡くなり、1990年代には冷戦の終結により、対ソ連への恐怖で結束していたユーゴスラビアで一気に民族感情や宗教感情の相違が表に噴出し始めたのである。
まずは、ユーゴスララビア内のセルビア共和国の中のコソボ自治州では、多数派を占めるアルバニア系住民と、少数派のセルビア系住民の紛争がおきた。
そこでセルビアの共産主義者同盟の幹部だったミロシェビッチなる人物は、セルビア民族主義を掲げて、アルバニア人弾圧政策をとる。
コソボ自治州におけるミロシェビッチの強圧ぶりを見て他の民族は、ユーゴスラビアがセルビア人による一方的な支配国家になるのではないかと恐れ、独立を志向しはじめた。
1991年先陣を切ってスロベニアとクロアチアが独立を宣言した。 実はスロベニアとクロアチアはユ-ゴの中で最も豊かな地であった。
この二つの共和国で儲けたお金を、連邦その他の共和国に分配していたのである。
一番おいしいところを手放すものかと、セルビア人を主体とするユーゴスラビア連邦軍が両共和国を攻撃して戦争が始まったのである。
この戦争に対してはヨーロッパ諸国が調停に入り、スロベニアとクロアチア両国は独立を果たした。
ところが1992年に、今度はボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言した。
ところが、一旦は独立を宣言したものの、独立志向のイスラム教徒やクロアチア人と、連邦離脱に反対するセルビア人との間で激しい内戦がくり広げられた。
ここでセルビア人は「大セルビア」を実現しようと有利に戦ったのであるが、これに対して国際批判の世論が高まった。
ここに登場したのが冷戦時代に一発の銃弾も放つことのなかったNATO軍である。
NATO軍は1995年、セルビア人の武装行動をやめさせようと大規模な空爆を行った。
結局アメリカの調停によって、ボスニア・ヘルツェゴビナは統一国家として存続し、その国の内部でセルビア側とイスラム教徒クロアチア側がそれぞれに領土を分け与えられ分離されることになった。
そしてその分離を効力あるものとするために、国連平和維持軍が駐留するということで和平協定が調印されたのである。
またNATO軍は、セルビア人によるアルバニア人弾圧が続くコソボ自治州においても「人権擁護」の名の下に空爆を行い、セルビア軍をコソボ自治州から撤退させている。

民族にとって避けることのできない「宿された」運命をタネとよぶならば、ルワンダの悲劇のタネは二つの部族が存在し共存していかなければならなかったことであり、ユ-ゴスラビアには旧ソ連の周縁に位置したという地政学的な宿命(タネ)があった。
また民族の苦難をコヤシとよぶならば、ルワンダは植民地支配を受け両部族の対立がエスカレ-トしていったということであり、ユ-ゴは冷戦の終結後に噴出した民族間の紛争ということになろう。
種子は地中で一度死ななければ新しい命を宿すことができないと聞く。
ルワンダのタネは内戦という苦難を「肥やし」に、新しい花を咲かそうとしている。
旧ユーゴゴスラビアから分離独立したスロベニア・クロアチアの世界遺産めぐりツアーの案内(9日間、299、800円の旅)が今日も新聞に掲載されていた。
しかし、民族紛争には「情念の嵐」みたいなものを感じる。
となると両地域は、嵐が過ぎて平和になったというよりも、小康状態にあるということか。