トヨタと朝青龍

最近の報道の中で「朝青龍バッシング」と「TOYOTAバッシング」が重なった。
私は朝青龍という力士がかなり嫌いである。朝青龍本人が意図しなかったにせよ、日本の伝統と文化を体現する大相撲の様式を踏みにじったという、きわめて一般的理由からである。
荒っぽく、敗者へのいたわりがなく、土俵上で似合いそうもないガッツポ-ズなんかをきめたりする。
稽古時に対戦相手に重症の怪我を負わせたり、皆で一緒に盛り上げていかなければならない巡業なんかも平気で休むし、あらゆる面で「日本的美質」から縁遠い存在であった。
土俵上の立ち居振る舞いの中に、本来の大相撲の型とは異なる要素を見つけると、そのたび毎に不快な感じを抱く。
では一体誰が朝青竜を誰が責められようかなどと思い直してやっぱり見てしまう自分がいた。
彼は日本文化の真髄を理解しようとは努力する気がなかった、あくまでも、モンゴル人としてのアイデンティティの方を大切にしたということなのだ。
親方の教育不足が云々されるが、大相撲は体をぶつけ合いこすり合う、人間の本能と本性が最も露になる格闘技なのだ。
それをどうして「教育」などでコントロ-ルできようか。外国人力士を迎え入れいるならば、そこに表出する「他者」を許容する他はないのではなかろうか、と思うのである。
かつての外人力士・高見山や小錦は強かったが、コロッっと転げる脆さが同居したカワイさがあった。
しかし、朝青龍は動きが機敏で身体能力が高い、その強すぎることをまさか責められまい。
「朝青龍問題」はカタチを変えて、今後日本の隅々に起こる出来事なのではないか、と思っている。
真の意味で外国人を受け入れることは「他者」と出会う体験であり、そこには「不快さ」というものが必ず伴なうものなのである。
ただ朝青龍の問題が特異で際立ったのは、大相撲という日本文化を体現する「国技の世界」であったからである。
力士出身のプロレスラ-・力道山が国民的ヒ-ローであった時代があったが、最近彼が日本人ではなかったことが明かされても、まだプロレスの世界であっためか、あっそう~で終わった感じがする。
仮にの話であるが、もし相撲界のヒーロー例えば双葉山が日本人ではなく外国人で、それが国民にひた隠されていたとするならば複雑な感情が尾をひくのかもしれない、などと思ったりもする。
特に誰も破ることのできない前人未到の連勝記録に対しては。
「シャルウイダンス」という映画を作った周防監督は、それ以前に「シコふんじゃった」という快作を世に送り出している。
この映画の中で 外国人が相撲部に入部し、相撲というスポーツに対する違和感を率直に語っている。
「なぜ尻を見せて戦わなければならないか」などの素朴かつ根源的な問いが語られており、なかなか面白いものがあった。
外国人が日本に住めば伝統様式を変質させることはある程度避けられないことなのだ。
カリフォルニアから逆輸入されたアボガドをのせた寿司は、日本の伝統的な寿司文化を少々ポップにした感さえある。
ひょっとしたら寿司にドレッシングをかけて食べる外国人もいるかもしれないし、天丼にケチャップかける外国人もいるかもしれいなし、刺身を食べながらコ-ラを飲む外国人だってでてくる。
オデンをナイフとフォ-クで切り刻んで食べる外国人だって出現するに違いないのだ。
つまり日本文化の「変容」を余儀なくされうるのだが、一面不快を感じつつも反面それが面白くもあり、新世代の若者にはそうした変容した文化の方が受け入れられたりもするのだ。
それが「国際化」ということの正常なプロセスなのだと思わねばならない。
「隣人」ではなく「他者」と出会ってこそ「国際化」なのである。
ところで、ここ20年ほどで日本で外国を体験できるテーマパークのようなものが次々とつくられていった。
ハウステンボスがその典型であるが、地方にもスペイン村やイタリア村などなどができた。
外国を真似たテーマパークやストリートは、その中で売られている商品も食事も「擬似外国」であり、日本人どうしで「外国する」というだけにすぎない感じがする。
いかにも雰囲気は「外国らしく」作られているが、やっぱり外国とは違うものである。
そこでいえることは、日本人の感性を不愉快にするものはあらかじめ排除されたいわば「隣人化」した外国が再構成されている。
実際にヨーロッパやアメリカのレストランで外国の食事をした人達が、あまりおいしくなかったとか、やっぱり日本の銀座あたりで食べるのが一番というのも、裏をかえせば、そういう「調整済み」を体験しているということだ。
かつてロシア人の血をひく大鵬は日本的美質を体験し国民的に愛された。そして、今の白鵬のように日本相撲に充分適応した横綱もいる。
しかし現状と同じように外国人力士を相撲界に招き入れるならば、国技の世界であっても第二第三の朝青龍必ず現れ、その接点で相撲文化の変容があっても致し方ないことなのかもしれない、と思う。
成人した力士への後天的な教育には限界があるために、そういう覚悟をもってすべきなことのだ。
もしその覚悟がないのならば、例え相撲協会の営業利益が不信であっても、最初から外国人力士を入れるべきではない、と思う。
しかし朝青龍問題は、異文化が「国技」という伝統文化に変容をもたらすかもしれない、という問題にとどまらない。
何よりも日本人の「不快感」の極みにあることは、朝青龍がモンゴル人でありながら日本の国技の頂点にあるという点で、日本人の誇りを傷つけたという点だ。
この点を思う時に、アメリカのバッシングをうけている日本の自動車会社「TOYOTA」のことを思い浮かべる。
朝青龍問題は、国民の誇りを傷つけたという意味で今話題の「TOYOTA」問題と重なり合うものがあるのではないか、と思う。

産業社会にやや遅れて登場してきた日本は製品のオリジナルな「開発」ではなく、むしろ製品の「商品化」において重点を置き高い能力を発揮してきた。
その日本人にはあまりピンとこないかも知れないが、「工業製品」は単に商品であるのではなく、開発のプロセスにおいてある部分国民のナショナリティと文化的オリジナリティを背負って開発されたものなのだ。
「どう作るか」ではなく、はじめに「何を作るか」を考えた時に、それは幾分ナショナリィを背負うものなのである。つまり製品とは「国籍」を背負っているということだ。
その一番の典型はキャデラックで、あの馬鹿でかい自動車は富と成功のシンボルであり、アメリカンドリ-ムの象徴でもあったものだ。
フォルクスワ-ゲンのカブトムシの形をした車だってドイツの国民車を象徴したものなのだ。
非効率を承知で「手作り」にこだわるイギリスのロ-ルス・ロイス車だってそういうものだし、一言でいうと国民の愛情と夢を実現せた工業製品ということでもある。
日本製品もそれなりの夢を乗せたものがあるが、「ナショナル」という名のついた家電会社の製品にだって、欧米の自動車の揺籃期に見られるほどの「思い入れ」をもって開発されたわけではない。
ましてTOYOTAが「商品化」した自動車はそうした意味での「国籍」を背負ったものではない。
日本製品はあくまでも機能と性能とコスト安、そして相手国の生活習慣への細かい配慮で世界を席捲したのである。
それは己のオリジナリティーの発露よりも相手のニーズを優先したものである。
日本がアメリカに輸出する車は左ハンドルなのに、逆にアメリカから日本に輸出される車は日本に合わせて右ハンドルにはならなかった。
家電製品についてふれると、炊飯器を作るに際しても、少し焦げ目が出来るのが好きな国民に対して輸出するものや、ややオカユ状が好きな国民向けなどにを区別した。
日本企業は、徹底的な相手国の嗜好や傾向を調査して、製品を微調整しながら輸出して成功してきたのだ。
日本の製品は、あくまでも相手の国の事情に合わせて作られるもので、日本人はその製品開発に関しては「無国籍」を選択したといってよい。
そして、そうした日本の自動車がGMやロ-ルスロイスやフォルクスワ-ゲンのオリジナリティを市場で打破したということは、それは相手国のナショナリティやオリジナリティを傷つけたことを意味する。
このことが、日本の土俵にたった朝青龍と重なるものを感じるのである。

ところで、アジアあたりで作られる日本向けの製品は著しく日本向けに適応させなければ、日本の業者は輸入しようとはしない。
それはある意味では、アジアの人々がけして口にするようなことはないのかもしれない物、つまりは「無国籍」のものへと整えられる。
随分前にNHKが次のようなアジアレポートを報告したことがある。
アジアの国々では、アジの干物やむきエビ、そしてヤキトリ用の切れ切れ肉、そして骨なし鶏肉などをつくり日本製品の「下請け」を行っている。
品質検査の厳しい日本の食品会社に納品するには、ヤキトリの肉片ひとつの切り方にもミスが許されない。
こういう製品はスーパーの冷蔵庫から各家庭の食卓や飲食店に届けられることになるが、アジアの人々の包丁さばきのおかげで、日本の主婦には包丁を使う機会が減っているのだろう。
つまりに外国のナショナリテイとは異なる「日本向け」を強要するなかで、実は日本人の日常も変えていっている。
入ってくるものは日本向けに調整済みのもので、日本人は日本にいる限り、真正の外国つまり「他者」と出会うことが極端に少ないことがわかる。
つまり、不愉快を体験する機会が少ないということだ。
常に「調整済み」という品々やサービズにばかりに慣らされていると、そこからハミデルものに対しては大変な違和感と嫌悪感をもたらすものなのだ。
そう考えると、相撲とは、外国人格闘家に「力士」という形の日本「ナショナリティ」を強要している、ということだ。
そんな日本人が、相撲の世界で朝青龍というけして「隣人」にはなろうとしない「他者」と出会ったということだ。
丸山真男が「パブリックとはアカの他者に対する道徳心」ということを書いている。
「隣人」とのおつき合いは安心で落ち着けるのだが、外国人という「他者」と出会う事は不快感を伴うことはさけては通れないものがある。
だからそれを最小限に抑えるためにも公私の区別をはっきりさせる「公共」意識が高まるのかもしれない。
井戸端や道端以外にも、すこしばかり距離をおいて人間が憩える、そして人間どうしが幾分交流できる場、すなわち「広場」が作られてきたのではないか。

アメリカ繁栄のシンボルそしてアメリカの「国技」であった自動車産業のトップGМが失墜し、トヨタ車が大陸を走ることは、アメリカの消費者の選択の結果とはいえる。
それでもバッシングされるのも単なるアメリカ人労働者の仕事を奪ったこと以外にも、上記のような文化的背景が生み出す国民感情があるからではないだろうか。
日本が自ら開発した柔道が、いつのまにか「柔」の心を欠いた力まかせの「国籍のない」JYUDOとなり、外国人選手が日本の柔道家を打ち破る際に抱く、日本人の感情にも似たものがあるのではないか。
いずれにせよ朝青龍問題は、少子高齢化で働き手がいなくなり外国人労働者をたくさん受け入れざるをえない日本において、「真の国際化とはどういうことなのか」、という問題についてのシンボリックな問いかけであったように思う。