「規格化」と人間像

グロ-バリゼ-ションの進展とともにあらゆる分野で「規格化」が進行している。
例えば日本企業は独自の会計基準をもって運営されてきたが、海外の投資家からそれではリスク判断ができないということで、国際的な基準で会計を作り直すことになった。
この「会計ビッグバン」が日本社会に与えたインパクトは大きく、例えば西武の堤社長の逮捕も、日本独自の会計基準であれば特に問題の無いものであったという。
その他、「規格化」の拡大を思いつくままに記述すると次のようになる。
工業が発達するにつれて、他者の製品との適合性や交換性の必要性が高まり製品の「規格化」が進展する。また海外貿易での取引がさかんになれば、「規格化」の要請は国際間でも高まり「国際標準」とか「国際規格」という言葉が登場する。
いまだに標準が確立していない産業では、自社の製品が「国際標準」になることを目指してシノギをけずることになる。
ビクタ-が、VHSという家庭用VTRにおける「世界標準」を確立したのは、大変な快挙であった。
当時国内第8位の家電メーカーであったビクターから誕生したことは、大きな驚きであったのだ。
軍事などでも、アメリカ軍と、同盟関係を結んでいる国々では合体や連携がきくように武器や物資のハ-ドばかりではなく、ソフトウェアまでも「アメリカ仕様」に「規格化」しているという。
厳密な意味での「規格化」の進展は、日常の目からとらえ難い面があるが、もっと日常的に「標準化」ということなら目にふれやすい。
中国に20年前に行ったときは、人民服などにみるように中国のみ異質なファッションに身を包んでいると思っていたが、最近沿岸部に行くとその外見は日本とほとんど変わらない。
北京あたりの町並みもマクドナルドやケンタッキー・フライドチキンもできており、視野に入るもの全てが中国における「標準化」の進行を物語っている。

近年ことのほか「グロ-バリゼ-ション」という言葉が頻出するが、この言葉の意味するところはそれほど新しいものではない、と思う。
古代中国にあった「中華思想」には「グロ-バリゼ-ション」の萌芽を感じさせるものである。
日本も含め中国の周辺の国々は、中国の官制などを多く取り入れている。
アジア周辺諸国が定期的に貢モノをもって中国に挨拶にいくわけで、古代博多にあった奴国はその挨拶の代りに「漢委奴国王」の金印をもらっている。
つまり中国皇帝からその地域をおさめる国王たるオスミツキをもらったということだ。
こうした中国はグロ-バリゼ-ションにおける先輩国家というだけではなく、「規格化」という点で中国には「規格マニア」とも呼ばれる皇帝がいた。
それが秦の始皇帝である。
始皇帝は郡県制の採用、度量衡(度=長さ、量=体積、衡=重さ)の統一、貨幣の統一、文字体の統一(篆書)などを行いった。
この時に造られた貨幣(半両銭)が円形に四角の穴で、後々まで貨幣の基本の形になった。
また始皇帝は車幅を統一したことでも有名である。そもそも始皇帝が轍(ワダチ)を統一したのは、当時、すでに馬車(主に戦闘用)の使用が盛んで、それによって道に溝が形成されたいた。
そのため、幅を統一すると溝の間隔も統一され、道が痛むことも少なくなり交通が便利になったのである。
ちなみに日本は馬車がほとんど普及しなかったため、轍を統一する必要がなかったのだが、織田信長は「車幅」ではなく「道幅」のほうを統一した。
さらに信長は、流通の活性化のために街道の規格統一をはかり、街道を「本街道」「脇街道」「在所道」の3つのランクに分け、それぞれ約6.5m、4.5m,、3m の幅を持つものとして定めた。
独裁者が強力な統一をなすためには、社会の細部にいたる「規格化」は必須のようです。

ところで、文科省が作定する最近の「学習指導要領」には「めざすべき人間像」というのものが必ずかかげてある。
学校教育ではこのような人創りをせよ、というわけである。
例えば、1992年改定の学習指導要領ではようやく「個性重視」がいわれ、2002年改定で「自ら学び自ら考える力などの生きる力の育成」がいわれた。
こういう人間像の確定がどんなプロセズで決まるのか正確なことは知らないが、こういう人間像は基本的には、自民党政権に多大の政治献金をしてきた財界の意向をもっともよく汲んで作成されるものだ、と考えてよい。
高度経済成長期には、 財界の要望は、従順で勤勉な労働力としての人間ということではなかったかと思 う。そのうちに、世界との競争に打ち勝つために、国際化や個性が求められるようになり、最近では道徳心の劣化が懸念され反対に「日本の伝統」に根づくということが「学習指導要領」に書かれるようになった。
結局、教育が目指すところは、産業社会に適合する生産性が高い人間づくりということだ。
軍事と産業の合体を「産軍複合」という言葉があるが、あまり適切な言い方ではないが、産業と教育の結びつきを強調する意味で「産育複合」という言葉があってもいいのではないかと思う。
ただ「産育複合」を土台にして学習指導要領で「期待されるの人間像」をかかげたとしても、学校の教員が日常において意識的にそういう人間を育てようとしているわけではない。
それは、せいぜい「教育のカリキュラム」の上に反映されるもので、しかも教育はなかなか「期待される」ようにはいかないものである。
しかも、人間というものは、本来多様な「幸福感」を抱いているはずである。
「スローでエコな自然にいきる人間」「のんびりと無理をせず自分の与えられた職務を果たす人間」「教養よりも栄養を重んじる健康第一な人間」「他人を自分より大切に思いトコトン自分を犠牲にできる人間」「世界の中心でオレが、オレが、オレが、と叫ぶ自己主張の強い人間」「仕事よりも恋愛を重んじるロマンチックな人間」など様々なあってしかるべきある。
多様な「幸福へのスペクトラム」の中で、「期待される人間像」が「学習指導要領」にかかげらえるということは、なにか人間の「標準化」をめざしているようでメイワクな話にも思える。
もっとも「学習指導要領」とは、教育の方向性を「望まれる人間像」というカタチで表現したに過ぎないものとは思いますが。

ところで規格化は、段階的な評価すなわち「格付け」を生む傾向があるようだ。
今あらゆる分野で「格付け」が行われている。それが世界中のレストランの格付けぐらいならば、まだしもカワイらしいといえる。
しかし、指名入札を狙うゼネコン各社は「格付け」をアップさせるために必要もないのに一級建築士の数を増やしているという。
また、金融機関や債権の格付けは、その評価の誤りによって世界をサブプライム・ショックに巻き込んだ。
各国政府の発行する国債を「格付け」するにおよんでは、まるで「国家」そのものが「格付け」されている感さえある。
そのうち人間の「格付け」まで行われるようにはならないともかぎらない。昨今、そんな「優生学的」雰囲気をさえ感じなくもないのである。
人間の「格付け」といえば、源氏物語に登場する「雨夜の品定め」なんか思い出すが、そういえば10年ほどまえに日本航空が女性社員の格付けをしていた「隠微な」社内文書が存在していたのが発覚したことがあった。
今思うと日本航空の体質上の「凋落の兆し」があの辺にも表れていたのかと思う。
ところで2011年改定の学習要領では「ゆとりでも詰め込みでもなく、知識、道徳、体力のバランスとれた力である生きる力の育成を実現する」となっている。
過去の文部行政のチグハグサをはしなくも表現したような面妖な内容である。
そして教育において「バランス良く」とか「調和」とかいうものが、それほど大切なことなのかと疑問に思ってしまう。
バランスの良い人間ほど生きる力がないのかも、などとついついヒネリをいれて考えてしまう。
学習指導要領で「期待される人間像」などかかげられると、いっそヨ-ロッパ中世の人々が理想とした「万能人」でもかかげてはどうか、などと思う。
みんなでレオナルド・ダビンチを育てましょうというわけだ。

ところで「グロ-バリゼ-ション」という言葉とほぼ時を同じくして教育の現場に登場した言葉に「アスペルガー症候群」という言葉がある。
「グロ-バリゼ-ション」と「アスペルガー・シンドロ-ム」という言葉は、カタナカナ語である以外に何ら交わるところのない言葉ではある。
同じ時期に使われ始めたといっても、それは単なる偶然の一致にすぎない(と思う)。
しかし二つの言葉は「規格化」という観点で交叉するように思った。
アスペルガー症候群は、ある意味で規格外の「心」を生きているということなのだ。世界中で規格化や標準化が進行するにつれて、「規格外」の心の態様が明らかにされていったのである。
1988年のアメリカ映画の「レインマン」のモデルとなた人物は「サヴァン症候群」とよばれる人達で、数学や芸術などの分野で超人的な能力を発揮するケ-スが多い。
この「サヴァン」という言葉はフランス語で「賢者」を意味する言葉なのである。
アスペルガーとサヴァンは、「自閉症スペクトラム」の一つであるが同じものではない。
オーストリアの小児科医であるアスペルガーが1944年に自閉症類似の精神気質を発見したが、この症状が世間に広がったのはアスペルガーが亡くなった翌年の1981年に発表されたイギリスの自閉症研究家によって「アスペルガー・シンドローム」と名づけられた論文によるものだという。
アスペルガー症候群とは「知的障害や言語障害を伴なわない自閉症」で、共通の特徴としてあげられのるは「コミュニケ-ション能力の不足」や「想像力の欠如」である。
そして、この二つの特徴から、しばしば対人関係の困難が生じるという。
アスペルガーの人々は平均的人間と変わらない能力をもった人々であるが、空気をよんだり文脈をよんだりすることがとても苦手なのである。
例えば、「遠足は雨天決行」という連絡をうけて、それでは「晴れの日は遠足がナイ」と判断するように、文章の言葉そのものを直接うけとってしまうというようなケ-スである。
言外の意味がくみとれないのである。
最近、アスペルガー症の本人が美しい文章で書いた「モ-ツァルトとクジラ」という本に出会った。
恋愛における挫折や痛みから書いたものも多く、愛を得ようと心の内側で血を流すような思いが綴られ、心を揺らさずにはおかない。
テレビで新記録誕生のシーンで「レコードが破られました」という声に喝采をおくる家族を見て、幼い彼は家族を喜ばそうと、家にある音楽のレコードをことごとく叩き割ったりしたことが書いてあった。
高い知能を有するにもかかわらず、こういう絶望的な体験するうちに、人々と会話するうちに自分は何か突拍子もないことをいうのではないかという恐怖心を抱くようになり、本当の自分は誰にも愛されないと次第に引き入もるようになる。

サヴァンやアスペルガーの人々の存在によって教えられることは、人間をある種の「規格」でとらえようとしてはいけないということである。
こういう症状にはない人であっても、無理に「規格化」や「標準化」の方向に仕向けることは危険であるということである。
いま多くの若者が「引きこもり」の世界にいるのも、そういう社会風潮への拒絶心を反映しているのではないだろうか。
文芸評論家の辻邦生が清少納言と比較しつつ紫式部を評する文章の中で次のようなことを書いている。
「小説家は、自分の夢想の世界に生きるので、その現実生活から存在感が薄らいでいく傾向がある。
現世に常識的に付き合える小説家は、その分だけ作品から復讐を受けているといっていい。
とにかく小説は作品に大きな犠牲を要求するものだ。おそらく犠牲の点では、紫式部のほうがはるかに多くの 血を流しているに違いない」。
紫式部が清少納言を批判するスサマジキ言葉で批判する次のような「貴重な」一文がある。
”清少納言こそ、したり顔いいみじう侍りける人。さばかり賢(さか)しらだち、真名(漢字)を書き散らして 侍るほども、良く見れば、まだいと足らぬこと多かり"
紫式部はさらに、清少納言の行く末はロクなことにならないとまで言い切っているのだが、こういう一文を見るとむしろ紫式部の方こそ、性格上のオゾマシサを感じさせるものがある。
どちらかを文科省が推奨する人間像とするならば、むしろ知的で明るい「をかし」がり屋の清少納言の方なのかもしれない。
しかし芸術とは、そういうオゾマシサや暗部を糧に美しい花を咲かせることなのかもしれない。
結局、人間は何か一つのことに精進するということは、何かを犠牲にするということでもある。
、一般的に「知識、道徳、体力」とバランスよい人間は、産業社会には適合する「生産性の高い」人間像かもしれないが、果たしてどれくらい人を感動させるものを生み出せるかは、全く別の問題であるようだ。