国民的「ゼロの焦点」

相撲の世界がまるで「博徒の集団」であるかのような様相を知るにつけ、雲を掴むむがごとく「最高位」が遠い日本人上位力士の姿に、土俵に集中できない何かがあったのかと、今更納得させられた。
気迫・運動神経において外国人力士に太刀打ちできない諦めムードの中で、横綱に今一歩の地位にありながらも、「大関在位期間」を伸ばしつつ博打に引き込まれる姿に、終戦直後の混乱期に占領軍に首根っを抑え付けられた日本人像を重ねるのは、あまりのヒヤクでしょうか。
しかし、こうまで外国人が上位を占められると、当然下位はこき使われるだけだから、国技に「携わる」日本人としての誇りがもてず、彼らの不安と焦燥が「博打」という裏側の伝統に回帰したのかと思わぬではない。
また、親方を含む力士が、本来投入すべきエネルギーが本業からそれ「バクチ」に向いたのは、真面目に働こうにも飢饉と厳しい年貢の取立ての中で、澎湃と起こってきた江戸時代末期の「博徒の群れ」を連想させたりもする。
農村の疲弊と土俵の乱れは、奇しくも「土」という点で共通項がある。
ところで、「ヤクザ」という言葉は「博打打ち」の用語を起源とする。
花札を使ったう博奕では、三枚の札を引いて合計値の「一の位」の大小を競うものである。
最初に「8」「9」の目が出れば合計「17」となり、一の位が「7」になるので、普通には「もう一枚」めくる事はしない。
ここで「一か八」かで、もう一枚を引く。
その結果「3」を引きあて、8+9+3=20で、最悪最低の得点「0」となる可能性があっても、あえてもう一枚ひいてしまう。
そんなヤクザの生き方を「8+9+3=20」から一の位が「0」になってしまう彼らの無用で最低の生き方を、自嘲気味にヤクザ「893」と言うようになったのだという。
つまり「ヤクザ」とは封建時代の「博徒」の延長線上にある集団なのである。
博徒はやがて、港湾労働者、人力車夫、タコ部屋のボスとその下で働く日雇い人夫などに変貌して行く。
小泉純一郎元首相もそういう家系の生まれである。
江戸時代末に生まれた博徒の群れの親分格は、炭鉱の労働者や港湾労働者を取り仕切ったりもしたが、そうした親分格の家系が、福岡の飯塚の炭鉱労働を取り仕切った麻生家であり、若松の港湾労働を取り仕切った玉井組である。
しかし、彼らの存在を即「ヤクザ」という非合法集団と結びつけるのは間違いである。
火野葦平の自伝的小説「花と龍」のモデルとなった玉井金五郎であるが、火野葦平は本名は玉井勝則といって、玉井金五郎の長男である。
そして葦平の妹の子供がペシャワール会の医師・中村哲である。
中村哲氏は九州大学医学部を卒業し、アフガニスタンで医療活動を行っている。つまり母方の祖父が、石炭の沖仲士の組合「玉井組」を立ちあげた玉井金五郎という関係である。
火野葦平氏の代表作「花と龍」は何度か映画化され、ヤクザ娯楽映画として描かれてしまったが、そのため一族はヤクザ者として誤解され、迷惑したようであるが、祖父は石炭積出港で男たちから師父として慕われ、現代において、孫の中村哲氏は中央アジアで農民や遊牧民の男たちから「ドクター・サーブ」(=お医者さま)として頼られている。
玉井組には、体をハルという点で一貫した血が流れているようである。
最新の新聞報道によると玉井氏は、単なる医者としての活動ばかりではなく、砂漠地を生活の場と変えるべく現地の人々(タリバン)と共に開墾事業を行われている。
約一ヶ月ほど前に新聞で、その玉井氏が行った事業で、砂漠の中に田んぼが出来ているという一見信じがたい写真を見て感動を憶えた。
ジャン・ジオノ作の「木を植える男」という物語を思い起こすが、砂漠を田んぼに帰るのは、砂漠を森に変えるよりはるかに困難な事業であったかと思う。

学校の教科書では、日本の支配の構図といて政治家と官僚と財界人の「鉄の三角形」を描くことが多いが、どうしても「何か」がたりない気がする。
その「何か」とは、「闇の勢力」つまりアンダーグラウンドな勢力のことである。
政界と「ヤミ社会」の協力関係は、1890年の日本の議会制度とともに深まっていく。衆議院席を争った政党は、選挙のたびに企業からの政治献金ばかりではなく、ヤミ社会からの献金によって勢力を伸ばしていったのである。
戦後の民主国家にあって、我々は、ロッキード事件によって「黒幕」やら「フィクサー」によって日本の政治が動かされていると知って驚いたし、そうした世界の大物・児玉誉士夫という存在をはじめて知った。
そして、ロッキード事件にとどまらず、現代史に登場する疑獄事件、例えばシーメンス事件、帝人事件、昭和電工事件などにも必ず「ヤミ社会」との接点があると見てよい。
政治家とヤクザとの関係、財界人とヤクザの持ちつ持たれつ、警察とヤクザの腐れ縁、芸能人やスポ-ツ界の大物とヤクザの親分の飲食などが取沙汰されるたび、ナゼと思わせられることが多いが、むしろ高い地位にあればあるほど自ら手を染めたくない部分と、そこに食い込もうとするアングラ勢力を完全に拒絶できない仕掛けが生まれてくるのかもしれない。
あるいは、高い地位にまで昇るその過程で、触れられたくない部分や知られたくない部分が、ますます増幅していくこともあるヤもしれない。
様々な人間の織り成すアヤの中で一生懸命やった結果が、いつのまにか「悪」を取り込んでいたという構造もあろう。
そういうことを思うと、バブルの時代に財界人のトップといっていい人物の家を根こそぎ食い尽くした一人の男のことを思い浮かべる。
バブル経済の時代は、ある意味でもっとも深く人間の欲望や弱さを露呈した時代だったが、その中でも印象的な事件がイトマン事件であった。
イトマン事件とは、大阪市にあった日本の総合商社・伊藤萬株式会社(後にイトマンと社名変更)をめぐって発生した戦後最大の「不正経理事件」である。
この事件は、「天皇」とまでいわれた住友銀行の磯田会長の懐にまで飛び込んだ一人の男によって引き起こされた、商法上の特別背任事件である。
磯田会長のアダとなったのは、自分の娘への溺愛であり、そこに付け入るスキを見出した「ヤミ社会」と接点をもつ伊藤寿永光という「好男子」を家にまで招き入れた点である。
伊藤はいつもニコニコよく気がつき、人に好かれる雰囲気をもった男であった。
しかしながら、伊藤が磯田氏としりあったのは、山口組の若頭と親しくした結果の「地上げの実績」であった。
伊藤は毎朝、磯田家に通い得意の料理をふるまい、そして磯田家の人々と朝食をとるマデになる。
そのうち磯田氏は、伊藤が自分の息子であるかのような可愛い存在に見えてくる。そして伊藤を住友銀行の関連会社イトマンの常務にした。
磯田氏からすれば、腹心であるイトマンの河村社長の下に、可愛がっている伊藤を常務としておけば、イトマンのコントロールは磐石となるという腹づもりだったのかもしれない。
ところで磯田氏の娘は東京プリンスホテルで画廊を開いていたが、付け焼刃のような画廊経営はそれほどうまくいくはずもなく、なんとか娘を成功させたいと思うあまり、伊藤に娘のことを頼んだのである。
当然二人に男女の関係が生まれたとしても不思議ではない。
伊藤からすれば絵画の取引を材料に、いくらでもイトマンのカネを引き出せる口実ができたわけである。
そして伊藤のもとに、いろいろな絵や不動産を持ち込んだのが以前から知り合っていた許永中であり、二人はそれらを担保に巨額の融資を引き出したりする。
イトマンの決裁権は社長の河村氏にあったハズが、実権は常務の伊藤が握り、許永中とともにヤリタイ放題でイトマンを貪りつくすのである。
以上がバブルの時代におきたイトマン事件の概要である。
ところで、この「サワヤカ」伊藤寿永光は、もう一つの事件でも知られた人物である。
現在脱税容疑で服役中の「K1」の石井和義館長は、イトマン事件の伊藤寿永光(=同じく服役中)を3億円の詐欺罪で訴えた。
訴状は、脱税指南をもちかけた伊藤氏が、そのまま3億円をネコババしたというものである。
マイク・タイソン招聘に関する脱税工作を、伊藤氏が請け負ったと言われている。
しかし、この訴えは棄却された。「違法行為」における裏切りや詐欺は、司法の裁きの対象にはならないという理由である。そりゃそうですよね。

日本の現代史で、バブル期と戦後混乱期は。欠乏と放漫の正反対の時期のように見えるが、実は一つの共通点がある。
それは「ヤミ社会」が勢力を一気に伸ばした時期であるということだ。
戦後の混乱期は、いわば法秩序もない状態であったが、ある意味で平等な時代だった。みな同じように道路にムシロを広げ、箱の上に商品を並べることから始まった。
誰もがボロをまとい、トタンを張り巡らせたバラックに寝泊りし、ドラム缶の風呂に使った。
戦後の民主主義はこうした青空ヤミ市から立ち上がっていったと見ることもできる。
ところでこうした生活は、法律を守って裁判官が死んでしまうぐらいの「配給量」では十分でないことは、明白であった。
そこで頼らざるをえなかったのが「ヤミ市」であるが、この「ヤミ市」の流通を取り仕切っていたのが、「闇の勢力」であった。
太平洋戦争末期、アメリカ軍が本土に上陸した場合に備えて、日本軍はひそかに400万人の物資を各地に備え、敵を迎え撃つ準備をしていた。
ポツダム宣言によれば、日本政府はそのような物資をすべて放出すべきだったのだが、そんな混乱期にまともな責任者が存在するわけがない。
全国の兵站部に蓄えられた軍需品のうち、70パーセントあまりが略奪された。
こういういわば「盗品」をヤミ市に流し込んだのだが、そういう物品の流れを仕切るヤミ集団もあった。
彼らはヤクザとは区別され「テキヤ」とよばれ、寺や神社の祭礼の時に境内に店をはる露天商達を取り仕切ったもした。
一方、アメリカは、占領軍の先発隊60万人を選ぶにあたって、太平洋のジャングルで日本軍と対峙し、血相を変えて戦い日本人に激しい憎しみを抱いている兵士を派遣することを避けた。
結局選ばれたのは、戦闘経験のない、顔にあどけなさの残る新兵ばかりだった。こうした若い兵士達が、ジープに乗ってガムやチョコレートを焼け出された日本の子供達に分け与える姿を見ると、子供達がアメリカに憧れを抱くのに充分な効果があったといえるかもしれない。
占領期に闊歩したアメリカ兵を「GI」というが、本来の意味は、"government issue"で、「官給品」の略である。潤沢な官給装備品と共に戦う彼らを他国兵士が羨望を込めてこう呼んだとされる。
実際に彼らは配給制限の厳しいタバコ、砂糖、塩、ビール、缶詰、粉ミルクにいたるまで、軍から湯水のように支給される日用品をたっぷりもっていたのである。
またアメリカから寄付された商品や資材をヤミ市で流すことで、日本政府がこっそりと通称「M資金」とよばれる数十億ドルの「へそくり」をためこんだと言われている。
今でも日本政府の「埋蔵金」やら「機密費」とかいう言葉があるが、こういう「へそくり」が何か切迫した場面で使われてきたと思われる。
また日本政府は、敗戦を予期して1945年の初めに隠した、莫大な金、銀、銅の塊や、銑鉄、くず鉄、鉄鋼、アルミニウム、ゴムのたぐいを、どさくさにまぎれて売却したらしい。
こうした貴金属の中には、ロッキード事件の黒幕として名を馳せた児玉誉士夫が特務機関として働き、中国から獲得(略奪?)したものも含まれていた。
自由民主党の創設資金は、ここから提供されたともいわれている。
この児玉誉士夫氏がアメリカ人と共同出資して、東京赤坂に国際的社交クラブとして創設したのが、「ラテンクォ-タ-」であった。
ラテンクォ-タ-は数多くの国際的大スターを招いたクラブとして世界的にも知られた。
そして、日本人にとって忘れがたいのは、このラテンクォ-タ-こそは、プロレス人気を沸騰させた国民的ヒーロー力道山が刺され、後に亡くなる現場となった場所である。
開設まもないテレビ中継で、力道山の片手チョップが、190センチ以上もあるシャープ兄弟に炸裂するほど誇りを回復させるものはなく、テレビが設置された街角にはどこでも黒山のような人だかりができてきた。
実は、力道山という北朝鮮出身の相撲取は、番付の上位にありながらも経済的に追い込まれ、プロレスというアメリカからの粗悪な輸入スポーツに転向させられたのだが、自らこれほどの異常なプロレスブームの火付け役になるとは思いもよらなかったにちがいない。
そして力道山のプロレス中継は、皇太子の御成婚とともに、テレビをあまねく普及させる要因となったのである。
ところで日本人の生活に近いところでブームとなったのがパチンコである。1920年代に日本にはいってきたこのゲーム盤は、アメリカの初期のピンボールに似ている。
日本の場合、スペースに限りがあるから、マシンはコンパクトな縦型に改造され、前面はガラス張りで、玉は銀色の金属製になった。
もともとは景品がもらえる駄菓子屋のゲ-ムであったが、戦後パチンコという名前で大ブームになったのは、景品でだされるタバコであったといわれている。
日本の法律によると、パチンコをするお客はオカネを賭けてやるわけではなく、景品を目当てにしているゲームであるから、これを「ギャンブル」とはいわないということである。
、パチンコ店の従業員は、現金と景品の引き換え窓口がすぐ近くにあると知っているとしても、それを知らないことを装っている。
パチンコ業界は、多くの経営者が韓国や朝鮮系の人々が多いといわれている。彼らが終戦の混乱期にに短期間に稼いだものをヤミ市で売って大金を稼ぎ、パチンコ店の開設資金にあてたといわれている。
またこうしたパチンコ店に景品を卸したのは、日本人がアジアで略奪した資源を、元の所有者に返還したかどうかを監視するGHQの私有財産保管部で調査をしていた男が経営していたランスコという会社であった。
パチンコ業界は日本の主要産業の一つに間違いないのであるが、情報公開がもっとも遅れた分野で、しばしば北朝鮮政府との関係なども取沙汰されることがある。
結局、終戦直後の日本社会で、こういう「ヤミ勢力」や「ヤミ市」の存在を誰も取り締まる立場になかったということがいえる。GHQの諜報機関までもが、日本のヤクザを雇って顰蹙を買った。共産主義と戦い、労働ストライキを破るためである。
結局、日本人も占領軍も日本政府も「ヤミ勢力」が仕切る「ヤミ市」を頼る他はなかったからである。
戦後相次いだ三鷹や松川など列車転覆や帝銀事件など、「ヤミ」の世界との関わりを想像させる事件は何一つ明らかにされず、真相は「ヤミ」に葬られたままである。
ところで、松本清張の「ゼロの焦点」とは、新婚の恋人が突然失踪し、フィアンセは恋人の過去を調べるうちに、北陸の寒村で別の名前で生きていた夫のもう一つの生活を知る。
そして若き日に警察官であった夫と、今華やかに脚光を浴びる女性実業家との間に「ある接点」があったことを突きとめる。
小説「ゼロの焦点」が抉った社会の表層とヤミの相の二面性は、現代にも「形」を変えながら引き継がれ、その一つの形が最近の相撲界の姿にも表れているのではないだろうか。
日本人全体の「ゼロの焦点」を考えて見たとき、その焦点に映し出されるのは「ヤミ市」であり、ヤミ市を支配いたのがヤミ社会であり、今でも様々な面にヘビのように絡まっている。
終戦直後の教訓があるとすれば、人々の生活が破綻すれば、「ヤミ」に頼ってでも生きていかなけれならない。
だから現代人にとって、それほど「ヤミ」は非現実的なものとはいえない。