美を見出す心

美をみつける心はなかなかおもしろい。
美は混じりけのない感性によって見出されることあるが、その一方で思想により捉えられ見出されるものもある、と思う。
思想が美を捉えるとは、あえて「そんな処」に美を発見しようとする意思によってこそ発見されるからだ。
既製の価値や秩序では絶対に見い出されなかった処やモノへ意識がむくのは、それらを「埋もらせてきた」社会秩序への挑戦であり警告なのだ。
それらを捨て去り放置したものに対する告発なのだ。
だから、ある正統な美学から見て、歪んだり、くすんだり、へこんだり、ハミ出たりしたもの、醜悪でさえあるものに、あえて「美」を見出そうという意思は、既成の秩序への挑戦であるという意味で、「政治的」だったりするのかもしれない。その意味では、屈折した情念のなせる「捉われの美学」なのだ。
芸術家は必ずしもそれを意識はしていないのかもしれないが、捨てられ忘れ去られたものをナマメカしく、強靭に、ダイナミックに再構成して活かし、「これって、美しいかも?」と提示するのは、芸術家のそういう意味での「政治的?」センスなのではなかろうか、などと思ったりするのである。
つまり誰もがすぐにすんなり感知できる「美」は主張のない言論みたいなものだが、例えばピカソの「ゲルニカ」のように心の中で後々まで尾をひく「醜悪な美」などというものもあるのだと思う。
いずれにせよ、既成の価値や秩序への挑戦的・挑発的な問いによってのみ新しい「美」が見出され、新たな「美」の創造がなされうるのだ、と思う。

芸術の潮流である「ロマン主義」は、18世紀的合理主義への絶望から生まれた。
市民革命や産業革命は、人間理性の覚醒による個人の解放を意味し、合理的秩序へ向かう人間社会の無限の進歩を約束したはずなのに、現実の歴史は必ずしもその期待どうりには展開したわけではなかった。
または自由や平等な「人権」などの抽象的概念をもって人間をとらえる動きでもあったが、市民革命の過程はとても「理性的」などという代物ではなかった。
ロマン主義は、フランス革命期のロベスピエ-ルの「最高存在の祭典」という言葉に代表されるように、あまりに最高存在である「理性」を偏重しすぎたために人間性の重要な部分をそぎ落としたことへの欠落感を土壌としている。
すなわち感覚や情念をきりとって人間を捉えていることに対する反動として登場したのである。
ロマン主義は、人間や社会には合理的には処理しきれない非合理的部分が多くあり、むしろそちらのほうが本質的であるのではないかという疑問から、理性より感覚、同質性より多様性、文明よりも自然を賛美し、現実よりも過去あるいは遠い未来に憧れを見出す傾向をもっていた。
ロマン主義とは関係ないが、産業文明への芸術的挑戦としては、産業文明で捨て置かれる廃物を利用した芸術というものがあり、今から30年ほど前に、日本でも廃物を利用した芸術の展覧会がしばしば開かれていたのを思い出す。
こういうものを「ジャンク・ア-ト」というらしいが、現代産業文明に廃棄され打ち捨てられた廃物を利用して、おもに金属などを利用してピカソの絵画を思わせ人体や顔の形を作り上げる廃材芸術というものであった。
私が住む福岡市のシ-ホ-ク・ホテルでは、廃棄金属でつくったカブト虫の造形に出会い、あまりの予想外の出会いにヨロケそうになったことがある。
絵画においても、新聞紙、切符、商品のレッテル、羽毛、砂、針金などを画面に貼りつけることで新しい造形効果や立体感などを絵画に導入したものもある。
また、フランス彫刻界の代表的作家であった人物が、廃品となった自動車を圧縮した「プレス彫刻」を制作したりもしている。
ジャンク・アート作家は、機械の部品を駆使して大規模な立体彫刻や動く作品を制作したが、その中には廃物利用を通じて既製の概念を打ち破る相当、挑戦的・挑発的なものが数多くあった。
ジャンク・ア-トの芸術家としては、日本では「クマさん」の愛称で「笑っていいとも」にでていた篠原勝之などがいる。
篠原氏は、溶接オブジェを得意とする「溶接のゲージツ家」なのでした。(注:「夭折の芸術家」ではありません)

ところで「異端の美学」といえば、「おいしんぼう」のモデルとなった北大路魯山人がいる。
魯山人の半生は凄まじいものがあるが、その経歴によるものか、この人も捨てられたものや脇に置かれたものに愛情を注いだ芸術家であった。
魯山人は上賀茂神社の社家の次男として生まれるが、母の不貞によりできた子であり、それを忌んだ父は割腹自殺を遂げた。
生後すぐ里子に出され養家を転々とし、この出自にまつわる鬱屈は終生払われることはなく、また一方で「異端の美学」を生み出すことになる。
1903年、書家になることを志して上京し、翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞し、頭角を現す。
その後、町書家の内弟子となり、中国北部を旅して書や篆刻を学んだ。
帰国後の滋賀・長浜の素封家に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供され、ここで魯山人は襖絵、篆刻など数々の傑作を残し、そして敬愛する竹内栖鳳がしばしば訪れる紫田家の食客になることが叶い、日本画壇の巨匠らとの交わりが始まり、名を高めていくことになった。
その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていったという。
その芸術が素封家などをひきつける一方で、つねに傲岸、不遜、狷介、虚栄などの悪評がつきまとい、大家を罵倒する舌禍事件で、追放されたりもしている。
魯山人は生涯で6度も結婚するがすべて破綻し、子供達も夭折したり勘当するなどして、晩年を看取る人もいなかったようである。
1921年に会員制食堂「美食倶楽部」を発足させ、自ら厨房に立ち料理を振舞うなどしながらそこで使用する食器や料理を自ら創作していった。
つまり、自分の美学はあくでも追求する人で、食器から箸置きにいたるまで細部にいたるまでそのこだわりの美学を貫いた。
その中で、魯山人は捨てられた食器を繋ぎ合わせたりして、廃棄されるようなものを接合するなどして再び命を与えていったという。
接合部には金を流し込み独特の趣を生み出したりもしている。
魯山人の自宅のあった鎌倉の窯の近くには、イサムノグチと山口淑子夫妻(ついでに加藤登紀子も)が住んでおり、ノグチの造形芸術を高く評価し大変可愛がったという。
魯山人とノグチは、複雑な出生という点でも共通していた。1955年には織部焼の人間国宝に指定されたがそれを辞退し、1959年に76才に亡くなっている。

政治やそれに纏わる情念つまり「捉われの美学」ではなく、混じりけの無い純度の高い精神によって見出される美も数多くある。
例えば権力におもねることの無い心をもった洗練された人物に、千利休のことなどを思い浮かべる。
豊臣秀吉が愛でた庭の朝顔をすべて切り取って、一輪の朝顔のみをさして居間に飾ったことや、葉一つないほど掃き清められている庭を見て木をゆらして葉っぱをわざと散らせたエピソ-ドなどがある。
つまり、一点集中の「凝縮の美」や作為を嫌う「自然の美」など究極の日本人の美学がそこにあるように思われる。
また、反発心や反骨心が心の中に芽吹いていたとしても、その表出の仕方にも奥ゆかしい「美学」みたいなものを感じる。
人の見えないところに金をかけるというのは、はじめは奢侈を禁じた幕府権力に対する庶民の工夫でしかなかったものが、「粋」の文化や美学を生んでいった。
また日本人のは滅び行くものや散りゆくものへの思いが強いようだが、それと直接繋がるものかはわからないが、捨てられたものや脇に置かれる小モノに価値を見出したりすることにも長けた民族性をもっているのではないかと思う。
昔からある○○細工とよばれる民芸品の中にもそれを見出すことができる。
また何ものにも捉われない心が美をよく捉える場合もある。
最近テレビを見て知ったのは、商品にくっついているバ-コ-ドを見事に組み合わせて芸術とした「バ-コ-ド・ア-ト」というものがあった。
商品の情報を棒線で並べて表示する無味乾燥なコ-ドを組み合わせで 簡単な挿絵をいれてクスッと笑えるようなホットなムードを作り上げる発想はとても面白い。
またTVで、自然の中に転がっている石の様々な形や石肌を生かし、色をつけて動物にした世の中に2つとない造形動物を作っている女性を知った。
この女性は一切、石を割ったり、削ったりはせずに、海や山、川、場所にはこだわらずいろんな場所で拾った石から浮かぶ生き物の形象から色をあたえていくのだそうだ。
そしてこれを自ら「ストーン・ペインティング」と名づけた。
この女性の次のような話が面白かった。
大きさ、形にとらわれず、おもしろそうな形だったら拾ってみる。ものになりそうもないと思っても、すぐに捨てずにいろんな方向から石を眺める。
さんざん考えて、あきらめてもう捨てようと思ったトタンに動物に見えてくることもある。
彼女は大分日出町にストーンペインティングの作品を集めた「石ころたちの動物園」ミュージアムをオープンさせた。
石を拾ったまま、つまりは自然のままの形をいかして描かれた動物たちの表情やしぐさは、何よりも心を和ませてくれる。
こういうとても身近なところから美を拾い上げ、独自世界を作り上げることには夢が溢れ、いかにも楽しげに思える。

ところで、昭和初期の柳宗悦によって朝鮮の陶器の美が発見されたのをきっかけに、日本人が生活の場で作り上げで残した民芸品の中に美をさぐろうという動きが広がった。
最近カ-リングをする女性の美が注目された青森にも独特の民芸品があるが、今まで「負の文化」としてしか取り上げられることのなかったものが、今や海外でも注目を浴びている。
美が発見され評価されるとはいっても、その美が見落とされていたり、片隅に置かれていたものが「発見」されるということはしばしばあることだが、人々が恥じて隠していたものの美しさが注目されるというケ-スは滅多にない。
それがBOROである。 BOROといっても「大阪で生まれた女」ではなく、「青森で生まれた布類」である。
「ボロは着てても心は錦」のあのボロで、青森の歴史または民芸資料館にさえも「恥じて」展示されなかったものである。
BOROは、青森の人々が何十年も何百年もかけて使い続けた衣類で、その深みのある美しさが今、世界のアーティストから注目されている。
最近はところどころでBOROのア-トコレクション展が行われるようになり、海外でもその美しさが評価されるようにもなったのは、むしろ驚きという他はない。
青森には雪国の女性たちによって伝えられてきたこぎんや菱刺しが発見されて、一躍脚光を浴びるようになったが、もっと身近なところにあったBOROは、いまだに顧みられることもなく、むしろ東北の貧しさを象徴するものとして、恥ずかしさとともに隠されてきたのだ。
世代をこえた連綿とした引継ぎこそが美を生み出したもので、「リサイクル」などという凡庸な言葉をはるかに越えている。
野良着から肌着から寝具に至るまで幾重にもツギハギされたBOROは、青森の人々が寒さをしのぐために生み出した衣類で、そのすり切れ、破れ、ほつれの中にこそ美しさが見出されるようになった。
おそらくは、その美の構成要素の中で何世代も受け継がれた「愛情」こそが最も大きな比重を占めていると思う。
BOROの大きな特徴は麻布であることである。
藩政時代を通じて農民が木綿を着用することは禁じられていたこともあるが、そもそも寒冷地である青森では綿花の栽培ができず、農漁民の日常衣料は麻を栽培して織ったものである。
麻布は綿と比べて防寒には適していない。
一枚の麻布で寒すぎれば、何枚でも重ねていったり、糸を刺していけば丈夫にしたり、傷んで穴が空けば小布でつくろったり、また布と布のあいだに麻屑を入れて温かくしたりしていくうちに不思議な美しさをかもし出してきた。
BOROの美学はパッチワークを思わせるが、パッチワ-クのように綺麗なものを作りたくて作ったのではなくて、その時あるものを何でもいいから重ねていったものだ。
時々の即応で布が継ぎ足されていき、少しでも温かく、少しでも丈夫にという人々のデェザィア-の加算から生まれた偶然のデザインで、だれも「美」を計略したわけではない。
それでもそこに美が宿るのは、そういった人々の思いの純度がなせる技なのかもしれない。