ブルーな天国

青という色は、「今日はブルーな気分」というぐらいだから、不安や憂欝な色を表し、少なくとも幸せを意味しない。
以下は、「海の青」に魅せられた人々の夢と冒険の話であるが、青い天国が「ブルー」に転じることも数多くあった。

1962年、日本人で初めてヨット・マーメイド号で太平洋単独航海を果たしたのは、当時24才の堀江謙一氏であった。
しかし当時ヨットによる出国が認められておらず、この偉業も「密出国」、つまり法にふれるものとして非難が殺到し、堀江氏は当初犯罪者扱いすらされた。
実は、堀江氏出立の三ヶ月前に、ドラムカン製イカダで太平洋を横断しようとした青年K氏がいた。
K氏は八丈島付近で巡視艇に見つかってしまい、強制的に引き返させられた。
巡視船に曳航される途中で、K氏は何度も「死にたい」と思ったという。
実際にK氏を待っていたのは、未決収容所での手厳しい「教育的指導」であった。
堀江氏も運が悪ければ、K氏と同じ運命が待っていたかもしれない。
当時の社会風潮のように無謀がいけないというのなら、無謀さのない冒険は冒険とはいえないので、冒険はするなということと等しい。
まして法を犯す冒険となるは完全にアウトである。
日本の官憲も、報道もそんな論調であった。こういう点を見ても、日本では「冒険」というものが社会的に評価されにくい面がある。
対照的に、堀江氏を迎え入れたアメリカ側の対応は、興味深いものであった。
まず第一に、日本とアメリカの両方の法律を犯した堀江氏を不法入国者として強制送還するというような発想を、アメリカ側は絶対にしなかった。
その上サンフランシスコ市長は、「我々アメリカ人にしても、はじめは英国の法律を侵してアメリカにやってきたのではないか。その開拓精神は堀江氏と通ずるものがある」と是認した。
さらに「コロンブスもパスポートは省略した」と、堀江氏を尊敬の念をもって遇しサンフランシスコの名誉市民として受け入れたのである。
すると、日本国内でのマスコミ及び国民の論調も、手のひらを返すように、堀江氏の偉業を称えるものとなった。
ちなみに「マーメイド」の名は、掘江氏が資金不足に悩んでいる際、敷島紡績が同社の人魚マークを帆に入れるのならば帆を一式寄付するとの申し出を受け、その寄付を受けた事に因んだという。

この堀江氏の快挙からおよそ30年後の1994年に史上最年少でヨット単独無寄港世界一周をなし遂げたのが、白石康次郎氏である。
白石氏は6歳で母を亡くし、父としばしば出かけた海にあこがれを抱くようになった。
そして「いつか、海の向こうに行ってみたい」と水産高校に進学したが、そんな白石氏はある日テレビの映像にクギヅケになった。
1983年に多田雄幸氏が単独で世界一周のヨットレースに参加し、優勝したことを伝えるニュースだった。
航海の厳しさを知る白石氏は、お酒を飲み、サックスを吹きながら愉快に世界を周った多田氏のレーススタイルにも衝撃を受けた。
白石氏はさっそく多田氏と電話で連絡をとり、あこがれの多田氏と会い、弟子にしてほしいと頼んだ。
多田氏は、白石氏のことを「目の色が違う。こいつならものになる」と直感し、すぐに受け入れた。
あっさり弟子入りがかなった白石氏は、その後2年ほど仙台、清水、伊東と住み込みヨット建造の仕事をし、修理技術を身に付けた。
その間、多田氏のヨットに乗り舵を持たせてもらう。
多田氏はどんな悪天候でもセーリングを楽しみ「自然に遊ばせてもらう」と口癖のように繰り返していた。
当時その言葉の意味を充分理解できなかったものの、その言葉は白石氏の冒険が目指す方向性を示しているように思えた。
多田氏は最初の優勝から7年後の1989年、スポンサーから多額の資金を得て、再び世界一周に挑戦した。
白石氏も、食糧や部品を届けヨットの修理をするサポートクルーとして港を転戦し、このレースに参加していた。ところがレースは思いもよらない展開が待ち受けていた。
多田氏は、前回の好成績から周囲の期待が高まり、そのプレッシャーに苦しんでいた。
スピードを出すための改造が裏目に出て、ヨットは何度も横転した。
多田氏を寄港地シドニーで待ち受けていた白石氏は、いつもと違うやつれた師匠の様子に気がついた。
そして衝撃的なことが起こった。多田氏はシドニーでレースを棄権し、そればかりか自らの命を絶ってしまうのである。
その後白石氏は、多田氏のヨットを修理してシドニーから日本に回送し、なんとしても多田氏の船で世界一周に果たそうと思った。
多くの船大工の善意協力をうけてヨットを修復し、師匠・多田氏の無念を晴らすべくした出発したが、故障で9日目に引き返した。
万全を期したはずの2度目の挑戦も、航行中に再び不備が見つかり、寄港先で一体自分は何をやっているのかという失意のどん底に陥り、もう二度と戻れないという気持ちが晴れなかった。
その時、多田氏と交友のあった冒険家・植村直巳氏の妻・公子さんから励ましの電話があり、救われた思いで帰国を決意した。
そして10か月後、白石氏は師匠の教えであった「あるがままの自然を受け止める」覚悟で3度目の出発をした。
そして、初めての横転を経験し数分間死と向かい合い、自然の力には太刀打ちできない人の無力さを実感した。
今まで自然をネジフセようとする自分がいたが、「自然を信じ 自然に遊ばせてもらう」という師の言葉の本当の意味を知ったという。
白石氏は、この3度目の挑戦で当時の世界最年少記録26歳10か月で、単独ヨット無寄港世界一周を達成した。

白石氏の師匠多田氏の「自然に遊ばせてもらう」という言葉で、思い浮かべたことがある。
シンクロナイズド・スイミングの小谷選手が同じようなことをテレビで語ったことがある。
小谷さんは二度ほどアスリートとしての不思議体験を味わったという。
それは、シンクロ競技中に水の中で息を止めてもほとんど苦しくなくて水と一体化になるような体験であった。
通常の演技中には、心の中で審判に点数をもらう為に、ここでアイキャッチしてアピールようとか、色んなことを思いつつ演技をしている。
しかしこの時は青い空にエネルギーをもらい、なんにも頭に無く幸せでしょうがなかった。
演技が終わっても疲れはなく、この時彼女は人生で最高の得点をとって優勝したという。
ところが小谷さんにとっての本当の人生の転機は、メダルをとったことではなく、野生のイルカと出会ったことであったという。
オリンピックの後、名も知らぬアメリカ人のオジサンから突然電話があった。
「君の演技は素晴らしかった。でも水の中には君よりももっと美しく泳ぐもの達がいるから会いに行こう」と誘われるようになった。
毎年ように電話をかかってきて、お節介にもシンクロだけが全てじゃないとまで言われ、それをウトマシク思っていた。
ところが次のバルセロナオリンピックで補欠になりアスリート人生に不安を覚えた時、「シンクロだけが全てじゃない」というオジサンの言葉が引っ掛かった。
そして1993年、小谷氏はイルカを見にバハマに行った。
そしてイルカと並走するように泳いだ時に、体の中に電流のようなものが走った。
海と一体化した自分のちっぽけさを知りつつ幸福感に浸った。そこからの人生観が変わった。
それからはイルカと対面するためにいつもピュアな気持ちでいようと心がけるようになったそうである。
ところで、小谷さんがイルカと泳いだ時、オリンピックの金メダリスト・マット・ビョンディも共にいた。
小谷さんがシンクロの最中に水と一体化した体験を語ると、ビョンディも自分の体験を語った。
クイックターンで壁を蹴って折り返した途端に何かポンと自分が離れたような感覚になり、「離れた」自分が斜め後ろから自分が泳いでる姿ずっと見ていたという。
そして最後にゴールタッチする時にフッと自分自身に戻り、電光掲示板を見たら世界新記録がでていたそうである。
この時、小谷さんはビョンディとこの話をするためにさえバハマに来たと思った。
そしてオリンピックに出たのも「イルカと出会うため」ではなかったかと思ったそうである。

同じく、海との出会いが転機になったのが、女優の高樹沙耶さんである。
高樹さんは1963年静岡県生まれで、1980年に上京しモデルデビューし、1983年映画「沙耶のいる透視図」で女優デビューした。
以来、テレビ、雑誌などのメディアで幅広く活躍したが、2000年、ダイビング・インストラクターの資格、小型船舶一級ライセンスを取得した。
2001年には、活動の本拠地をハワイに移し、フリーダイビングの世界に入った。
トレーニングをはじめてわずか1年後の2002年、フリーダイビングの日本大会で水深45メートルの日本記録を打ち立てた。
同年ハワイで行われたワールドカップでは、水深53メートルを記録し、自己の持つ日本記録を更新した。
高樹さんも小谷さんと同じく深いイルカ体験をしたのだが、そのことを次のように語っている。
「海に入れば、イルカがどこからともなく現れ、私たちを竜宮城に連れて行ってくれる。そして地球に生まれた理由を思い出させてくれる。
彼らは餌をとり、遊び、愛し合うことで時間を費やしている、これだけでいいのだ」と。
そんな気持ちにさせてくれる、イルカとの出会いがあったという。
高木さんは、フリーダイビングという究極の世界へのチャレンジにより、理屈ではなく地球の素晴らしさ、生命の尊さを学んだ。
そして自分の生においてこうした時間を過ごしている時が最も喜びに満ちていた。
イルカと暮らすハワイで海の汚れを知り環境のことを学び始め、自分の食べるものは自分で作るパーマカルチャー的な暮らしをした。
1996年にオーストラリアの先住民に出会い、地球に暮らす美しい生き方に気が付き、私も自分に出来ることは何なのか探り、そして世界のことを考えたという。
持てる者と持たざる者が出来てしまったのは地球とともに生きているということを忘れ、人間だけがしかも一部の人がやりやすいように仕組みを作ってしまったことだと学んだ。
世界の貧困や紛争が色々な繋がりの中で生じ今や他人事でないこと。日々暴露されているように、「食の安全」がおかされている現実などを体験として知るようになった。
そして2008年、女優「高樹沙耶」の名前を返上して、益戸育江に戻った。

1968年10月、世界一周ヨットレースに参加したドナルド・クローハースト氏は、無寄港が条件で無線連絡を欠かしてはならないというルールの下、全行程約6万キロという過酷なタイムレースに挑んでいた(かに思えた)。
一度は音信不通になるも1日に243マイル走行するという世界新記録も達成し、順調にレースは進んでいた。
このままのスピードで行けば優勝間違いなしと思われていた時、またしても音信が途絶えた。
そして数カ月後、彼のヨットは発見されたが、クローハーストの姿はなかった。
しかしその航海日誌には、途中寄港で船を修理したことなど、無線連絡が虚偽の報告であるが判明した。
以来、クローハーストの姿を見た者はいない。
人は世にあるとき様々なしがらみに巻きとられていく。また自分を大きくみせようと必死に努力する。
小谷さんはイルカを通じて自分の「ちっぽけさ」の体験し、自分が圧倒的に大きなものの一部であることを知って幸福感に浸った。
今の我々はこうした畏敬や崇敬といった根源的体験からあまりにも遠い世界に生きているのではないかと思う。
この世の中で、何かに自らをあずけようなどと思うことはほとんどないし、そんな頼りになるものはほとんどない(と思う)。
せいぜい世の流れに逆らわずに行こう、ぐらいなものである。
また、いつも自然を都合よく利用している側からすれば、自然がそれほどに人間を優しく抱いてくれるとも思えない。
「自然に遊ばれよう」といった日本人初のヨット世界一周を成し遂げた多田雄幸氏さえも、むしろその偉業の故に世の荒波に呑みこまれた感がある。
偉業は豊かな報酬となり、無情な代価ともなった。
小谷さんによると、イルカと戯れるような純粋な気持ちがなければ、イルカは近寄ってこないそうである。
つまりカメラを意識して綺麗に泳ごうなんて思っていたら、イルカにその邪心は見抜かれてしまう。
シンクロの審判員は欺けても、イルカは欺けない。
人間は海の中で、なかなかマーメイドにはなれないようです。