市場の失敗と環境

市場の機能と政府の存在という関係は、経済学にとって重大なテーマのひとつである。
ノーベル経済学賞のミルトン・フリードマンは、政府による経済政策は、効果がでるまでのタイムラグ(時間の遅れ)存在や、それを人々が予想している(おりこみ済み)の場合にはあまり効果が期待できないとした。
そして政策的に見て大切なのは、「通貨量」のみであるために、彼の立場を「マネタリスト」とよぶのであるが、あとは「市場の力」にまかすべきことを主張したのである。
つまりフリードマンは「政府の失敗」に注目しケインズを批判したのであるが、同じく「政府の失敗」という観点からケインズを批判したノーベル賞・経済学者にJMブキャナンがいる。
ブキャナンは、ケインジアンがいうように好景気不景気に応じて経済を財政コントロールするために、政府が予算規模を増やしたり減らしたりできる「可逆性」を批判したのである。
つまり現実の政府内部には様々な既得権益が絡み、予算を増加させる分につては比較的に弾力性があるが、予算を減らす分については「硬直的」であり、ケインズ理論に基づく「政策の弾力性」はそれほど期待できないことを主張した。
これは、「価格の下方硬直性」という言葉にちなんで「予算の下方硬直性」とよんでいいかもしれない。
ブキャナンのケインズ批判は、借金依存の度合いをますます深める日本政府にとって、かなり妥当性のある主張であるといえるであろう。
ところがそうした不完全な政府であっても、ブキャナンはフリードマンのように経済学的な意味での政府の存在に批判的だったわけではない。
ブキャナンが、政府の「正当性」までを批判しないのは、市場にはどうしてもまかせられない「市場が失敗する」領域の存在を強く意識するためである。
「市場の失敗」といっても、独占や寡占をさすのではない。
誤解を招き易いのは、独占や寡占による価格の下方硬直がおきる現象は、市場機能の不全性を物語るものではあっても、「市場の失敗」に当るものではない。
それでは「市場の失敗」とはどのようなケ-スをさすのであろうか。

「市場の失敗」には、多くの場合に「外部経済」や「外部不経済」が働くケースが多い。
つまりある物を供給するときに市場には反映されない利益(=外部経済)または市場には反映されない不利益(=外部不経済)を生み出しているということである。
そうして「金には換算できない利益」つまり外部経済をたくさん生み出すものを公共財、逆に「金には換算できない不利益」つまり外部不経済をたくさん生み出すものを「公害」と呼ぶのである。
以上の話でおわかりのように、経済学的にいって「公害」とは「マイナスの公共財」なのである。
「市場の失敗」とは、外部経済や外部不経済が強く働く場合には、財の供給を市場に任せきると、大変もったいないことがおきたり、大変危険を生みだしたりするということである。
ブキャナンは、こういう場合にこそ「政府の存在」は正当化され、その財の供給は政治的プロセスで決定されるべきと主張したのである。
そこまでならばブキャナンの業績はノーベル賞にまでは至らなかったのであろうが、ブキャナンはその「政治的プロセス」の内容までも経済学的手法で分析したのである。
そして彼が実質的に一人で構築したこの分野を「公共選択の理論」とよんでいる。

それでは外部経済や外部不経済が働場合とは具体的にどういう場合であろうか。
「外部経済」の場合を分かり易く言えば、市場に任せると不都合な領域があるということである。
犯罪者を逮捕する、火事を消す、国家を守るなどを民間企業に任せたらどうであろうか。
犯罪が外国人であるために追求が難しいので捜査をやめようとか、火事が遠方であるために交通費がかかるために消防活動をやめようとか、仮想敵国が核兵器を開発したので国防から撤退しようとしたら、または逆にこちらも核兵器を開発しようとしたらどうだろう。
公共財の場合には一旦供給すると、誰しもその利益にあずかる可能性があるのだが、具体的な形での利益(消防、泥棒逮捕、遭難からの救出など)にあずかる人は極端に少ないために当事者から金を徴収するにもなかなか採算が合わなく、民間はけしてその仕事に参入しようとはしないのである。
またかなりの固定費を要する。以上が「外部経済」が働く領域の特徴である。
つまり誰しも利益にあずかる可能性があるの犯人を逮捕してもらったり、火事を消してもらったりする具体的な受益者のみに金を払ってもらうと採算に合わないということである。
だから「可能性」に対する意識が低い(国防意識など)とか、または正直に「可能性としての必要性」を表明せずに「タダ乗り」するケ-スがおきる。
つまり、民間がやったら過少になりがちで可能性として相応しいサービスの規模を決定するのはできない領域である。
もっとも政府に任せたら、今度はほとんど使わない道路やハコモノをゼネコンの利益の為に作ったりするので過大な投資がおき、ここでも逆に「政府の失敗」がおこり適切な「公共財」の供給が行わない可能性もでてくるのであるが。
他方、「マイナスの公共財」というべき公害は、その被害のひろがりつまり「外部不経済」を発生源たる企業に要求できない。
または仮に要求するにも莫大な時間と裁判費用がかかるために採算が合わない。
つまり「泣き寝入り」する外ない領域で、こういう外部不経済がともなう生産を放置すると、企業が負担しない甚大な社会的費用が生じる可能性が高いのである。
例えば、あなたの家の側の工場の煤煙で洗濯費用が通常の二倍かかったとしてもその費用を工場に要求できるだろうか。
中国から吹いてくる有害物資を含んだ黄砂のせいで病気になったとしても、その治療費を中国政府に要求できるだろうか。
こういう企業が負担せずに「外部」に撒き散らす「社会的費用」を「排出税」などのコストで企業の私的な費用に「内部化」しない限り、企業は利潤に見合う限り「生産」をやめようとはせず、まわりに費用を負担させながら「持続的な破壊」を続けることになる。
最近特に思うことは、「市場機能の素晴らしさ」と「市場がもたらす結果」は切り離して考えるべきだということだ。
つまり、フリードマンの注目する「市場経済の機能の素晴らしさ」ではおさまりきれない「市場経済の結果の酷薄さ」を生じるケースである。
政府の公共財供給や民間企業の規制には、上記の理由をもって正当な経済活動または介入となる。
つまり経済学的意味での「政府の存在」が正当化されるのである。
近年、新自由主義の台頭で、公共部門から民間への事業委託が増える傾向にある。
フランスでは、犯罪の捜査や逮捕は公共部門がするが犯人の収容する刑務所は民間に委託するようになっていると聞く。
日本でも駐車違反の取締りを一部民間に委託するなどの動きもでている。
郵政の民営化や全国的な赤字路線廃止がされているが、政府予算の縮小や効率化の為にも、「外部経済」「外部不経済」の観点を踏まえて、政府と民間または政府と市場との関係の整理と見直しがますます必要であろう。
単純に赤字だから廃止、黒字だから存続というのは「外部経済」「外部不経済」を考慮すると間違いということである。

環境の問題は、身近なところから考えないとなかなかピンとこない。
最近、「ペーパーレス社会」について調べていると、我々が日常に使っている文房具の生産がいかに大きな「外部不経済」をともなうものか、ということに驚きを感ぜざるをえない。
そして学校の場で「環境問題」を考えさせる上で、文房具こそがそれにもっとも適切な教材ではないのかとさえ思わせられるのである。
ミルトン・フリ-ドマンによる一般向けに書いた「新自由主義」の啓蒙書「選択の自由」は、「市場機能の素晴らしさ」を語るに際して「鉛筆の話」から始まっている。
フリ-ドマンは、誰もが知っている鉛筆がいかに複雑な過程を経て完成するかを紹介し、「市場機能の素晴らしさ」を説明した。
鉛筆の生産過程に関わるものは、木材の搬出に使トラック、ロープ、エンジン、麻、のこぎり、鉄鉱石、黒鉛、真鍮の精錬、労働者が飲むコーヒーなどに広い範囲に関わって波及ていく。
つまり鉛筆の需要が増えたら、そうした財の需要もふえるということである。
それらの生産に携わる何千もの労働者達は多様な技術を持ちながら、互いに異なる文化と言語の世界に属している。
しかも、労働者たちは外国の「顔の見えない労働者達」と協働し合い、自分たちが製造した製品が鉛筆のために使われるということさえも知らずに働いている可能性が高いのである。
フリ-ドマンによるこういう説明は、市場の「機能」の素晴らしさというよりも、鉛筆生産をめぐって市場が結びつける意図しない「世界的な協働」としての側面の方が印象深いものあった。
ところでフリードマンのいう「市場機能の素晴らしさ」をもっと「別の土俵」に置き換えたならば、反対に「市場の酷薄さ」として現れる可能性だってあるのではないだろうか、と思うのである。
その「別の土俵」とは「外部不経済 」の領域である。
文房具の世界でそれがもっともよく現れるのが「紙」の世界であり、現状のままの勢いで紙の生産が続けば「持続的な破壊」を留めることができない。
紙の素材となる木材パルプの生産は、だいたいカナダとアメリカが世界生産の半分をしめている。
世界全体の生産量は、電子通信の時代にもかかわらず、先進国ではEメール量が紙の使用を増大させているために、さらに増大を続けている。
世界規模で成長し続けている巨大な紙ビジネスは、いろいろな原料からパルプを作る多国籍企業による産業を発展させた。
そして、多くの熱帯雨林、温帯林の硬材が製紙用パルプの犠牲となっている。
インドネシアでは豊かな熱帯雨林の4分の3が失われ、その大半は世界中で消費されるパルプや木材のために「非合法」に伐採された。
またチリではナンキョクブナの林が伐採され、日本の企業によってパルプ化されてファックス用紙に変わった。
木材パルプによる製紙産業が環境に与える影響も甚大である。例えばパルプを塩素や二酸化塩素で漂白する過程はダイオキシンを生み出すかもしれない。
これは法的な安全基準がPPPで示される最も有害な環境毒物で、肉や乳製品、ヒトの母乳に蓄積することが知られている。
多くの国では今もなお有害な排水が製紙工場からそのまま河川に流され、何キロにわたって水生生物に影響を与え続けえいる。
また鉛筆の歴史を調べてみると「環境論」の観点以外にも興味深いものがあった。
黒鉛(グラファイト)と粘土で出来た芯を木ではさんだ物を日本で「鉛筆」と呼んでいる。英語では正式には”wood cased pencil”と呼ぶが、日本では省略してpencilとしている。
Pencilの語源は、もともとラテン語の「ペニシラム(しっぽ)」という意味で、初期の鉛筆の金属の鉛の棒を毛で包んだ筆記具の形が「しっぽ」に似ていたところから名づけられた。
黒鉛の塊(石墨)の発見は、当時苦労して図面や文字を書いていたヨーロッパ社会に大センセーションを巻き起こし、爆発的にヒットした。
値段も高騰し、石墨、つまり黒鉛の塊は貴重品となり、その後イギリスとフランスで戦争が始まり、イギリスでしか取れない良質の黒鉛が入手出来なくなったフランスは、国を挙げて代替品として黒鉛の粉と粘土を混ぜて焼くという製法を発明したのである。
現在、日本で作られる鉛筆には、ドイツ産の粘土が使用されている。
日本でも粘土は取れるが、鉛筆芯の成形に適した可塑性があり、比較的低い温度で結晶化が進み、強さ等の物性が向上し、硅石等の不純物を含まない等の理由から、ドイツ粘土が鉛筆には最適だそうだ。
19世紀の後半に、アメリカの鉛筆業者丸い芯を丸く削った軸板で挟む現代の方法を開発した。
これにより、使いやすくコストの安い鉛筆が出来て、世界的に普及したのである。
鉛筆本体では、北アメリカの”Pencil Cedar”が長いこと使われてきたが極端に品薄になり、1980年代後半には、北アメリカ原産のオニヒバが主原料となている。
真っ直ぐ木目、均一な組織、そして比較的柔らかなこの材は正確に切断でき、色づけ、ワックスがけにも非常に適していて、簡単に削ることができるという。
明治になって文明開化が起こり、鉛筆が大量に輸入されたが、日本での製造は1875年に伝習生から学んだ小池卯八郎が鉛筆工場を設立したことから始まっている。
なお、チョーク、クレヨン、色鉛筆などの色素は、主としてコバルト、カドミウム、鉄のような金属を含んだ化学物質や土に由来する顔料が利用されているという。
消しゴムの方は、鉛筆が登場したことには良い消し具がなくて小麦パンで消していたという。
1770年に、プリーストーリーという人が、黒鉛で書いたものを消しさる物質に注目し、この革命的な物質を「ゴム=こすって消すもの」と命名した。
ゴムはむしろ消しゴム以外の利用法の方が比重が増えたが、この時代のロンドンでは画家と鉛筆利用者の為に生ゴムの塊が販売されていたのである。
1930年代以降、コールタールや石油化学からつくられた合成ゴムが現れ、消しゴムの成分も変化した。
その後、サブスチチュート(植物油に硫黄を混ぜて粉状にした物)が発見されて、現在の消しゴムの基ができた。
塩化ビニールを原料としたプラスチック消しゴムは、1950年代になってようやく登場した。
以上、紙・鉛筆・消しゴムの文房具三点セットの原料となるものを調べたが、これだけでも「環境負荷」の大きさを 思い知らされた。

新自由主義の啓蒙書「選択の自由」の冒頭を飾る「鉛筆の生産」の話には、こうした鉛筆生産がもたらす「環境負荷」については一切ふれられてはいない。
こうした「環境負荷」は、市場の猛威にまかしておけば、止まることを知らず増大すものであるにもかかわらず、である。
最近、世界的にCO2の排出量が一定の基準に定められているようであるが、「排出権」に余裕のある国から「排出権」を超えたい国に対して、権利の売買が行われているという。
”唖然”と言うほかはない。「排出権」もいわば" 準市場取引"に巻き込まれているのである。
各国の発展段階が異なるので、そこに弾力性をもたせたということかもしれないが、汚染物質の排出の抑制がいかに困難であるかを物語るものである。
一般に「排出権取引」は、国や企業が汚染物質を排出する権利(排出権)を、「市場」において売買取引することで、フリードマン教授にはぜひとも「排出権」価格決定の市場メカニズムを解明して欲しかった。