挑戦的な「問いかけ」

西欧の芸術や文化がキリスト教を前提としており、絵画や音楽にいたっては聖書に登場する幾多の場面が直接、絵になり、音となって表現されている。
これは「無宗教」を自認する一般的な日本人からすれば、相当に文化的開きを感じるところではないのか。
だいたい、神や聖霊や天使をまったく自明の存在としている世界観を抱いて生きるなど、西欧人は皆が皆でどうかしている、集団で「洗脳」でもされているのか。
日本人はいまだに西欧崇拝が強いのでそこまで思わないにしても、実際にヨ-ロッパに行ってみると、西欧人のキリスト教に対する「思い込み」の激しさにはただただ呆れるばかりである、というのが素朴な気持ちであろう。
しかも思想史を紐解くと、西欧社会は「合理主義」を生んだ本家本元なのである。
ただし、キリスト教もギリシア思想によってある程度「理性化」(合理化)されている分、そういう気持ちも幾分は緩和できるかもしれない。
また、人間が作り出した芸術の素晴らしさそのものを素直に楽しめばよいのだから、キリスト教信仰云々はあまり関係ないという人もいよう。
しかし以上のような日本人一般の見方にはある重要な視点(または体験)が欠けているように思われる。
実は、日本人が、自らを無宗教としてキリスト教を「理性的」に批評する姿勢の中に、この「体験」の欠如を示している場合が多い。

16世紀にカトリック教会の腐敗に対して反抗したのはマルチン=ルターらのプロテスタントと呼ばれた人々であった。
さらにジュネ-ブでは、カルバンが立ち上がりその思想は「資本主義精神の源流」ともなっている。
イエスの「野の花を見よ、空の鳥を見よ、蒔くことも紡ぐこともしないではないか。なのに美しく装って下さっている」という言葉からすれば、カトリックへのプロテスト(抗議)が発端となったプロテスタンティズムは、とんでもない(金融)資本主義という鬼子を生み出したものだといえる。
一方、カトリック教会の内部でもそれ以前から、修道会設立や教会再建などを通じて一部で改革が起こっていることにも注目すべきである。
なかでもフランチェスコ会の設立には、1人の若き修道士がかかわり、資本主義などというモンスタ-とは縁遠く、清貧と労働で「必要なものを必要なだけ作り」自然とともに生活するスタイルを生み出した。
プロテスタントもカトリック修道会による改革運動も、人間が「労働」を通じて「神の栄光を表す」、または「神に奉仕する」という点までは共通なものがあるのだが、プロテスタント(カルバン派)が「富の蓄積」を積極的に是認したのに対して、カトリックが「清貧」を重んじたという点では、実に大きな差が生まれたものだといわざるをえない。

カトリックの教会再建の中で、フランチェスコ会の設立を行った青年の姿を映画化したのが「ブラザー サン シスター ムーン」という映画である。
13世紀初頭、イタリア中世の都市アシジを舞台に、フランチェスコ会の創立者、聖フランチェスコの生い立ちから、ローマで法王インノケンティウス三世に認められるまでの半生を描いたもので、「ブラザー サン シスター ムーン」の題は、彼が神の創生物を讃美するときよく使った言葉である。
フランチェスコは、十字軍で傷ついた家族などを慰めようと父から受けた財産をなげうって仲間と協力して教会を建築したが、現地司教の陰謀によって教会を焼かれた上に仲間の一人が殺されるに及び、仲間たちとローマ法王に請願に行くことにした。
やっとのことでローマ法王に謁見が許され、青年は聖書の言葉への信仰をそのままに語り、結果的に教会の腐敗の現実を衝き、法王はその言葉にいたく心を動かされ教会建築の願いを受け入れた。
そして貧しい人々から聖人と呼ばれたフランチェスコは故郷に帰り、野の花が咲き、空の鳥がさえずる自然あふれる場所に教会を立て直すのである。
この映画のハイライトは、若き修道士がローマ・カトリック教会に語る言葉に心を揺すぶられた法王が自らがフランチェスコに膝まづくシーンである。
若き修道士は、法王の前で何一つ美辞麗句や神学論を展開したわけではない。
ただただ「野の花を見よ、空の鳥を見よ」に始まる「マタイによる福音書」の一部の聖句を暗誦しただけのことである。
「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。
それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。」(マタイ6:26)といった具合である。
こういう聖書の言葉ならば、きっと最高権威である法王たるもの何度でも読んだり聞いたりしたのだろうが、この修道士の語り口によって発せられて、初めて「命ある言葉」として法王の心を揺すぶったのである。
これは実話を基にした映画であるものの、実際に名も無き田舎の青年がヨ-ロッパの最高権威を動かすことなど本当にあったことなのだろうか。
まして映画のシ-ンのように法王が膝まづくなどのことが。それを思う時、ペテロの伝道デビューの時を思い起こす。
キリストの十字架後に使徒として働きはじめたペテロは、かつてイエスを裏切って逃げ出した人間の1人であり、本来ならばその事を恥じて人前に出るのさえ憚られるハズなのに、多くの民衆を前にして自らの「十字架後」のイエス体験を正々堂々と率直に語ったのである。
そうすると、集まった人々の多くが心を揺すぶられ、1日でなんとなんとなんと、3000人が洗礼を受けたのである。(使徒行伝2章41節)。
こういう出来事をみると、人間業ではなく、何か異常な「神の働き」が起こったように思わざるをえない。
そして実際にギリシア・ロ-マにおける初代教会の使徒たちの伝道の過程は、まるで「夢のような出来事」の連続であり、このような奇跡や不思議が次々に起こり、キリスト教は「疫病のごとく」広がっていったのである(使徒24:1~21)。

ところで、日本の政界は相も変わらず「政治とカネ」の問題で紛糾しているが、「信仰と財産」の問題は、古今東西、信仰者にとって重要な問題である。
聖書には次のような言葉がある。
「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」(ヘブライ人への手紙4章)。
聖書の言葉が厳しく思えるのは、何も人間に戒律の厳しさを要求するからではなく、それらが、あたかも人間の心の奥底に潜むものに「挑戦」していくるように思えるからである。
聖書の言葉は、特に「信仰と財産(富)」つまり人間の「地上の欲」に対してかなり鋭く切り込んでくるものがある。
それは、人々に「この世に富を築く」か「天国に富を築く」かを問い、迫ってくるからに他ならない。
仏教の言葉でいうと、「此岸」か「彼岸」かの究極の価値選択である。
もちろんここでいう「富」は金銭だけではなく、地位や名誉を含めて指している。
プロテスタント(カルバン派)の思想は、よくいえば「富への欲求」を「神の栄光を現す」ものとして「聖化」したという点で、この世の富と天国の富が矛盾なく追求できるようにした「都合のいい」世界観だともいえる。
しかしながら聖書は、それほど(必要もない)富に対して肯定的な立場をとってはいない。
特に一旦は地位や名誉を築いてしまった人間が、「神に従う」為にはむしろそれらが桎梏となることを幾多の場面で教えている。
そして「地上の富」と求める者への強いメッセージが、「野の花を見よ、空の鳥を見よ」という柔らかな言葉の中に込められている。
ところでイエスが出現する前にヨハネが現れている。その首をサロメという女によって切られた「洗礼者ヨハネ」とよばれた人物である。
ヨハネは荒野であたかも「露払い」であるかのように現れ、「救世主」到来が実現したことを預言した。
ヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。
イエスはヨハネに言及しつつ「あなた方は何を見に出てきたのか、柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。」(マタイ11章7節)と語った。
また、パリサイ派や律法学者を「彼らは宴会の上座、会堂の上席を好み、 広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる」(マタイ23章7節)と批判した。
そして「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。」(マタイ6章19節)と語っている。
一方で、戒律も守り施しもして尊敬もされている若い役人が、イエスから全財産を貧者に施せよという「挑戦的な問いかけ」をうけ、悲しげな顔でイエスから立ち去ったエピソ-ドがある。(ルカ18章25節)
イエスはその役人よりも、貧しいながら多くの捧げモノをした女の方が神によみされているとして、「財産あるものが神の国に入るのは駱駝が針の穴を通るよりも難しい」と語った。
多く持てる者ほど、失うものも大きくなる、ということである。

西欧の文化や芸術がテ-マとして描いた「神の国」とは一体何であり、その到来などが本当にあるのか、西欧人はそんな目に見えぬものをどうとらえ、信じられたのだろうか。
それはキリスト教の「復活」つまり「死者の蘇り」の問題とも不可分である。
パウロは、死者の復活を否定する人たちに対して、並々ならぬ熱意をこめて語っている。
「もし死人の復活がないならば、キリストも蘇らなかったであろう。もしキリストが蘇らなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」「もしキリストが蘇らなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。もし私たちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、私たちは、すべての人の中で最も哀れむべき存在となる」(第一コリント15章)と語っている。
パウロの信仰の要諦は正に「復活」にあったのである。
さて、先述のように「神の国」「復活」は西欧世界では長く当たり前の前提としてあり、多くの文学や芸術の中にキリストの復活や神の国到来の想像図さえ描かれているのだが、パウロが「もし蘇りがないならば自分ほど哀れな存在はない」と言うのならば、こうした芸術に凄まじいエネルギーを注ぎ込んだ芸術家達も哀れな存在であり、それを見て感涙する者達もまた同様に哀れな存在ではなかろうか。
否、キリスト教文化全体があわれむべき存在なのではないのか。
こういう疑問に対する一番答えは、西欧世界特にギリシア・ロ-マ世界がキリスト教伝来の初期に体験した「聖霊の働き」ということである。
旧約聖書のヨエル書の2章では「聖霊」は、「前の雨」(春の雨)と「後の雨」(秋の雨)とがあることが預言されており、「前の雨」とはペテロやパウロの伝道によってキリスト教が多くの人々の聖霊体験とともに広がったことを指し、「後の雨」は世の終わりに降り注ぐ聖霊を指している。
「神の存在」や「神の国」の到来を普通に信じられた西欧人は、思い込みが激しいというのではなく、こうした深い聖霊の体験に根ざしたところから生まれた信仰を抱いているのである。
そして、こうした「聖霊」が芸術家に働きかけた時に、素晴らしくインスパイアードされた芸術が生まれるということである。
この聖霊体験こそが、「肉の認識」ではとうてい信じられないような、つかまえられないような「来るべき事」(=神の国の到来)を告げ伝えるものである。
聖霊の働きこそは、西欧キリスト教文明の基盤となり「生命」となっているものであり、日本人がなかなか目をむけようとしない点である。
例えば、遠藤周作のキリスト教関係の小説には全くこの視点がなく、人間界のドラマに終始している。
それでは聖霊とは一体何かと「理性的な」日本人はさらに問うかもしれない。
だいたい、聖霊それ自体わけ分からんものだし、信仰を求める人であっても、そんなものに自分の人生(信仰)を賭けられるか、という気持ちもあろう。
しかし聖書には、「人は水と霊によらなければ神の国に入ることはできない」(ヨハネ3章3節)とあるように、「聖霊」を受けることは「洗礼」を受けることとともに、「救い」そのものといいかえてよい。
神など存在するのか、聖霊など存在するのか、という疑問をひとまずおいて、まずは西欧文明を築き上げ命を保ちえている強大なパトスとは「一体何なのか」という疑問にこそに知性を働かせるべきである。
「目にみえない」から「存在しない」のではなく、多くの日本人にそういう聖霊体験に根ざすものが極めて稀少なのである。
しかし聖霊は、「しかるべき」キリストの教会では今でも聖書の「使徒行伝」同様に「生き生き」と体験できるものである。
イエスが、「神の国は、ここにある、あそこにあると言えるものでもなく、実に、神の国はあなた方の間にあるのだ」(ルカ17章)と語ったように、来るべき「神の国」は聖霊によって、先んじて(不完全ではあっても)体験できるものなのだ。
では、聖霊が人々の内に宿るとはどういう体験なのか、イエスはサマリアの女と井戸の側での出会いにおいて、そのことを語っている。(ヨハネ4章)
イエスがシカルというサマリアの町を通りかかった時、たまたま水を汲みにきた女に次のように語っている。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」
さらに、イエスは「豚に真珠」という有名な言葉がある箇所(マタイ13章)で次のように言っている。
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」
またパウロは、病に苦しむ人々に「金銀は我にない。私にあるものをあげよう」と宣言しつつ、「私たちは、救われるものにとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストの香りである。後者にとっては、死から死に至らせる香りであり、前者にとっては、命から命に至らせる香りである」(第二コリント2章12節)と語っている。
なんか挑発的・挑戦的な響きをもつ言葉だが、それを言うなら、聖書自体、神から人の世に送られた「挑戦状」のようなものでもあり、中でも次の言葉は、地上に生きる国王から庶民に至るまですべての人にとって、最も挑戦的な問いかけの言葉ではないでしょうか。

「人が全世界をもうけても、自分のいのちを損したら、何の得になろうか」(マルコ8章36節)