添い寝するヒツジ

1980年代はじめ、慶応大学教授・小此木啓吾教授が書いた本のタイトルから「モラトリアム人間」という言葉がはやった。
この本の中には「山アラシのジレンマ」なんという言葉が紹介してあったが、時代を映した鋭い譬えであったように思う。
今でもこの言葉は妥当すると思うが、ほとんど使われてはいない。
それは時代がそういう特性を失ったというよりも、当世の社会風潮を表す他の言葉の中に溶解していってしまったといえるかもしれない。
例えば、「モラトリアム人間」が、大人になりきれない若者を指した”ピーターパン・シンドロ-ム”という言葉に重なり溶け込んでしまったように。
また、かつての「山あらしのジレンマ」は、当世の「草食系男子」の登場と響きあうよう現象にも思える。(この点は、後述する)
ところで「モラトリアム」とは本来、経済用語として“支払猶予”の事だが、フロイト学派のエリクソンが心理学用語として適用した。
「モラトリアム人間の時代」と言うのは大人としての自己定義(例えば、父親として、会社員として、或いは商店主や弁護士としての位置づけ)を留保する若者が増えてきた時代状況を指している。
そして、その留保は、中年、老年に至るまでにも続く。
この風潮は現在でもフリーターの増大とか父親不在の問題とも通底しており、精神病理学的には“アイデンティティ拡散症候群”とも言う。
こうした病理の社会的背景としては、戦後の国家幻想への幻滅や社会の多様化の中で、かえって「あれか、これか」という選択の余地が増え、早々と自分の可能性を限定することへの忌避があるように思う。
従来の家庭や企業集団の場合、ひとはそれに一元的に帰属することができ、しかもそのなかにいるかぎり、他人の気配りを受けることをほぼ自動的に期待することができた。
そこでは、集団の共同目体を忠実に追及しているかぎり、個人は自分が「誰かであること」を自動的に保証され、それにふさわしい注目を他人から受けることができたのである。
彼は、この帰属関係を生涯にたびたび選びなほす必要も無く、その属し方の緊密度を自分の手で絶えず調整する必要もなかった。
モラトリアム人間の増加は、モラトリアムを許容するだけの豊かな経済状況があることはいうまでもない。
そして、個々人を超えた国家・社会、組織・集団、思想・イデオロギーに自己を賭けるようなアイデンティティを持つ事を避け、自分本位のパーソナルな自己愛をひたすら大切にする心理傾向が現代人の社会的性格として定着してしまったというところがある。
「モラトリアム人間」は、社会のお客様あるいは傍観者でいたい、そしてその事を許してもらえる社会といえるかもしれないが、「あれか、これか」が「あれもイヤ、これもイヤ」で止まってしまったのではどうしようもない。
ところで、小此木氏の本の中で知った「山アラシのジレンマ」は、モラトリアム人間特有の人間関係のとり方であるが、心理学ではもともと有名な用語だそうだ。
「山アラシ」は、身体中ハリハリだらけのハリネズミである。
ある時この山アラシの夫婦(もしくは恋人)が冬山の穴倉にいたとする。冬は寒いしお互いに恋しいので、できるだけ身体を寄り添い合いたい。
しかし寄り添えばアウチッ「痛ェ!」、そこで離れる。
でもやっぱり寒く、恋しくなって接近するが、またオアウチッ!
ついには、山アラシ・カップルは、お互いに寒くなく、針が刺さらない「適当な距離」を見つけるという話である。
「山アラシのジレンマ」は依存と自立の葛藤を表した言葉ともとれるが、むしろ現代社会に特有な「傷つかない、しかも寒くない」人間関係のとり方を表した比喩のようにもとれる。
ところで、そうした人間関係における「山アラシのジレンマ」を具合よく解消したのがインタ-ネットということにならないだろうか。
さらには、そのさいたるものが携帯電話であるともいえそうだ。
インタ-ネットは「山アラシのジレンマ」の解消、つまり傷つくこともなく互いに程よく「温め合う」ことのできる距離を作り出す格好の道具となったわけである。
しかも、インタ-ネットや携帯によって多様な自分の発信もできるようになった、つまり多様な世界との繋がり方ができるようになった。
言い換えると、「自分」というチャンネルをいくらでも切り替えながら生きることができるようになったのである。
例えば、職場でまったく風采のあがらない男が、ひとたびインタ-ネットの世界にはいると、あるハンドル名で知られたカリスマであったりもするのだ。
となると、携帯電話なるものは、アイデンティティの「攪拌器」のようにも思えてくる。
最近、「草食系男子」なるものがメディアで取り沙汰されている。「草食系」は従来のがむしゃらに女性に対して押しの姿勢の「肉食系」と対極にある姿として、総称される言葉である。
「草食系」とは、草原にタダタダ草を食むために茫洋と佇む羊のようなイメージがある。
そしてインタ-ネットによる「山アラシのジレンマ」の解消と「草食系」男子の誕生には何かとても深い関連があるように思うのだ。
この「草食系」男子の亜流の一つとして「添い寝男子」というのも現れた。
体調を崩していたり、失恋などで精神的に弱っている女子のもとへ、「今日、ボク添い寝しに来てあげましょうか?」と現れる「添い寝男子」もいるそうな。
その生態は詳しく知らないので立ち入ったコメントは控えさせて頂きますが、かつては、そんなことを言ったってやっぱ男子が女子の家に来れば、何かしようと画策するのがジョーのシキじゃった。
しかし「添い寝男子」は誠心誠意、不純物のないピュアな「添い寝」を提供する。
しかも、「寂しくなったら添い寝してあげますから、いつでもボクを呼んでください」とアフターケアまでも行き届いている。
オオカミの皮をかぶったヒツジ、否、ヒツジの顔をしたやっぱりヒツジ、またはヤギ、またはトナカイ、またはパンダ、またはウサギである。
かつて、肉食系とおぼしき吉田美和が歌った”決戦は金曜日”なんていうあの男女の緊迫感はどこへいったのでしょう。
命短し 恋せよ肉食乙女。ドリ-ム・カム・トルゥ-!(ちなみに、ABBAのヒット曲「ワ-テルロー」という曲は、ナポレオンのワーテルローの戦いを男女の恋愛バトルの比喩に使ったもので、日本語訳すれば「恋する関が原」というところでしょうか)

価値が浮遊する時代は、物が物事が定位置にあることの方が異様なのかもしえない。
かつてのフロイトの時代のように、生活圏が狭く、秩序が確立し、価値観が固定し、単一化している社会では、人々は常に人格の統一性を自他に対して堅持していなければならなかった。
ところが都市化し、生活圏が広く、多面化し、秩序が動揺して価値観が多様化した社会では、人々はむしろ、或る程度、人格そのものを多様化し、流動化せざるをえない。
その場その場、その時その時で、外界に適合するように自分を調整してゆかねばならない、といううことだ。
父は父であるよりも、自分の親に対しては依然として「子」のままであろうとするならば、その親が自分の子をしっかりと教育できそうもない。
親としての「アイデンティティ」が形成されないままに、ひたすらパーソナルな自己愛を追求することが、子供のペット化や、思うようにペット化できない場合の「虐待」につながるのではないだろうか。
社会的な役割をまともに果たそうにも、父母は教師を尊敬するよりは、むしろ教師を批判し、子供達に幻滅を与え、深夜放送やマンガは、父母達に対する子供達の理想化を幻滅に変える上で大きな役割を果たしている。
男が男たることに疲れ、女が女たることを憎んでいるようにも見える。
それならば、優しくなった男にとって、女が男のように振舞うことも、願ったり適ったり、ということかもしれない。
こういう「優しき」男の子の雰囲気的なル-ツは庄司薫が書いた「赤頭巾ちゃん気をつけて」のカオル君あたりにあるのではないかと、個人的には思っている。
1969年に芥川賞受賞のこの小説は、「モラトリアム人間」とは随分隔たりがある社会意識の高い「若者の時代」が描かれているようにみえる。
日比谷高校をでて東京大学の受験をめざすカオル君は、人もうらやむエリ-ト・コ-スを歩きつつあり、しかもカオル君自身もそれを目指してきたハズであったにもかかわらず、そういう「自己限定」に対してある種の「恐れ」を抱いているようなところがある。
そして、当時の社会にあった「学生なのだから反乱できる」という許容感、つまりある種の「モラトリアム」の雰囲気に疑問を呈するカオル君の姿が描かれている。
若者(=赤頭巾ちゃん)は「凶暴な若さ」(=狼)に呑みこまれないように、「気をつけて」という内容であった。
そうみると、「赤頭巾ちゃん気をつけて」こそは、現代の「モラトリアム小説」第一号なんかではなかっただろうか。
また、バンバンの「イチゴ白書をもう一度」の歌詞「就職が決って髪を切ってきた時もう若くないさと君に言い訳したね」は、学生という「モラトリアム」を終えることの切なさを歌ったものではなかったか。
「言い訳したね」という言葉の中に大方「予定通り」という諦め感も滲んでいるし、ズルサやアマエも潜んでいる。
「髪を切る」ということは、「モラトリアム終結宣言」のパ-ソナルな儀礼なのである。
そういうわけで、「イチゴ白書をもう一度」を、「モラトリアム・ポップス」と勝手に呼ばさせて頂きます。
「モラトリアム人間」が、何物にもならない、自分を限定しようとしない人間ならば、今日は「名」をぬぎすてた時代であるともいえ、「名」をぬぎすてることがある種の「快楽」に繋がっているようにも見える。
芸能人が一日駅長になったり、警察署の一日所長になったり、「美しすぎる」市会議員がグラビア写真にでたりする。
また、スポーツの世界を見ると、二つのタイプの人間がいるのを感じる。
あくまでも現役プレイヤーにこだわり、自己のアイデンティティを限定していこうというタイプ、一流選手でありながらあっさりとプレイヤーとしての自己をすて、「華麗に転身」するタイプである。
前者が野球の工藤公康やボクシングの辰吉丈一郎であり、後者が野球の江川卓やサッカーの中田英寿などにあたるだろう。
一般的に、名と物が分離することは、人間の場合「アイデンティティの不安定化」をもたらすが、もはやこれを「アイデンティティ拡散・症候群」とよぶにふさわしくないように思えるほど常態化している。
むしろ「アイデンティティ拡散・快楽群」であるかもしれない。
なぜならば、人々はそれを楽しんでもいるフシもあるからである。
肉食系の女子も草食系の男子をイジって楽しんでいるし、男子もイジられて喜んでいる。

ところでインターネットや携帯電話が「山アラシのジレンマ」解消の格好の道具となっていると述べたが、 それは一面であって、実際には個人個人を「匿名化」する隠れ家となり、人々を非難中傷する道具にもなっていることは、周知のとおりである。
そこで、「山アラシのジレンマ」は現代人の人間関係を表すのになかなか巧みな比喩だと思ったが、もっと奥深い「寓話」に出あった。
それはアカデミ-脚本賞をとったアメリカ映画「クライング・ゲ-ム」の中で印象的に語られる「カエルとサソリの寓話」であった。
"川を渡ろうとするカエルに、サソリは言う。君を刺したら、 僕も沈むのだから、刺すわけないじゃないか。
そこでカエルはサソリを背中に乗せて川を渡り出す。
すると、背中に痛みを感じる。
君はどうしてぼくを刺すのだ、とカエルは叫ぶ。
サソリは川に溺れながら答える。
刺すのは、サソリの性(サガ)なのだ。"

この話は、所詮人々は傷つけ合いながら生きねばならないという宿命論的な影をやどした寓話ではある。
そうであるならば、インタ-ネットのような「匿名の世界」ではサソリの毒針に警戒しつ、自身の内側に眠る「性」(サガ)にも「気をつけて」ということか。