DNAは「なる」シスト

以前テレビでよく目の下をパンダののように黒く塗った野球選手の顔が映った。
最初これを見たときに「オフザケ」かと思った。
野球の試合中に日差しの反射眩よけるために目の下を黒く塗ることが一時はやっていたのだ。
その頃新聞に次のような論評が掲載されていたのを憶えている。
光を反射しやすい青い目の外国人にはそうしたクマ塗りは効果があるのかもしれないが、もともと光を吸収しやすい日本人のような黒い目の場合には、そうしたものはあまり意味がない、と。
何で野球選手が試合中パンダ顔にならねばならんのだ。
人間は生まれた体質や体格が違うのであるから、外国で効果が上がったからといってそのまま取り入れてしまっては、様々なユガミやマサツ、喜劇までが生じてしまうばかりということだ。
手足の長さが違う日米の国民が同じようなファッションを着て同じように踊っても失笑しか買わなかったことは、「鹿鳴館時代」からよくあったことである。
1993年にアメリカ大統領に就任したクリントンは、財政再建・貿易赤字解消を旗印にかつてのレーガン大統領の「サプライサイドエコノミクス」を実施して成功したといわれている。
クリントンが女性スキャンダルに見舞われながらもどうにか任期を全うしたのはその ためである。
サプライサイド政策は、初めに「需要増ありき」のケインズ政策に対して、企業の供給側(サプライサイド)の経済環境を有利にしようという考え方で「新自由主義」の経済観とも共鳴している。
具体的には減税をすれば市場経済が活発化し、市場経済をが活性化すれば租税収入も増加するというもので、アメリカでは実際にこれが成功し財政再建にむかっていったのである。
日本政府はこのアメリカの成功をソノママとり入れた。豊かな人の懐ににさらにお金を突っ込めば経済が浮揚すると考えたのである。そして1981年と1986年に所得税減税をやり法人税減税までもやってしまったのである。あの財政難の時に!
しかし日米の根本的な相違に「貯蓄率」の違いがあった。アメリカは消費重視の国民性があるから、減税が消費刺激につながったが、日本ではそれが消費刺激に向かう効果はほとんどなく、富裕層の資産を一段と豊にするにとどまった。
さらには、景気回復の折には期待できる自然増収もこうした「税率のひき下げ」によって多くを期待できず、もはや消費税の増税しか期待できなくなったのである。その結果、ますます貧困層を苦しめることなることは間違いない。
大体アメリカの経済的な回復は、サプライサイド政策の成功というよりもむしろ景気がもともと回復基調にあったからだともいわれている。
そしてその後の奇妙な高揚感は今日のサブプライムローンという地雷を経済の土壌に埋め尽くすことになるである。
日本人の経済的DNAは、火事で財産を失うことが頻発した「江戸ッ子」を除いて世界まれにみる「貯蓄性向」の高さなのであり、それを見誤ったことが財政赤字をさらに深刻化させてしまったといえよう。

時々国ににもDNAみたいなものがあるんじゃないかと思っているが、まさか国がデオキシリボ核酸なるものを成分とするはずもなく、言葉の上での比喩にすぎないのだが、「国の成り立ち」または「建国神話」によって派生する行動の様式を国または民族のDNAとしても許されるかと思っている。
かつて日米野球の比較文化論に「和をもって尊しとなす」(ホワイティング著)という本があって大変よく売れたそうだ。この本のタイトルはそのまま日本の文化のDNAを言い当てている。
「和」は同時に環(集落)でもあり、それが大きくなって「大和」となる。
日本人が和を大切にしているのは言い古された感があるが、果たしてその表れ方はどのような点にあるのかということだ。
ところでアメリカは自由の国といわれているが、ヨ-ロッパから宗教的自由を求めたピュ-リタンが国をつくった。
また様々な事情で「過去を捨て」て新大陸に入ってくる人々にとって、まず考えた最低限のル-ルは「機会均等」ということではなかっただろうか。
ここは自由の女神の地だ。ここにくればすべてをリセットできる。ここでは俺達にだってチャンスがある。
誰でも新大陸で夢を紡ぎ努力次第で夢を実現できる社会、つまりアメリカンドロ-ムの社会なのだ。
旧大陸の差別や弾圧を逃れてきた人々はそうした「過去のお荷物」とは完全に決別したかったわけだ。
少なくともそうした気持ちの方が新大陸での生活の不安よりも大きかったに違いない。
伝統や過去こそチャンスを奪ってきたものだ。だからこそ新大陸にやってきた誰もが出発点での「機会均等」を求めた。そうでないとここまで苦労してやって来た意味なんてないじゃないか。
このことを思うとアメリカで市場万能主義が生まれたのも理解できるような気がする。
なぜなら出発点での「機会均等」は市場経済と理念的に合致するからである。
なぜなら市場は各個人が背負っているものを捨象して匿名化し、つまり取引の相手を選ばす差別することなく、誰であれ安くて良いものを提供するものを選ぶからである。そこが系列や談合の社会とは違う。
自由や平等という理念ならばヨーロッパにすでにあった。しかし出発点での「機会均等」はアメリカという新大陸でで付け加わったものである。
出発点での「機会均等」はこそアメリカ的公正、フェア-なことの原点であり、これこそがアメリカという国のDNAといってよいのかもしれない。
アメリカのいう「市場開放」とは、アメリカ人が日本と同じようにビジネスをする機会が与えられることを意味する。
日本が関税障壁をなくして貿易を自由化したぐらいでアメリカが満足するはずもないのだ。アメリカ的公正の基準はあくまでも「機会均等」ということだ。

アメリカと日本との関係で思い浮かべるのは1930年代アメリカが満州に鉄道を敷こうとした「ハリマン計画」である。遅れて中国市場に参入したアメリカは国務長官ジョン・ヘイの「門戸開放・機会均等」を宣言して、日本がすでに南満州鉄道を敷いているのにそれに並行して鉄道をしこうとしたのだ。このハリマン計画は実現はしなかったが、日米間の関係をさらに悪化させたのである。
満州におけるこの強引な割り込み方こそアメリカDNAの「機会均等」である。
アメリカのDNA「機会均等」がフェア-の原点ならば、ちょうどコントラストを形成するのが外には閉鎖的な日本の「談合体質」ではないだろうか。
日本社会のDNAは「談合」に代表されるように内に対しては「和」、外に対しては「排除」の精神というものであった。
仮にかつての建設業界で采配を振るった自民党金丸氏のようなフィクサーが居なくとも、利益は内にいる皆に順番に回していきましょうと共存共栄意識のもとに、次期の事業割り当て企業が「暗黙」にきまっていくことになるのである。
対象を匿名化する市場の競争が生じず公共事業は割高となり、建設業界の「内輪」の利益を守るために人々は高い税金を払われたりする弊害も生じることになる。
談合体質は政治と企業の馴れ合い体質にも表れてくる。
政治に金がいるためだれかが金をもってきてもらわなければならない。
企業がもってきてくれた金を私欲のためではなく、政治のために使っているのだ。企業としても特別な見返りを求めるではなく、この国で自由に商売できる環境を政治の力で守って戴きたいぐらいの意味合いで金を出しているのだから、それのどこが悪いのかということになる。
1980年代初期アメリカの構造改革要求に答えた「前川レポ-ト」の段階で、「正論」と見られたアメリカ型市場経済への移行を警戒していたエコノミスト下村宏氏の論評は今あらためて注目に価する。下村氏は池田内閣当時で所得倍増計画の実質的な立役者といってよい経済安定本部のリーダーであった。
下村氏はレーガン型サプライサイド経済学で好調のアメリカ経済の時代に、アメリカ経済の没落を予言していた。御巣鷹山の日航機墜落を見ながら不謹慎ながらもそれを連想したと懐古している。
下村氏の著書には、日本社会のDNAを訴えかのような次のような言葉がおどっていた。
人を使い捨てにする経営が日本にかてるはずがない。経営者だけが儲かる企業は会社ではない。会社の解体屋になったウオ-ル街、他人のル-ルを無視するアメリカのごり押しこそが問題だ。
系列取引は、決して特殊な習慣ではない。根回しは合理的な生活習慣だ。日本でアメリカ製品を売りにくくしていくのは、アメリカ政府だ。
実際に「ケイレツ」は「情報の費用」を考慮に入れた最近の経済学は、一般的競争よりも効率がよく理にかなっているといわれている。

世界の神話では、「つくる」「うむ」「なる」という基本動詞によって世界の発生と神々の発生が説明されてきた。 これらは一連の神々の動作のように見える。
しかしながらユダヤ=キリスト教やギリシア自然哲学では「つくる」では、往々にして作るもの(主体)と作られたもの(客体)が分離する。
 これに対して「なる」は、こうした主体の分離自立を促さないですむ。「なる」には「つくる」がなくてかまわない。では、いったい何が「なる」という動詞の意味なのか。
私は「君が代」という国歌で「さざれ石」なるものが存在するのを知った。そして実際に宮崎県の霧島神社の参道近くにある「さざれ石」を見ることができた。
もしも国のDNAの中にある「原イメージ」というものがあるとすれば、この「さざれ石」なるものがそれにあたるのではないかと思ったのである。
さざれ石とは、石灰岩が雨水で溶解し、石灰質の作用により、小石がコンクリート状に凝結して非常に長い時間をかけて固まってできるものである。
物事は次第に崩れ分散していくといった「エントロピ-の法則」に逆行するものであるが、「さざれ石」が次第に「巌(いわお)になって行く」ように物事が時間をかけてなって行くというイメ-ジだ。
ところでアメリカは「なる」文化ではなく「する」文化である。
社会が病根に蝕まれていようが、正義を実現する。差別をなくす、と断固「する」「やる」の明確な意思をもて法律を作ったり政策をおこなったりする。
もちろんそれに対する抵抗も大きく生じるが、聖書の神に基づく意志として断行する。そんなピューリタン的な正義感がある。
アメリカで社会の「差別」をなくすためには、単に雇用における差別ではなくしましょうというのではなく、もっと積極的な「アファーマティブ・アクション」なるものがあるのを知った。
各会社や公機関が人々を採用する時に、黒人系、プエルトリコ系、中国系というようにマイノリテイの採用の割合を決めるのである。
ここまでしないと差別はなくならないということかもしれないが、これはアメリカのDNAたる「機会均等」を最もよく表していると思う。
さらにアメリカ流「公正」にてらして、貿易不均衡を是正しようとしない国に対して断固制裁を加える。
自由経済の中で大きくなりすぎて新入りの「参入機会」を奪うほど肥大化した独占企業は、独占禁止法を適用して大ナタをふるいその企業を分割するところまでやる。
占領軍が日本で財閥解体をおこなったのもそうしたDNAによるのかもしれない。
アメリカは、日本に対するスーパー301条の適用やイラク派兵など「公正」や「正義」がひとりよがりな面もあるのだが、いずれにせよ彼らのDNAは「やる」または「する」ということなのだ。
ところで日本のDNA「談合体質」を説明するのにJMケインズが株式を説明する際に使った「美人票」というものを思い出す。
あるコンテストで最美人を選ぶコンテストで、選ばれた美人だけではなくその美人を投票したものにも賞金を与えるとする。すると審査員は自分が一番美人だと「主観的」に思うひとではなく、「みんなが美人だと思うだろう」という人に投票することによって利益の一部に与ることができる。
審査員は自分の意思の表明よりもことの「なり」行きを観察しているのだ。
日本は「する」に際して明瞭な意思表明はさける。「する」ことは往々にして日本人が大切にする「和」を乱すことになるので、「する」場合には根回しをしてなんとなく物事が「なる」ように仕向ける。
対立は「穢れ」であり、人々の心の明度を失わせる。そこで「する」「やる」という明瞭な意思表明または意思の出所を曖昧にして「なる」を演出し、皆も「なり」行きを見定めた上で流れに沿うようにする。
こういうDNAは、国家が自ら大きな変革をはからなければばならない時には、うまくいかない可能性がある。
例えば少子高齢化が進行してますます膨れ上がる財政赤字に対して、日本国民および政府は「なり」行きまかせではどうにもならないところにきている。
その点民主党政権の「公開仕分け」は画期的な「する」だったような気がするのだが、その「する」は大きなアダ花になってしまうだけなのだろうか。
国民のDNAが「なる」シストの国では、「マニフェスト」などは最もなじまない政治手法で、うまくいかなくて当たり前なのだ。
日本人の方向転換がきかず、なるようになる、行き着くところまで行く、という生き方はそうやすやすとは変わらない。