水をくみし僕

ヨーロッパで「啓蒙」という言葉は、信仰の迷妄から理性への目覚めを意味している。
だから、「信仰」と「理性」は対立するものという考え方である。
しかしパスカルという思想家は、「信仰」を理性の光によって照らして、「信仰」というものが「迷妄」ではないことをを明らかにした。
パスカルが、以下のように「対立項」を並べた時、現代人は何を感じるだろうか。
神が存在するということは不可解であり、神が存在しないということも不可解である。
霊魂が身体とともにあるということも不可解であり、我々が霊魂を持たないということも不可解である。
世界が創造されるということも不可解であり、世界が創造されないということも不可解である。
原罪があるということも不可解であり、原罪がないということも不可解である。
意外や、以上のように対立項を並べられると、二項が「対極」にあっても少なくとも「等価」であることに気がつく。
例えば神の創造などアホらしく思う人も、それでは逆に神の創造はなかったといいきれるかということだ。
宇宙の運行や生命の営みを突き詰めて考えると、そこに何がしかの「隠れた知性」というものを否定できなくなる。
中途半端な知性はむやみやたらと神の存在や創造を否定するが、一流の科学者の中に敬虔な信仰者が多いのはそういうことかもしれない。
唯物論者でも、死んだ人の身体をマジマジと見たときに、ここにかつて霊魂が宿り、それこそが命の根源ではなかったかと感じいったりするのではないだろうか。
人間の様々の「現実」を見た時に、何らかの「偉大さ」の根源と、何らかの「悲惨さ」の根源が同時に存在するように思えないだろうか。
そのあまりにも大きな矛盾は、「原罪」というものを想定せざるをえない。
パスカルはその点につき、
「人間の本性は堕落し神のもとから失墜しているという原理を、キリスト教が啓示するやいなや、そのことは私の眼を開かせ、いたるところにこの真理のしるしをみさせてくれる。なぜなら自然というものは、人間のうちにおいても、人間のそとにおいても、いたるところ、失われた神と、堕落した本姓をしるしているからである」と言っている。
ところでパスカルの有名な「人間は考える葦である」という言葉は、「パンセ」(=随想/1670年)の中の言葉であるが、「パンセ」はこの言葉で代表されるような書物には思えない。
パスカルは、宇宙、政治、恋愛、哲学、芸術など幅広く語りつつ、最終的には神への「信仰」を突き詰めている。
例えば政治については、パスカルはその本質を次のように語っている。
「人は、政治、道徳、裁判などに関する素晴らしい諸規則を、邪悪をもとにしてつくり、邪悪からひきだした。けれども、もともと人間のこの醜い心の底、悪しきさまは、ただ覆われているだけで、除かれているものではいない」としている。
また恋愛とは「自愛心」を甘美に刺激せしめるものとしている。
「なぜなら、彼はわれわれに、彼の長所を見せたのではなく、われわれの長所を見せてくれたのだからである、かくしてこの好意のゆえに、われわれは彼を愛するようになる」としている。
パンセがこのように人間の諸相を明らかにしているにしても、仮に「パンセ」を代表する言葉を選べといわれれば、「考える葦」よりも「隠れたる神」のほうがはるかにふさわしい。
なぜなら「パンセ」の主題は、人間ではなく、神だからである。

パスカルは、キリスト教は二つの真理を同時に教えるという。
そのひとつが、ひとりの神が存在し、人間はこの神を知ることができるということ、もうひとつが人間の本性のうちに堕落があり、そのために人間は神を知ることができないということ、である。
そしてパスカルは自分の経験からか、すべてが神の御業にほかならないと感じるほど生きた信仰をもっている人が、恩寵を失いそのような火が消えている人に、周囲をよくよく観察したら神を見出すとか、天体の運行を見ると神の業を感じるなどというと、たちどころに相手に軽蔑の念しか抱かれないと語っている。
彼らにとって、それらはあまりにタヨリナイ証拠にすぎないからである、と。
なぜなら、聖書の神は「顕わな神」とは正反対に、「隠れた神」であることとを教えている、と。
そして、パスカルは続ける。
もし暗さがなかったならば、人間は自己の堕落に気づかなかったであろう。もし光がなかったならば、人間は救いを望まなかったであろう。
そえゆえ、神が半ば隠れ、半ば現われているということは、単に正当なことであるばかりでなく、われわれにとって有益なことでもある。
というのも、自己の悲惨を知らずに神を知ることと、神を知らずに自己の悲惨を知ることは、人間にとって、等しく危険であるからである、と言っている。
ところでパスカルがいう「隠れたる神」とは、旧約聖書の「イスラエルの神、救い主よ、まことにあなたは ご自分を隠しておられる神である」(イザヤ書45章14節)という言葉にもとずくものである。
しかし個人的な感想をいえば、「隠れたる神」の地上における顕われであるイエスが、やはり神は「隠れている」かのようにふるまい、語っているのはどういうことだろうか。
イエス自身の言葉に「それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである」(マタイ13章)という厳しい言葉がある。
ここで「隠れたる神」の「隠れたる」原因は、人間の側の「心のくもり」であるが、そればかりともかぎらない。
新約聖書から「隠れ」や「顕われ」をキーワードに思い浮かぶところを探していくと、次のような聖句がある。
「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を智恵ある者や賢い者に隠して、幼子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなったことでした」(マタイによる福音書11章)
「知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである」(コリント人への第一の手紙1章)。
「むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。
この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。
しかし、聖書(*旧約聖書)に書いてあるとおり、”目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた”のである。
生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」(コリント人への第一の手紙2章)
「それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである」(ヨハネによる福音書14章)
「なぜ、彼らに譬えでお話になるのですか」。そこでイエスは答えて言われた、「あなた方は、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らにはゆるされていない」(マタイによる福音書12章)

ところでパスカルは、信じるには「理性」「習慣」「霊感」という三つの手段があるとしながら、理性の服従と理性の運用、そこに真のキリスト教があるとした。
だから、もしも信仰と理性の葛藤がある人なら「パンセ」がオススメである。
パスカル流のレトリックでいうと、もし現代人が神への信仰は「非理性的」であるというならば、同じ程度にやはり不信仰も「非理性的」である。
イエスの時代には、サドカイ派のように「死後の復活」というものを信じられない人々がいたが、現代人とて「死後の復活」を信じる人は滅多にいないと思う。
現代人は、はなから「復活」などというものを迷妄だと思い込んでいる。ところが、パスカルはピカイチの「レトリック」をもって次のように答えている。
そのまま「パンセ」から引用すると、
「いかなる理由で、彼らは復活をありえないことだと言うのか?生まれることと、蘇ることと、どちらがいっそう困難であるか?かつて無かったものが存在するようになることと、かつて存在したものがふたたび存在することと、どちらがいっそう困難であるか?存在に到達することのほうが、存在に復帰することよりも、いっそう困難ではあるまいか。
習慣はわれわれに一方を容易だと思わせ、習慣の欠如は他方を不可能だと思わせる。 なんと卑属な判断の仕方よ!」
ところで聖書によれば「エデンの園」から人間が追放され、人間は神との交わりを喪失した存在すなわち彷徨者となったのであるが、果たして「エデンの園」などというものは存在したのであろうか。
このエデンの出来事は、何か神話的なシンボリックな話のように思えるが、聖書の中では相当具体的にその位置が書いてある。
旧約聖書(創世記2章)には、エデンからから流れでて園を潤し、そこから分かれて4つの川となり、第四の川はユフラテとある。
ということは「エデンの園」は現在のイラクあたりに存在していたということになるのだが、この辺りは砂漠地帯で、「食べるによく見るに良い」食べ物に満ちていた「エデンの園」の片鱗さえうかがえない。
そして、「エデンの園」の出来事ももはや「架空の物語」にすぎないと思う人が多いかもしれない。
しかしイラク周辺に「エデンの園」があったという可能性の最大の証左こそが、世界で最も高質な石油が豊富に存在しているという事実である。
そして「失楽園」の現場こそが、いまや世界紛争の渦中にあるということだ。
炭素を含む生命や植物の死骸の堆積して石油に転じたとするならば、かつてこの地帯がいかに豊かな森の中にあったかというかということを明らかにしている。
神は人間を楽園から追放した後に「この地はのろわれよ」と語ったことと、イエスが道を歩んでいた時に実のなっていないイチジクの木を観て「この木はのろわれよ」と語ると、たちどころにイチジクが枯れた場面を合わせて思い起こす。
このエデンの園からの追放すなわち「失楽園」の意義をパスカルは次のように語っている。
「神の智恵はいう。人間から真理をも慰めをも期待するな。われは汝を形づくった者であり、汝が何者であるかを汝に教えることのえきる唯一のものである。
しかし、汝はいまではもはやわれが汝を形づくった状態にはない。われは人間を清く、汚れなく、完全なものとして創造した。われは人間を光と智恵にによって満たした。われはわが栄光とわが脅威を人間に与えた。その時には、人間の目は神の威容を見ることができた。その時には、人間は彼を苦しめる死の運命や悲惨のうちにもいなかった。
だが、人間はかかる大きな栄光を保つことができないで、不遜陥った。人間は自己を彼自身の中心となし、わが援助から独立しようとした。人間はわが支配下から逃れた。人間は自己自身のうちに幸福を見出そうと欲して。自己をわれとひとしいものとないたので、われは人間をそのなすがままにまかせた。
そしてわれは、それまで人間に従っていたもろもろの被造物をして彼に背かせ、それを人間の敵たらしめた」
パスカルは、「エデンの園」追放の出来事を、人間が神にかわって行く時代と重ねているようにも見えるが、「我思う故に我あり」で近代的自我を宣言した同時代の哲学者デカルトを次のように批判している。
「私はデカルトを許すことができない。彼はその全哲学の中で、できれば神なしに済ませたいと思った。だが、彼は世界に運動を与えるために、神に最初のひと弾きをさせないわけにはいかなかった。それがすめば、もはや彼は神を必要としない。」
ちなみに、デカルトのような立場を「理神論」という。
つまり無神論ではないが、もはや「生ける神」を信じることをしない立場である。
ところでパスカルは「隠れたる神」について次のように結論づけている。
「それゆえ、神が明らかに神的な仕方で、すべての人を絶対的に納得させうるような仕方で現れるのは、正しいことではなかった。しかし、神が、心から神を求めている人々にも認知されえないほど隠れた仕方で来るのも、正しいことではなかった。
神は、そのような人々には、完全に神自身を知らせようと欲した。かくして、神は心の底から神を求める 人々にはあからさまに表れ、心の底から神を避ける人々には隠れたままでいようと欲したので、神は神についての認識を調節し、神を求めているものには見うるように、神を求めていないものには見えないように、神自身のしるしを与えたのである。
ひたすら見ることのみを願う人々においては十分な光があり、反対の気持ちを持っている人々にとっては、十分な暗さがある。」
そして十分な光を受けたキリスト者について、「自分が神にむすびついて信じていながら、いかに傲慢でないことか!自己を虫けらに比していながら、いかに卑屈でないことか!生と死、幸いと災いを受け入れるのに、なんと美しい態度であろう!」と語っている。

パスカルの「パンセ」はいかに優れた「啓蒙的」信仰書とはいえ、「霊的」な意味では聖書そのものに足元にもおよばず、「本」のヒモを解くに値しない、ということをパスカル自身もきっと素直に認めてくれるにちがいない。
パスカルは、次のようにも語っている。
「神がみずからを隠したしたことについて嘆くかわりに、神がみずからをこれほどまでに顕した事にについて、神に感謝すべきである。かくも聖なる神を認識するに値しない傲慢な賢者たちに、神がみずからを顕わにしなかったことについても、やはり神に感謝すべきである」
ところで、神が御自身を現されるその「現し方」において非常に興味深いエピソードがある。
イエスが自らをキリスト(救世主)として公(おおやけ)にし始めたころ、親族の結婚式に出向くためにカナという町にでかけた。
結婚式の披露宴が佳境に入り葡萄酒が足りなくなったころイエスが下僕(しもべ)の一人に水をもってこさせた。
その時、イエスは一瞬でその水を芳醇な葡萄酒に変えるという最初の奇跡を行ったのである。
人々は酔いがまわったあとから出てくる酒のほうが良い酒だと大喜びする。
「どんな人でも、初めによい葡萄酒を出して、酔いがまわったころに悪いのをだすものだ。」(ヨハネによる福音書2章9節)
結婚式の出席者はこの奇跡のことを何も知らずに祝宴を楽しみ、ただその水を運んできた下僕だけが「水が葡萄酒に変わった」のを見た。
家政婦は見たではなく、下僕は見た、のである。
それにしても、イエスはなぜこの奇跡を人々の前で公然とあからさまに行わなかったのであろうか。
聖書には、婚姻後の喧騒の中、イエスが本当の御自身を現した下僕との間でどんなやりとりがあったのかは書いていない。
ただ「水をくみし僕は知れり」と語るのみである。