罪と罰の文化的背景

足利事件で菅谷さんの無罪が確定した。まったく別の人物のDNA鑑定が有力な根拠となったらしいが、マラソンで誤ったコ-スを教えてしまった椿事ですまされるはずもない、人の一生のコ-スの大半を奪い取ってしまう全くひどいものだったと言わざるをえない。
また精神をマヒさせるような密室での取り調べも大きな問題となっている。
日本社会では、何らかの「誤り」や「過ち」があった場合、その責任の追求はかなり上層部にまで拡大する傾向がある。
したがって捜査の途中で「過誤」の可能性がでてきても、上層部を守る為にその「過誤」をもみ消したり、仮に発覚してもそれが非常に遅れたりする傾向がある。
日本文化を「責任の取り方」という観点から見るとその異様さが浮かび上がる。
一つ極端な例として、昭和天皇が皇太子時代に、虎ノ門で狙撃され(失敗し)た虎ノ門事件の場合をあげよう。
その狙撃犯である難波大介の場合、当時の内閣総理大臣山本権兵衛は総辞職し、衆議院議員の父・難波作之進は報を受けるやただちに辞表を提出し、閉門の様式に従って自宅の門を青竹で結び家の一室に蟄居し、餓死自殺した。
長兄は勤めていた鉱業会社を退職した。また、当日の警視総監湯浅倉平と警視庁警務部長の正力松太郎が懲戒免官になった。
難波の出身地であった山口県の県知事に対して2ヶ月間の減俸がなされ、途中難波が立ち寄った京都府府知事は譴責処分となっている。
また、難波の郷里の全ての村々は正月行事を取り止め喪に服し、難波が卒業した小学校の校長と担任は教育責任を取り辞職した。
ちなみに現場で警備の指揮をとっていた正力松太郎は、しばらくして左翼勢力が強かった読売新聞の社長に収まる。
正力は後に読売ジャイアンツ(巨人軍)を創設するが、当時警視庁幹部として追っかけていた左翼の活動家がウヨウヨいた会社に乗り込んだというわけである。
こういう日本社会の「責任取り」の広がり様は、外国人の目からみても異様らしいが、様々な事件が発覚した場合にその追求の矛先をさけるばかりではなく、こういう「責任取り」の連鎖をどこかで断ち切るために、鍵をにぎる人物が死亡するケ-スが多い。
特に戦後の疑獄事件では必ずといっていいほど、自殺か他殺か判別しがたい死亡事件が起きている。
松本清張の映画に、ある汚職事件で上役が部下である事件のキ-マンを訪れ「家族の面倒は我々がしっかり見るから心配しないでよろしい」と暗に自殺をほのめかす場面があった。
私も、いままで起きた疑獄事件の中で、取調べの過程で亡くなった人々に、こういう「死んで頂く」ような誘導が実際におきたのではないかとついつい想像してしまうケ-スをいくつか思いつく。
そしてその結果、「悪いヤツほどよく眠る」というようなことが起きるわけだ。

ところで菅谷さんの無罪判決と時期をほぼ同じくして、日本で多くの被害者をだした「毒入り餃子事件」の犯人が中国で検挙された。
犯人は、仕事がないなどの不満をもった人物で、半ば不満をはらすために毒を餃子に混入させたという。
こういう人物は、意外と社会生活のなかで好人物として通っていることが多く、不満や怒りを上手に発散して自分を コントロ-ルできない人物であることが多い。
そして凶悪事件は、いかにもといった「凶悪犯」によっておこされるとは限らない。
社会ではまたく相手にされず大人しく生活しているような人物が「凶悪事件」をおかすことが多い。
そうした犯罪もなんとなく「挑戦的」に自己を誇示するような「劇場型」といわれるケ-スもあったりする。
そしてこういう犯人は、良心の呵責のためではなく自己の誇示のために「あの事件はオレがやった」と誰かに言いたがる傾向もあるようだ。
今回の中国毒入り餃子事件も、犯人が「自分がやった」と言ったことが広がっていき、逮捕に繋がったという。
大阪で起きた幼女誘拐殺人事件も、犯人は幼少の頃から激しいイジメをうけた人物で、事件後飲み屋などで携帯の写真を見せながら俺がやったとホノメかしたことが捜査の進展に繋がっていったという。
そこで思い出すのが「弘前大学教授夫人殺人事件」である。
1949年8月6日の夜、青森県弘前市で弘前大学医学部教授の夫人)が刃物で殺害された。
警察は現場から道路に点々と付着していた血痕を追跡し、その血痕が途切れた所にある家の男当時25歳を逮捕した。
男性はアリバイがあるとして容疑を否認したが、着ていた開襟シャツに付着していた血痕などを証拠としてこの男性を逮捕した。
そして1953年にその男に最高裁懲役15年の刑が確定した。
しかし、この事件は予想外の展開を見せる。
三島由紀夫割腹の衝撃的ニュ-スが広がっていたある日のこと、別の刑務所において受刑者達のいわば「犯罪自慢」が行われていた。
女性にイタズラして捕まった程度の犯罪で馬鹿にされたある男が、弘前大学教授夫人殺害は自分の犯行であることを「自慢」しはじめたのだ。
それを聞いていた受刑者が出所後に新聞社にタレコんだために、この事件の真相は明らかになったのである。
そういえばアメリカ映画「ショーシャンクの空の下」では、妻殺害の嫌疑をかけられてショーシャンクの刑務所に入所するが、そこに別の刑務所で妻殺害を「語る」人物を「知っている」人物が入所してきたために、主人公はあらためて「無実」を看守に訴えるが相手にもされず、ついに脱獄を敢行し真相を明らかにしていくというストーリーであった。

ヨ-ロッパの大学のある町をおとずれると、単に大学と学生街があるというのではなくて、町全体が大学という感じがする。
フランスのパリには、「カルチェ・ラタン」あるい「ラテン・クォ-タ-」とよばれる地域がある。
こういう名前が日本でキャバレ-やディスコの名前になっているので、大変な誤解を与えている始末だが、実は「ラテン語地域」という「文京地区」を意味する地域名なのだ。
ヨ-ロッパの名門大学はその多くが中世に起源をもち、神学や哲学を学ぶためには学生達は「ラテン語」を学ぶ必要があったために、「教養ある地域」としてこのように呼んだわけである。
近年ドイツのハイデルベルクを訪れた時に、学生を罰するために牢屋にいれておく、日本でいうと「座敷牢」みたいなものがあるのに驚いた。
これはある意味では大学の自治権の強さを象徴するもんかもしれない、と思った。
公序良俗に反する行為、大抵は飲酒や粗暴行為、あるいは騒音などで迷惑をかけた学生は、二週間以下の拘禁となり、官権への公務執行妨害に対しては4週間の刑が言い渡された。
もっとも、こういう行為は多くの学生にとって不名誉でもなんでもない微罪であり、勉学と同様の学生生活の一部と考えられており、パンと水だけでひもじい思いをするのは、最初のわずか2~3日にしぎず、以降は差し入れや授業出席、他の収容所への訪問ゆるされていた。
むしろこの学生牢に入ることが、一人前の学生と見られるフシもあったそうだ。
面白いのは、こういう学生牢が「グランドホテル」や「サンス-シ」などと命名され、側壁や天井には、何世代にも大学生がロウソクの煤や水彩で描いた自画像や落書きが残っているのである。
ハイデルベルクからロマンチック街道を下りローテンブルクの町にいくと、そこには「犯罪博物館」なるものがあり、罪と罰の文化をこれでもかといわんばかりに紹介していた。
「中世の宝石箱」とまでいわれる美しいロ-テンブルクの町にこういう博物館があること自体に驚いたが130以上もの陳列棚に19世紀までのありとあらゆる刑罰の道具が置いていあるのには、少々気分が悪くなるほどであった。
気持ち悪い部分の紹介はヌキにしてユ-モラスなものを紹介すると、さらし台でブタの真似をして罰せられる男のためのマスク、舌と耳の大きなマスクをつけてさらしものになるおしゃべり女を罰するお面、二人の口うるさい女をまとめて罰するための二重首かせ、そのほか、飲んベイに「着せる」酒樽などがあった。
また詐欺師に刑罰を与えるためのマスクは異様に長い舌が飛び出していたり、「汚名の笛」とよばれる悪い音楽家を罰するための見せしめ用のフル-トも興味深いものであった。
「犯罪博物館」を訪れてすぐに気がつくことは、ヨ-ロッパでは刑罰に「お面」が頻繁に使用されていることと、見せしめの為の、つまり「劇場型」の刑罰が多いということである。
こういうものは何か「仮面舞踏会」(マスカレ-ド)の文化と関係があるのでしょうか。

「罪と罰」の世界を想像していたら、映画「ラストエンペラー」の一シ-ンを思い浮かべた。
文化大革命時に紅衛兵が集団で「毛沢東語録」を糾弾のタ-ゲットとなった人物の目の前に突き出すシ-ンである。
1966年から始まった文化大革命は中国社会を大混乱に陥れた。
その文化大革命の主役を担ったのが紅衛兵であるが、彼らが「下放」と呼ばれた政策に従って農村や漁村に出向き、激しい労働に従事した。
「下放」とは、農村や漁村に下り、労働を通して「社会主義」を推進する人間に精神改造を図る運動のことだ。
ある青年の手記を読むと、孔子の子孫というだけで批判をうけひどい扱いをうけたのだという。
登校途中に石を投げられ、学校ではクラスのみんなの前に立たされて「自己批判」させられた。
何も悪いことをしていないのに、先祖である「孔子」が封建的な思想を代表する「悪者」とされ、その血をひくその青年もケシカランというわけだ。
それだけではなく、紅衛兵達は先祖の孔子の墓までも掘り返した。
彼らは見せしめの為に、死者を鞭打つことまでもしたのである。
あの映画を見ると、体に様々な「罪状」を書いた札をぶらさげて街中を歩かされるシ-ンがあった。
さらには公衆の面前で行う「自己批判」なんか見ると、密室でイタメツケラレル方がまだ救われる気がする。
1976年の文化大革命終了後に、紅衛兵達は都市に戻り、社会に復帰していく。
その中の一部は共産党青年団にいき、 再び政治志向を取り戻して行ったという。
今の彼らは、かつての紅衛兵時代の殻を脱ぎ捨て、権力者の言い分を妄信することはない。
そして、驚くほど現実主義者でテクノクラ-トなのだという。
しかし文革が残した「罪と罰」の傷跡は計り知れないものがあると思う。

アメリカという国は様々な人種が同じところで暮らしており、犯罪の捜査も人種差別と繋がりかねない危険性がある。
有罪の人間を無罪として世間に解き放つよりも、無罪の人間を有罪として扱うことほど恐ろしいことはないという認識が強くあり、「デュ-・プロセス」ということに対する市民意識は高いようだ。
すなわち裁判所で裁かれるのは「容疑者」だけではなく、「捜査当局」が適切な捜査や取調べを行ったかという プロセズそのものが裁かれるのだという。
日本にも多くの外国人が暮らし、こういう「デュー・プロセス」の意識を高めて行かなければ、新たな冤罪事件を生み出す可能性がある。
裁判員制度も始まった背景もあり、外国の人々の罪とか罰とかの文化的・歴史的背景を全く知らないままでは、ますます不安定でアブナイ社会になっていく危険性がある。
そして、こういう知識は、「プロファイリング」という捜査方法の充実にも役立つだろう。
「プロファイリング」とは、犯罪捜査において、犯罪の性質や特徴から、行動科学的に分析し、犯人の特徴を推論することである。
犯罪前の準備(情報収集等)、犯罪中の行動(殺人方法等)、犯罪後の処理(死体の処理、逃走方法等)は、犯人の性格、個性にかなり関係すると考えられている。基本的な構造は、「こういう犯罪の犯人はこういう人間が多い」という確率論である。
したがって「プロファイリング」というものは事件を解決するものではく、あくまでも「確率論的」に可能性が高い犯人像を示すものであり、捜査を効率的に進める支援ツールにすぎない。
これは、野球の世界ではカンにたよる長島野球ではなく、野村監督が得意とした「ID野球」にあたるものである。