サッカーと文化

サッカーワールドカップで、ボランチやらリベロやら聞きなれない言葉がいくつもあったが、 ある監督が語った「ファンタジスタ」という言葉は、我が「解釈可能圏内」ということもあり、一番光った言葉だった。
サッカ-ゲームにおいて、シュートやパス、ドリブル等において、テクニックの高い選手はいくらでもいようが、ゲームの中での特別な「閃き」や「想像性」を見せられる選手は、数が限られてくる。
その中でも誰もが予想もしない「芸術的」なプレーで観客を魅了する選手に対して、「想像」を意味する「ファンタジア」に人を意味する語尾「-ista」をつけて「ファンタジスタ」(=Fantasista)と呼ぶのだそうだ。
つまり彼らの「プレイ」は、ファンタジーを思わせる「夢のようなプレイ」ということだ。
例えばラグビーや大相撲に「ファンタジー」を見出すことは難しいが、最高のプレイヤーにこういう賞賛の言葉が与えられること自体が、サッカーの他のスポーツにない魅力を言い当てているのかもしれない。
ところで、たいしてサッカー知らずの私がイメージする「ファンタジスタ」とは、すごいシュ-トをギリギリの処に放つことができる選手というよりも、どこに目がついているのかと思われるほど意外な場所に、ある意味では相手をクッタようなパスを次々と繰り出せる選手のことである。
彼らは、一瞬の状況判断で正確ですばやいパスを出し、一気に窮地を打開するばかりではなく、ビッグチャンスに繋げることができる選手達である。
となると、「ファンタジスタ」とよぶにふさわしいプレイヤーはかなり芸術家と親近性があるのではないかと思っていたら、小説家・村上龍とかつての日本代表の中田英寿の対談本があることを知った。
本のタイトルは、「文体とパスの精度」である。
サッカーのパスの醍醐味は、ピット上の「文脈」(=コンテクスト)を読むことにある。
意表をついたパスは、卓抜な小説のプロットであり、何より最後のツメ(シュートまたは結末)で、そのペーパー上またはピット上の「ストーリー」は完結されなければならない。
一方が文章による表現者で、他方がサッカーというプレイによる表現者ということがいえるし、要するにサッカ-とサッカ(作家)はクロスする部分が大きいということである。
またサッカーは広義のコミュニケ-ションで、村上氏がいうに、サッカーのパスも、小説の文章も、一番大事なのは正確さで、ネラッたところに正確にパスが通る為に作家は厳密に言葉を選ぶのだそうだ。
村上氏が、中田氏と自分に共通する点としてあげているのは、コア(=核心)にはとても柔らかく傷つき易い部分があるということである。
彼らはそれを守るためにスキルを身につけてきたわけで、それがために周囲から「強い」と見られているが、コアの柔らかい部分がないとイザという時に対応できない。
つまりスキルが無い状態で自分を守るには「周囲の文脈に合わせる」しかないが、それに引き換えに自由を失う結果になる。
そこで彼らは柔らかく自由であるためにこそ、文章やサッカー技能といったスキルを磨いてきたというわけだ。
中田氏は、小さいころからよい意味で他人と違うことを考えることにして、他人が考えないアイデアを考えて、とにかく相手の逆を取ろうということばかりを考えてきたのだそうだ。
一方、村上氏は教師から「おまえがいるからクラスの和が乱れる」といわれ続けたそうである。
教師のいうことは間違っていないが、作家として生きうる、つまり常に変化を察知しそれに反応していくためには、自分で考えたことをあえて殺さずに「表現する」ことによって生かしたからであろう。

前回2006年のワールドカップで試合前にある選手が初戦で戦う「オーストラリア」に関する本を読んでいたのを記憶している。
敵オーストリアについ知りうることは何でも知っておこうというわけだ。
そしてサッカーというものは、プレーする選手の背景を映し出すスポーツであり、その選手が育った文化に影響されるということを思わせられた。
例えばその国の音楽、ブラジルの場合サンバなどの影響をプレイの中に強く感じる。
プレイの中で重戦車のように切り込んだり、軽やかなパス回しで相手のスキをつくシーンを見ると、サッカーというフィルターを通して見た各国文化の違いを見つけるのは面白いことかもしれないと思い、ネットで調べてみた。
ドイツ人は11人がそれぞれが責任を持ったプレイを遂行する。
フランスは、別名「シャンパンサッカー」といわれるくらい美しいパス交換からゴールを陥れる。組織重視のヨーロッパにあって、個人技も重視する珍しい国である。
イングランドは、ディフェンスの低い位置からトップに早いボールをぶつけたり、とにかく前へ、前へという意識が強い国で、スピードも非常に速いのが特徴である。
オランダは、組織的なサッカーをさせたらヨーロッパ随一である。比較的FWに長身、かつ足元がしっかりした選手が多く生まれる傾向がある。
スペインはサイド攻撃が非常に多い。狭いところでエネルギッシュなプレイをして局地戦に強く、サイドを大きく開き、ボランチがゲームメイクすることが多い。
イタリアは勝つためのサッカーに徹している。「カテナチオ」という言葉に象徴されるが、とにかく守って1点とって勝つというのが美学である。1-0の試合が最も美しいと考えている。
ブラジルの場合、ピッチの3分の1くらいまでは、ゆったりとしたペースでボールを回して相手にボールを渡さないが、そこから先は突然にスピードが上がり、トリッキーなプレイで相手を翻弄する。
アルゼンチンはハ-フライン越えてからグットスピードがあがってくるが、ウルグアイだったら、ボールを持った瞬間に、一発で点を取ろうとするなどである。

ところで、前回のワールドカップは中田英寿を中心としたサッカーチームへの期待感で溢れていたが、一勝も出来ず惨敗した。試合後の引退宣言をして何十分も地面に仰向けになっていたてエース中田に、誰も声をかけるものはいなかったことが印象に残っていた。
それに比べ今回の大会では、中田浩二がPKでゴールをはずした駒野をいつまでも抱きしめたシーンが印象的であった。
しかし、今回のチームへの期待はあまりなく、直前の戦いも不振を繰りかえし、監督初め相当なバッシングをあび続けていた。
その分、ひとつになろうという気持ちが強まっていたように思う。「オール フォー ワン ワン フォー オール」の精神がいつの間にか強まっていたように思うのである。
どんなスポーツにも「敵を知る」ということと、もうひとつ「己を知る」ということも大切だと思う。
ブラジルからジ-コを監督としてまねき、ジーコはブラジル流にサッカーを日本選手にあてはめようとした。
サガン鳥栖の松本育夫氏によると、ジーコは「自由な表現」ということをベースにしてチームの指揮を執ったわけだが、日本人が理解する自由とブラジル人が理解する自由には大きな違いがあり、前回の敗因はそのことがよくチームに理解されていなかったことが一番にあげられるという。
つまり、チームの戦い方の「個人の自由」にゆだねたわけであるが、自由には責任が伴なうのはサッカーとて同じだという。
松本氏によると、サッカーはでの自由は、自分がやりたいようにやるのではなく、チームにとて何が必要とするかを判断した上で、それかを可能にするいくつかのプレーの中から自由に選ぶ。
そしてそこには責任がともなう。まずは、選択したプレーを正確にする責任。ボールを離した後に周りがプレーしやすいようにスペースへ走りこむ責任。ボールホルダーに対して最短距離で受けに行く責任などである。
自由と責任となると、前回のワールドカップドイツ大会チームの戦い方と結果(大敗)が、なにか現在日本が抱える教育や政治、社会などをいみじくもシンボライズしていたように思えた。

日本のサッカーの歴史を考える上で、ドイツ人との関係を忘れてはならない。
日本サッカー協会は、1960年にドイツ人コ-チをまねいた。
このことははおそらく組織性や協調性が強い点で比較的に共通点が多いと思われたドイツにサッカーを学ぼうとしたのかもしれないが、第一次世界大戦でドイツ人捕虜からサッカー技術を学んだことも関係しているかもしれない。
当時西ドイツから招いたデットマール・クラマー氏は、1960年から64年まで日本代表を指導した人物で、「日本サッカーの父」と呼ばれている。
クラマ-氏は、日本人と寝食を共にして理解をふかめようとした。
実は上述のサガン鳥栖・松本監督も、東京オリンピック代表候補選手として、クラマーの指導をうけた一人である。その基本は次の3つだった。
Look before (前もって見る、前もって考える)
Meet the ball (最短距離を走ってボールをもらいに行く)
Pass and go (パスを出したら、すぐに空いたスペースに行く。
クラマ-氏は、この基本を繰り返し繰り返し日本人選手にたたきこんだという。
当時の日本選手の中でリフティングを10回以上できる選手はたった一人しかいなかったという。
それでも、東京オリンピックではあのアルゼンチンを破りベスト8、メキシコオリンピックでは銅メダルをとるという快挙(奇跡?)をなしとげた。
それはクラマー氏が徹底して教え込んだ基本によるものが大きいという。

2006年5月、広島湾に浮かぶ小島・似島に向かうフェリ-の中で興味深い名前を見つけた。
福岡を拠点とするJリ-グチ-ム・アビスパ福岡の元監督・森孝慈氏の名前である。
広島の宇品港からわずか8キロのところに浮かぶ似島は最近、平和学習の拠点として注目を集めている。
第一次世界大戦中、日本軍に青島を攻撃されて捕虜となったドイツ兵723名はこの似島の収容所に送られた。
ドイツ人捕虜達はここでホットドッグやバ-ムク-ヘンの作り方を日本人に伝えた。これらは現在原爆ド-ムとして知られている広島物産陳列館で紹介され一般に知られることになった。
さらにドイツ人捕虜は高度なサッカ-技術を日本に伝えた。
そして1919年広島高師とドイツ人捕虜との間で試合も行われた。日本人はつま先でボールを蹴ることしか出来なかったのに対し、ドイツ人はヒールパスなども使い日本人を翻弄した。
0-5、0-6で敗れたのだが、ともあれこれが日本サッカー初の国際試合となったのである。
この時、チームの主将だった田中敬孝氏はじめ広島高師(現・広島大学)の学生達がサ-カ-を習いに宇品港から船で20分のこの島を足しげく訪れた。
サッカーを学んだ日本人学生の多くが教師になったことには大きな意味があった。
田中敬孝氏1920年広島高等師範学校を卒業後、母校広島一中の教師に赴任し、サッカー部を指導した。同年、広島一中は神戸高商主催の大会に出場、3年連続で決勝に進出し1921年と22年に優勝した。
また、ドイツ人からサッカーを教わったことが評判となり指導依頼が届き、広島市内の学校だけではなく、姫路師範や御影師範や神戸一中など関西の学校にも指導して周り、関西のサッカーレベル向上に貢献したという。
田中氏の教え子として元マツダ社長で東洋工業サッカー部(現サンフレッチェ広島)創設者の山崎芳樹や、元三菱自動車工業会長で三菱重工業サッカー部(現浦和レッズ)創設者の岡野良定などがいる。
またドイツ似島イレブンのリーダー格であったフーゴ・クライバーは本国に帰国した後プロ・サッカ-・チ-ムを立ち上げている。
彼が作ったクラブは、バンバイルSVといいい現在は会員700人を数えている。
後の浦和レッズ監督のギド・ブッフバルトは少年時代にこのチームで8年間プレイしていたという。
ギド・ブッフバルトは、大柄な選手の多いドイツ代表においてもひときわ屈強な選手で、ディフェンダーとして活躍した。
1990年のイタリア大会の決勝戦ではアルゼンチンのディエゴ・マラドーナを完封し、西ドイツの3度目の優勝に貢献した。
ドイツクラブチームを引退後に来日し、Jリーグ・浦和レッズで1994年から97年の3年半の間プレーした。
浦和レッズではディフェンスの要として活躍し、「ゲルマン魂」をそのまま体現する闘志むき出しのプレイスタイルはチームに大きな刺激を与え、それまで弱小クラブだった浦和レッズのレベルを高めたという。
ところで似島には安芸小富士とよばれる海抜300メ-トルほどの山がある。この山に登ったドイツ人捕虜達も、波静かな瀬戸内の風景に望郷の念をかられたであろう。
私はこの山に登る途中、「いのちの塔」と出会った。似島は、瀬戸内のうららかさとは対照的に日本人にとっても重い歴史を刻んでいる。
日清戦争の時には日本人帰還兵の検疫所となり、太平洋戦争末期には原爆被災者の多くがこの島に送られた。
戦後、広島県庁の職員であった森芳磨氏は、街にあふれていた戦災孤児のための施設をこの島につくった。 似島学園である。
この学園の場所こそドイツ人捕虜の収容所があったあたりで、この学園にもドイツ兵の高度なサ-カ-技術が伝えられた。
そして似島中学校のサッカークラブは30年ぐらい前までは県下一の実力を誇ったのである。
森氏の子供達もこの学園に学びサッカ-に励んだ。
ところで森氏の次男・森孝慈は早稲田大学にすすみ現役時代には日本代表チ-ムのMFとしてメキシコ五輪に出場し銅メダル獲得に貢献した。そして、引退後85年までは日本代表チ-ムの監督を勤めた。
その後Jリ-グ設立に貢献し、1998年にはアビスパ福岡の監督に就任した。
さらにギド・ブッフバルトも監督を務めたこともある浦和レッズの監督としてチ-ムを全国制覇に導いた。兄の健二氏もサッカ-界に寄与しJリ-グの専務理事などを歴任している。
広島県似島は、Jリーグの故郷なのだ。

欧州選手のゴール前の怒涛の攻め、ボールへの執着、などを見ると、日本人とのフィジカル面との違いばかりではなく、文化や歴史の違いまでも思わせられる。また「時間の観念」も関係しているのではないかと思ったりした。
ある一定の目標に向かう直線的歴史観、円環を描く時間観念、そして螺旋的に時間が進行するという観念があり、 それがどうサッカーのプレイに反映するかまでは言えないが、関連が全くないとは言えまい。
かつて、日本人が卓球を教えた中国は、前陣速攻という独自の卓球を生み出し、世界に君臨している。
バレ-ボールにおいては、日本人コーチは世界を指導してきた。そして今ブラジルなどは、日本チームを圧倒するようにまでなった。
日本人がサッカーで強くなるためには、どんなサッカーをするかが重要で、外国人コーチにいつまでも依存するのはどうかと思う。
ただ国技である大相撲の現状に反映されるように、「国の炉心」が溶けるような状態では、なかなか「自分達のサッカー」というものを確立するのは難しいのかもしれない。
いや、それとは全く関係のないことでしょう。