フェンス越しのアメリカ

ジラード事件といえば誰しもイギリス人サッカー選手のジラードの暴行事件を思い起こす。
しかし1957年に群馬県で起きた「ジラード事件」はほとんど取り沙汰されることもないが、今日の沖縄問題をシンボリックに表するような事件であったといえる。
当時、日本各地にフェンス越しのアメリカが存在していた。フェンスの向こうには芝生と大きなカッコイイ車と、ジャズやポップスそして英語の短波放送が流れていた。
1956年「戦後は終わった」といわれたが、米軍基地がいまだに権威と権力のシンボルとして君臨していた。そんな時代に、「ジラード事件」はおきた。
そしてこの事件は同時に、アメリカが「フェンス越しのアメリカ」ではすまなくなったことを伝えていた。

ところで「フェンス越しのアメリカ」といえば、1960年代グル-プサウンズの全盛期にゴールデン・カップスというグループを思い出す。
ヒット曲は「長いの髪の少女」で、そのメロディーラインは、同世代にとっては「おなじみ」といってもよい曲だ。
このグループは、雨後のタケノコのごとく登場した他のグループとは際立って異色だった。
ゴールデン・カップスの大きな特徴は、全員がハーフであり、横浜あたりを拠点にした音楽好きの「不良」だったということである。
彼らは、基地の「フェンス越し」にアメリカに憧れながら育ったというよりも、その体内に流れる血からすればフェンス内に片足突っ込んだ存在だったともいえるのかもしれない。
そして実際に、彼らは米軍キャンプ回りをして、グル-プの名称は米兵が通いつめた横浜本牧のクラブ「ゴ-ルデン・カップス」より名づけた。
彼らはこのクラブの専属バンドになっていたのである。
このゴ-ルデン・カップスのメンバーで今も活躍しているのは、ミッキー吉野というミュージシャンである。
また、柳ジョ-ジも中途から加わっている。
ジョニー野村という人物が、ミッキ-吉野とタケカワユキヒデを結びつけ、彼らがゴダイゴというグループを作った。
ジョニー野村の父は元ブカレスト駐在武官野村三郎という一家であったが、彼自身も横浜のセント・ジョセフ・スクールに通いながらバンドをいくつか結成し、米軍キャンプに出入りして演奏していた。
この時に、後にザ・ゴールデン・カップスを結成するメンバーと交流をもち、後にゴダイゴのリーダーでキーボード担当となるミッキー吉野と知り合っていた。
野村は、東京オリンピック、大阪万博の通訳などを務めたのち、音楽出版の社長としてタケカワユキヒデを見出し、ミッキー吉野らと結びつける縁を作った。
とすると、ゴダイゴの前身が「ゴールデン・カップス」ともいえなくもない。
そしてジョニー野村プロデュ-スで、「ガンダーラ」が大ヒットした。
ちなみにタケカワは東京音大教授の音楽一家にうまれたオボッチャマで、横浜の音楽狂いの不良とはかなり遠い存在ではあった。
ゴダイゴはスチーブ・フォックスがキリスト教の伝道師としてメンバ-からはなれて、人気にかげりがでて1985年に解散した。
ゴダイゴのメンバーのバックグランドはかなり多彩で、スティ-ブの方は音楽を伝道に生かすように各地を回っている。
ゴダイゴの名前は、「GO DIE GO」つまり死んでもまた生き返って進むということをあらわしたのだが、1999年には3ヶ月限定で再結成され、NHK紅白歌合戦にも出場したことを記憶している。
「DIE HERD」の意味は、「なかなか死なない」だから、「死んでも生きる」ゴダイゴの方が「なかなか死なない」ブル-ス・ウイルスの方よりもシブトイ。
フェンスの向こう側ではなく、フェンス越しに存在した音楽バンドのゴ-ルデンカップスであったが、その後の日本の経済成長の過程で、アメリカはもはやフェンス越しにあふれ出したといってもよいだろう。
アメリカは、音楽ばかりではなくファッションやスポ-ツ、フ-ド、ライフスタイルなど日本の隅々にまでも流れ出していた。

アメリカが憧れであった時代に時代におきた「ジラ-ド事件」は、それ以後におきる基地がもたらす様々な波紋を予兆させる事件でもあったといえる。
1957年に「ジラ-ド事件」は群馬県でおきたが、この事件は貧しい住人達が実際に「フェンスを越えた」ことによって起きた事件でもあった。
群馬県の相馬ケ原米軍演習場で一人の女性が米兵の射撃練習中に殺害された。
表面的に見たら、この女性は本来禁止されているフェンスを越えて演習場敷地にはいったために、偶発的に銃弾が命中して命を落としたと見えなくもない。
では、その女性(46才)は何故に演習場に入り込むという危険を犯したのだろうか。昨今のゴルフ場でさえもボ-ルが当たる、または落雷で命を落とすという危険性があるというのに。
それは、この演習場の哀史から語らなければならない。
相馬ケ原は、もともと日本陸軍が日露戦争後に演習地にしていたもので、実射射撃で痛めつけられた茅と引き換えに薬夾拾いが農民達の副収入になっていた。茅は、つまりり炭俵編みの材料であったのだ。
その習慣は戦後、米軍の演習地になっても引き継がれていたという。
薬夾(やっきょう)は、火薬をつめるカ-トリッジ・ケ-スで発弾とともに飛散した。
ただ日本陸軍の演習地当時は、演習が終わった安全時に腕章をつけてタマ拾いのために、練習地に立ち入ることを許されていた。
事件当日、現場にはかなりの日本人が薬夾拾いに群れをなしていた。女、子供をまじえた80~90人がタマ拾いをしていたという。
演習の後には、ジェラルミン、銅、鉄、シンチュウの破片が散乱しており、それらは金に換えることができたのだ。
この演習場はある意味で「危険な鉱山」であったともいえる。
演習場敷設によって生活の術を失われた人々が危険をおかしてまでこの場所に集まり、射撃が終わるや煙が煙る中、人々は争うように薬夾拾いに群がったという風景があった。
そして事件は次のような経緯でおこった。
一人の兵士が薬夾がばらまいたかと思うと、手まねきしたかと思うと女性が飛び出した。
兵士が4メール先の壕をさし、女性は壕の中に飛び込んだ。兵士が壕から出ろと言った瞬間、女性がキャっという声をだすやいなや動かなくなったという。
事件はおこるべくして起こったともいえる。
それは貧しい農婦が野鹿か野兎であるかのように殺された事件で、人々に大きな衝撃を与えた。
米兵の朝鮮戦争でササクレだったこころの目に、ズタぶくろをひきずり、硝煙も漂う中で薬夾拾いに夢中になっている農民達の姿はどのように映ったのだろうか。それは戦場を思い起こす一シ-ンのようにも映ったかもしれない。
また米兵にとってはその一撃は、ゲ-ムで放った一撃のようでもあったかもしれない。
日本側はジラ-ドの第一次裁判権を主張したが、それに対してアメリカの在郷軍人団のあいだから轟々たる批判がわきあがった。
一応、前橋地裁で始まったスピ-ド裁判で、懲役5年の求刑に対して、懲役3年執行猶予4年というあまりにも軽い判決となった。
ジラ-ドは、判決を待ち構えていたように、事件の渦中に婚約した日本人妻をつれて、横浜港から祖国へと帰っていった。

沖縄などで奪われた広大な土地こそ、かつて農民の生活の場であったのであり、「ジラ-ド事件」は人々は身にせまる危険を感じつつも「基地」に依存して生活をしていかざるを得なかった未来型「沖縄の縮図」であったといえなくもない。
日米安全保障条約には、第六条を根拠に「日米行政協定」というのがあって、米軍が日本の安全保障上に必要とあらば、いくらでもその土地を提供しなければならないことになっている。
軍事演習基地を指定すれば、そこの住民はどんなにそこを生活上の拠点にしていようと、その場所を提供しなければならない。
それは生活の拠点を失うということである。
そして沖縄の場合には、米軍基地が全土地の75パーセントをしめており、アメリカ軍の存在は、日常において「外国の」「これから戦場に向かおうとする」「武装化した」兵士という三重の脅威と日常的に接しなければならない。
さらには、沖縄は唯一陸上戦が行われたところ、すなわち沖縄は太平洋戦争末期の住人が米軍と戦って相当な血を流した当の相手という点からすれば、市民にとっては「四重」の意味で大きな脅威を強いられる存在であるのだ。
1945年4月、アメリカ軍55万人が沖縄本島に上陸したが、これに対して旧日本軍は、本土決戦に備えるために時間稼ぎをし、本土の兵力を温存するために沖縄を「捨て石」にした。
約2ヶ月間の地上戦で犠牲者は約19万人に達した。このなかには一般の県民約9万4000人に達した。
これは、当時の沖縄県民の4人に1人に相当する。犠牲になった人々には、「生きて虜囚の恥を受けることなかれ」という方策の下に、集団自決に追い込まれた者も多かった。
こういう歴史背景の下に、沖縄県民の意識がたとえ同じ基地の町とはいっても、本土の住人と相当異なることは当然である。
1995年9月、米兵による女子小学生への暴行と日米地位協定を理由とした米軍の容疑者引渡し拒否に、沖縄県民の怒りが想像以上のものであったことを思いおこす。
3000人以上の地主が米軍用地の再契約を拒否、大田知事も代理署名を拒否した。
政府は裁判によりこれに対抗するとともに、1997年4月には県民の反対を押し切って法を改定し、使用期限後も基地の継続使用を可能にした。
基地による被害は甚大である。軍用機の騒音や戦闘機の墜落、ヘイリコプターの事故、米兵の犯罪などがあっても日米地位協定があるために日本で裁かれることも無く、本国に送還されてしまうケ-スもある。
しかし、沖縄は基地をなくせば失業率が二倍になる、基地を受け入れ経済振興をはかろうという保守派の勢力との間で揺れ続けた。
結局、1996年9月には条例に基づく県民投票が行われ「日米地位協定の見直しと沖縄の基地縮小」に賛成する票が約90パ-セントをしめた。
この県民投票には拘束力はないものの、この結果は日米両首脳に伝えられその年、普天間飛行場や楚部通信所の区域返還を移設条件付で認め、ついに2006年、普天間飛行場の移設先について、日米両政府は、沖縄県内の名護市にV字型滑走路を建設することに合意した。
となると民主党が「普天間基地県外移設」などと実効性が薄いことを約し問題をコジレサセたことは、沖縄県民の気持ちをますます翻弄し続けているといわざるをえない。

九州・小倉には戦争中に軍港があり、米軍は原子爆弾を投下する予定であったが、天候が悪く長崎投下に急遽変更したという経緯がある。
松本清張は占領時、朝鮮戦争に転任予定の黒人米兵が集団(300人)で小倉で強姦・略奪・殺人等を行った実際の事件を題材に「黒地の絵」を書いている。
1951年正月、米軍が38度線を越えてきた中共軍のため、再びソウルを放棄したことを伝えた。
小倉に増派された黒人兵達は、いつも自分達が戦争では最前線に立たされているということをよく知っていた。
”彼らが到着した日も、小倉の街に太鼓の音は聞かれていた。黒人兵たちは不安にふるえる胸で、その打楽器音に耳を傾けていた。
音は深い森の奥から打ち鳴らす未開人の祭典舞踏の太鼓に似通っていた。黒人兵士たちは恍惚として太鼓の音を聞いていた。彼らは鼻孔を広げて、荒い息遣いをはじめていた。”
ここから起こる事件も、フェンスから溢れ出たアメリカの一つの貌があった。
フェンス越しのアメリカは、たとえフェンス越しであっても人の一生を変えてしまうに充分なものがある。
基地なしのは寺山修司や村上龍という作家は誕生しなかったであろう。
先日、NHKテレビで九州小倉出身の草刈正雄の郷里を歩く番組があっていた。
草刈の父親はアメリカ軍の兵士であったが、日本人の母親が草刈を妊娠していた最中、朝鮮戦争で戦死した。
草刈が生まれる前のことであり、母子は四畳半一間の生活を身を寄せるように送った。
貧しい家計を少しでも楽にしようと小学生より新聞配達と牛乳配達の仕事を掛け持ちして登校した。
少年時代は現在の小倉北区昭和町あたりで過ごし、小倉祇園太鼓にも参加している。
中学卒業後は本のセールスマンとして働きながら小倉西高等学校定時制に通い、軟式野球部のピッチャーとして全国大会に(控えとして)出場している。
ふとしたことで出会ったバーのマスターの強い勧めもあり、福岡市で開催されたファッションショーを観に行った際スにカウトされ、17歳で高校を中退し上京した。
1970年に資生堂専属モデルとしてデビューし売れっ子モデルとなった。
草刈氏は、故郷のことを忘れようと、上京後は小倉との繋がりを失っていたが、近年は「自分の土台はふるさと小倉にある」ことに気付き、地元で行われる祗園太鼓の舞台などにも積極的に参加するようになっている。
そして「朝鮮戦争で戦没した国連軍兵士を祀るメモリアルクロス」のある足立山から小倉の眺めを楽しむのだという。