自分さらし

逆境から立ち上がる人は多いが、見えざる処で耐えるのならまだしも、苦境を人に「晒し」たり「晒される」のは本当にツライことだ。
しかし、それが転機(or宣伝)となって成功に導かれる人も、タマにいる。
武田鉄矢の「母に捧げるバラード」(1973年)も最近の植村花菜の「トイレの神様」も、売れず追い詰められた彼らの「自分さらし」ではなかったか。
それが人々の「予想外」の共感を呼んだ。
ピアニストのフジコ・ヘミングの人生の転機は、1992年のNHKの特集番組「フジコ~あるピアニストの軌跡~」だといわれている。
しかしこの番組の注目すべきは、成功の暁に語る「一エピソード」として紹介されたのではなく、不遇なママを人々に晒したことが転機となった。
もっとも、NHKの関係者が帰国後小さなコンサートを開いていたフジコのピアノ演奏を聴いて感動したことが、番組づくりの契機となったのではあるが。
そしてこの番組が思わぬ大反響を呼んで多くの人々がフジコの音楽を聴くために、CDを買いコンサートに押しかけるようになった。
しかし個人的には、フジコの本当の「転機」はそれ以前にあったように思う。
なぜなら世界的ピアニストを目指していた彼女が、その「転機」がなければ、おそらくは自身の不遇を紹介するようなテレビの取材などに応じることはなかったに違いないからだ。
フジコは聴力を失うなどコレデモカといわんばかりの不運に見舞われながら20年以上も見知らぬ土地で生きてきた末、世界的ピアニストになることを諦めざるをえない状況にあった。
そしてそれは、帰国前スウェーデンで何かの事故に巻き込まれたその時に起こった。
その時フジコは言葉が充分に通じず、間違って精神病院に送りこまれるハメに陥ってしまう。
病棟で、気持ちを紛らす為にピアノを弾いたら、ベットで叫んでいた患者達がピアノの回りに集まってきた。
そして彼らが安らかな表情になり、涙を流し始めたという。
そしてこの時、フジコが自分が何の為にピアノを弾くのかという「本当の意味」を悟った。
つまりこの時、彼女がこれから目指す音楽の方向性を見出した瞬間だったともいえる。
それはとても単純で、コンクールで賞をとるのではなく人々を幸せにするピアノを弾くという事であった。
そしてそれは、技巧にはしるのではなく自分を「晒す」ということでもあった。

ところで最近、NHKの番組でで「わたしが子供だったころ」という番組を見た。
有名人が自分が小さな頃に育った街や学校を訪問し、育ってきた思い出を語るという趣向の番組である。
その時見た番組は、バンド「THE 虎舞竜」の高橋ジョージというミュージシャンが、自分が育った故郷の宮城県の栗原という田舎街を訪れるというものであった。
個人的には、高橋ジョージの「人」も「音楽」もイササカモも好きになれないが、中学時代にこれほどキツイ試練を課せられた人はザラにいないかと、つい番組に見入ってしまった。
家庭では父は厳格すぎ、母は自由きままで折り合いが悪く喧嘩ばかりしていた。
離婚話となり母は突然娘を連れて出ていってしまう。
高橋は母親に、父か母かどっちにつくかと聞かれて、今まで見たこともない悲しげな父親の顔を見て、父親につくと答えてしまった。
その時、大好きだった母親は大泣きに泣いたという。
これくらいの「家庭不和」で心に傷を受ける中学生ならママいるが、その後高橋をトンデモナイ事件が襲う。
ギターが上手で、皆のリクエストどうりに曲が弾ける高橋はクラスの人気者であった。
音楽の時間、先生が用事で教室を離れた折り、学級委員の高橋は担任からクラスを静かさせることを一任された。
ところが高橋は、自分を含めて大騒ぎをしてしまい、教室に戻ってきた音楽の教師に大目玉をくらう。
そして、口元にアザができるほど殴られるのである。
ここまでならヨクアル話であるが、なんとその夜学校が燃え、出火した場所が音楽室であったのだ。
高橋らは近所の騒ぎで気づき友人と火事を見に行き、当日先生に怒られたこともあって、「ザマ~ア見ろ」と叫んでしまう。それを周囲で聞いた者がいた。
また運悪く、コブシをあげている高橋の姿が現場写真に撮られていたのだ。
高橋は放火の「第一容疑者」となり、父親がどんなに息子を守っても、連日警察が訪れたった一人きりの高橋を問いつめるようになる。
高橋の人気を妬んだ者の仕業かもしれないが、田舎のことだけに「放火犯」高橋君の噂はひろがり、皆が高橋に対してぎこちなくなり、遠ざけるようになっていく。
それは、それままでの自分とあまりにも大きな「落差」であった。
ある日、自殺を考え線路に寝転がって遠い電車の音を耳で聞いたりするうちに突然怒りがこみ上げてきて、こんな事の為に死ねるか絶対に皆に謝らせてやる、と思い直し「マーチ」なんかを口ずさみながら自宅に戻ったこともあったという。
高橋はあの日を境に危険な人物としての友人の前に自分を晒さざるをえなくなるのだが、並の中学生では耐えられないようなことであっただろう。
高橋は地元の高校に進学するが、ミュージシャンを志して高校を中退して東京に出る。
長い月日、売れない時代が過ぎ、34歳でようやく「ロード」が大ヒットしてその名を知られるようになる。
ちなみに「ロード」は、高橋にあてたファンである少女の手紙を歌にしたものだったが、歌詞の中の「なんでもないことが幸せだったように思う」というのは、当時の高橋自身の気持ちでもあったようだ。
番組では、その高橋が故郷が近づくにつれて、逃げ出したいような気持ちに襲われるのが伝わってきた。
そして、自分が放火したと疑いをかけられた中学校で、後輩の生徒たちの前で「ロード」を演奏し、長年の心のツッカエがようやく晴れたという感慨を語っていた。
高橋にとって故郷は「鬼門」であり、ようやくそこに踏み入れ、自分を「晒す」ことができたということだったのかもしれない。

とても人にアピ-ルできないような時や場面こそが、かえってアピール(自己宣伝)に繋がるということもある。
歴史の話に転ずるが、戦国時代の3人の武将・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のうち、信長も秀吉も大きな「負け戦」をしたことがない。
ところが家康は若い頃、「三方ケ原」というところで武田信玄に「大惨敗」を喫している。
武田信玄が上洛のために家康の領内を通過するが、家康としてはいかに相手が強大であっても、領内を黙って通らせるわけにはいかない。
そこで若き家康は果敢に戦いに挑むのだが、当時最強といわれた武田軍団に軽く蹴散らされてしまう。
しかし家康という人物の面白さはその後の行動である。命からがら(脱糞しつつ)敗走する家康であったが、浜松城に戻った家康は、絵師を呼んで恐怖にゆがんで引きつっている「自画像」(「しかみ像})を描かせている。
ちょっと漫画チックに見える絵で、こんな絵を書く絵師は常識的には首が飛ぶはずだが、あえて一番無残な時の自分を描かせているのだ。
ちょうど女子レスリングの連勝記録をもっていた吉田沙保里選手が連勝が途絶えた時の「銅メダル」だけを部屋に飾っているそうだが、家康もそんな「自戒」の意味で絵を描かせたのかもしれない。
しかし三方ケ原を戦った時の家康は弱冠30歳ぐらいで、吉田沙保里選手のような「連勝記録」などあるわけではなく、それはほとんど「初陣」での大敗北だった。
そして家康は、人目につくところにこの絵を置き、この無残な姿が人目にさらされることを特に気にしている風でもなかった。
だからこそ、我々はこの「しがみ像」を今日でも見ることができるのである。
通常、権力者は「肖像画」を少しでも見栄えよく描かせて、カリスマ性をまとおうとするのが普通である。
例えば「ナポレオンのアルプス越え」は、有名な馬上の絵であるが、ナポレオンが実際に乗ったのはラバだったのだが、白馬に乗った自分を描くように画家ダヴィッドに注文を付けたという裏話がある。
しかし限りなくブザマな家康の肖像ではあったが、家臣団は負けるとわかっていても果敢に野戦に挑んだ家康という若き大将の「真価」をこの絵で知ったのかもしれないし、また皆で支えなければならないと思ったかもしれない。

さて歴史における「晒す」「晒される」出来事を思い浮かべたら、ダントツに江戸時代におきた長崎の「二十六聖人殉教」が思い浮かぶ。
1597年の長崎西坂のキリシタンの殉教は、日本のキリシタンの真価を宣伝する「好機会」となった。
この殉教の26人は、長崎で捕らえられたキリシタン達ではない。
京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて市中引き回しとなり、一行は長崎で処刑されよという命令を受けて大阪を出発し、歩いて長崎へやってきたのである。
幕府側の意図としては、人々が多く集まる場所で処刑を行い、「みせしめ」の効果を高めようとしたのだが、実は人目のつく長崎・西坂での処刑を希望したのは、殉教者の側であった。
西坂は、JR長崎駅に近いところにあるが、それはちょうどイエス・キリストが十字架で刑死したゴルゴタの丘に似ている、というのがその理由であった。
信者達は、幕府の意図とは裏腹に、殉教の姿こそは信仰の偉大さを人々に証(あかし)する絶好の機会であると考えたのである。
また長崎市内は混乱を避けるため外出禁止令が出されていたが、4000人を超える群集がそこへ集まってきていた。
一行は全員、槍に両脇を刺しぬかれて殉教した。
この時、長崎は壮大な「劇場」と化したのだが、作家の小島信夫は、こうした場面につきブラック・ユーモアが効いた傑作「殉教」を書いている。
処刑する者も、される者も、見る者も、皆処刑を待っている。
処刑される者は一刻も早く天国に行くことを望んでいるが、執行する側はそう簡単に天国に生かせるものかと、信者達をジラスというおかしな話である。
そして、殉教者達のネライは当たったといえる。
なぜならこの出来事以来、禁教にもかかわらず信徒は増え続け、1637年には天草四郎を中心にして江戸時代最大の一揆である島原の乱がおきている。
パライソ(天国)に憧れ死をも恐れぬ信徒達の反乱一揆は、現地の大名では抑えきれず幕府軍まで派遣してようやく鎮圧している。
この事件の話は長崎に滞在していたルイス・フロイス神父によりヨーロッパに伝えられた。
この報告を受けたローマ教皇は涙を流し悲しみ、盛大な祭典をローマで行い、26名の殉教者を聖人に列し「日本二十六聖人」と称せられたのである。

最後に、昭和の時代に話を転じたい。
昭和天皇は戦争中軍部などにより「現人神」に奉りあげられていたので、その実像は国民の目から覆われた存在だった。
しかしその「真価」が最もよく表れたのは「現人神」としてではなく、人間として自分を「晒された」時であったと思う。
それは、昭和天皇が終戦の混乱期に全国を巡った「巡幸」の時であった。
戦前、皇室関係者は7500人ほどであったが、GHQの指示により6000人が食糧も仕事のない街にほうりだされた。
ある裁判官が、法に対する誠実さを自ら貫徹したために餓死したほどの飢餓と貧窮の時代である。
GHQは皇族に食糧割当を実施したが、天皇はそれに手をつけることを許さず、解雇職員の老齢者に廻させた。
一方職員削減により、皇居の広い庭には雑草がはびこり、その小道も乾季にはチリとホコリと小石で埋まったというニュ-スが広まった。
全国の村々で寄合が開かれ、有志が召集され、村々や島々から東京へ群れをなして清掃にやってきた。
これより毎年、約二万人の日本人が皇居清掃に上京し、皇居清掃はあたかも「巡礼」と化した。
天皇の全国巡幸の意図は「終戦喪失状態に彷徨せる国民の鼓舞」ということであったが、天皇の心の内に、人々の上記のような働きに対する恩返しの気持ちが働いたのかもしれない。
天皇は戦時中、「雲の上」の存在として演出され、一般国民がその姿に触れることなかったが、GHQのナンバー2のホイットニー准将はこう考えた。
「天皇がその貧弱な姿を国民の姿をさらせば、天皇がカミ等といった虚妄は完全に打ち砕かれる」と。
つまり、GHQが意図する「天皇の神格」の否定と、連合軍が「お膳立て」したいわゆる天皇の「人間宣言」が意図するものとピタリと合致するハズであった。
天皇は、かつての軍服で白馬にまたがった大元帥の勇士から、背広に中折帽とういう庶民的な服装に変貌し、人々に近づいて気軽に声をかけた。
そして、そのぎこちない会話や帽子を上にあげる独特のしぐさがかえって国民には新鮮に映り、戦争で疲弊した国民は、そうした天皇の姿に親しみと感激をもって天皇を迎えたのである。
また、工場訪問の際には、天皇は労働者の間をぎこちなく歩き回り、手を差し伸べて握手し、労働者のしどろもどろの言葉に耳を傾け、「ああ そうですか」と繰り返し返答した。
こうした天皇の全国巡幸はホイットニー准将の予想とは異なり、天皇の権威を貶めるどころかしだいに「天皇の人気」を高めていくように思えた。
1946年2月世田谷の兵営住宅を慰問された時に、貧民窟で37年間、社会事業に専念してきた賀川豊彦が巡幸の案内役を勤めた。
その賀川が一番びっくりしたのは、上野駅から流れるようにして近づいてきた浮浪者の群れに、天皇がいちいち挨拶した時であった。
友人にでも話すかのように、2、3歩のところまで接近し、「あなたは何処で戦災に逢われましたか、ここで不自由していませんか」と一人一人に聞いていったという。
そこで思い出すのが、1923年におきた虎ノ門事件である。
昭和天皇は皇太子時代に皇居・虎ノ門付近で無政府主義者により狙撃されているのである。
内閣総辞職、警視総監らも辞職する大事件であった。
天皇は危機一髪で難を逃れたが、その時の「恐怖心」が完全に癒えていたとは思えない。
また、天皇制反対で弾圧された「左翼」勢力も解放せられていた時代だけに、天皇としても「決死の覚悟」がなければ全国巡幸などできなかったはずである。
そして天皇は無防備であるにもかかわらず、できるだけ国民に近ずこうとした。
神である天皇の「人間宣言」などというのは、神と人を対置させるいかにも「欧米的な発想」である。
字義通りの「人間宣言」だったら、天皇は国民にウソをつき裏切った人間となってしまう。
その後制定された日本国憲法では天皇は「象徴」と位置づけられたが「象徴」という言葉の定義はどうあれ、個人的な感想をいえば、天皇は自分の姿を人々に「さらす」事によって「現人神」から民衆が長年心に抱いてきた「天子様」に戻ったのではなかろうか。
実際に見る謙虚な態度や温厚な物腰に見る天皇の姿は、民衆が長年おぼろげに抱いてきた「天子様」のイメージからそう大きく乖離するものではなかった。
だからこそ国民が敗戦ですべてを失った時に、イデオロギーや立場をこえて、天皇を歓迎し受け入れたのではなかろうか。