日本ガラパゴス化

日本は完全にグローバリゼーションの渦に呑みこまれつつあるのかとと思いきや、意外な形で真逆の動きもでている。
その典型例が、産業の「ガラパゴス化」である。
ガラパゴス化とは、生物の世界でいうガラパゴス諸島における現象のように、技術やサービスなどが日本市場で独自の進化を遂げて、「世界標準」から掛け離れてしまう現象のことである。
もともと、技術的には世界最先端を行きながら、国外では全く普及していない日本の携帯電話の「特異性」を表現する為に作られた新語である。
何しろ日本の「ケータイ」は、「電話つき」携帯といいたくなるくらい、多様な機能がついている。
そういえば最近、「携帯電話」という言葉でさえ聞かなくなった感じがする。
日本の「ケ-タイ」に見るメ-ル・サービス機能の充実は、それほど文字に親しまない外国人の間では、普及しないのかもしれない。
電話機能で充分という外国人が、日本で流行る「ケータイ小説」なんてことを知ったら、それこそヘビー級の衝撃を受けるでしょう。
それに比べて最初から「世界標準」をネラった韓国のサムソン電子の携帯電話は、世界で売れに売れている。
日本の産業面における「ガラパゴス化」は、携帯電話にとどまらず、他の業種でも起きているそうだ。
建設業では、日本の耐震技術は世界最高らしいが、コストが高すぎて世界では使えない。
また非接触ICカ-ドつまり「電子マネー」は急速に市場を拡大しつつあるが、日本の電子マネー運用会社が世界標準とは異なる技術を採用しているため、日本以外では通用しない。
日本のデジタル・テレビ技術は世界最先端といっていよいが、日本が推奨する技術を採用することを決めたのは、今のところブラジルだけだそうである。
高性能・高画質を求める日本人の嗜好の高さが、こういう「ガラパゴス化」の原因ともなっている。要するに、日本人はこれらの分野で「高品質」に適応しているのだ。
こうした日本の産業の「ガラパゴス化」を聞くと、最近アメリカのある会社で解雇された女性の話を思い出した。
この女性は、「美人過ぎる」「魅力的すぎる」という理由で解雇された。
美女の存在が職場の意欲を盛り上げることはあっても、胸キュンの頻度が高すぎると仕事に手がつかなくなることもある。
彼女は、「暗黙の」社内標準を超えたとしても、「法的」にはどうなのか。
おかげで、この女性はマスコミに整形の事実を公表したが、職場環境を考えて整形目標を「ハリウッド女優並」ではなく、「蒲田のビーナス並」とか「浅草のクレオパトラ並」ぐらいにしておいたら、良好な職場環境を維持できただろうに。
要するに何が言いたいのかというと、日本のケ-タイは高機能すぎる。
したがって世界標準では「お呼びでない」のである。

ガラパゴス化は、技術やサービスなどが日本市場で独自の進化を遂げたこと、つまり「ハード」面でのガラパゴス化を意味するのだが、最近気になるのは日本における「ソフト」面でのガラパゴス化である。
ソフトといっても、コンピュータ・ソフトではなく、「精神面」のガラパゴス化のことである。
大体、日本の企業はごく最近まで、伝統的な「イエ」や「ムラ」の要素をとりこんで独自の進化をとげた「ガラパゴス経営体」だった。
これは日本人の精神面での「ガラパゴス化」を土台としたものだったが、市場万能主義を「構造改革」要求などで押し付けられ、その良い面をたくさん失った感しがする。
広く深く精神面を見ると、日本におけるガラパゴス化は、相当昔にまで溯らなければならない。
日本そのものが西洋でも東洋でもないユニークな進化をとげた「心のガラパゴス諸島」といっても良い部分がある。
だいたい自分の国の先祖を「天孫」などと称している国は、世界中探してもどこにもない。
また思い浮かぶのは、「仏教の日本化」である。
もともと仏教は戒律が厳しいものだが、鎌倉仏教のように「題目」や「称名」を唱えるだけで救われるとしたのは、アジアの仏教圏でも日本だけである。
仏教は妻帯を禁じているが、「専修念仏」の親鸞はそれを覆してしまった。
もともとインドの仏教は「輪廻」や「解脱」を中心にした哲理であったが、中国から日本に伝わると先祖崇拝の要素を多く取り込み、日本で近世以降は「葬式仏教」とまでいわれるようになった。
江戸時代に武士階級の必須学問となった儒教も、かなり「日本化」されたものであった。
儒教は、孔子の原書では「乱世」をひきおこすような無能君主は斥けてよいことになっているが、幕府の御用学問がそんなことを教えられるるはずもなく、都合よくケズッテしまった。
そして親子の「孝」よりも主従の「忠」が重視されるるように変容した。
実は、「儒教の日本化」には、すでに「日本化された仏教」からの影響も強いのである。
そのことは、徳川期の儒学の先駆者が藤原惺窩という相国寺という禅寺の僧侶であったことに関連するのかもしれない。
日本化された儒教の中に、獏とした「諦観」が見られるのは禅宗の影響であったり、「男尊女卑」が含まれるのは、女性を不浄とみなす仏教観念の影響であったかもしれない。
日本人の信仰心の中には、それ以外にも「心のガラパゴス化」を示すいくつかの態度や行為が見られる。
西洋人も日本人も亡くなった身内のために祈ることはするが、かわいがっていた犬の霊を慰めるために祈るのは、日本人だけである。
また、一年間世話になった針を供養する儀式や、また子供達が遊んだ人形などをそのまま捨てずにお寺で焼くという儀式も、西洋でも東洋でも考えられないことである。
さらに、スクラップにされた船の「霊」を慰めたり、職場に祭壇のようなものを置いたり、新しい橋や道路を開設するときに、神主を呼んでお祓いをしたりすることも日本独特のものである。
こういう信仰意識にもかかわらず、自分を「無神論者」と思っている比率も、日本は世界の中で突出している。
キリスト教は、鎖国時代に日本では禁止されたが為に、その「日本化」はあまり考える余地がないように思われがちだが、福岡県筑前町(旧大刀洗町)の今村カソリック教会周辺では、それが典型的な形で見られた。
江戸時代初期にキリスト教が伝わり、禁止令によって陸の孤島と化した今村の隠れキリシタンの信仰は独自の進化がすすみ、殉教者をだしながらも明治時代になってやってきた宣教師に「汝らキリシタンに非ず」と宣言されたという悲劇が伝わっている。(現在は、宣教師の指導によりそんなことはありません)
長崎の離島の隠れキリシタンは、「オラショ」といわれるラテン語の意味の分からない言葉を祈り続けたために、その「祈り」はすっかり日本語化して独特なものになっていたという。
ある宣教師によると、突然に「サカナベントウ」などという言葉が登場し、後にこれはラテン語の「サクラメント」(=「秘跡」)という言葉であったことが判ったそうだ。
「マリア観音」信仰に見られるごとく、日本の隠れキリシタンの信仰こそはキリスト教「ガラパゴス化」の最たる例だと思われる。
個人的には、こういう日本の「心のガラパゴス」の土壌に、10世紀も続いた「縄文」の時代が独自の無意識層の形成となって、大きくあづかったのではないかというを感じがしている。

産業の技術(ハード)は、人々の欲求に基づいて「進化」していき、逆に人々の欲求(ソフト)をも変化させていく要素もあるのだろう。
インターネットや携帯を片時の手離さずに扱っている人を見ると、そう思わせられることがある。
日本の「多機能携帯」は、そういう「ユニークな心の進化」つまり「心のガラパゴス化」の原因になっているのではないかという気さえしてくる。
簡単な電話機能だけの携帯だったら、そうしょっちゅう扱う必要もないのである。
ところで韓国のサムソン電子が世界の家電業界や携帯電話の市場を席巻している理由は、当初から規模の小さな国内市場ではなく、世界市場をターゲットにしてきたからである。
国内市場規模において2倍の日本では、世界市場を視野に入れる必要がなかったともいえる。
携帯の普及の他に、日本人の「心のガラパゴス化」に関連があると思われる事象に、アメリカの大学留学者の割合がかなり減少していることがあげられる。
2010年4月、米ワシントン・ポスト紙が「2000年以来、米大学における日本人学生数が減り続け、学部生の数が52%減少、大学院生の数が27%減少した。昨秋、ハーバード大学の学部に入学した日本人はたった1人だった」と報じた。
同紙によると、日本人が減少する一方、中国・韓国・インドからの留学生は倍以上に増加し、さらに日本人減少の理由を「学生の安定志向が高まり、冒険心が薄れたため」とし、日本は「草食動物の国」に衰退した、とまで結論づけた。
となると、今流行の「草食化」という言葉は、日本人の「心のガラパゴス化」を表す一つの象徴ともいえる。
例えば1992年度と2010年度のハーバード大学における日本、中国、韓国の3カ国の学生数は以下の通りである。
日本人:174人 → 107人
中国人:231人 → 421人
韓国人:123人 → 305人
これは学部と大学院を合わせた数字だが、18年間で日本が174人から107人と約6割に減少しているのに対し、中国は約1.8倍、韓国は約2.5倍に増加している。
中国人韓国人の数が近年増えたのは、両国とも以前と比べ経済的に豊かになり、人々が海外に出る余裕が持てるようになったことがあげられる。
中国や韓国では、トップレベルの高校生は海外の大学に行くのが当然だと考えられており、日本人が東大を目指す感覚で、海外の一流大学が進学先候補に入っているのである。
韓国は日本より少子化が進み、国土も小さく資源もない。だからこそ、トップレベルの優秀な人々は、海外への志向が強い傾向があるともいえる。
先述のサムスンなどは海外の大学卒業者をどんどん採用している。
日本からの留学生が減少しているのは、少子化や大学全入時代、バブル崩壊後の経済不況などの要素もあげられるが、 ハーバード大学学長は来日時の感想に、「日本の学生や教師は海外で冒険するより、快適な国内にいることを好む傾向があるように感じた」と語っている。
また脳科学者の茂木健一郎氏が「日本の大学のガラパゴス化」に警鐘を鳴らす記事を書いている。
その中で茂木氏は、大学で学問をする意味は世界のどこでも通用する普遍的な知性を獲得することであるが、近年多くの大学が就職活動を重視して一年生からキャリア教育をする風潮があることを指摘した。
もし、このような「就職予備校化」が蔓延していくならば、大学で身につける「スキル」が日本の企業のニーズにのみ特化したものとなり、「学生のガラパゴス化」につながると警告している。
大学が学問的探求心を学生に植えつけることを放棄すれば、日本人の能力の劣化をもたらし深刻な打撃を国家に与えることになると論じている。
ビジネス面を見ると、世界中の奥地に「よう、こない辺鄙な処にまでおわしまんなあ」と思うぐらいの処にも、日焼けした日本人商社マンがいたりした。
彼らは自社の商品の宣伝マンであったばかりではなく、「日本の宣伝マン」であったのだ。
しかしその処に、今や中国人や韓国人がいる。
快適な日本の環境にのみ適合した日本人が、あまりに辺鄙な処に転勤命令が出たりしたら、会社なんか辞めちゃえと思う社員もいるだろうが、行ってみたら現地で病気になる可能性もあるのではなかろうか。

日本における携帯電話はその初期から独自技術を多く採用していた。
事実上の世界標準であるGSM・EDGEが日本ではまったく使われず、日本独自のPOC方式が使われていたことで「独自」の端末やサービスが普及し、国外の携帯電話機メーカーと通話会社の日本進出を阻むとともに、反対に日本の携帯電話メーカーの世界進出をも困難にしていた。
日本で独特の進化を遂げた商品が最終的には淘汰されることは市場原理からすれば自然であるとしても、日本の生き残りの観点から見れば大きな問題であるのも明らかである。
そもそも生物というのは、置かれた環境に対して適応した結果としてあるのであって、ある種の進化とそれとは別の環境に住む種の進化に優劣を見出すこと自体が、おかしなことかもしれない。
しかし、極めて特殊な環境に適応した生物が自らの環境の変化(破壊)と共に新しい環境に再適応できず絶滅する、あるいはより広範囲の環境に適応してきた外来種が土着の環境に導入され繁殖すると共に、駆逐され消滅するのは進化論においては「自然の摂理」である。
草食化して何が悪いという若者が多いように、日本がガラパゴス化して何が悪い、という考えもあるかもしれないが、問題は「自然の摂理」とはまったく異なる、国家や国民の存亡の問題ということである。
ところで、日本の国力の衰退因のひとつに「少子化」が云々されているが、「出生率の低下」は、「母性の喪失」による子供への無関心や子供嫌いが増えているからという説がある。
しかし、これは子供の虐待や育児放棄ばかりがニュースに出ることによってもたらされる、とんでもない錯覚であると思う。
我々が、自分が育った時代と比較して実感する今日世代の最大の特徴は、むしろ親と子の「密着度の強さ」なのである。
親子関係の密度というのは、子供の数が少なく共に生活する時間が増えた核家族の増加とともに、高まってきたのだ。
生存競争が激しい現代にあって、親が自分の幼い息子や娘達の将来についてほとんど考えないのであれば、子供を何人作ろうとあまり重要なことではないだろう。
大概の親は身を犠牲にしてでも「手塩にかける」ように子供を養い育てる過程の中で、今までとは違う何かがおき始めているように思う。
また、野外で遊び相手がいないとか塾通いで遊ぶ時間がないとかで運動能力も低下し、そうした社会環境の変化が日本人の進化の過程に緩やかな影響を与えつづけているに違いない。
外で遊ぶにせよ、最近では少年野球やはじめ様々な少年スポーツは、最初からコ-チや親が深くかかわり、管理された形で行われる。
それは、我々が少年の頃、日暮れまで空地や田んぼでやった「泥んこ草野球」とはまったく質の違うものである。
その延長線上にあるのか、親が子供の放課後の部活動を毎日のように見に来るケースも多いようである。
こういう風景は、外国にはあまり見られないのではないかと思う。
子供の数が少なくなり、他者との関係を自然に取り結ぶ機会を失いつつある結果、高性能多機能の「ガラパゴス携帯」は、むしろ必需品であるのかもしれないと思ったりする。
そしてそれを利用する人間も、独自の能力的進化がすすんでいく。
つまるところ「ガラパゴス化」とは、日本という特殊な自然環境や特殊な生活条件でしか生きづらくなる人種を多く生みだしているのだが、大変動も予想されるアジア圏にあって、国の存亡に関わる問題となる可能性があるということである。