ブ-タンの内なる声

私は日々、中国の発展を文字通り「肌身」に感じながら生きている。
これは少々屈折した言い方で、黄砂に吹かれて中国の環境の劣化を肌身に感じながら、徒歩80分の通勤をしているということである。
目のフチがはれ、肌の痒みが日々増している。そのうちパンダになるかもしれない。
去年まで、そこまで有害感はなかった。そこで一句。
"朝やけや 肌に染み入る 黄砂かな"
(この歌、一体何を言いたいのでしょう?)
「通勤地獄」は従来、満員電車や満員バスに言われる言葉であるが、今や徒歩や自転車通勤者にもいえるようになるかもしれない。「黄砂地獄」である。
ちょうどオゾン層が破壊されたオーストリアでは、陽に当るということは紫外線をモロにあびることであり、「野外活動」「屋外活動」とは不健康を表す言葉となったことに近似している。
逆にオ-ストラリアでは、屋内生活こそ健康の保証なのだ。
これは、ひとえに中国の規制少なき経済発展のせいであるが、その中国が何を血迷ったのか1959年「王制打倒」の名目でチベットに攻め込んだ。
そのチベットから逃れた人々はインドやネパールなどヒマラヤ周辺に離散したが、ある人々はブ-タンという国に逃げ込み、そこにチベット仏教を伝えた。
近年の調査で、このブータン王国が世界で最も「幸福総量」が大きな国の一つになったのだという。
富を追い求める中国からすれば、かなり皮肉な結果である。
なぜならば、ブータン王国は中国とは正反対の方向に進みながら「シャングリア」または「ザナ・ドゥ」といっていい理想に近い国を実現したのだから。

何が人の幸せで不幸せなのかは一概に言えないが、人間が小さな頃から繰り返し繰り返し聞かされる言葉は、幸せの総量の内とても大きな要素を占めているのではないだろうか。
それは人の一生を呪縛する。その声は、親や教師が具体的に伝えるというばかりではなく、街の風景、新聞の広告や公園の落書き等にも詰め込まれたメッセージだったりするので、それは間断なく伝わってくるものなのだ。
一般には、「お前は特別な子」「一番にならなくっちゃ」「みんな期待しているから」「男はつよくなくっちゃ」「女は優しくなくちゃ」「ダメな子ねえ」「学歴がないと世間を渡っていけない」「お父さんみたいになっちゃうよ」などである。
(ちなみにMy motherの口癖は、「アンタは何を着ても似合わん」)
それらの声は、世間体だったり、競争をアオッタリする言葉がほとんどと言ってよい。
そして人間の本来持つ豊かな生命力は、そうした声によって枠をかけられたり、かき消されたりするのではないだろうか。
つまり国家がどんなに人権や自由を保障しても、そういう声がいつも生命力を阻むのならば、人間は真に自由ではありえないし、少なくとも「解放された存在」たりえない。
そんなことを思わせられたのが、2008年の世界の幸福度調査でブータン王国という名前さえ知らない国が世界のトップ近くとなったからである。
人間の究極的な幸せとは、様々な雑音に負けることなく人間の内なる声をさぐり、出来る限りそれに忠実であり得ることではなかろうか、と思わせられる。 チベット仏教は小乗仏教や大乗仏教のいずれにも属さない独自の仏教で、「密教的」な要素の強い仏教であり、特別に戒律が厳しい宗派でもない。
宗教学者・中沢新一氏によると「チベット仏教は心の自然状態にすっ裸のまま直接的に踏み込み、そこに安らうことによって、心の解放(解脱)を生きている身体のままで、その身体を通じて実現することである」のだそうだ。
その一方で、「自然状態にある心」とは、心が自由に流れ、なにものにもしばられるところなく自然成長をとげていく状態のことをさしている。
密教は深層意識の領域をくまなく探求した末に、この心の自然状態がそうたやすく実現できるものではないということを同時に教えている。
中沢氏によると、密教は欲望を殺すのではなく「ある特別な方法」(修法)で浄化するものだそうだ。
その修法の入り口こそ自分の内面を深く探ることに他ならないという。
そしてブータン王国での幸福度とは、あたかも「国是」として「内なる声」に聞き従う環境を整えようというとてつもない「実験的な精神国家」を創り上げてることにより保障されているように見える。
その表れの一つが観光客の規制である。観光客は特別な許可を得なければこの国に入れない。
通常の国家ならば観光客が来て外貨を落としてくれることは大歓迎であり、現在の中国ならば安い労働力をもって外資までも呼び込もうとするだろう。
しかしブータン国は、人々の生命力の発現を妨げるような「メッセージ」を注意深く避け、それらを「仕分け」しているかに見える。(仕分けも色々ある)
国民が小さな頃から耳にするのは、自然界が発する音とチベット仏教の僧達の祈祷の声なのだ。
ブ-タンに住む人々にとって重要なことは、自然界の中に様々な「兆候」を読み取ろうとするので、いつも心と耳目を研ぎ澄ましていなければならないということである。
この国の経済力を支えているのは、水力発電で得た電力を隣のインドに売ることによって得た外貨である。
また茶や高山で育つ薬草は高い値段がつき、それを売って外貨を稼いでいる。
それで電気や水道などのインフラも高山地帯であるにも関わらず、意外と充実している。
ブータンでは国民の必要に応じてインフラの整備を行っているが、彼らが最も大切だと感じる価値観を壊すほどの開発に対しては、それを明確に拒否するだけの価値観をもっている。
積極的に太陽光電池が導入され、通信網についても衛星通信や携帯電話が活用されている。
ある意味では、むしろ先進的な部分があるのだが送電線や産業道路を造る事については慎重な態度をとっているということである。
この国の「幸せ」を物語るエピソードはいくつもあるが、その一つが「王制」に対する人々の意識である。
2008年にブ-タン王国は王政から民主制に移行した。これだけ聞くと反動的な王制と人々の民主化運動を連想するが、とんでもない。
むしろ開明的な王室が率先して国民を説得して選挙制度を導入し、民主体制へ移行したという経緯があるのだ。
ところが驚いたことに、国王の説得にもかかわらず国民の90パーセントが政治の民主化に反対したのである。
その理由は、自分達は国王を慕い敬愛し、そして国王のために働いている。しかし、選挙によって選ばれた政治家が国王よりもよい政治家をするとは思えないし、自分達はそのような人のために頑張ろうとは思わない。
しかしブ-タンでは、今までどうり王制を維持して欲しいという多くの国民の声を押しきって、”国王主導で”立憲君主制に移行した。
また次のようなエピソードがある。
電気の通じていないある村に電気を通すODAの案件が持ち上がった。
しかしその村には昔から鶴が飛来して巣作りをするという事情があった。
もし電気を通すために高圧電線を張り巡らすことになれば、飛来してきた鶴がその高圧電線に衝突し、鶴は巣つくりのためにこの村に来れなくなるのではないかという議論が沸き起こった。
結局、村の人達はそれでは鶴がかわいそうだと考えて、村に電気を通す計画を撤回してもらうことにしたという。
ブータンは、GNPでもGDPでもNNW(国民純福祉)でもない「総幸福量」という概念を国王自らが作った。
この幸福総量には、伝統や自然を大切にするという項目があり、その先見性には驚かされるが、この尺度でブータンが世界一となれば、これは単純に国王の自己宣伝とも受け取られがちだ。
しかしイギリスの学者が別の「幸福尺度」を作成して、世界の国々を位置づけたらブ-タン王国は北欧諸国にほぼ近くに位置し世界8位となった。
ブータンはアジアでは1位であり、世界の90位に位置する日本との違いを大きく際立たせているのは、チベット仏教に見られる「内なる声」に対する意識なのかもしれない。

日本人が伝統的にもつ自然や生命を育んでいこうという意識のことを「内なる声」とするならば、その声は資本主義社会における「市場の声」の声高さにすっかりかき消されている感がある。
そのことを最もよく現わすのが、長崎県の「諫早湾」の開拓である。
諫早湾は元来非常に恵まれた海で、その干潟は「宝の海」といっていいところであった。
漁民達はその豊かさを「魚介類がわいてくる」と表現していたのである。
水俣病の場合には、主犯はチッソという大会社であり、行政が問題を隠蔽することによって被害者を救済するという責任を果たさなかったということだが、諫早湾の干拓は行政そのものが環境を破壊し、海を破壊する主犯格となっている。
行政の執拗な「くりかえされる」説得で、漁民達はそこまで干拓反対を唱えるのは住民のエゴではないかとか思い始め、また補償金の一部積み増しによってしだいに干拓同意にむけられていった。
この辺がブ-タンの「内なる声」政策とは全く違う。
水門を下ろし堤防を締め切ったところで、豊饒な干潟が干上がってしまった。
億を超えるカキが死に真っ白なカキの死骸が一面が広がった。
湾内の「潮受け堤防」の内側には8漁協があって、8漁協は干潟の埋め立てによって、完全に漁業権が消滅するのだが、外側の4漁協は十分生き残れるという前提で、埋め立てが行われたのだ。
堤防の外側の有明海の住民なども事前に環境アセズメントをやるからという形で説得されて同意するが、この環境アセズメントは体裁を繕うだけのもので、アサリもカニもとれず、タイラギはほぼ全滅になってしまった。 諫早の海は濁っている。干満時の強い潮の流れでかき混ぜられ、浮泥が上に上ってくる。海が攪拌され、それによって酸素が供給されるようになっている。
大きな潮の満ち引きによって、絶えず空気と水がかき混ぜられて海が浄化されて生きた。
その有明海で、いまや赤潮(死骸の集積)が発生しているのである。
有明には韓国から大勢の人がやってきた時に、韓国で行われていた潜水器漁法を伝えた。この漁法の特徴は常に海の底を見て、その凹凸からどこに貝がいるかを見分けるものであった。
ここの漁民達は海ばかりではなく海の底の大切さも知りつくしていたのである。
漁師達はかつて一緒になって干拓反対を唱えていたのに、漁ができなくなった漁民は公共事業の仕事をもらい、干拓の仕事を手伝っているという哀しい姿がある。
つまり漁師達の心の絆までも引き裂いてしまったということだ。
また緊急融資をうけて漁協からお金が下りてくると、相互不信の中にお互いが保証しあうという「債務」で繋がるというイヤナ関係が生まれている。
普通に漁業をやれれば、相当な収入をあげることができたのに、その漁業権を実質的に奪われつつある湾内の漁民の要求により、1993年不漁の原因を調査すべく漁場調査委員会が作られたが、その結果はいまだに発表されていない。
結果の恐ろしさを公開することが出来ない程の事態が進行しているのか、役人の失態を明らかにするのがこわいのか、その惨状を誰よりも知っているのは地元民である。
有明の漁民達は、諫早の漁民達を金をもらって海を売ったと冷ややかで干拓反対運動にはあまり協力的ではなかったが、有明でもカニ、のり、などが不漁となりようやく異変に気がつき始めたのである。
何のために干潟を殺したのか、農地を増やすのが目的ということだが、現在なお減反政策が行えわれている時に一体誰がここの農地を買うのだろう。
むしろ、他の用途に転用すれば国や自治体の税金で広大な土地が生まれるということを期待してのことか。
予算を使うことによって伴なう需要によって景気を刺激する。
海を埋めるとなれば土砂も運ばなければならない。クルマも動いてそのこておで需要も生まれる。
農民や漁民の声を無視した役人の役人による役人のための干拓という他はない。
海の漁業資源は浅瀬や干潟といった浅いところで育っているのであり、干潟を埋めるということは その地域の海全体を殺すことにもつながっているのである。
諫早湾の水門がおりた1997年9月14日を「干潟記念日」と名づけた。
ちなみに水門のことを地元の人々は、ギロチンと呼んでいる。

日本の神話などに「高天原」(たかまがはら)という言葉が登場するが、日本人の意識に向こうにに「高山」の記憶でもあるのではないのかと思ったりする。
アマテラスの弟スサノウは乱暴者だったが、5代目のオオクニヌシの時代に、アマテラスは孫のニニギに地上の支配を命じる。
そこでいきなり高天原から攻め込むのではなく、三度に渡って高天原から使者が派遣され、説得工作が行われる。
そこでオオクニヌシは国を譲る決心をし、それを受けてニニギが高天原から降りてくる。つまり天孫降臨が行われるのである。
かくして降臨した曾孫に当るのが日本の初代天皇たる神武天皇ということになっている。
天界の神々が日本の支配権を得たのはあくまでも平和な交渉のうちに行われたということである。
そういえば、大野晋という国語学者が日本語がチベット地域にある「タミール語」に近いということを論じたために大きな話題をよんだことがあった。
「高天原」も溯ればこうしたチベット辺りにあったのではないかと思わせられるのである。
日本は中国から仏教を学んだ。日本には気が遠くなるくらい長く続いた縄文の時代に「神道」にいたる意識を育んだのだが、仏教により「山川草木国土悉皆仏性」という信仰も持つに至った。
さらに「神仏習合」という独自の神学をもって、日本は「神の国」であると同時に「仏国土」という意識さえもつようになったのである。
近代以降それらの意識を切り捨てるに対応するかのように、社会が荒んでいったように思える。
日本もブ-タンに倣って「内なる声」政策、言い換えれば雑音の「仕分け」政策が必要なのかもしれない。