母性と氷点

NHKの「八日目の蝉」は母性をテーマとした感動的なドラマであった。
あらすじを簡単にいうと、不実の愛に苦しんだ主人公は男性により堕胎を勧められ手術を受けるが、失敗して不妊となる。
しかし、ふとしたことから相手の赤ちゃんを奪って3年半にわたる逃亡生活を送る。
その間、身寄りのない老女との出会い、傷ついた女だけが集う施設での暮らし、そして、そこで得た知己をたよって小豆島へ渡る。
そこで「母」「娘」は、瀬戸内の穏やかな波をながめながら、妻に逃げられ子を失った男性と知り合い、 助けられながら、平穏で幸せな生活を送る。
結局女はフェリーで逃亡する直前に捕まり、5歳間近となったかつての「赤ん坊」は、本当の両親の元に戻される。そして、「母」は8年の実刑判決をうける。
刑務所で語る「かおる 赦してくれますか」という主人公の言葉が切ない。
それから15年後、「娘」は成人し、かつての「母」を思い起こすために小豆島への旅に出る。
一方、出所した女は、小豆島を望む本州のフェリー乗り場にいた。
しかし「母」「娘」の二人が、本当に「出会う」には、「時間の経過」はあまりにも重すぎた。
「八日目の蝉」は、現代という「母性」が問われる時代に、男性には到底わかりえない「母になること」に、真っ向から向き合ったドラマといえる。
ところで脇役の坂井真紀、岸谷五朗の演技は大変素晴らしいものがあった。
ちなみに「八日目の蝉」の意味は、蝉の寿命は一般的に七日なので、八日目に生きた蝉は他の蝉とは違う経験をするということだという。

「八日目の蝉」のストーリーの切なさはどこかで何かのシーンを見た時の「切なさ」に似たものだった。
そう思いつつも、なかなか思い出せないでいた。
しかし先日、朝の目覚め時にようやく思い出した。
あるテレビ番組で見た「動物の衝撃映像NO1」のシーンである。
その衝撃映像とは、動物の世界の衝撃の「母性」を映したものだった。
アフリカのサバンナで一匹のメスライオンが、群れからはぐれたオリックスの赤ん坊を見つけた。
オリックスの赤ん坊は何とか逃げようとモガクが、どうしようもなく捕まってしまう。
さて、メスライオンはオリックスの赤子をムサボリ喰らいはじめるかと思いきや、子のお尻や背中をナメ始めたのだ。
オリックスの赤子は恐怖のあまり完全に「氷結」状態になったのだが、メスライオンはその子にありったけの愛情を降り注いで、リラックスさせようとしているように見えた。
さらにメスライオンは、その子を自分の居巣に招きいれるのだが、それでもオリックスの子はできるかぎりメスライオンとの「距離」をつくりつつガタガタと震え続けていた。
そうして時間だけが過ぎて行くのだが、その数時間後に信じられないことが起きた。
オリックスの子は震えながら意を決したようにメスラオンに近づき、メスライオンのお乳をつっつき始めたのだ。
ライオンはややとまどいながらも仰向けになって体を開いて子の行為を受け入れるが、どうツッツイてもお乳は出ないようであった。
しかしその後雨が降り出し、母ライオンと子オリックスは互いに体を温め合うように肩を寄せい合うようになった。
その時の「母」「子」の表情はとても安らかな表情で、本当の親子のようなとてもイイ雰囲気を醸すようになっていった。
しかし、どうしても乳の出ない「母」ライオンはエサを求めて「子」を居巣に置いて行くのだが、その間「子」の本当の母オリックスが現れ、子は母オリックスにくっついて草原に戻るのである。
そしてエサをくわえて居巣に戻ったメスライオンは、いなくなった子オリックスを鳴き声を出しながら捜し求めるというシーンであった。
ああ、切ない。

以前、多摩動物園の飼育係であった方の書いたエッセーを読んだことがある。
現在は動物学者の吉原耕一郎氏が書いた「出産と別れ」と題したエッセーで、ここにもとても切ない「動物の話」が紹介してあった。
私の年代(五十代)の人は、昔「バヤリース・オレンジ・ジュース」の宣伝に四匹のチンパンジーが登場したのを憶えておられる方もおられると思う。
そう、赤く大きなリボンをしたチンパンジー達が芸達者なコントを繰り広げるというコマーシャルだった。
彼女らチンパンジーこそが、多摩動物園の「チンパンジー村」の母体となったフォー・ガールズであった。
動物園にとってチンパンジーの新たな生命の誕生は喜ばしい事だが、その収容能力にも限度があるので、他の動物園から養子の口がかかると、次々にもらわれていくことになる。
もらわれていくチンパンジーは、行き先の動物園でスムーズに生活できるように「人馴れ」させた方がよいとうことから、専門の調教師に、きちんと調教されてから送り出されるという。
その場合、彼らにチンパンジーとしの自覚がまだ完全にできず、生活の上でも母親を絶対的に必要とする生後12ヶ月から24ヶ月の間に母親から「引き離す」作業が必要となる。
この時期だと、短時間で調教師を「母親」のように慕うようになるからである。
この時期、チンパンジーはヌイグルミのように可愛い時期で、おそらくは母親とて同じ気持ちであろう。
そんな時に、母子を引き離すのだから多摩動物園でその「引き離し」作業をする飼育係の仕事は、ヤリキレナイ思いがつきまとい、最もツライ仕事であったっという。
ところが動物の直感とは恐ろしいもので、飼育係がどんなに何食わぬ顔で仕事をしているフリをしても、そうした「母子分離」の作業に入る日にかぎって、母チンパンジーは不安げに子供を抱きしめ、なかなか放さないという。
そこで母子を「落とし戸」のある部屋に巧に誘導して、エサを子供に与えてちょうどいい距離ができたところで、「落とし戸」を落とすのだという。
そして子供を捕まえるのだが、子供は予想外の出来事に悲鳴を上げながら暴れまわる。
その声を聞いた母親は狂ったように落とし戸に体当りをかまし、満身の力でそれを押し上げようとする。
「私の子供を返して」といわんばかりの「叫び声」が動物園中に響き渡るのである。
そして飼育係にとって、子チンパンジーを調教担当係に渡した後に、母親とはじめて対面することもイヤな仕事の一つだという。
母チンパンジーの目の中に、一瞬の「怨み」を見出すのが怖い。
つまり長い間かかって築きあげた信頼関係を、子供の二の腕を掴まえた瞬間にすべて失ったのであり、まともに母チンパンジーと目をあわせることが出来なくなるそうだ。
その時、母チンパンジーは飼育係の顔を見るなり正座をして、両手を合わせて差し出し、哀願するように頭を何度も下げるのだという。
鉄格子の向こうに正座したチンパンジーの姿は、子に対する母の愛そのもののようであり、近寄りがたい「神聖さ」があり、むしろこちら側が正座して謝りたい気持ちにさせられるそうだ。
我が子を取られたチンパンジーは、どんなに願っても子供が返って来ないと悟ると、今度は「虚脱状態」に陥ってしまう。
飼育係の命令には従うのだが、感情が全く伴なわないロボットのようで、エサも食べなくなり、独りボーッとしていることが多くなる。
仲間も心配そうに集まって毛づくろいをしてあげるという。
虚脱状態を脱した母チンパンジーは、それでも飼育係に対してけして反抗的な態度や攻撃的態度を示すようなことはない。
しかし飼育係は、以前の関係からすると「何か」が失われているのを感じるという。
それとも、飼育係の側の心がチンパンジーに投影されてしまったということだろうか。
吉原氏によれば、何度も子供から引き離された母親の心の傷は深く、飼育係との間で一度できた心の溝、閉ざされた心を、もう一度解きほぐし開かせるにはとても長い年月を要するのだという。

角田光代原作の「八日目の蝉」は、今から40年以上も前に書かれ同じくテレビ・ドラマ化された三浦綾子原作の「氷点」を思い出させるものがあった。
二つのドラマの対照点や類似点をあげると、まず両方とも南北の美しい自然が舞台となっていることがあげられる。
「八日目の蝉」は瀬戸内の温暖小豆島が主な舞台で、「氷点」は旭川を中心とした北海道の大地が舞台となっている。
両方のドラマとも、誘拐事件がかかわっており、それぞれ、夫の側と妻の側の不倫がかかわって「誘拐事件」がおきていることも共通している。
そして、母親が他人の子供を育てるという「母性」と「罪」とがテーマとなっていることである。
ただし「氷点」の場合には、「母性」というよりも、殺人犯の子を育てるという設定であり、クリスチャンである作家三浦氏はこの小説を「原罪」を主要なテーマとしたと自ら語っている。
「八日目の蝉」では蝉の命はわずか一週間だが、他人の子を奪うという「罪」を背負いながらも残された猶予を「子」と共にに必死に分かち合おうとしつつも「別離」という「悲劇」が予想される。
一方、「氷点」では自分の実の子を殺した殺人犯の子を育てるという、「ス」の人間ではとてもできそうもないシチュエ-ションの中で、やはり「悲劇」の結末が予想される。
ただ、「八日目の蝉」の主人公の罪については、子を奪われた被害者の家族は別としても、周りの人たちは気づいていたのにせよ、あえて「過去を聞かない、問わない」という優しさがあった。
またこのドラマを見た人も、よく考えると間違っていることだが、 主人公の「罪」の大きさとか被害家族の心情はどこかに置いておいて、主人公が「捕まらないでくれ」とどうしても願わずにいられない。

「氷点」を書いた三浦綾子氏は、女学校を出て7年間、小学校の教師をしたが、その後13年間肺と脊椎を病んで療養生活をしていた。
療養生活の中で夫と出会い結婚して4年目、41才の時に朝日新聞の「一千万円懸賞小説」に、この「氷点」をもって応募した当選したのが、小説家としてのスタートとなった。
「氷点」のあらすじをいうと次のとうりである。
終戦まもない昭和21年、旭川市在住の医師辻口啓造は、妻の夏枝が医師の村井靖夫と密会中に、佐石という男にによって3歳の娘ルリ子を誘拐され殺されるという不幸に見舞われる。
不幸な出来事の中で、夫・啓造は妻・夏枝を強く詰問することもできず、内に妬心や恨みをつのらせていく。
突然、ルリ子の代わりに女の子が欲しいとねだる夏枝に対し、夫啓造は、裏切られた妻への復讐のため殺人者・佐石の娘を養女として育てる決心をする。
佐石は獄中で自殺し、娘は乳児院に預けられていたのだ。
しかし夫は妻にそれとは知らせずに殺人犯・佐石の娘とされる幼い女の子(陽子)を引き取る。
殺人犯の子に抱く愛情と憎しみを縦ジマ、妻に対する愛情と憎しみを横ジマに織り込んで、洞爺丸事件で、浮き袋を他人に渡して死んだ宣教師の話などを織り込みつつ、話は急展開していく。
啓三の殺人者の子供をもらって育てるという選択の中には、聖書の言葉「汝の敵を愛せよ」という重いテーマを自らに課すということがあった。
しかし啓三は次のようにも語っている。
「本心は、陽子(敵)を愛することではない。夏枝に犯人の子を育てさせたかったのだ。おれを裏切り、村井と通じた夏枝のために、あの日ルリ子は殺されたのだ。おれはその夏枝が陽子の出生を知って苦しむ日のために、あの子を引きとったのだ」
「殺人犯」の娘は陽子と名付けられ、夏枝の愛情を受けて明るく素直に育つ。
ところが陽子が小学1年生になったある日、夏枝は書斎で啓造の書きかけの手紙を見付け、その内容から陽子が殺人犯・佐石の娘である事を知る。
夏枝は陽子の首に手をかけるが、かろうじて思いとどまる。
しかし、もはや陽子に素直な愛情を注ぐことが出来なくなり、学芸会でおそろいの服を買わなかったり、卒業式の答辞を書いた紙を白紙にすりかえるなどの意地悪をする「鬼母」になってしまう。
(個人的には、この「答辞」のシーンが一番のハイライトにみえました。昭和40年代の旧「氷点」の主役には内藤洋子、昭和50年代の新「氷点」の主役には島田陽子が抜擢され、それぞれこのドラマで「女優」デビューをはかっています。)
そうした出来事が続いた後に、陽子は自分が辻口夫妻の実の娘ではない事を悟り、心に傷を負いながらも、明るく生きていこうとする。
辻口夫妻の実の息子である徹は、常々父母の妹に対する態度を不審に思っていたところ、両親の言い争いから妹が血のつながりがないということを知ることになる。
両親に対するワダカマリを抱きつつも、徹はなんとか陽子を幸せにしたいと願うようになっていく。
その気持ちは次第に異性に対するそれへと変わっていくが、陽子のために自分は兄であり続けるべきだという考えから、大学の親友である北原を陽子に紹介する。
陽子と北原は互いに好意を持ち、文通等で順調に交際を進める。
しかし、陽子が高校2年生の冬、「母」夏枝は陽子の出自を本人と北原に向かって暴露し、陽子は翌朝自殺を図る。
その騒動の中、陽子の「遺書」によって本当の出自が明らかになるという話でした。
表題の「氷点」は、単に継母に冷たい仕打ちを受けたという表面的なものではなく、人間が生まれながらにして持つ「原罪」そのものを「氷点」としたと解釈すべきである。
陽子の遺書には、次のような心境が綴られていた。
「現実に、私は人を殺したことはありません。しかし法にふれる罪こそ犯しませんでしたが、考えてみますと、父が殺人を犯したということは、私にもその可能性があることんなのでした。
自分の中の罪の可能性を見出した私は、生きる望みを失いました。
どんな時でもイジケルことのなかった私。陽子という名のように、この世の光の如く明るく生きようとした私は、おかあさんからごらんになると、腹が立つほどふてぶてしいことだったことでしょう。
けでども、いま陽子は思います。
一途に精一杯生きてきた陽子の心にも、”氷点”があったのだということを」

「八日目の蝉」では、堕胎を強要して自分を不妊にした憎い男の子供を奪い取って無条件の愛情で包み込む母親の姿が描かれた。
「氷点」では、自分の娘を殺害した殺人犯の子を譲り受け、美しく育つ娘に愛情を抱きつつも「殺人犯の子にこんな境遇が許される」のか、と葛藤する母親の姿が描かれた。
とにかく、「憎しみ」を超えた圧倒的な「母性」と、「母性」を背景にして一層に際立ってくる「憎しみ」の相を描いた二つの小説は、フィクションとはいえボーっとした男(私?)にもかなりインパクトがあった。
世界人類の共通項は皆「母親出身」ということです。
もしも、母親から「お誕生日おめでとう」と言われたら、今後返事は「ありがとう」ぐらいで済まさないで、与えられた命に感謝しつつ、「御出産日、誠に御苦労様でした」と返したいものです。
そんな 気になりました。