人うけしない神

世の中では、聖書に記された様々な物語は歴史的な事実に基づくものではなく、単なる「作り話」のようなものだと思っている人が多いと思う。
聖書は例えば「千夜一夜物語」のように、単なる空想に基づいた話に過ぎない話、あるいは歴史的事実にさえ基づかない「寓話」であり、単なる教訓的な物語として読んでいる人も結構いるかもしれない。
これは、聖書の考古学研究の実態がほとんど知られていないからといってよい。
最近、「死海文書」がネット上に全面公開になったというニュースが出ていた。
1947年イスラエルの死海北西の要塞都市クムランの近くで、一人の牧羊が洞窟に迷い込んだヤギを追い出そうと石を投げ込んだところ、それが壺のようなものに当たり、それが「死海文書の発見」へとつながった。
「死海文書」はヘブライ語聖書の断片を含む写本の集まりで、11箇所の洞窟で次々に発見され約850巻にもおよぶ浩瀚なものであった。
紀元前2世紀の中頃から西暦1世紀にかけて、様々な時期に書かれたものだが、なにしろ聖書の原本と内容が重なるものが多く、イエスの存在やその言動に疑義を持つ者は、これで真実を明らかになると期待を抱いたかもしれない。
ところが考古学の碩学といわれるW・F・オルブライトは、「死海文書」について次のように語っている。
「理性的な信仰をさまたげうるようなものは何一つ見出されず、個々の神学上の説を誤りと断定するものも、全く発見されなかった。聖書の言語、その民族の生活と慣習、その歴史とその倫理的・宗教的な表象はすべて、考古学上の発見によって数倍も明確にされている」と。
日本ではほとんど話題にのぼらないが、「死海文書」を含めて聖書を考古学的に解明しようとする人々は、そのほとんどがそれを「肯定」せざるをえない事実に出会っている。
これはホントーに驚くべきことで、考古学により聖書の記述の正確さを支持する数々の証拠が提出され、その歴史的叙述の正確さはいまや立証されつつあるといってよい。
そして少なからぬ考古学者が「神」と出会い、あるいは「信仰」を抱くに至っていることも知った。
宇宙空間にでて「神に出あい」信仰者となった宇宙飛行士が少なからずいるように、一旦この世の有様を離れて時空を超えてみてはじめて「真理」に出会う体験をするのは、考古学的世界と宇宙空間は共通しているのかもしれない。

さて、聖書にまつわる考古学調査の中で、特に印象に残った「考古学的な発見」についてひとつだけ紹介したい。
子供の頃やっていたアメリカの戦争TV番組「ジェリコ」は、第二次世界大戦においてそれぞれの特技をいかしてドイツ軍を倒すべく「ミッション・インポッシブル」に挑戦する連合軍の兵士達の物語であった。
このテレビ番組のタイトル「ジェリコ」の基になったのが、旧約聖書(ヨシュア記)の中に登場する「エリコの砦」である。
つまり「ジェリコ」は、「難攻不落」を意味する言葉である。
紀元前12世紀の頃エジプトからカナーンの地にはいったイスラエルは、立ちはだかるこの難攻不落の砦に立ち向かうが、神はこの砦を落とすについて実に「奇妙な手段」をイスラエルに命じる。
神を賛美しながら砦の周りを7回周って角笛とともに勝ち鬨の声をあげよという、近代人からすれば人を馬鹿にしたような手段であった。
しかしイスラエルはその言葉通りに砦を回り、エリコの砦が一挙に崩落したのであるが、近代人からすれば全く信がたいこの話の真実性が、考古学者によって証明されているのである。
エリコの砦の崩落が人間の力ではなく、とんでもない大きな力によって一気に押し潰されるように崩れていること、それにもかかわらずなぜか北側の壁の一部が崩落を免れていることである。
実は、このイスラエルの「エリコ侵入」を手招きしたラハブという遊女の居所が壁の中にあり、神は崩落に際して、目印として「赤い紐」を垂らしたこの女性の居所だけは救うという約束をしたのである。
その時、ラハブは次のように語った。
「どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもわたしの父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちの命を死から救い出してください。」と。(ヨシュア記2章)
そしてラハブだけがエリコの砦より救出されるのであるが、驚くべきことは、この遊女ラハブの名が新約聖書マタイによる福音書の「イエス・キリストの系図」に登場するのである。
つまり、この時最底辺の暮らしをしてたラハブの家は祝福され、その系統からイスラエルの王・ダビデ王が生まれ、さらにはイエス・キリストが誕生するのである。
ラハブの系図を知ると、旧約聖書の「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」(イザヤ書63章)という言葉を思い起こす。

さて、聖書は事実としてもそのほとんどに脚色がほどこされていると思う人も多いと思う。
しかしいつも感じるのは、仮に「脚色」するならばもう少し「人うけ」するように神なるイエスを描いてはどうか、と思うのである。
例えば十字架で酷い死に方などしないで「全能性」を全面に押し出しまくる神であればどうであろうか。
また、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言ったところ、イエスは「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」と母親に冷たくも思える言葉をなげかけるのである。
つまりこの場面に見るように、イエスが母親にもう少し温かく接したようにすれば「人うけ」するし、きっと人々は「つまずく」こともなく、多くの人々がスンナリと信じられるかもしれない、と思うのである。
しかし一方で、人の思いとは違うイエスの言動が、逆に聖書の出来事の動かしがたい「事実」と「高み」を垣間見せているようにも思える。
例えば、「ルカによる福音書」5章に、経験豊富な「漁師達」が一日中網を湖に投げたにもかかわらず一匹の魚も取れずにいた時、湖の辺にいたイエスに出会った場面がある。
イエスは大工であるから「漁」は専門外なのだが、たったの一言、あちらに網を入れてみなさいと言ったため、漁師達がその言葉どうりにしたところ溢れんばかりの魚が網にかかり、網がハチきれんばかりになったという話がある。
”するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。”
その時の漁師達のリアクションであるが、仮に「創作」するならば、漁師達は大漁をもたらした神様の偉大なる力に感嘆し、大感謝して家に帰っていったとすれば、普通に「人うけ」する話ができたかもしれない。
しかし聖書の記者は、たくさんの魚を目の前にした漁師達の反応を、次元をズラして次のように語っている。
「主よこの場所から離れてください。私たちは罪深いものです」と「大漁」とは全く関係のないことを語るのである。
要するに聖書の内容は、人間の思考次元からいちいち「ズレ」ており、そのことが「人間発」の「つくりごと」ではけして出せない「リアリティ」を我々に運んでくるのである。
また「ルカによる福音書」10章にマリアとマルタという姉妹の話がでてくる。
姉のマルアはかつて自分の弟・ラザロを癒した(というよりも復活させた)イエスが家に訪れたというので、色々な準備に勤しんでいる。
一方妹マリアはそんなことに気をまわすこともなく、イエスの話を聞こうと座り込んでいる。
人間的評価からすれば、マルタのほうがよく気がつく立派な人間であり、マリアはいかにもボーとした人間のようにも思える。
そこでマルタはイエスにマリアが準備を手伝うように言ってくださいというと、イエスは「マリアはよい方を選んだ」とマリアの態度をたたえ、「大切なことは多くはなくただ一つである」と語った。
ところがマリアは、その後、とんでもないことをする。
家にあった最上等の香油をイエスののアタマからそそぎ足をその髪でふきとったのだ。
周りの人々は、マリアの行為を見て「あの高価な香油を貧しい人々に施したら、どんなにか多くの人々が助かるだろうに」といったことが記されている。
もしも聖書記者が「人うけ」をネラッて脚色するならば、イエスにもマリアの行為をたしなめさせ、香油を貧しい人に施しなさいと言わしめたであろう。
何しろ一生懸命にイエスの接待に勤しんでいるマルタに、そんなことしなくてもイイヨというくらいなのに、香油を自分にそそぐなどというイキスギをたしなめるのが、普通だろう。
以前にイエスは、マルタ・マリアの弟ラザロを愛し、その死を聞いて涙を流したという記述があるが、そんなにも貧者や病人を深く愛したイエスならば、当然「香油は貧者のためにつかいなさい」というべきところだろう。
ところがイエスは、そこにいる誰も(われわれも)想像しえないようなことを語るのである。
マリアはよいことをしてくれた。自分の弔いの準備をしてくれたのだと、あたかも自分の「十字架」を予見するようなことを語るのである。
聖書の事実性は証明の方法がないのだが、仮にそういう証明がなくとも、大漁を前にした漁師達のリアクションやマリアが香油をイエスのアタマに注いだ時のイエスの言葉のなかに、人間的思考からの「ズレ」があり、そのズレがかえってその「事実性」の裏づけのように思えるのである。
つまりこうした出来事における言葉は、「人間発」の脚色力ではけして生み出せないということである。

イエスの言葉は、当時のユダヤ人の人間的な理解力をはるかに超えたものであった。
そしてイエスの眼差しは、誰も目を留めることがない者達に向かっていた。
このことが多くの人々にとっては「つまずき」の元となった。つまずきとは人間的な価値からのズレといってもいい。
「マルコによる福音書」2章に「なぜ、あの人(イエス)は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。 」と言い、人々がツマヅイタことが書いてある。
病人や貧者を助ける話ならば他の宗教にもよく出てくる話なのかもしれないが、特異に思えることは例えばローマという支配国と結託して税金を取り、利を貪っていると嫌われていた取税人にもイエスの視線が向かうのである。
「ルカによる福音書」19章にでてくるザアカイという人物が登場する。
ザアカイは「取税人の頭」であった。背はひくいが金持ちであった、とても愛されそうも無い酷薄な人間のイメ-ジが浮かぶ。
そして彼は、ローマの手先(イヌ)として働いているために、皆に忌み嫌われてもいた。
或る日ザアカイは、当時人々の話題になっているイエスという男が自分の村に通りかかるという噂をききつけ、一目みようと木に上って待っていたのだ。
騒ぎたつ好奇の群衆の中にあって、イエスが突然「ザアカイよ、急いでおりてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」と声をかけたのだ。
イエスは名を知るはずのないこの男を「名指し」で呼びかけたのである。
何でオレの名を知っているのか、しかも旧知の仲であるかのようにオレの家に宿泊させてくれなどと。
サアカイはそう思ったに違いない。
街中でそんな風に声をかけられたことなど、世の荒波にすっかり心も凍ったザアカイに一度もなかったにちがいない。
家にとまるなら、俺なんかより善良でまともそうな人間はこの多くの群集の中でたくさんいるし、金持ちもいる。
よりによって「なぜ俺に」という気持ちもあったのだろうが、とにかくザアカイはそのとてつもなく不思議な「呼びかけ」に応じている。
そして、それは間違いなく「喜び」の体験であったにちがいない。
それは、ザアカイがその呼びかけに対して語った「主よ、私は誓って自分の財産の半分を貧民に施します。
また、もしだれかから不正な取り立てをしていましたら、それを四倍にして返します」という言葉に表れている。
ザアカイのその言葉にイエスは、「今日、救いがこの家に来た」と語っている。
「ヨハネによる福音書」4章にイエスとサマリアの女との有名な出会いのシーンがある。
あるサマリアに住む女が井戸の水を飲むために出ていると、水を飲ませてくれと頼む男がいた。
まず女は、自分のような身分の人間に、しかもユダヤ人が差別しているサマリア出の自分に声をかけることを訝しがる。
その男はさらに奇妙なことを言う。「もしあなたが私が誰かを知るならば、あなたこそ私に水を求めるだろう」さらに「井戸の水を飲むものはまた乾くが、私が与える水は永遠に湧き出る水となる」などと。
さらに男は女に「夫をよんできなさい」とブシツケけなことを言う。女が「夫はいない」というと、その男は、女に5人の夫がいたことをいい当ててしまった。
サマリアの女はその時この男が普通の人間ではないということを確信したはずである。
そして自分のことを詳らかに言い当てた人のことを次のようにに喧伝するのである。
「わたしのしたことを何もかもいいあてた人がいます。さあ見に来てごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかもしれません」と。
自分を知るはずのないイエスから名指しでよばれた取税人、あるいは自分の人生の経歴をイエスにすっかり言い当てられた女のことをよーくを考えると、彼らがイエスに出あったことは、とても厳かな一瞬であったと同時に、実に不思議なシーンである。
人はこういうカンジの話の創作や脚色はあんまりしない、と思う。

ところで新約聖書の「福音書」はイエスに対する「ツマヅキ」の書とでもいってもよい。「この人は大工の子ではないか、いつこの知識を学んだか」と驚きあやしみ、ベツレヘムで生まれたことを知らず「(聖書の預言では)ガリラヤ(ナザレ)から良いものがでるハズがない」と否定した。
またイエスは、これ以上ないというくらいな「冒涜の言葉」つまり神以外にはいってはいけない言葉をいくつも発し、実際に多くの人々がつまずくのである。
イエスも常々「人々は私につまづく」と言っているくらいである。 ユダヤ人の信仰父アブラハムについて、この石からでもアブラハムを興すことができると言ったり、50年近くかかって再建したエルサレムの神殿を「三日と再建する」などという「はなはだしい言葉」を語り、ついにユダヤの指導者層は「イエスを殺す」ことを決意するのである。
というわけで、イエスの言葉の一つ一つが、人間の「考え」といちいちブツカり、当然「人うけ」しない。だから信じるにせよ「人うけ」する部分だけを信じるのは、当時も今も一般的な信者の姿ではある。
人は神がどういう言葉を発するかなど、自分達の理解のおよぶ範囲でしか考えることしかできない。
しかし、その「範囲を超えている」ことが、聖書が聖書たるの所以であり、つまるところ人間の創作力や脚色力では「聖書」には到達できないということである。