原点は「養護施設」

最近亡くなった井上ひさし氏の人物像については学生の頃より興味があり、自伝的要素の強い小説を結構読んでいた。
また駄洒落や諧謔を含んだ「言葉遊び」の習性はイノ一番、井上氏に学ぶとことが多かったような気がする。
以前、伊勢神宮の建築など日本文化の特質を「木のみ木のまま」という言葉でネット上に書いたことがあるが、こんな言葉の遊び方も井上氏にひさしく影響されたからではないかと思う。
ところで、井上氏の自伝的要素の強い小説といえば、「41番目の少年」「青葉繁れる」「モッキンポット師の後始末」などで、それぞれが氏の小学校、高校、大学時代を反映した小説である。
「41番目の少年」は病気療養の母と離れ、仙台のカトリック系養護施設に入れられた少年が先に入所していた主のような青年に目をつけられ、いじめに遭う。
幼い心を傷つける言葉の暴力や、前ぶれなく飛んでくる冷たい手や腕、彼の気まぐれな仕打ちにおびえながらも、いっぽうで野球を楽しみ、何とか学校生活を送っていた。
しかし、青年の退寮がせまった夏休み、恐ろしい事件が始まる。少年の心に兆した凶暴さを描いた。
「41番目の少年」を読んだ頃、たまたまジャン・コクトーの「恐るべき子供達」というのを読んだのだが、なんか同じニオイを感じたのを憶えている。
「恐るべき子供達」は、コクトーが親友の死によって阿片中毒に陥った後の解毒治療中に書いたもので、両親を失って金持ちの叔父に面倒を見てもらっている姉弟をえがいたものであった。
外出することもない二人ではあったが、勝手気ままな生活をしていて、友人の孤児である少年と少女を同宿させたために、姉と弟の間に愛憎のもつれがおき、ついには弟は姉の謀略にかかって服毒し、姉もピストル自殺をする。それを見て瀕死の弟は、憎しみを忘れて魅惑されるというものであった。
ジャン・コクトーの父は8歳の時にピストル自殺、母に育てられ詩作や劇作家として成功した。バレー劇の演出などを通じて、ピカソ、モジリア-ニ、ココ・シャネル、エデット・ピアフらとの華麗な交友を結んでいる。

井上ひさし氏は、1934年山形県米沢に近い小松町(現川西町)で醸造家に生まれた。米沢といえばコメ処で牛の産地であったから、敗戦直後の食糧難の時期に井伏・川端・佐藤ら文人が氏の家を訪れ、飲んだり喰ったり泊まったりしていった。
その影響かは知らないが、井上氏の父親も作家志望で懸賞小説を雑誌に投稿し、一度だけ当選したことがあったという。その時に、佳作だったのが若き日の井上靖だった。
また井上氏の父は小地主がたくさんいる土地柄にあって農地解放運動を行い、町の人からアカではないかと白い目で見られ、何度か警察に連行された。
松竹が撮影所の移転にともなう脚本部充実の為に部員募集したところ、父親はそれに応募して合格したが、その頃から肺結核に冒され、井上氏が5歳の時に亡くなっている。
こう見ると、井上氏には作家・脚本家の血がかなり流れていたといってよい。
山形の田舎町で、井上氏は野球と映画にハマリながら育ち、映画の脚本家を夢見て育ったという。このあたりは、青森の場末の映画館で映写機付近を生活の場としていた寺山修司と重なるところがある。
井上氏の母は、たまたま町にやってきた浪曲師と再婚するが、浪曲師は母が勤める経理担当の女性と金を持ち逃げしたために、無一文となった。
ところが母は、かの浪曲師が岩手県一関で土建業を始めたのを突き止め、単身で乗り込み浪曲師を追い出し、自ら土建業「井上組」を旗揚げした。
作曲家になるために東京の音楽学校に通っていた兄は呼び戻され、突然に井上組の組長となった。
なんだか「セーラー服と機関銃」の男版みたいですね。結局、素人家業の土建業はうまくいかず兄は結核となり井上組は解散した。
そして、井上氏は中学三年の時に弟とともに仙台のカトリック系(ラサール会)の児童養護施設「光が丘天使園」に預けられるハメになったのである。
井上氏はそこから仙台第一高校に通うことになった。
「青葉茂れる」は、空想の世界であんな高校生活があったらという願望を込めて書いたという。
「青葉繁れる」は、戦後間もない仙台が舞台で、落ちこぼれ高校生が繰り広げるユーモア小説である。
1974年には東宝で映画化されて、ヒロインを秋吉久美子、日比谷高校出身のハンサムな青年を草刈正雄が演じた。
実はヒロイン若山ひろ子のモデルは、当時からその美貌で地元で評判だった宮城二女高の高校生だった若尾文子さんだった。
この映画は大変印象深く、しばらく語尾に「だっちゃ」をつける仙台弁が乗り移ったことを憶えている。
何といっても草刈正雄と秋吉久美子のとても高校生とは思えない大人びた美貌コンビが衝撃的だっちゃ!
井上氏は、学校が終わるとすぐ帰り、映画を頻繁に見に行った。あまり足しげく映画館に通っていたために、映画館で婦人警官に補導されて担任の先生が呼ばれたら、担任は「そいつは毎日映画を見ることになっています」と答えたのだという。
あらかじめ担任自ら「出席数が3分の2あれば映画を見に行っていい」と言われていたのだ。
ただ映画代を捻出するために養護施設の本を古本屋に出したりしたが、施設の神父さんはそれを知ってながらなんともいえない「悲しい顔」をするだけで、それだけにコタエタのだという。
井上氏は後年、その時の神父さんの顔が何度も夢に出て来る、と振りかえっている。
ところで井上氏は映画監督を夢見たが、当時映画監督になるには東大か京大をでる必要があったが、当時の井上氏の学力的ではとうてい無理であった。
しかし、養護施設の院長が上智大学のドイツ人学長に熱烈な嘆願書を送ってくれていたせいか、また井上氏自身もカトリックの洗礼をうけていたこともあり、月謝なし奨学金つきで上智大学外国語学部への入学が許可された。
  しかし上智大学を経営・講義するイエズス会の神父さん達は、いわば学者の集団でとても威張っていたため、養護施設の神父さんのようにはなじめず、大学へはほとんど足が向かなくなったという。
ただイエズス会の修道女が経営する出版社の倉庫係などのアルバイトなどをして暮らした。
このアルバイト中にまったく賊が入らなかったことは何より幸運だったし、倉庫のの中で目に触れた本も、井上氏の作家としての滋養になったようだ。
井上氏にとってのアルバイトは、浅草のストリップ劇場フランス座の文芸部兼進行係となったことが大きな人生の転機になっている。
その頃の浅草フランス座には、渥美清、谷幹一、長門勇、関敬六など、後年名を成す役者がいて、ストリップショーよりも、彼らの40分芝居の方がはるかに面白かったという。
そして井上氏は脚本書きを一生の仕事にして良いと思うようになった。そしてこの頃書いた戯曲「うかうか三十、ちょろちょろ四十」が芸術祭脚本奨励賞を受賞した。
井上氏は、大学卒業後に、テレビの台本書きや放送作家の仕事をし、雑誌の投稿マニアになってある程度のお金を稼いだが、当時井上氏の数倍稼いでいた大阪府立大学の学生がいたという。
その学生の名前は、後に「11pm」の司会をする藤本義一だった。
この当時テレビでの仕事は、NHK教育TVの「われら10代」の構成で、この番組では、青島幸男氏をはじめてテレビに出演させたり、まだ少女だった朱里エイコや金井克子に歌わせたりした。
1964年には、その後5年間におよぶNHKの連続人形劇「ひょっこりひょうたん島」の台本を執筆し世に知られた。
児童文学者の山下護久氏と共同生活をしながら脚本を書いたのだという。
子供がいたので、これでようやく根無し草のようなライター生活から足が洗えるとホットしたのだという。
東京オリンピック開催と同じ年に放送が始まった「ひょっこりひょうたん島」は、漂流する島が舞台の、奇想天外な物語である。
子どもの視点で社会や権威を風刺するセリフの面白さが大人にまでファン層を広げ、大ヒットし、1969年までの5年間で、1224回も放送された。
また「ひょっこりひょうたん島」の声優をつとめた熊倉一雄に才能をホレられ、劇団テアトル・エコーに書き下ろした「日本人のへそ」で演劇界にデビューした。
さらに、養護施設の神父さんをモデルにして書いた「モッキンポット師の後始末」は、食うために突飛なアイディアをひねり出しては珍バイトを始めるが、必ず一騒動起すカトリック学生寮の不良学生3人組を描いた。
そして、いつもその尻ぬぐいをさせられ、苦りきるのが指導神父モッキンポット師である。
ドジで間抜けな人間に愛着する著者が、お人好し神父と悪ヂエ学生の行状を軽快に描く笑いとユーモア溢れる作品であった。

井上ひさし氏には、父親からうけついだ大衆作家の血が流れていたことは間違いないが、戦争の暗い時期を吉川英治の「宮本武蔵」や「三国志」などの小説を読んで暮らした。
また、同じ東北の童話作家である宮沢賢治の影響も少なくはなく、アルバイト先のフランス座で書いた脚本では、江戸時代の戯作者の手法を多く取り入れ、作品の幅を広げていった。
しかしながら、井上氏の作家志望を決定付けたのは、「恐るべき子供達」を書いたフランスの作家ジャン・コクトーではなく江戸の山東京伝でもなく、イギリスの作家ディケンズの「デイヴィッド・コッパフィ-ルド」であったという。
主人公の少年は幼い頃に父親をなくし、母と二人になる。そこへ新しいお父さんが来ることになって、子供ながら自分は邪魔者ではないか、自分がいなければ母親はもっと幸せになれるんじゃないかと思い、また半分は新しい父親に邪魔にされたことがあって寄宿舎のある学校に行くことになる。
乳母が母親の代わりに、少年を遠くから見守っている。少年は孤児院にはいり、いじめられたり親友ができたりしながら、やがて世の中にでて苦労惨憺の末に、著作家として立ち、幼馴染のアグネスという女の子と結婚するというハッピ-エンドで終わるデッケンズの自伝的小説である。
井上氏は、父親欠損や寄宿生活といい、どこか自分の境遇と似通ったものを感じ、寝食を忘れてこの本を読み、読書にめざめた。
そして、小説がこれほど心を揺り動かし素晴らしいものならばいつか自分も本を書きたいと、思ったのだという。
さらに「アグネス」もいつしか自分の前にも現れるに違いないと夢をいだいたのだという。
ちなみに井上氏は1961年27歳の時に、浅草のかつら職人の二女・好子さんと結婚している。
好子さんとは1985年に色々あって離婚されたが、好子さんのことは私が一番好きな氏のエッセイ集「日本亭主図鑑」にもちょいちょい登場する。
この本はちょうど大学にいりたての頃に読んだとても面白い本で、人に贈ったらとても喜ばれたことがあった。
1974年に「日本亭主図鑑」が毎日曜日に新聞に掲載したところ、ウーマンリブ運動の盛んな時で、凄まじい反響があったという。
中ピ連の榎美沙子などというピンク・ヘルメットとジーパン姿のモー女達が声高に「男女同権」を訴えていたのを思い出す。
ところが次の年、井上氏は「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」と名乗る団体から表彰されたという。
その表彰理由は次の通りである。「あなたは豊かな文才を駆使して婦人問題にまで言及し、感情論をもって男女平等に反撃、満天下によく男性の婦人問題に対する非論理性を暴露しました。よってここに表彰します」というものであった。
井上氏は「女性にとって男性を対立物と捉えるのは浅はかな二元論である」として、それにしても「婦人問題にまで言及し」というくだりに留意されよ、婦人問題に言及するにはどうやら資格がいるらしい、ここに「目ざめた」と自称する女どもの思い上がりが仄見される、と反撃した。
「日本亭主図鑑」ではこういう浅薄なウ-マンリブ運動が長続きしないことを予見していたのを記憶している。
あの時代にあえて「関白宣言」(1979年)をして波紋をなげかけた「さだまさし」と、一脈通じるものがある。

井上氏が言葉遊びを通じてのパロディ精神を学んだのは江戸時代の戯作者であったそうで、それは「笑い」の仕掛けのオンパレ-ドだったそうだ。
私見であるが、言葉の遊びは元もとの言葉と駄洒落た言葉が衝突して一瞬混乱を起こすが、その後に新しい意味を帯びて立ち上がってくることがあるので、けしてバカにできない。
そして、その新しい意味が真理であることはけして珍しくはない。例えば、リゾ-トに「理想都」とか「理想土」とかいう言葉をあてはめるうちに何らかの新しい「思考の軸」が生まれたりするのだ。
ところで、井上氏の小説の神父「モッキンポット師」のモデルが、「光が丘天使園」で園児たちから慕われたカナダ人のラ・サール会修道士ブラザ ー・ジュール・ベランジェである。
父を失い、この施設に幼くして預けられた井上氏にとって、無欲で子供たちに奉仕する修道士たちこそは、心の拠り所であったともいえる。
遠藤周作はカトリック作家として有名であるが、井上氏は作家の主題としては表面には現れない「カトリック」の部分を次のように語っている。
「私が信じたのは、はるかな東方の異郷へやってきて、孤児たちの夕餉を少しでも豊かにしようと、荒地を耕し人糞を撒き、手を汚し爪の先に土と埃りをこびりつかせ、野菜を作る外国の師父たちであり、母国の修道会本 部から修道服を新調するようにと送られてくる羅紗の布地を、孤児たちのための学生服に流用し、依然として自分たちは、手垢と脂汗と摩擦でてかてかに光り、継ぎのあたった修道服で通した修道士たちであった。私は、天主の存在を信じる師父たちを信じたのであり、キリストを信じる襤衣の修道たちを信じ、キリスト教の新米兵士になったのだ」。
井上氏の小説では、架空の人物モッキンポット師らの姿が、そこはかとなくユーモラスに描かれているが、一生懸命に何かをしようとする人間同士がかもし出す滑稽さが、ある種の「笑い」となっている。
本人は必死に生活し活動しているのだけれども、客観的に見るとどこか滑稽なとを演じているというのはよくあることだ。
そう考えると井上氏の「作家の原点」あるいは「笑いの原点」は仙台の「光が丘天使園」にあったように思えてくる。