超人と保守思想

歴史を概観すると、一つの「命題」を思いついた。
「英雄は超人化する危険性があり、そこに”保守”の存在意義がある。」
ニーチェという思想家は、「超人」という言葉で知られている。本人が気が弱かったせいかどうかは知らないが、英雄志向が強く、道徳なんか一切無視して 自分の力を遠慮なく押し広げていく「人間像」、つまり「超人」に憧れていたようである。
実は私、一年間のアメリカ生活中に、「英雄」扱いされたことがある。
名前が「Naohiro」なので、同じアパートのフランス人に”Now Hero!”(=現代の英雄)としばしば抱きつかれて、数学というか算数を教えさせられるハメになった。
「英雄」に抱きつくな。控え!
「英雄」は、多くの人々が抱く理想を掲げそれを導き実現できる人間のことだが、どんな英雄にも自分の名声を磐石にして永遠化しようとするプロセスで、猜疑心や党派心にとりつかれて、「破滅のタネ」をまいてしまう欠陥があるようだ。
それこそ「満月の欠けることなき」状態を望みつつ、満月を叩き割るくらい「超人化」するのである。
つまり「英雄」はまだ理想を体現しているが、「超人」は理想実現のための「破壊」の方が、理想そのものをを完全に打ち消している。
これはもやは「英雄」とはいえない。
ところで、人間の中には凄まじい我執をあたう限り実現しようとする「超人」が確かにいる。
彼は何らかの「理想」をかかげつつ、自分の思うままに生き、多くの犠牲を強いて、無辜の人々の血を流すことを意に介さない。
ある意味では、崇高な理想に自分を一体化できる「想像力」というか「陶酔力」を持っている。
大抵の人間は、どこかに罪の痛みがあり、そこまでなれない。また何かの方法で罪を贖おうとするものである。
しかし「超人」とは、その罪業への意識がないか、あっても、それが彼を押し留めるほどのものではない。
日本史おいて「超人」を探すと、「宗教的権威」を完全に無視しえたという条件で充分であろう。
中世において、神木や神輿を担いだ宗徒が街中を練り歩いただけで、人々は恐れおののき、外出さえ憚ったという社会風潮の中で、宗徒の大量殺人にまで至るのは、少しでも神仏への信仰心を抱く者であれば出来るはずもなく、それをヤレタというのは「魔王」または「超人」以外の何者でもない。
1181年に平重衡によって「南都焼き討ち」が起きている。
平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、反平家勢力のアジトである東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件である。これぞ「魔王」の所業である。
平清盛の父・忠盛は、ようやく五位の殿上人(天皇の御所に昇れる身分)になった成り上がり者にすぎない。
しかしその子清盛は、保元、平治の乱を通じて、 異常な出世をとげ、大政大臣にまでなったばかりか、一門とも栄達をとげ、「平家にあらざれば人にあらず」とまでいわれた。
平清盛はすさまじい現世的意欲を持った男であり、世界の現象を思いのままあやつる意思とでもいえるほど、多くのことが彼によって現実となっていく。
しかし清盛の血の中に、意外なものが流れていた。
嫡男・重盛は、栄耀栄華にふける平家一門の中にあって、ただ一人「憂うる人」であった。
平重盛は、平家によって官位を奪われ、栄達の望みを失った人々の怨嗟の声が高まるのを体感し畏れていた。
父・清盛が煩悩のまま自然に生きようとするのに対して、その跡継ぎと目された重盛は、故意に善行を行い、それを打ち消そうとするかのような行動をする。
彼は、東山の麓に、四十八軒の精舎を建てて、その部屋ひとつひとつに灯籠をかけて、極楽世界をこの世に現出せしめ、念仏の声をたやさず、一心に阿弥陀仏の来迎を願ったという。
あるいは中国の育王山に三千両を寄付し、後世にとぶらうように命じたという。
ここに、善行をもって平家一門の罪を帳消しにしようという悲壮な真情が読み取れる。
しかし、重盛は清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策をとることができないまま、1179年、父親に先立ち亡くなっている。
平清盛の分身である重盛の「憂い」を思うとき、清盛も本当には「超人」たりえなかったのかもしれない、と推測する。
そして、1181年源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、清盛は熱病で没した。
清盛の死後、平家の総大将は無能な三男・宗盛が受け継ぎ、悲劇へとまっしぐらに突き進んでいく。
それでは、日本史で「超人」に相応しい人物といえば、「あの人」以外にはいない。織田信長である。
宣教師フロイスは、信長の「宗教観」をつぎのように伝えている。
彼は神仏その他の偶像を軽視し、迷信や占いのたぐいを一切信じない。名義は法華宗だが、宇宙には作者がなく、霊魂も不滅ではなく、人の死後には何物も存在しない、と明言していた。
自分にはむかった朝倉義景・浅井久政・長政の頭蓋骨を、漆で固め金泥で彩った器に仕立て、酒宴に出したという。
また、伊勢長島の一向一揆を討った時は、周囲を幾重にも柵をめぐらせ、絶対にでられないようにして四方から火をかけ、中に篭っていた男女二万人を焼き殺し、比叡山の焼き討ちでは、年端のいかない子供までを皆殺しにしている。
このように普通の人間にはとうてい考えることさえ出来ない残虐非道を行った信長は、ニーチェがいうところの「超人」に近かったといえるかもしれない。
しかしながら・・・。

フランス革命は、「自由 平等 博愛」の高邁な理想で始まったのが、あたかも人間の心の内側の「無明」を証しするかのような恐怖と混乱で終結する。
フランス革命は、その崇高な理念ゆえに当時の国外の多くの知識人にも感銘を与えた。
しかし革命勢力は、次第に様々な派閥に分かれ、処刑や暗殺の内に政権抗争を繰り広げていく。
そして、ついにはギロチンによる反対分子の粛清に血塗られた「恐怖政治」が行われていく。
ロベスピエールは、清廉潔白の人とよばれ、ルソーの熱心な信奉者として人民主義、平和主義、平等主義を理想とした政治家であったが、かつての同志をも意見の違いから次々に断頭台に送り込むほどの恐怖政治を行った。
そして、彼自身もやがてギロチンの露と消えていくのである。
その後、革命は知識人を死に追いやりつつ、混乱と過激さの度合いを強めていき、私有財産や民主主義だけではなく、生命をも危うくしかねなくなった現実に、とうとう人々は絶望し、理念として謳われている高邁な思想と、現実の状況との大きな乖離に気がつくのである。
一般的に、近代保守思想の源流となされているイギリスの政治家エドマンド・バークである。
彼が同時代に隣国で起こったフランス革命を批判して書いた「フランス革命についての省察」は、現在に至るまで「保守思想の原点」を示す書として、世界中に読み継がれている。
バークは「保守思想」とは、18世紀ヨーロッパにおける啓蒙主義に対する「アンチ・テーゼ」として生まれたものであり、その核心は「理性的合理主義」への批判である。
ロベスピエールは、もし神が存在しないなら、それを発明する必要があると語り、理性崇拝のための祭典「最高存在の祭典」を開いたという。
保守思想の根本は、そうした極端な「理性万能主義」への懐疑である。
近代主義者が、人間の理性を過信し合理的に理想社会を構築することが可能だと考えがちなのに対して、「人間がそれほど賢くはない」という世界観なのである。
歴史をふりかえれば、理想社会を一気に実現しようとして「革命」を志した人々を見る限り、人間はどうしても己の「悪」の部分を捨て去ることができなかったといえるのではなかろうか。
「英雄」といえども、どの時代誰しもがエゴイズムを抱え込み、時に軽率を免れない行動をする。
驕りや嫉妬、妬みなどから完全に自由になることはできず、様々な問題を抱え込みながら生きて行く存在である。
毛沢東、スターリン、ポルポト、すべて高邁な理想の下で「大量殺戮」を行ったのである。
また、保守はすべての問題を一気に解決しようという「極端」を嫌う。
つまり、抜本的に改革すればすべてがうまくいく式の「極端」さ(急進的)の中には、正しい理性的な判断によって社会を理想的なものに変革できるという過信と妄想が必ず入り込んでいる。
そこで保守は、社会的経験知や良識、伝統といった人智を超えたものを重視する。
歴史の風雪に耐え、多くの人の経験が凝縮されている社会秩序に含まれる潜在的叡智を大切にしようとする。
人間は具体的な人間交際を通じて、自らの役割を認識して「アイデンティティ」を獲得している。
その為に保守は、自らの行動を「縛るもの」にこそ重要な意味を見出し、その社会関係を大切にする。
また「保守」は過去のあるよき時代に完全に回帰するのではなく、未来のある時点に理想社会を実現するのでもない。
保守は、「変化」を前提とするものだが、現状の諸勢力との対話とコンセンサスを実現していこうとするものである。
その為保守は、「急進」ではなく「漸進」をヨシとする思想である。
マルクス・エンゲルスの共産主義革命思想に対して、ヨーロッパでは、「社会民主主義」による政党や政府が大きな勢力をもっている。
こういう社会民主主義は、「保守」のように伝統重視ではないが、「漸進的」という点では、「保守思想」と共通している。
マルクスは早く死んだが、エンゲルスの弟子に優秀な二人の若者がいた。一人はカウツキー、もう一人はベルンシュタインという。
この二人がドイツ社会民主党の理論的な指導者になる。
この二人は、いわば社会民主党の左派と右派を理論的に代表し、特にカウツキ-のマルクス主義入門をたくさん書き、日本の大正時代や昭和初期にはその影響を受けたものがたくさんいる。
しかしベルンシュタインは、カウツキーの急進的マルクス主義に異を唱えて、資本主義は成長して労働者は貧困化するどころか、経済成長にともない生活水準は一緒に向上する。
何も労働者が武装蜂起して革命を起こしたりする必要など無い。漸次、労働者の生活を改善していく政策を行えばよいという考え方である。
しかし、戦争肯定にまわり、社会民主主義は「修正主義」「日和見主義」として批判を浴びることになる。
そして急進的な「マルクス・レーニン主義」がロシアで実践されていくのである。
その過程でスターリンの粛清をまねく結果になる。

ドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」に有名な場面がある(そうだ)。
次男イヴァンは、父の「神は存在するのか」という問いに答えて「神はありません 不死もありません 全くの無です 故に一切の行為は許されている」と答えたという。
ニーチェの「超人」思想が、こういうドストエフスキ-の思想を土台に、詩人の才をもって「造型」されたものだろう。
実はニーチェという「神」について深く考えた人間であるが、「神は死んだ」と言い放ち、「超人たれ」といった彼の意識の裏面には、激しく「神」を求める心と、どうも自分は神から愛されていないカモという懐疑の心が潜んでいたのではないだろうか。
「超人」に憧れたニーチェは、とても「超人」にはなれず、「梅毒」にかかって死ぬ。
このことを思うと聖書のある人物を思い浮かべる。
使徒行伝12章には、イエスを十字架に架けた当時のユダヤ王、ヘロデ王のことがでてくる。
十字架後、ヘロデ王が民衆に向かって演説して大喝采を浴びている絶頂の時、「するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた」とある。

ナポレオンはコルシカの貧しい貴族出身である。
少年の頃から様々な「英雄伝」を読んで過ごしたが、兵学校では贅沢なフランス貴族の子供達から馬鹿にされ育った。
士官学校に進み、一応エリートコースを進むが、同級生の中では孤立した存在だったという。
フランス革命がおこり一時コルシカ島の独立運動に身を投じたが、反フランス連合が作られるにおよび、パリに呼び戻されて砲兵隊長としてフランスに奇跡的な勝利を呼び込む。
後は連戦連勝し時代の寵児となり、皇帝の座にも着く。
しかし貧しいコルシカ生まれのナポレオンは、「私の権力は私の栄光にかかっている。もし私が、私の権力の基礎として更に栄光を新しい戦勝として加えなかったならば、私の権力は失墜するであろう」と語った如く、それ以後、無理なロシア遠征に失敗し、ワーテルローの戦いに大敗する。
そして最後の六年間を南大西洋の絶海の孤島セントヘレナで過ごすが、その時に次の言葉をのこしている。
「自分の没落の原因は自分以外の何ものでもない。自分こそ身の大敵であり、身の不幸のつくり手だった」と。
これが、「自分の辞書に不可能という文字はない」と言い放ったナポレオンの晩年の言葉である。
ナポレオンといえでも、結局は「己の宿命」に呪縛された存在でしかなかったといえるかもしれない。
織田信長は本能寺で明智光秀の謀反の報告を受けた折に、ようやく自分が特別な人間ではないことを知ったのではないか。
ナポレオンの言葉、「自分の没落の原因は自分以外の何ものでもない。」は、そのまま織田信長の心境ではなかったろうか。
どんなに「英雄」とよばれ「超人化」しても、実際は己の宿命から逃れることができないのである。
一方で全く反対のことを考えた。
「超人」とは我々現代人のことかもしれない。
もちろん我々は、道徳を踏み越えることのない善良な市民であるにせよ、「神はいない」という「大不信」を抱きつつも、人生を充分に楽しむことができるからである。