ジーンとミーム

このところくりかえし報道される「平均気温の上昇」というのは、相当マズイのでは、という気持ちにさせられる。
1997年に京都で開かれれた国際会議で、温室効果化ガス(CO2など)の排出基準が定められた。
せっかくつくった国際ルール(京都議定書)だけれど、アメリカと中国はいまだにこのルールを批准していない。
国連で常任理事国をつとめるアメリカと中国という大国が、自国の経済水準の発展もしはその維持を、「地球の温暖化」に優先したということである。
もうひとつの問題点は、排出基準を超えたい国と排出基準に余裕を残した国との間で、「排出権」を売買することを認めるという「妥協」がなされていることである。そして最大の買い手が日本である。
後に、国際間での「排出権」の売買ということが平気で行われるようになった。
市場により惹起されるのが「地球温暖化」なのだから、こんなことにまで市場原理が働くのは、とても嫌な感じがする。
ところで世界で最初にDDT農薬などによる公害を「沈黙の春」(1962年)で訴えたレイチェル・カーソン女史は、政府や企業などから人身攻撃を含む様々な中傷を受けたが、そのダメージよりも、目の前で死んでいく生き物を見過ごすことのダメージの方が大きかったことを告白している。
「病気の巣窟」となりながらも、「沈黙の春」を完成させ、その本は世界的な反響をよびおこした。
彼女は、自然界の痛みが自分の痛みとして感じられるような「シンパシー」の持ち主であった。
最近では、アメリカの副大統領という立場にあって、地球温暖化の現実を「不都合な真実」として訴えたゴア氏も、そういう「シンパシー」をもった人物であったように思う。
「不都合な真実」では、アザラシを主な獲物にしている北極のシロクマの運命が印象的に描かれていた。
シロクマは氷の上でしか獲物をとらえられないが、温暖化によって氷が溶けてしまっている。
氷を求めて海に泳ぎ出すシロクマだが、どこまでも続く氷のない海で疲れはて、ついには溺れてしまうという。
つまりシロクマも温暖化によって絶滅に危機にある。
つまり温暖化は、動植物の「多様性」を奪いつつあり、1993年リオデジャネイロで結ばれた「生物多様性条約」が「気候変動枠組条約」とセットでも結ばれたのもごく自然なことだった。
今年10月18日から約10日間にわたり、名古屋でCOP10(生物多様性条約第10回締約国会議)が開かれ、193の国と地域から、政府代表、NGO、企業関係者が1万人以上参加し、主に「二つのテーマ」で議論している。
第一は、生物多様性の危機をくいとめる「新しい国際目標」をきめることと、第二は「遺伝資源へのアクセスと利益配分ルール」をきめることである。
議長国の役割を果たす日本が、これらの会議を通じてどのレベルの「共通目標」にまで持ち込めるかは、地球の運命にも関わることである。

数年前、東京のある幼稚園で、手洗い場で石鹼ぶら下げた網袋が何者かによって鋭く切り取られるブキミな事件が相次いだ。犯人探しをしてみると、カラスであることが判明した。
都会のカラスは石鹼までも食糧にするようになっていた。またた都市のカラスは、巣作りにおいても人間様のハンガーを使うし、人間の歩道橋あたりに巣をつくるカラスは人間を襲うようになった。
また、固い木の実を車道において車の車輪で轢かせて割るという方法までアミ出していた。
そこで感じたのは、「新種のカラス」が東京という大都会で生まれつつあるということである。
今年、クマが各地で人間を襲い始めたのも、クマが住む山に食べ物なくなり人里におりてきたということだろうが、動物が人間を襲うというのは、ヒッチコックの「鳥」やネズミが人を襲う「ウイラード」までも思い出し、結構ブキミなものだ。
クマの襲撃は、猛暑による特殊な条件もあって会いたくもない人間に会ってしまったのが原因だろうが、これも自然界の「叫び」のひとつなのかもしれない。
世界の生物種は、確認済みで約175万種いるが、未知のものを含めると3000万種~1億種いるといわれ、それらが巨大な共存システムを構成している。
「生物多様性」に関する会議が開かれるのも、人間の活動で自然破壊や乱獲がおき、「種の絶滅」に危機を抱き始めたからだが、そもそも生物はなぜそこまで「多様」なのだろう。
人間は様々な環境に適応しているが、種としての変化はおきず、その分適応のあり様が「文化の多様性」という形で表れている。
それは、人間には自分達に都合よく自然を「改変」できる能力が備わっているからであろう。
いずれにせよ、自然界のことを人間界のことと重ね合わせて見ると、興味が尽きない。
「生物の多様性」を説明するには、「自然淘汰」ということが根本にあるが、「淘汰」という言葉は、激しい競争を勝ち抜くことをイメージするが、自然界の実態はそうでもない。
むしろ自然界では、競争は避けれるようになっており、それぞれの種は、独自の生態的地位で、意気揚々で生きている。
他種の生態的地位に迷い込んだものだけが、競争によって排除されていくのである。
つまり「生物多様性」は、生き物が互いの競合を避ける為に、自然淘汰を通じて、色々と異なる種類の動物や植物を生み出した結果なのである。
そして、「適者」とはよく争う動物ではなく、他との争いをいっさい避ける動物のことである。
もう少し具体的にいうと、野生の動物たちにとって第一の問題は食物を見つけることであるが、 他の動物との戦いをさけるために、様々なものを食う様々な動物が進化した。
動物の形や構造の違いは、機能の違いを意味している。
食糧獲得の方法をめぐって体の構造も変化したのだから、生物の多様性の根源とは、争いを避けるためだといえる。
NHKの動物番組を見ていて驚いたのは、サバンナを移動する動物達の大群は、生えている莫大な量の草の「異なる部位」を食べていることだ。
シマウマは乾燥した長い草の茎の部分を食べる。ヌーは草の葉を下であつめ門歯でむしり取って食べる。 トムソンガゼルは、多種の動物がすでに採食した地面にへばりついている植物を食べる。
最初に移動し始めるのはシマウマ、次にヌ-、最後にトムソンガゼル。他の草食動物も、ヌ-が移動するのを 見て一斉に移動する。
つまり草の上から食べる動物の後に、中位を食べる動物が移動してきて、最後に根元を食べる動物が移動していく。
また一方で、これらの動物達は、色々な肉食獣によって「各専門別」につけねらわれる。
また「生物の多様性」は、生態系の「安定」ということにも関わってくる。
生物学には「ニッチ」という言葉があって、「くぼみ」を意味する言葉らしい。 「ニッチ」とはある種が生態系の中で分担しているもち場のことをさし、生物はニッチ間で絶えず物質・エネルギー・情報のパスを繰り返している。
それはある時は食う・食われるの緊張関係であり、また別の時は呼気中の二酸化炭素を炭水化物に還元し、排泄物を浄化してくれる相互依存関係でもある。
生物の多様性とは、仮にどこかでパスの経路が失われたとしても、別の経路でそれがなされる可能性があることから、 全体としてシステムは安定しているということである。
かつて、ベルシステム工学研究所の電信工学者によって、複雑な電信路線網の理論をもってこうした多様性と安定性との関係を説明しようとしたが、生物界にまで応用するのは「類推」を拡張しすぎた感もある。
なぜなら生物は情報を伝えるばかりではなくトドメおこうという働きもするからである。

ところで「生物多様性」に関する国際会議で当初より登場した言葉に「遺伝資源」という言葉がある。
「遺伝資源」とは、生物の「遺伝変異」を資源としてみることで、遺伝子資源ともいわれる。
生物の遺伝変異は、有用な作物や家畜をつくりだすうえで、必要な遺伝子の共給源として人類にとって重要な資源の役割をしている。
また、生物自体にとっても、次々におこる環境の変化に適応するための、新たな遺伝的変異体をつくりだすために必要な資源である。
タミフルの原料となった八角の場合は、成分を抽出して、これを化学的に変化させている。さらに、成分を変化させて他の医薬品が作られる可能性もあり、これは「派生物」といわれている。
ただ遺伝資源の保全の上で、人間の文化における「情報」も重要な役割を果たす。
例えばどの薬草が、なんにきくかというような事は、一つの部族の中で伝搬されていたりするのである。
これが今日まで伝搬してきたのは、情報自体が選択されて生き残ったものであるから、「淘汰されてきた情報」である。
先進国は、そうした伝来の情報にはまったく対価を支払わずに、フリーでそれを得て利用して新薬開発にむけてきた。
代表的なものが、ペルーのアンデス地方で栽培されているマカという植物を巡って起きた問題である。
マカはインカ帝国の時代から栽培されていたといわれるものである。
このマカの根を食べると、どんなに仕事をして疲れても疲れがとれると言い伝えられており、毎日の食事にも利用されている。
2001年にアメリカの企業がこのマカに目をつけ、マカの成分を分析し、有効成分についての特許を取得した。
そして、この有効性成分で性機能を治療する医薬品を作り、大きな利益を上げた。
ペルーの住民は「マカ」は先祖伝来のもので、自分たちが大事に栽培してきたものである。
この「マカ」を利用して得られた特許は無効であり、利益を分配すべきであるとして、ペルー国会に訴えるなどの行動をした。
しかし、アメリカの企業は、効果のある成分を見つけ出したのは自分たちであり、利益を分ける必要はないと主張したのである。
その後、ペルーでは伝統的に受け継がれてきた動植物を国外に持ち出して医薬品などを開発する場合、ペルー政府と地元民に一定の割合で、利益を配分するように求める法律ができた。
ペルーの例でわかるように途上国側は勝手に生物資源を持ち出して、利益を独占するのは「海賊行為」だとして、先進国を非難してきた。
発展途上国は「派生物」まですべて利益配分の対象にせよと主張し、先進国は派生物まで対象となっては企業活動が妨げられる為、断固反対という主張を続けている。
今回のCOP10の主要テーマえある「遺伝資源へのアクセスと利益配分ルール」は、こういう先進国と発展途上国との間の利益のルール作りが行われるということである。

ところで、「遺伝資源」が保全されていくには、地域に伝えられる情報、卑近な言葉でいえば「おばあちゃんの智恵」的な 情報が大きな役割を果た。
よく考えてみると、そうした「情報自体」も変異し進化し選別されるものである。
そこで思い起こすのが、「ミーム」という言葉である。
「ミーム」という言葉は、イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスが、「利己的な遺伝子」(1976年)の中で作り出した言葉である。
ドーキンス氏によれば、自然選択に基づく進化が起きるためには、複製され、伝達(あるいは遺伝)される情報が必要である。
またその情報はまれに変異を起こさなければならないが、これは生物学的進化では遺伝子である。
この複製、伝達、変異という三つの条件を満たしていれば遺伝子以外の何かであっても同様に「進化」するはずである。
訳語としては「摸倣子」、「摸伝子」、「意伝子」がある。
遺伝子(ジーン)と同じように、ミームは、ある程度正確な複製をし、またある程度の変異(コピーミス)を起こすので、進化をする。
ミームの進化は遺伝子よりずっと速く進行し、DNAは数千年かけて進化を進め、人は一生の間にDNAが進化することはないのに対して、ミームは数日や数時間で進化することが可能である。
生物は遺伝子(ジーン)の複製のために一生を捧げるが、人間は例外的な存在とも考えられる。
なぜならミームの進化がジーンの進化よりも生活に影響力を持つからである。
人間が、様々な物事を認識できるのは、世の中をあらゆる物事に分割してラベルを貼っている「識別ミーム」が心の中にあるからである。
あるミームへの接触が繰り返されることで、そのミームが心のプログラムになるのである。
社会的に広まったミームで言えば、法律や慣習に従って人は行動する。お金とは何か、信号の色は何を意味するかなど、世間一般の合意が社会には多くあり、社会全体に広まったミームは我々の生活に大きな影響力を持っている。
そうしたミームは人々に正しいと見なされていても、全て人工的なものであり、時に疑問が投げかけられて変わることもある。
例えば、かつての男女の社会的役割の違いについての考え方は、「女性は家にいるべき」といった今から見れば不自由なものでも、当時の人々にとって当たり前であった。
しかし、その考え方に疑問が投げかけられ、新しい考え方が生まれたのである。
他に「ミーム」に関する例を示すと、次のようなものがある。
1840年代後半のアメリカで「ジーパンを履く」というミームが突然変異により発生し、以後このミームは口コミ、商店でのディスプレイ、メディアなどを通して世界中の人々の脳あるいは心に数多くの自己「情報」の複製を送り込むことに成功した。
こういう流行ミームが定着したものは、習慣あるいは「伝統ミーム」へと移行する。
ミームの進化は、どのミームが多くの心へ複製され、どのミームが消えていくかという過程によって進んでいく。
したがって「ミームの進化」とは、より多くの心へコピーされ、拡散されるミームが選別されていくということである。

ジーンとミーム。体の細胞の中に奥深く伝達されていくものと、個人の脳から脳へと伝達されていくもの。
複製、伝達、変異が起きるものという点で共通している。
生物は争いを避けるために自然淘汰され、多様な自然界をつくってきた。
しかし人間は自然に適応する上で、生物のようなジーンの進化をとげずして、むしろ自然界の方を「改変」して生きてきた。そして、その仕様のある側面が「文化」といえるかもしれない。
したがって人間は一つの「種」として同じ生態的地位に止まり、「棲み分けて」争いを避けるようなことができず、生きるために同一のエネルギー(石油資源、水、食糧、レアアースなど)を求めて争奪戦をくリ広げている。
せめてミームは、それをカバーする意味でも「平和の方向」を向かって欲しいが、自然界のように争いを避ける方向には向かっていないような気がする。
中国における「反日ミーム」などがそれで、よほどの「変異」が起こらない限り、昨今の不穏な動きは「半永久的」に繰り返されそうな気配である。