労働と時間と歌

労働は、英語で"Labor"で、「労苦」や「骨折り」を意味する言葉である。
近代経済学では、「労働」は人間にとって「負の行為」つまり「費用」として扱われ、そのマイナスを賃金から得られる満足で打ち消す限りにおいて、労働供給(労働力の提供)がなされると考える。
ただ、労働力が他の商品と違うところは、価格(賃金)を上げれば供給(労働時間)が必ず増えるわけではない、という点である。
賃金が上がれば労働の満足が増え供給量が増すが、あまり上がりすぎると「余暇」の効用が高まり、逆に労働供給が減少する。
つまり、労働供給曲線はUカーブを描くのである。
経済学的には、賃金の「所得効果」が「価格効果」を打ち消すという現象がおきるのである。
ところで、人間は生活のために労苦するであるが、「喜び」や「生きがい」のためにも働く。
というか、労働は人間の社会的な認知欲求を満たす欠かすことのできない場面なのである。
そもそも「労働」を「費用」として思考する近代経済学の前提は正しいことなのか。もしそうなら、そういう世界観はどこから生まれたのだろうか。

中上健次氏の芥川賞受賞作の作品に「岬」という小説がある。
この小説は、この作家の郷里・紀州の小都市を舞台に、のがれがたい血のしがらみに閉じ込められた青年の、葛藤、愛憎、人生の模索を入り組んだ人間関係の中に描いたものだが、唯一爽快なのは、「土方」という仕事についての描写である。
「彼は、区切りのつくところまで、土を掘り起こそうと思った。つるはしを打ちつけた。見事に根元まで入った。引きこす。土はふくれあがり、めくれる。つるはしを置いて、シャベルに代えた。腰を要れ、シャベルのかどに足をかけ、土をすくった。
汗が塩辛くなく、水のように流れ出すと、掘り方に体が馴れて、力を入れ抜く動きにぴったり息が合っているのだった。
何よりも働いたという感じになった。腕の筋肉が動き、腹の筋肉が動く。それは男らしかった。彼は土方仕事が好きだった。他の仕事や商売よりも、尊いと思った。」
土には人間の心のように綾がない。
主人公は、力を入れた分だけ掘り起こされる土の感触に、あたかも「救い」を見出しているようだ。
同じ「働く」といっても、資本家に拘束され奴隷的に働く場合もあれば、自然の営みの中で自発的に働く場合もある。
前者を仮に「賃金労働」とよび、後者を「自然労働」とよぶならば、次の出来事は、両者の関係を考えさせれる材料を提供してくれる。
コロンブスが新大陸を発見した際に、カリブ海の島・イスパニオラ島で見た人々の姿が記録に残っている。ちなみにイスパニオラ島は、現在はハイチ共和国とドミニカ共和国に二分されている。
この島は暑いのでそれほど服も必要ないし、靴といえば草履みたいなものので充分である。
彼らは、けして原始社会に留まっているのではなく農業を営んでいるのだが、色々な種類の作物をえ植えていて、管理や手入れがほとんど必要が無いほどの優れた農法の智恵をもっている。
だから彼らは魚が食べたければ海に入って捕獲して、一週間に数時間ほどしか働かず、余暇を楽しむことができる。
彼らの余暇の中心は、音楽と踊りであい、語り部が物語をかたる時間である。また彼らは、彼らは首飾りやイヤリングやネックレスを芸術的につくる器用さをもっている為、美しい装飾を織物に縫いこむなど芸術にも時間を使うことができる。
健康で文化的な生活そのもので、この島に比べるとスペインの方がよほど「野蛮」で「不健康」な社会であったかと推測できる。
つまり「持ち物」の欲が増え、それをめぐって社会を支配する者が表れるにおよび、戦争で流され、隷属と「労苦」が生まれていくのである。
ところで、コロンブスがイスパニオラ島の原住民に「奴隷制」を導入するのはいとも簡単なことであった。
彼らは武器で戦うことを知らなかったので、白人の言うことをいとも簡単に聞いたのである。
ところが、彼らは全くプランテーション労働に全く向いていなかった。どんどん死んでいくのである。
病気で死ぬ。うつ病になる。反抗ではないが、座り込んで死ぬまで動かない。子供を奴隷にするくらいならば、いっそ子供はつくらない。
「少子化」がおき、原住民は100年後に完全に滅んでいった。
奴隷労働を期待したコロンブスの目論見は見事に外れたのである。
その後島に労働力がなくなるから、それを補うためにアフリカから黒人を連れてくることになった。それでカリブの国々には原住民はほとんどおらず、アフリカから来た人々、または白人との混血で占められているのである。
イスパニオラ島の原住民にとって、それまでの労働とプランテ-ションでの労働はまったく違う意味をもっていたのである。
プランテーションの「労働」は賃金労働でさえなく、「奴隷労働」というべきものである。
世界の歴史を振り返ると、この「奴隷労働」に支えられた時代が圧倒的に長い。
民主制が曙を見た古代ギリシアでさえ、奴隷制の前提の上に、アテネ市民の自然哲学や芸術花が咲いたいえるし、古代ローマ帝国も映画「ベンハー」に見る如く奴隷労働が社会の土台にあった。
ヨーロッパ中世封建制の下で農民は「農奴」であったし、産業革命が起こってしばらくは、労働者は何の権利も与えられていない奴隷的「賃金労働」を強いられてきたのである。
このような歴史を見る限り「労働=労苦」というものが原初的感覚として根強くあり、労働者の権利など思い至ることもなき時代に生まれた近代経済学が、「働く」ということを”Labor”(労苦)と認識したのは、むしろ自然であったともいえる。

人間はそれを地域や時代に生き、近代経済学が単純化したような貧相な「労働観」とは違って、多様な形のものがあったに違いない。
例えば、人間が自然の豊かさに触れ合いながらある「労働」はどのように歌われたのだろうか。
世界各地に残る民謡やフォルクローレには、その労苦ばかりではなく収穫の喜びを歌ったものがたくさんある。
そしてこのような歌を元に「ポピュラーミュージック」になったものも数多くあるにあるはずで、そこに人々の「労働」への思いがつまっているのではないかと思い、調べてみた。
まず思い浮かんだのは、♪デ~~オゥ!♪で始まる「バナナボート」の歌であるが、オリジナルは、バナナ・ボートはジャマイカの民謡メントで、バナナを積み出す港で荷役に従事していた人たちの労働歌である。
♪もうじき日が昇る。オイラはつらい仕事を終えて家に帰りたいんだ。tally man(伝票をつける人)さん、バナナを数えてくれ~♪という内容の歌詞が繰り返される。
最もよく知られているバージョンは1957年にニューヨーク出身の黒人歌手ハリー・ベラフォンテが唄いアメリカ合衆国でヒットしたものである。
その歌詞を少し紹介すると、
♪バナナの荷揚げだよ 荷揚げが済め飛んで行きます。
荷揚げが住んだらね ラムでも呑んで待っていてね。あしたの朝までね 気が気じゃないけれど♪とほぼオリジナルと変わらない。
ジャマイカは、産業は砂糖とバナナを中心とする一次産業であったが、イギリスによる植民地主義、したがって奴隷主義の影響を受けて階級色が社会に濃いものであった。
それゆえ「バナナボート」は、そういう過酷なバナナの荷積みを歌ったものだが、ラテン系の明るさとリズムで、それを打ち払わんとした歌に聞こえる。
日本では、「コーヒー・ルンバ」は結構知られた歌だと思うが、かつて西田佐知子さん、最近なら荻野目洋子さんが歌っている。
歌詞を紹介すると、♪昔 アラブの偉い御坊さんが 恋を忘れた哀れな男に/痺れるような香りイッパイの「琥珀色した飲み物」を教えてあげました/やがて心ウキウキ とっても不思議 のムード/忽ち男は 若い娘に恋をした♪という、フシギ・ソングである。
「アラブの偉い御坊さん」とは一体何なのか、琥珀色をした飲み物(コーヒー)が果たして「恋の媚薬」となりうるのか、という疑問は起きる。
オリジナルは、ベネズエラの作曲家ホセ・マンソ・ペローニがコーヒーをモチーフに1958年に作詞・作曲した「Moliendo Cafe」(原意「コーヒーを挽きながら」)という曲で、昼間摘んだコーヒー豆を夜 挽く重労働を描いた労働歌なのである。
日本語の作詞をしたのは 中沢清二氏だが、ラテン音楽を時代を超えてカバーされる歌にしたには、その作詩の奇抜さ卓抜さによるものだろう。
その他に、朝鮮でよく歌われ国民歌謡とまでいってよい「アリラン」は、キキョウを掘る娘を歌った「トラジ」とともに、労働歌して生まれたと言われている。
さて、日本の労働歌でポピュラー化したものはないかと調べると、三輪明宏氏の「ヨイトマケの歌」というのがある。
三輪氏が、小学生時代に土方の子供として差別され、イジメられた体験がベースにあるという。
♪父ちゃんのためならエンヤコラ/ 母ちゃんのためならエンヤコラ/もうひとつおまけに エンヤコラ♪。
「ヨイトマケ」とは、かつて建設機械が普及していなかった時代に、地固めをする際に、重量のある槌を数人掛かりで滑車で上下する時の掛け声であり、この仕事は主に日雇い労働者を動員して行った。
美輪氏によれば、滑車の綱を引っ張るときの「ヨイっと巻け」のかけ声を語源としたという。
「日雇い労働」といえば、「団塊の世代」にとって最もポピュラーな 岡林信康の「山谷ブルース」がある。
しかし、これは「労働歌」というよりも、労働者の歌という方が適切かもしれない。
少し歌詞を紹介すると、♪今日の仕事はつらかった/あとは焼酎をあおるだけ/どうせ山谷のドヤ住まい/他にやることありゃしねえ♪といった哀切な調の歌となっている。
最近の歌謡曲で思い浮かぶのは、北島三郎の「与作」である。
♪与作は木をきる!ヘイヘイHO-!へいへいHOー!♪は、のどかな労働歌ではないでしょか。
北原ミレイの「石狩挽歌」は、歌詞の中にニシン漁をする漁民達の専門語が出てきて分かりにくいのですが、それゆえに単なる「大漁歌」を越えた重厚な歌になっている、と思う。
この歌が、作詞家・なかにし礼氏の実体験を元に生まれたというところにも、重みがある、

人間の歴史全般から見て、朝から晩まで管理された数時間を、毎日働くということは不自然なことである。
聖書では、「智恵の実」を食べた人間がエデンの園を追放されるが、それ失楽園以後アザミとイバラが生じ、男は「働くこと」の苦しみを増し、女性は「産むこと」の苦しみを増すというのがある。
そんな中でも「額に汗して働く」というのが人間の宿命であろうが、人間の人格の一部である「労働」が、切り出されて他者の管理下に置かれるといのは、人間の「自然性」に反することであっただろう。
イギリスで産業革命が起きた時に、大工場で働かせられた最初の労働者は、教育もほとんど受けずにそれまで暮らしていたので、機械を使って働く時に必要な厳しい規律にはなれていなかった。
そこで怠け者とされて厳しい罰をうけたのであるが、この点はイスパニオラ島でプランテーション労働にかり出された原住民と似ているかもしれない。
一般に「サボる」という言葉があるが、これは「サボタージュ」という言葉から来たものである。
サボタージュは、もともとはフランス語の「木靴」(サボー)から来た言葉である。
つまり、機械の歯車に「木靴」を投げ入れることによって、機械を壊したのである。
はっきり言って、ヨーロッパというのは「賃金奴隷」という言葉が20世紀まで残っていたことでわかるように、非常に侮辱的なことであったのだ。
一般にカルビンが資本主義の精神を作ったというが、これは資本家にとっての「富の蓄積」が神の選びを表すとした奇怪な観念である。
ピューリタンが中心となった市民革命も「富を蓄積した」市民の権利(=「所有権」)を守る為ににおきたものであったので、富をもたない「労働者の権利」を守るものではなかったのである。
そしてこういう労働者つまり「無産者」にまで、権利(=「生存権」)の意識を広げていったのがマルクス・レーニンの革命思想であったり、社会民主主義であったっといえる。
ヨ-ロッパでは現在、この社会民主主義が大きな勢力をもち、EU諸国もこれによるところが非常に大きい。

ところで人間と労働のことを考える上で、ヨーロッパで13世紀頃に興った「修道院」がとても重要である。
労働は単純に「労苦」ではなく、神聖なものである。こういう「意識の転換」をもたらしたのが、実はカソリックの修道院なのだ。
ロ-マの時代には、労働は奴隷のやることで現在我々が考えうる仕事をいうものはほとんど軽蔑されていた。しかしローマ帝国の没落は、こうした考えに変革をもたらす。べネデクトの修道院では「祈って働け」がモットーで、労働することは神をほめたたえることで、「祈り」に近いものという位置づけがされた。
つまりベネディクトの修道院では、仕事はもはや奴隷のやることではなくなっていた。
ベネディクトによると「修道士は神の奴隷であるから、古代ローマの奴隷と同じように仕事をするのがふさわしい」ということである。
ところで、修道士達はベネデェクトの定めたルールにしたがって生活したが思わぬ副産物を生む。
神が平等に与えた時間を魂の修練のために有効に使おうという観念を生んだのである。
何もしなければ心が損なわれる。だからきまった時間に手仕事をやり、宗教書を読むことが大切だ。
修道院は、人が自分の時間をどう使うかのお手本を示したといえる。
修道院は人々に「時間の意識」を植えつけ、さらには、時間への意識の高まりが「機械時計」を生むことになる。
つまりは、天体の運行ではなく、機械時計で時間をはかるという画期的なアイデアが出されたのである。
時間は、教会の塔からやや「恣意的に」発せられていたのに、時間は教会の行事と反関係なく動き、「抽象的な自然現象」というものを意識し始めたのである。
時間は、客観化され民衆のもになっていった。つまり「時間が民主化」されたのである。
さらに修道院は一人で自分とむきあう独居房というものがあり、神と我という「個人」の意識を高めていく。
修道院は従来、宗教史ではともかく、社会史の中であまり重要視されていない。
しかし、人々の労働観念、時間観念、個人意識などの微妙な転換を通じて、近代以降の「賃金労働」や「労働者の権利」の観念にも少なからぬ影響を与えたのである。
ヨーロッパには、宗教改革や啓蒙主義が近代社会の始まりとされるが、それより前、意外にもキリスト教・修道院が、「近代への序曲」を奏でていたのである。