民主主義という道具

かつてマルクスは、階級社会を前提とした民主主義は、結局資本家による労働者搾取の「隠れ蓑」であるといったことがある。
市場経済は私有財を自分の判断で自由に活用できるのだから民主主義と相性のいい経済体制である。
しかしそれが「格差社会」を生んでいると言うのならば、マルクスの問題提起は今日の社会でもピタリ妥当しているようにも見える。
小林多喜二などが見直される所以だろう。
ただマルクスの時代は製造業中心で、「生産手段」を持てるか持たざるかにより階級が分かれたが、今日は金融業中心で「情報」を持てるか持たざるかにより「大格差」が生まれる。
またかつての「労働力以外の生産手段」をもたない労働者階級は、今日ある程度の蓄財も可能な広範な大衆消費社会の一員となった。

経済社会における民主主義、つまり市場経済を「ハゲタカ」が荒している。骨の髄まで食い尽くしているといった方がいい。
「ハゲタカ」とはいわゆる企業買収ファンドのことであるが、年金基金の機関投資家や資産家から資金を集め、その資金を元手に企業を買収する。
買収の対象となるのは、経営破綻寸前の企業あるいは実質上破綻している企業、つまりただ同然の企業といって良い。
そういう企業を買い取り事業を再編し、企業の価値を高めたうえで第三者へ売却したり、あるいは株式を上場して莫大なキャピタル・ゲインを稼ぐ。
こういう存在は必要にも見えるが、一旦ハゲタカに狙われるとその会社の従業員はトップから下請けまで容赦なく切り捨てられることになる。
ひところ有名になった村上ファンドの企業買収の仕方もこれと同じ手法である。
標的となる企業の株を買占め、一定水準以上に達すると経営陣を送り込む、さもなければ企業価値を上げろと資産の売却を含む大胆なリストラ案を提示する。
その結果、上昇した株価で売りその利ざやを得て100%をこえる運用実績をほこっていた。
日銀総裁まで村上ファンドにカンデいたのを知って、市場における節度が問われつつあった折りも折り、少々興ざめした感じもあった。
金融経済情報の集積点にいる者はいかようにも金儲けができるのかと思いつつ、他方で日本の金融トップにある公的な立場上での自制もあってはとも思った。
「市場の節度」ということに関し、新自由主義経済学の泰斗であるシカゴ大学のミルトンフリ-ドマン教授の「株の空売り」をめぐるエピソードを思い浮かべた。
「株の空売り」とは、証券会社から株を借りて売却し、その株が値下がりした時点で買い戻す事で利益を得る投資方法である。
例を挙げて説明すると、現在10万円のA社の株を投資会社から借り、その場で売却すれば10万円が手に入る。
その後A社の株が9万円に値下がりした時に、再び買い戻せば、費用は9万円で済む。
これで借りていた株を返却すれば、差し引き1万円の利益が手に入ることになる。株を貸しだす投資会社の方は、手数料が稼げるわけである。
つまり空売りで儲ける為には、通常とは逆に「将来値下がりしそうな株」を狙う事になる。
1965年、フリードマン教授がイギリスの通貨ポンドの空売りをしようとしたことがある。
このときイギリスのポンドが切り下げられそうになっていたので、ポンドがきり下げられる前に今の価格で安売りしておけば、実際に切り下げられた時には確実に儲かるのであった。
ところがその銀行のデスクはフリードマン教授の申し出に対して、「我々はジェントルマンだからそういうことはやらない」と言ったそうである。
この銀行はフリードマン教授が勤めるシカゴ大学のメインバンクだったそうであるが、金融機関の守るべき節度を守ったということだ。
実は大恐慌後の1934年に銀行法が改正され、「銀行は投機という反社会的な行動あるいはそういうプロジェクトに貸付をしてはならない」という条項が入っていたという。
投機がすべて反社会的とは思わないが、少なくともフリードマンは「資本主義の時代に、儲かる時に儲けるのがジェントルマンだ」とカンカンになって怒ったそうである。

最近、世界各国政府のデフォルト危機(信用不安)は、国民の信託した民主政府が自らがコントロールできない「投機的なマネーの動き」に翻弄され続けているということある。
アメリカは東西冷戦時代に民主主義を世界に植えつけようとしたが「鉄のカーテン」に阻まれてきた。
しかし、共産主義の自壊によってようやくその壁は取り払われ、今日にいたるまで東欧圏でも漸次民主化が進められた。
かつての社会主義圏に経済的意味での「民主主義」つまり「市場経済」を普及させようとしてきたのだ。
そういう動きを、(少なくとも私は)お人よしにも「アメリカの良心」として認識してきた。
しかし今日、民主主義と相性抜群の市場経済が世界に転移されて猛威を振るう中、結局「民主主義」もほんの一部のエリート階層の「道具」として存在してきたのではないかという認識に至った。
今日は「情報」こそが「カネ」を動かす最大の「資本」であり、今日の支配的人々とは、「情報エリート」のことである。
ひょっとしたら「民主政体」は(金融)情報エリート率いる「ハゲタカ」が最も与し易い存在であるのかもしれない。
その為にこそ、アメリカ型の民主主義が世界に扶植されつつあるのではという感さえ抱くのである。
アメリカはクリントン政権の時代から、その主力産業を製造業からIT産業や金融業にシフトし、「マネー資本主義」とよばれるようになってきたが、アメリカのマネ-資本主義にとっての最大最後の壁というのは、実はイスラム社会なのである。
少し前まで日本もそういう壁であったが、小泉「構造改革」によって、アメリカの要望どうりに「非市場的」壁はかなり切り崩され、市場万能主義の時代へと転換していった。
アメリカがイラクに「大量殺戮兵器」があるとの理由で侵攻に踏み切った、つまりアメリカは国連も認めていない「疑わしければ罰する」態度の暴挙に踏み切ったが、アメリカが石油の安定した利権獲得の他に、もう一つはマネー資本主義にとってのイスラムの壁を一つ崩そうとしたネライがあるのではなかろうか。
アメリカ軍はイラクが自らの力で再興することを認めず、イラク軍を解体しこの地にも「民主主義」と「市場経済」を根づかせようとしている。
結局、「グロ-バリゼ-ション」とはアメリカの「マネー資本主義」の草刈場を獲得しようとしているにすぎないのである。

アメリカは、民主主義という理念を世界に広げていった。
民主主義は階級や階層に関係なく多数の人々が政治に参加するということだから、特定の権力者が身分的に人々を隷属させ富を独占することができない世界を目指すことを理念とした。
つまり、身分的に高い地位にない新興のブルジョワジーが王や貴族しか得られなかった富を、自分達でも自由に獲得できる社会を作り上げたというのが、市民革命の実相であった。
つまり特権階級に隷属した人々を解放したのが民主主義であり、この多くの人々が消費者あるいは労働者として市場に参加し、これらを新興ブルジョワが支配できる可能性を広げるために「民主主義」を作り上げたと見ることもできないだろうか。
今日ではこの新興ブルジョワが(金融)情報エリートと置き換えていいでしょう。
こうした市場経済の行き過ぎが最も露骨に現れたのがサブプライムローン問題であったが、この問題の背景にはあまねく広がった大衆民主主義がある。
民主主義の根本はアテネの民主政以来「私有財産制」であるが、人々が財産・移転・居住の自由が認められ、しかも誰しもがローンを組む可能性を持ちうるほどの豊かさを享受できる大衆消費社会が実現していたのである。
仮に大衆が貴族の館や畑に、従僕や農奴として生きている身分制社会では、金融技術がどう発達しようと到底こうしたサブプライム問題は広がりようがなかったのである。
サブプライム・ローン問題は、究極的には金融情報エリートが仕組んだマヤカシである。
それは、どんな貧乏人でも家が持てるという夢を喚起することによって始まった。
サブプライムローンは、信用力の低い返済能力がない借り手を対象とする住宅クローンである。
信用がないのだから当然金利は高くなるはずであるが、そのマヤカシの第一段は、当初の二三年は現金・金利返済がきわめて低位に抑えられ、以後返済額が急増するという内容のローンである。
マヤカシの第二段は、金利が上がる三四年後には住宅ブームで住宅の値段は上がっているので、その価格が上がった住宅を担保に借り替えると、もはやサブプライムローン(高い金利)は適用されずに、プライムレート(安い金利)が適用されることになる、というものである。
マヤカシの第三段は、借金が返済できなくなっても家を手放せばそれ以上の債務はなしとするものだったが、新規の住宅を買うにあたってそれを担保に車を買ったり家具や家電を買った為一時的に景気をさらに良くしたが、その分あとで地獄を見る結果となった。
マヤカシの第四段は、住宅ローンを貸した会社(モーゲージ・カンパニー)はそんなリスクの多いローン債権を手元に置かないで、早々と銀行や証券会社に売ったのだ。
マヤカシの第五段は、サブプライムローン債権を買い取った金融機関は、その債権の塊を分割し「証券化」し、小口の金融商品に変えて市場に売りに出した。
そしてマヤカシの総仕上げは、サブプライムローンのリスクを「見えなくするために」他の優良金融商品と組み合わせて売ったのである。
以上の六段階のマヤカシは、専門知識があり情報によほど通じた人間でなければ見抜けない。
実際に格付会社でさえもサブプライムローンの本当の危険性を正しく見抜けなかったのである。
こういうサブプライムローンを仕組んで儲けた(少なくとも儲けようとした)のは、金融的専門知識があり市場の動向にも詳しいきわめて一部の人間であり、大多数の貧民は、住宅価格が低下し始めるやそのマヤカシの被害をほとんど担うことになったのである。
家を手放しただけではすまず、住宅の値上がりで拡大した自動車ローンの貸し出し枠で車などを購入したために、住宅以外のローンや家具や備品の出費の為に、以前よりも悲壮な生活状況に陥っている。
サブプライムローン問題で痛感させられたことは、民主主義とは市場経済と相俟って知識や能力、そこから来る「情報力」をもた人間が世界を支配するための道具なのだということである。
特に、一つの方向に一気になだれ込む傾向のある大衆民主主義社会は、そういう道具となり易いのである。
アメリカはそういう道具(仕掛けを)を世界中に楔のように打ち込もうとしているのであるが、こういう動きにいまだに異を唱えているのがイスラム社会なのである。
今アメリカ側から見て、皮肉にもイスラム銀行が隆盛となっている。
もちろん、たくさんのオイルダラーが入金され、しかも原油が値上がりしているので当然といえば当然なのだが、意外なことにイスラム銀行の「哲学」が見直されつつ面もあるのだ。
もっといえばイスラムの教えからくる一種の「倫理性」が評価されているのだ。
イスラムというは戒律の厳しさで知られているのであるが、それがビジネス哲学にも生きている。
それでアルコール飲料やカジノなどと関係のある企業とも取引をしない。もちろん(汚れた)豚肉を売っている会社なんかはとんでもない話である。
そしてイスラム銀行は、アメリカあるいは日本の銀行のように「投機」というものには乗らない。
日米の銀行では顧客に対して、「金は貸すが失敗したらそっちの責任」といった関わり方しかしないが、イスラム銀行はやる気があるものにお金が無ければ、銀行が生産設備を作りそこで一緒に働きましょうと深く関わってくる。
その作った工場で得られた利益は、銀行と折半しようということになる。つまり金融機関、銀行も出資した事業に対して、責任とリスクを負うということなのだ。
イスラムの世界では、「正当な労働の対価以外は受け取ってはならない」という根強い労働倫理観があるかIT長者なんて生まれない。
またイスラムの世界では、「私有財産権」の概念がもともとないので、根本的に民主主義社会とは言えないのである。
もちろんイスラム社会の中でもアメリカ的ビジネス観に浸されている地域や国もあるが、それに対してシーア派などの原理主義者は大きな危機感を抱いているのである。
世界史の教科書で思うことは、イスラム教徒とキリスト教徒は十字軍等で戦っているのでいつも仲が悪かったと思われがちだが、実は同じ「啓典の民」としてそれほど対立してきたわけではなく、共存してきた時期の方が長いのである。
しかしながら、こういうイスラムの世界は、アメリカを中心としたマネー資本主義から見れば脅威であり強力な壁であり、それを切り崩そうとするのがローバリゼーションの動きなのである。
したがって、グローバリゼーションの動きとテロが連動するのは、むしろ当然の成り行きなのである。