iPad時代の歌とは

先日、新聞に上田正樹が歌った「悲しい色やね」の作曲経過が紹介してありました。
そして、とりまく状況の変化によって「歌いにくくなる歌」とか「伝わりにくくなる歌」というものがあることを知りました。
まずは、突発事態によって歌えなくなりそうになった歌があります。内山田洋とクールファイブが歌った「そして神戸」という曲です。
クールファイブのメンバーは、神戸の大震災で見舞われた被災者の気持ちを考え、震災以後この歌は歌えなくなると思ったそうです。
しかし、神戸の被災者の側から「励みになるから歌って欲しい」という要望が多くあったそうです。
確か、神戸大震災の年にNHK紅白歌合戦で、あえて「そして神戸」が「特別枠」で歌われたと記憶しています。
それでふと疑問に思ったのは、長崎が大水害に見舞われた時、彼らは「長崎は今日も雨だった」というタイトルの曲を歌いにくいとは思わなかったのでしょうか。

歌が伝わりくくなるのは、もちろん時代そのものの変遷が大きいと思います。
1970年にヒットした北山修作詞、杉田二郎作曲の「戦争を知らない子供達」という曲がありました。
あまりにもチョクなのタイトルが新鮮でしたが、今時この歌を知っている人の方が少ないと思います。
つまり「"戦争を知らない子供達"を知らない子供達」の時代です。
つまり「戦争を知らない子供達」という名前をチョクに当てはめにくい子供達が育ってきたということです。
歌の冒頭を紹介すると次のとうりです。
♪戦争が終わって僕らは生まれた/戦争を知らずに僕らは育った。/おとなになって歩き始める/平和の歌をくちずさみながら/僕らの名前を覚えてほしい/ 戦争を知らない子供たちさ♪
終戦以後に生まれた子供達を、「戦争体験なし」としてひとくくりにするとしても、昨今の9・11テロやイラク戦争の画像にさらされっぱなしの子供達は、かなり戦争の話を見たり聞いたりして育っています。
彼らを単純に「戦争を知らない」と言い切るのも、「平和の歌を口ずさむ」というのにも、少々違和感を感じます。
それよりも、「阪神タイガースの優勝を知らない子供達」という曲なら、違和感なくリバイバル・ヒットできるかもしれません。
1969年に新谷のり子さんが歌って多くの人々のこころを捉えた「フランシーヌの場合」の場合、 ♪3月30日の日曜日、パリの朝に燃えた命ひとつ~♪という歌詞は、現代若者にとって「ベルサイユの薔薇」かなんかの世界で、魔女狩りで火あぶりになったフランシーヌという女性がいたぐらいにしか受け取れないかもしれません。
政治活動の中で、学生達が焼身自殺までした時代を、想像することさえできないことでしょう。

歌が伝わりにくくなる第二の理由は、歌の風景がスッパリ変貌することからも伝わりにくいことがおきそうです。
森進一が歌った「襟裳岬」は今や観光地化されてみやげ物屋もできているようです。
♪襟裳の春は~何もない春です~♪というのは、今時あんまりというべきでしょう。
冒頭であげた上田正樹の「悲しい色やね」は、大阪南港という、夜になれば誰も近づくことのないドンヅマリの場所です。
そこで行き場を失った男女がいて、互いに愛を確かめる他はないというシチュエ-ションを歌った歌で、いわば「敗者の悲しみ」を歌った歌なのだそうです。
♪泣いたらあかん泣いたら 悲しくなるだけ~/ホールド ミー タイト /大阪ベイ ブルース♪
ところで新聞によると、大阪南港は再開発で開けたためにもはやドンヅマリの地域ではなくなって、敗者には似合わない開放的な地域に変貌したのだそうす。
また、かぐや姫が歌った1973年のヒット曲「神田川」の風情は、「四畳半の下宿」や「銭湯」が次第に消えていく中で、伝わりにくくなっでいるようです。
私自身が神田川沿いの住民であったからよくわかりますが、神田川の実態はほとんどドブ川で臭かった思い出しかありません。
「四畳半の下宿」や「銭湯通い」は、ある一定の年齢層の人々が共有できる体験だと思います。
ただ私の場合、「ちいさな石鹸」ではなくデカイ石鹸をゴトゴトいわせて一人で銭湯に通っていましたけど。
今時「銭湯をしらない子供達」が多いので、「神田川」も「伝わりにくい歌」のひとつになっていくようです。

歌が伝わりにくくなる第三の理由は、コミュニケーション媒体の変化かもしれません。
中村雅俊の最初のヒット曲「心の色」の冒頭の歌詞は♪受話器のむこうから 聞こえる涙声♪だったと思いますが、最近の子供たちに「電話機をまわす」という言葉は、通じなくなっているようです。
電話機はプッシュフォンであり、「ダイヤルをまわす」のは死語で、あくまでもボタンを「押す」ものだからだそうです。
ダイヤルを「回す」ことは、回した後に元の位置に戻るまでのあのヤリキレナイ時間があり、そこにプッシュにない情感を湧き上がらせるひと時のようにも思えるのですが、いかがでしょう。
もっとも最近では、電話のダイヤルを「回し」もボタンを「プッシュ」もせずに、メール「発信」の「一撃」ですむのかもしれません。
手紙で気持ちを伝え合うというようなカッタルイことは、携帯電話やメールの発達によってほとんどしなくなっているように思います。
特に旅先から絵葉書で気持ちを伝えるなんてことはせずに「写メール」送ればすむことですから。
♪水色は~涙色~♪ではじまるあべ静江の「みずいろの手紙」や♪涙で文字が滲んでいたらわかって下さい♪の因幡晃の「わかって下さい」の世界も、わかってもらえなくなりつつあります。
ところでコミュニュケーションの媒体が変わっていけば、ある一定の位置をしめていた「芸術」や「匠」が消えていくという運命があることに気がつきます。
例えば広告美術の世界でも、宣伝の媒体が変わってしまえばひとつの芸術が失われるのだと思わせられるのが、昔懐かしい「映画看板」の芸術です。
福岡市には全盛期には中洲だけで29もの映画館がひしめいていましたが、映画の人の入りは看板の出来によって左右されるほどであったといいます。
そこで映画看板の絵師がたくさん表れて競い合っていましたが、中でも城戸氏久馬之進氏の看板技術は最高峰といわれ、その絶頂期には全国から訪問者多数あったほどで「芸術」というのに相応しいものでした。
城戸久馬之進氏は1918年2月20日飯塚に生まれています。
尋常高等小学校卒業後に14歳で絵の才能を認められてはいましたが 家庭の事情により美術大学進学への夢ならず商業絵画の工房へ入門しました。
しかし、師より絵画指導をほとんど受けることもなく、見よう見まねで独学で技術を習得し、師匠に認められ18歳で独立します。
その後、21歳の時に招集を受けて戦地へ出征し、4年間の兵役を経て除隊したあと小倉兵器工場に勤め終戦を迎えます。
城戸氏はしばらくの間、商業絵画から遠ざかっていましたが、生活に貧窮し1947年映画広告業界への復帰を思い福岡に出て来ます。
そして、若かりし日の才能に新たなる磨きをかけ、商業美術(特に映画広告業界)でメキメキと頭角を表わし城戸画房を設立し、 多くの弟子を育て優秀な人材を輩出していきます。
我が身の「独学」という苦労を弟子にはさせまいと厳しく徹底した指導にあたったといわれますが、そうした映画広告の技術をもった弟子達も映画広告の仕事をしている人も、ほとんど数えるほどになっています。
城戸氏はその後、自分で興した看板会社を城戸工芸社と改めて長男に会社を任せ、45歳で映画広告の世界から引退して、若き日の夢であった純粋絵画へと邁進することとなりました。
城戸氏は、純粋絵画においても日展に連続続入選するなどして画才の豊かさを示しています。
城戸久馬之進氏の絵画には、博多の祭りを描いたものなども多く、今その絵を再評価し展覧会も開こうという動きが起こっています。
昔の中洲の映画館の風景写真を見ると、ジョン・ウェインやチャールトン・ヘストン、マリリンモンローの身体だけを切り抜いた巨大な絵が立っているのが分かります。
映画看板の絵師にとっては、そうした看板を立てるソナエツケの仕事も大仕事で、絵を描くという繊細であると同時に力仕事でもあったようです。
このことが、映画看板のプロフェッションが衰亡していった理由なのかもしれません。

映画といえば、最近デンゼル・ワシントンが主演した「ザ・ウォーカー」という映画が大ヒットしています。
戦争によって文明が崩壊したアメリカ大陸で、“ウォーカー”と呼ばれる男が、広大な大地を一人歩き続けていた。
バックパックには護身用の短刀とショットガン、そして世界に一冊だけ残されたある「本」を携えていた。
その「本」とは電子化された書籍ではなく、皮の表紙で覆われ、鍵のかかった分厚い「本」であった。
そしてその「本」に触れようとするものは、すべてウォーカーの手にかかって命を落としていく。
以上が週刊誌で読んだ「ザ・ウォーカー」の宣伝文でありますが、この映画監督の製作の意図に電子化され「ペーパーレス」となっていく社会への一つの批判があるのかとも思います。
(まだ見ていないのでピントはずれかもしれませんが)

最近、電車の中でiPhoneを使って新聞を読む人をよく見かけるようになりました。
満員電車の狭い空間で、見事に新聞を折り曲げて読むサラリーマンの「匠」も、もはや不必要になるわけです。
2010年6月にはApple社のiPadがついに登場しました。
幅19センチ、高さ24センチ、厚さ1.3センチ、重さが680グラムのタブレット型のコンピュータです。
電子書籍の閲覧もできれば、ほぼフルサイズのソフト・キーボードや外付けのキーボードが用意されており、文書作成やメールも楽にできます。
デザインがスマートだし、単なる電子書籍リーダーではなくノートパソコン代わりにもなります。
今後iPad登場を境にして、出版業界による電子書籍化はますます進行して行く可能性が高いと思われます。
電子書籍は装丁、紙、印刷、製本、物流のコストがほとんどゼロになり、おそらくコストは紙の本の半分にもならないということです。
紙を作るための木を切り倒すことも、パルプ化する為に大量の石油エネルギーも化学薬品削減でき、紙の本は場所も取るので、居住スペースが広くとれるという利点があります。
環境には間違いなくいいようです。
ソフトバンクの孫社長らは、学校の教科書の電子化、あるいは電子黒板なども教育分野への進出視野に入れて、今後事業を展開していくようです。
しかし書籍文化というのは本のページを開いたときのインクの香り、装丁のしゃれたデザイン、紙の感触、重みといったものも楽しみの一部であるかと思います。
松任谷由美の「卒業写真」とかも、ぶ厚いアルバムがあってこそおし寄せてくる感慨でしょう。
♪悲しいことがあると/開く皮の表紙/卒業写真のあの人は/優しい目をしている♪
つまりiPadの普及などにより、活字文化や書籍文化などが消えゆき「ペーパーレス」という極限の社会に向かえば、「思い出のページををめくる」なんて歌詞も伝わりにくくなるのでしょうか。
いつしか「紙の本」はぜいたく品になって、こういう世界を飾ってきた「匠」といわれる人々の存在も少しずつ消えていく運命にあるのかもしれません。
それでいくと、ペギー葉山が歌ったあの「学生時代」の世界もさらに遠ざかって行くのでしょうか。

♪重いカバンを抱えて通ったあの道/
秋の日の図書館のノートとインクの匂い/
枯葉の散る窓辺/学生時代♪

iPad以降、ここで歌われた「重いカバン」も「ノ-ト」も「インクの匂い」も、電子の世界に吸収されたり軽量化されたりして、ますます伝わりにくい「学生時代」となっていくのでしょうか。
そして社会が「ペーパーレス」となり、将来電子に囲まれた「新学生時代」がどのように歌われるのか、興味深いところです。