「時代」を運ぶ人達

最近、テレビと伴に「時代」を運んでくれた人々が相次いでなくなり、寂しい思いにさせられます。
こういう方々はテレビの黎明期近くを飾った人々でもありました。
日本のテレビ放送は、ケネディ大統領暗殺のショッキングなシ-ンで始まったとかいわれますが、私の記憶の中では「てなもんや三度笠」あたりから始まっています。
1962年、朝日放送で放送開始し視聴率60%を超えた伝説の番組である。
その主役・藤田まこと氏が最近亡くなりました。
主人公の藤田実さんは「はぐれ刑事」のイメ-ジがすっかり定着してコメディアンのイメ-ジから遠いのですが、その風貌の中に、白黒テレビだった当時の「時代」そのものを運んでくれる貴重な人であったような気がします。
番組の中で藤田まことが発する「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー」というフレーズはあまりにも有名で、いまでも記憶に残っています。
それと相手を威嚇する時に「奥歯ガタガタいわすぞ」といった藤田の言葉も記憶に残っているから、それだけインパクトがあったのでしょう。
「てなもんや三度笠」は、現在も活躍する芸能人の若き日の姿オンパレ-ドで見られるので、DVDでみるとタマランものがあります。
「あんかけの時次郎」(藤田まこと)が主人公で、顔が長いことから「馬」扱いされるのが定番でした。
珍念(白木みのる)は、時次郎とともに旅する小坊主で、ハリのある声でトボケタことを語り大うけだったように思います。
写真師・桜富士夫を演じた財津一郎は途中から出演するのですが、体を極度に硬直させ発する「キビシー!」「ちょーだい!」などのギャグは、今振り返ると高度経済成長期をむかえつつあるサラリーマンの哀感を体現していたようにも思います。
何かに「感電」したような、何か「狂気」のようなギャグでしたが、財津一郎という生真面目な人間が「お笑い」を演ずると、逆にこうなっちゃいます、ということなのでしょう。
その他、ミャ-ミャ-と強烈な名古屋弁でまくし立てた南利明演じる鼠小僧次郎吉も、関西系の語りの中で異彩を放つものでありました。
そして謎の女「まゆみ」は野川由美子が演じ、結構美人ではありながら一筋縄でいかないただならぬ雰囲気はその頃から漂っていました。
野川由美子という女優は、どこか危険なニオイのする女優ですね。
そのほか山岡鉄太郎(鉄舟)役の里見浩太郎、近年「山下清」を演じた芦屋雁之助は彰義隊隊長を演じ、江戸の町を救おうと彰義隊に解散を求めるがその要求に応じようとはせず、幕府軍と官軍は上野で戦争をすることになりました。
そのほか、三波伸介・戸塚睦夫・伊東四朗の「てんぷくトリオ」も出演して、浪曲師まがいの薩摩藩士を演じたのが玉川良一が登場したりしていました。
要するに「てなもんや三度笠」は「超豪華キャスト」の超アリエヘン番組であったのです。

時代をはこんでくれる人といえば、 映画「無責任」シリーズに主演した植木等もその一人でした。
植木氏は何より高度成長期の「オ-モ-レツ」の時代をどこか茶化したような人物像を演じて一世を風靡しました。
東京大手町の会社が舞台となっていましたが、銀座、有楽町や新橋などの昔のサラリ-マンの「アフター・ファイブの聖地」が映画の舞台として登場するのも、今見るとなかなか見ごたえががあります。
植木等は、クレイジー・キャッツのメンバーとして歌手として「スーダラ節」「ハイそれまでヨ」などの大ヒットを飛ばしたコメディアンでした。
「無責任男」とは言いながら、実際にはけして無責任ではなく、実は細やかな気配りをしていそうな人物で、そこが人気の秘密だったのかもしれません。
ちなみに植木氏の父は三重県の浄土真宗・常念寺の住職で、幼少時代から僧侶の修行に励んでいたが、音楽青年だったことから東洋大学卒業後、1957年にハナ肇さんが結成した「クレイジーキャッツ」に参加しました。
クレイジーのメンバーと出演したバラエティ番組「シャボン玉ホリデー」では「お呼びでない」など数多くのギャグを大流行させ、また1961年には、青島幸男氏作詞の「スーダラ節」が大ヒットしました。
植木等も日本のテレビ黎明期を支えたといってよい一人で、今日にいたるまでも「時代」を運んでくれる一人であったといえましょう。
ちなみに植木氏の付け人だったのが、後に「電線音頭」で一世を風靡するまでには「至らなかった」小松政夫です。
小松氏の家は現在の国体どうりの川端町「かろのうろん」のそばの煩雑なマ-ケットのある付近で、時々に櫛田神社を訪れる露天商の口上を、サクラの存在をも観察しつつよく見聞し、それらが自然と身についたと語っています。
福岡高等学校・定時制を卒業し、1961年に俳優を目指し上京しました。
魚河岸などさまざまな職業を経験し、横浜トヨペットのセールスマン時代に公募により植木等の付き人兼運転手となり、その後芸能界入りしたのです。
小松氏は帰福すると、国体道路に面した「かろのうろん」でゴボウ天うどんを食べるのだそうです。それは「少年時代の味」そのままだと言います。

最近(2010年1月)、アッツ!と思ったのが浅川マキさんの訃報でした。
そして、それは本当になつかしい名前でした。
高校時代に吉塚の質屋のドラ息子が、「俺が大人の女の魅力ば、おしえちゃるケン」といわんばかりに浅川マキの「アルバム」を半ば無理やりに貸してくれました。
そして「アルバム」を聞いた私は、その夜「ぞくぞくウっ~」ととても素直に反応し、これが大人の女たい!本当のブル-スたい!山笠があるけん博多たい!と確信したオボエがあります。
ただビートルズやロ-リングスト-ズに夢中な青少年からにはあまり注目されることはなかったようです。
私にとってブル-スの女王とは、ゼッタイに青江美奈ではダメで、まして「窓をあければ~」の淡谷のり子なんぞはトンデモなく、「ふしあわせという名の猫」の浅川マキその人なのでした。
浅川マキは、横浜の本牧のクラブあたりで歌っている感じがしましたが、その経歴を見ると意外や、石川県の町役場で国民年金窓口係の仕事をしていたそうです。
職に就くも程なくして上京し、マヘリア・ジャクソンやビリー・ホリデイのようなスタイルを指向し、米軍キャンプやキャバレーなどで歌手として活動を始めました。
その浅川を見出したのが寺山修司で、新宿のアンダー・グラウンド・シアター「蠍座」で初のワンマン公演を行いクチコミでその名前が広がっていったようです。
そういえば浅川マキには寺山修司作詞のヒット曲「時には母のない子のように」の曲想を思わせるものがあります。
なにしろ高校一年時に授業が中断されテレビで「浅間山荘事件」を固唾を呑んで見ていた世代です。
世の中で「正義」ナンゾ唱えて情熱的に何か行動することがどんなに恐ろしい結果を生むかということをガツンと叩き込まれた世代です。
大学にはいってからも若者が方向性を見出せずになんとなく閉塞し、世の中への関心をもたないで過ごしていたように思います。
そんな時心を満たしてくれるのは「メッセ-ジ・ソング」などといわれるものではなく、まして過激なロックでもなく、このようなブル-スだったように思います。
(その頃はいまだジャズに目覚めていまでんでした)
そのうちに「我らの時代」は「シラケ世代」とよばれるようになりましたが、淺川マキの「かもめ」や「赤い橋」や「ちっちゃやなころから」の少し投げやりなアンニュィを含んだ雰囲気にひきつけられました。
そういうわけで浅川マキは、当時の「時代」を今に運んでくれる貴重な歌姫であったように思います。

日本人全般にとって「時代」を運んでくれる人といえば作詞家の阿久悠氏以上の人はいないような気がします。
歌謡曲全般にいえることかもしれませんが、阿久氏作詞の曲が流れると当時のことが風景や雰囲気がそのまま蘇ってくる感じがします。
人の心を豊かにする芸術は色々ありますが、その時々の生活に彩りを与えてくれたという意味で、阿久氏の存在の大きさを思わせられます。
そして何より驚かされるのは、阿久氏の曲の多彩な広がりです。
思い浮かべるだけでも、時代とマッチする歌や、あえて時代と逆行する歌、孤独を楽しむような歌、そして奇想天外なハイテンポな歌などなどです。
、 尾崎紀世彦の「二人でドアを閉めて、二人で名前消して、その時心は何かを話すだろう」(また逢う日まで)のように男女同権の時代にマッチしていて、しかも別れをとても明るく歌った歌があります。
一方、都はるみの「着てはもらえぬセーターを 寒さしのいで編んでます」(北の宿から)では、今時、絶対にいないような女性を歌い、あえて時代と逆行してみせました。
しかし阿久悠の名前を不動にしたのは都倉俊一とく組んだピンクレディーのヒット曲だったと思います。
私も東京板橋区成増の商店街に営業に来ていたデビュー直後のピンクレディーのお二人に出会ったことがありますが、あの二人があんな「モンスタ-」になろうとは思いもよりませんでした。
何しろお二人は、とても「ポテトチック」だったからです。つまり「イモ」だったのです。
「イモ」を「黄金」に変えるプロデュ-スの力というものを思い知らされますし、同時にテレビそのものが「モンスター」なのだということを痛感させられます。
歌詞の斬新さも従来にないようなものでした。
なにゆえに「ペッパ-警官」なのか。
阿久氏が歌詞に登場させる警官の名前をつけようと考えていたら、テ-ブルの上に「ペッパ-」と名のついた飲料があったからなのだそうです。
その飲料の刺激度のせいかどうかは知りませんが、警部の発する注意が「あなたの言葉が注射のように私の心にしみている ああきいている」というものでしたネ。
さらに私が日本の歌謡曲史上最も斬新と思ったのが「UFO」の歌詞でした。
何しろ歌の主人公は「地球の男にあきてしまった」というのですから。
一体、この女性はどんな欲望(欲情)を抱いているのでしょうか。
(あっそうか。この女性も地球人ではないのか)
さらに、どこか遠いところで心の傷口を癒すために北の故郷に帰る女性を書いた「津軽海峡冬景色」とか、寂しい漁村で自分の過去の傷をひっそりとふりかえる男を歌った曲「舟歌」なども、日本人の心にいつまでも響く名曲だと思います。
阿久氏は淡路島で生まれで少年時より野球を愛し、その体験を小説「瀬戸内少年野球」に書きました。
阿久氏はそれにより直木賞を受賞していますが、高校野球に関する詩を数多く書き、新聞でいくつか発表しています。
しかし野球好きの阿久悠氏にとって本人さえ予想しないロング・ヒットは、山本リンダの「狙い撃ち」ではないでしょうか。
何しろ高校野球の歴史が続いて行く以上、「狙い撃ち」は甲子園のアルプススタンドで永遠に演奏され続けることでしょう。
実は山本リンダが「狙った」のは外角高めのストレ-トなどではなく「玉の輿」だったのですけれど、阿久悠氏の「野球好き」の魂がこの曲に乗り移ったという他はありません。
♪ウララ ウララ ウラウラで~♪
♪ウてよ ウてよ ウてウてよ~♪