小沢開作がいた

現在、尖閣列島の領有権問題で、中国で「反日感情」が高まっている。
この反日感情は、日本が歴史的に中国に侵略した事実と分かちがたく結びついているとしても、中国政府による国内不満の「ガス抜き」という感じはどうしてもぬぐえない。
問題は、時々行われるガス抜きが、誤って「大爆発」しないよう注意することである。
そんな折り、かつて戦争中、「反日感情」の真っ只中で、日中の「架け橋」になろうと夢をみて活動した人々がいたことを思い浮かべた。
ある時期までは、「李香蘭」の名で知られた日本人女優・山口淑子もそのひとりであったのだろう。
また、小沢開作という人も満州の地にあって、そういう夢をハカナクも信じた人であった。
小沢開作といってもその名を知る人はそう多くはないかもしれないが、世界的な指揮者小沢征爾の父にあたる人物である。
開作の次男はドイツ文学者・小沢俊夫であり、俊夫の子供がミュージシャンの小沢健二であるから、小沢開作の周辺人物は、我々にとって結構馴染みがある。
この小沢ファミリーの歴史は、戦争中に日本からの多くの移民先となった中国の東北・満州の地と分かちがたく結びついている。
小沢開作は、この満州の地で歯医者の仕事をしながらも、この地を「理想郷」とすべく若い日本人移民団のリーダー格として、また同時に現地の満州人とも運命を共にしようとしたのである。
「領有権」といえば、中国から奪い取った満州の地で日本政府が打ち上げた「五族協和」「王道楽土」のスローガンもなかろうが、なにしろ満州は、漢民族とは違う満州族すなわち「ラストエンペラー」の故郷であり、彼らは絶えず漢人より略奪され生存権を奪われるという状況にあった。
満州族すなわち女真族は清王朝をつくった民族であるが、長年支配層として漢民族にのぞみ、当然彼らの反感をかっていたことが想像できる。
そこで昭和恐慌による経済破綻にあえぐ日本人がこの地に移住して「五族」すなわち日本人、朝鮮人、満州人、モンゴル人、漢人が平等に仲良く暮らす社会を、日本が満州の現地人を助けつつ建設していこうという「理想郷」が宣伝され、それを信じて多くの日本人が移住していったのである。
ところで小沢開作と妻さくらとの間に出来た三男・小沢征爾の名前の「征」と「爾」は、満州に進出した日本陸軍の関東軍高級参謀・石原莞爾と板垣征四郎の両者の名前からそれぞれ一字をとって名づけられた。
当初の「理想郷」が遠く霞んでしまう出来事となった1931年の「満州事変」は、戦略家・石原の原作、脚本、演出によるものであるが、どんな鬼才・演出家があろうが、これを舞台に乗せられるプロデューサーなくしては、現実のものとはならない。
張作霖爆殺事件で更迭された河本大佐の後に、満州にやってきた関東軍・高級参謀・板垣征四郎の役割が、それであった。
石原・板垣は、名コンビといわれたが、なぜか東京裁判では板垣のみがA級戦犯として裁かれ、石原が責任を問われることはなかった。
満州国は石原の頭脳が生み出したといっても過言ではないが、石原は 満州以上に戦火が拡大することを望まなかった。
(石原には、日米決戦という世界最終戦争の戦いに備えて力を温存しておこうという独特の世界観があった)
小沢開作は、当初この石原・板垣コンビに心酔して、南満州鉄道の若手社員で結成された「満州青年連盟」と活動を共にしたのである。
つまり満州国の理想「五族協和」「王楽道土」を実現すべく、そこに活動する人々の「イデオローグ」的役割(内面指導)を果たしたのである。
そうなると、一体どんな「小沢開作像」が浮かぶか。
見ようによっては、満州の荒野に浪漫を求めた日本男児、軍部の手先、満州浪人の親玉ぐらいにしか映らないかもしれない。
我々は、結末から時間を遡及しつつ歴史的出来事を判断するので、どうしても単色の色つきメガネで裁いてしまう傾向があり、当時の時代の趨勢や人々の真情を想像することをスキップする傾向がある。
戦後、理想郷であるハズの「満州国」は、日本軍部がでっちあげた大ウソで、謀略と軍事力を駆使して中国を侵略した、日本の「傀儡国家」ということになった。
「五族協和」や「王道楽土」という言葉を日本の帝国主義的侵略を覆い隠すスローガン、あるいは侵略の「旗印」ソノモノと見てしまうが、しかし、実際は「五族協和」の精神を胸に、素朴にそれを現実のものにしようとした人々が少なからずいたのである。
この小沢開作という人物は、そうした理想を素朴に信じ実現しようとしたヒューマニストであったといってよい。
一方で、”喧嘩の小沢”とよばれるくらいに、東条英機ら軍人ともよく喧嘩したという。
しかし小沢の夢も、満州を支配した軍人や官僚たちによって次第に裏切られていく。
結局、小沢開作と官僚・軍人達との齟齬の理由は、満州が単なる日本軍の労力給源、軍馬給源、宿営拠点といった「兵站地」と化していったということではないだろうか。

ところで中国大陸への青少年移民は、正式には「満蒙開拓青少年義勇軍」とよばれた。「軍」では現地の人々の誤解を招くので「隊」と言い換えられたりした。
この義勇隊の国内訓練所は茨城県の内原に設けられ、「内原訓練所」とよばれた。
資格年齢は17歳から19歳で、学校の担任の勧めで多くの青年が志願した。
一般開拓民約22万人、義勇隊員約11万人が断続的に満州に送りだされたが、「百万戸移住計画」によると、移民用地はなるべく先住民に悪影響を及ぼさないように「考慮」して入手することになっていた。
しかし実際には現地の人々に「悪影響」を与える土地が多かったのである。
1942年の入植土地のうち32パーセントは既耕地であり、三千二百個の中国人農家から根こそぎ 農地を取り上げたことになる。
広大な沃野に散在する農地はガソリンをかけて焼き払われ、そこに生じた広大な農地が「満州開拓」の為に用意されていった。
土地には一応金を払い「合法」の名目を保ったものの、その金はきわめて安かった。
だから多くの現地人にとっては、開拓団員は「侵略」の手先にしか映らなかった。
だから、農地を取り上げられた農民達は武装して開拓団をしばしば襲ったのである。
小沢開作らが満州で見た夢は、農業指導をし、現地の人々共に農地を開拓し、種を植え、作物を育て、道路を作り、町を作ることであった。
小沢開作のように現地の人々への医療活動も行ったり、協働で助け合った者も少なくはなかったにせよ、開拓団が現地の人々に受け入れられるには相当無理があったことは確かである。
小沢開作はその働きの多くを人に語らなかったが、夫人の小沢さくらさんが書いた「北京の碧い空を」(角川文庫)などによってその一端を知ることができる。
中国には唐辛子だけを売って生活しているような貧しい集落がたくさんあって、それらの村を日本軍が占領した。
その上に鉄道も占領してしまったので生活に困っていたが、そこで開作がトラックなどを村に提供して、唐辛子をどんどん外に売りさばく手助けをした。
そういうことをあちこちの村でやり、村民から感謝の 銅板をもらい、そこには20ケ村くらいの名前と共に小沢開作の名前が刻んであったという。
またこの地に日本人移民と同じように来ていた朝鮮人の農民が中国人に虐殺されたことがあったが(万宝山事件)、その時傷ついた朝鮮人を助けたりもした。
ちなみに、この本に掲載されている写真は小沢征爾ファンにはとても貴重なものが多い。
国際コンクール入賞後の小沢征爾がバーンスタインと共に凱旋帰国した時の写真、小沢氏の伴奏で5歳の佐藤陽子がバイオリンをひく写真、成城学園で松尾勝吾(天才ラガー松雄雄二の父)や後の歌手・小坂一也とラグビーをしている写真などもあった。

満洲国は、1932年から45年までのわずか13年間、現在の中国東北部に存在した国家である。
そして、満洲の経営は、まずは農地の開墾から始まった。
彼らは、現地の人々に農業指導を行い、また自ら率先して、農業を営み、原野しかなかった満洲での農業生産高を劇的に向上させていった。
その為には、大がかりな水利事業が必要で、大規模なダムを次々と建設していった。
なかでも「豊満ダム」は、高さ90M、長さ1100M、「東洋最大級のダム」であった。
ダム建設によって、まず満洲の水害が減り、治水が可能になり、これにより、農業がいっきに振興し満洲やその周辺に電力を供給することが可能になった。
そして、もともと広大な原野に過ぎなかった土地が、首都長春(新京)を中心に奇跡のような発展を遂げていく。
満洲については、1931年の柳条湖事件に端を発した満州事変と、それ以降日本陸軍の満洲占領をきっかけとして、1932年の満洲国建国が行われるに至る経過のみが語られることが多いが、その満州国の発展ぶりについては、あまり伝えられていないような気がする。
日本が開発した夢の超特急「あじあ号」は、当時の蒸気機関車の水準をはるかに上回る最高時速120kmで走行し、しかも、当時の機関車でありながら、冷暖房完備であった。
鉄道敷は、年間600kmも延長され、新京、奉天、ハルビン、吉林、チチハル等の都市が建設された。
首都・新京では、百万人都市となるべく計画が進められ、電気、上下水道が完備し、東洋初の水洗便所が整備された。
その他、銀行が生まれ、小中高の学校が設立され、重工業地帯が整備され、農地は整備されかつ拡大し、病院ができ、道路ができ、空港や港ができていった。
1934年には国立新京法制大学、1937年には建国大学などが建立された。
満州国建国の時点から時代を溯ると、まず1895年のロシアを中心とした「三国干渉」が思い浮かぶ。
日清戦争で租借した遼東半島を清に帰すと、即座にロシアは遼東半島を清から取り上げて、これを自国の領土にしてしまう。
そして奪い取った旅順港に、ロシアは太平洋艦隊を停泊させ、満洲もいっきにロシアの支配下に置いてしまう。
さらに、三国干渉以降、ロシアになびきはじめた朝鮮国王の妻の閔妃などが、日本が開発した鍾城・鏡源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権など、朝鮮国家の基盤ともいうべき権益をロシアに売り払い、むしろ率先してロシアを朝鮮半島に引き込もうとした。
そういう情勢を背景に、1904年日露戦争がおきるが、周知のようにアメリカの仲介で日本が勝利し、ポーツマス条約によって、満州・長春より南の鉄道とその沿線の権利は、日本のものとなった。
ところで、前述のように満人たちしかいなかった満洲に、漢人が進出してくることにより、泥棒、窃盗、強姦、集団による暴行、残虐なリンチなどが横行していた。
そのために満州人は漢族と対抗するために得意の馬を駆って、そうした盗賊団を退治するための自警団を作った。
これが満洲の馬賊で、次第に「反日」と化した馬賊は、「軍閥」を名乗って、日本排除のためと称して活動をエスカレートしていった。
もうひとつ複雑なのが、当時の満州の地に、共産パルチザンが多数いたことである。
彼らは、ロシアの国際共産党コミンテルンの指令に基づいて活動していたのである。
こういう厳しい情勢の中で、自分も10町歩の地主になれると信じて、日本人開拓団が移民したのだから、当初抱いた理想と現実のあまりの違いに裏切られ、"生き地獄"を体験するような者も多かった。
実際に、長春や奉天では、中国人の警官が、日本人を見ると袋叩きにしたり投石したりした。
結局、日本が満州鉄道鉄道周辺の権益から「満州国建国」へと一気に突き進んだのは、そういう不穏な情勢すなわち「満蒙の危機」があったのだが、客観的に見ると随分と日本の「都合のいい」言い分である。
そして、日本軍は、満洲鉄道の線路を爆破する柳条湖事件を起こし、事件を張学良軍閥のやったことに見せかけ、反撃を開始し満州全土に軍を展開する。
これが満州事変である。
しかしそれ以後、小沢開作は満州が軍人と官僚の国になってしまった現実に挫折し、奉天を去り北京へ向かった。
ところが小沢家が北京に移り住んでらからも、日本人や朝鮮人に対する暴力が広がり、小学生が学校に通うにも、関東軍による保護が必要であり、あまりに不穏な情勢の中で、学校を閉鎖することもあった。
ついには、小学生の通学を領事館警察隊が護衛しなければならないという、異常な状態まで日常化してしいった。
小沢家が日本に帰国する直接のきっかけとなったのは、開作がだした雑誌「華北評論」が、かなりツッコンデ軍を批判することを書いたために「発禁処分」となり、本屋に出てからすべて回収しなければならなくなることが続いた。
また、出版の関係者が憲兵隊にひっぱられることが多くなってからだという。
また、母親のさくらさんからすれは、生まれた4人の子供には日本で教育を受けさせたいという気持がはたらいた。
小沢開作は、華北臨時政府の「内面指導」のための組織である新民会を支えるが、そこでも失望した開作は1944年に帰国し、その後二度と中国の土は踏まなかったのである。

帰国してからの小沢は、東京立川で生活したが味噌の会社をやったり、友人に誘われてミシン会社などをしたが、いずれもあまり成功することができなかった。
立川の生活では、交流のあった文芸楊論家の小林秀雄ととっ組み合いの喧嘩をしたりしたという。
ある日、小沢邸にやってきた小林秀雄は応接間に飾られた壺を「こいつは偽物だ」と言って叩き割った。
小沢にしてみれば、中国人から貰って「偽物と分かっていて」飾っていて、小沢氏には小沢なりの(政治的?)意図があったが、小林の審美眼からすれば許すべからざるシロモノだった。
また、小沢開作は要注意人物としてマークされたが、特高警察と話をするうちに彼らも次第に引き込まれ、開作のファンになっていったという。
そして雑誌の記者をしたりした後、川崎で再び歯医者をはじめた。「歯医者復活」である。
ところで、三男の小沢征爾は小学校4年生頃ピアノをはじめたが、ミシン会社をやるために一家が小田原に移った頃6年生になって本格的にピアノを習い始めた。
戦後の小沢開作は、市井の一歯科医として生きていったが、唯一際立ったエピソードは、指揮者として世界的に有名になった息子にお膳立てしてもらい、ロバート・ケネディと面会したことである。
JFKの弟であるロバート・ケネディは暗殺さえなければ、当時米国大統領に一番近いところにいた人物であった。
小沢は、当時のベトナム戦争に直面した米国の危機が、日本の体験した満州の苦い経験に酷似する様を建白したという。
1970年11月21日、小沢開作は突然に亡くなった。
開作の死の三日後、三島由紀夫が自衛隊市谷駐屯地で自決している。