白い国から来たオヤジ

ここしばらく、短期間で政権を投げ出したり、親の七光りを政治力としたり、こうも存在感の希薄な首相が続くと、「三角大福」の時代がなつかしい。
中でも、田中角栄のような存在感ある首相は、もう表れないのでしょうか。
田中氏は新潟の牛馬商の息子であり学歴といえば高等小学校卒である。上京し夜間学校で建築を学び資格を取り、土木建築会社を設立して成功した。
その後政界に入り、史上最年少の若さで総理大臣になった。
東大卒だらけの大蔵省で、大蔵大臣になった時の田中氏の挨拶は次のとうりであった。
「私が、田中角栄がある。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政、金融の専門家揃いだ。私はシロウトだが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささかの仕事のコツを知っている。
一緒に仕事をするには、お互いよく知り合うことが大切だ。我はと思わんものは、誰でも遠慮なく大臣室に来てくれたまえ」
田中氏は、高学歴の役人の「優秀性」も「限界」もよく知っていた。
優秀性というのは、明治の太政官布告以来積み重ねられ、項目別に整理されてきた情報、ノウハウの蓄積であり、限界というのは、役人は自分達の視線の高さでしかものを考えられないということ。
田中氏は鳥瞰図、つまり高い空から全体をみるような視点を提供するのだと、常日頃早坂秘書に語っていたという。
そして、それは役人の発想ではできない数々の「議員立法」に表れている。
最近、テレビ番組「情熱大陸」に建築家の安藤忠雄が紹介されていたが、安藤氏は工業高校卒のボクサー崩れであるが、自分の事務所に研修に来る何人もの東大卒の建築志望に自分が体で覚えたことを伝えようとしていた。その姿と重なるものがある。
ところで、田中首相が総理になった時に、「庶民派首相」として田中ブームが起きたのを憶えている。
田中角栄氏をモデルにしたような映画や小説やテレビをいくつか見た。
一番印記憶に残るのは、森光子、堺正章、樹木希林、浅田美代子らが出演した「時間ですよ」という番組で、田中角栄そっくりさんが「ヨッツ」と右手を上げながら銭湯に通ってくるシーンであった。
テレビ番組「時間ですよ」を知らない世代に解説すると、銭湯を経営する家族と従業員を描いたドラマで、「時間ですよ」は番台に主人が上る「時間」を示している。
この銭湯を舞台に、最年少、学歴なし、の首相が通ってくるという設定で、国民が庶民派首相誕生に「新鮮さ」や「痛快さ」を抱き、期待歓迎したのは、この番組に「そっくりさん」が登場したことにも表れていた。
というか田中角栄は、地域のどこにもいそうなちょいと金回りいいオヤジさんの「高性能充実バ-ジョン」であったわけです。
田中角栄氏は「議員立法」をいくつも行い、官僚主導にはさせなかった政治家らしい政治家であったともいえる。
ジャーナリストの立花隆のレポート「田中角栄の研究〜その金脈と人脈」が文芸春秋に掲載され、さらに田中氏はロッキード事件の刑事被告人となりそのイメージは地に落ちたが、田中氏の人生を切り取ってみれば、「曙の明星」のごとき光彩を放つ断片がいくつもある。
政治があまりにも面白くないので、「元気づけ」にその3つの断片を紹介しよう。

田中角栄の選挙区に10万人の会員を誇ったのが、田中氏の空前絶後の後援会組織「越山会」であった。
その「越山会の女王」といえば、後援会の金庫番といわれる佐藤昭子という女性である。
この方「私の田中角栄日記」という本を書かれている。この本のタイトルは「私の」できるのか、「私の田中角栄」できるのか、微妙にニュアンスが違うが、その一エピソードがとてもロマンチックだった。
佐藤昭子女史が青年代議士田中角栄を知ったのは、田中氏が最初の立候補した終戦間もない1946年4月の総選挙の時だった。
この時、田中氏は進歩党から立候補したが惜しくも次点落選となった。
佐藤女史が、生家の柏崎市の雑貨店で店番をしていたところに、「今度立候補した田中です」と店内に入ってきたのが当時の田中角栄候補だった。
鼻の下にちょび髭を生やし、どう見ても50歳くらいに見えたと言う。
あとで27歳と聞いてビックリしたが、17歳の佐藤女史、つまりそこにいた越山会女王の「女子高生バージョン」とは十歳違いだった。
当時、佐藤女史には婚約者がいたが、その青年が田中氏の応援弁士を引き受けたのが縁の始まりだった。
佐藤女史は、数学の教師になりたくて東京の大学に入学した。
しかし戦争のため勉学はままならず、郷里に帰って婚約者と結婚した。結婚後再び上京するが、あまりの自堕落夫であったが為に離婚した。
1950年代初めに目白に近い雑司ケ谷の借家に住んでいた時、その借家の前に突然大きな外車が乗りつけた。車から降り立ったのが田中角栄であった。
田中氏は、旧知の佐藤女史のそれまでの苦労話を聞き、だったらオレの秘書になってくれと頼んだという。
佐藤女史は商人の娘だけあって頭の回転がよく、人あしらいもうまかった。
秘書としてはうってつけということであったろう。
外車に佐藤女史を乗せ、最初は池袋の喫茶店に入ったがどうも落ち着かないので、注文したコーヒーが来ないうちに店を出て、本郷にちかい白山の料亭にいった。
この時、田中氏35歳で、佐藤女史はまだ24歳だった。
この辺の不器用さで推測できるのは、国会議員になった田中角栄の心の内に、佐藤昭子女史へのヒメたる思いがあったのでしょうか。
まるで白馬に乗った王子様が迎えに来たような話ですが、田中角栄を王子様というのは全世界、古今東西の王子様に大変失礼なので、「白い国(雪国)からやってきたオヤジ」ということにしよう。
(オージではありません)

ロッキード事件以後、田中角栄を「戯画化」した映画や劇、テレビドラマがいくつもつくられた。
例えば、劇作家の飯沢匡には、田中角栄の金脈事件をモチーフとして「多すぎた札束」などの作品がある。
しかし、演劇界は大いに田中角栄に感謝しなければならないことをご存知でしょうか?
実は日本における「ウエストサイド物語」の公演には、田中角栄氏が深く関わっている。
それは田中氏と現在「劇団四季」を主宰している浅利慶太氏との出会いがきっかけであった。
1960年代はじめの日本には、外貨規制というのがあって、外貨を使うにも一つの団体で使える枠というものがあった。
朝日新聞で年間数十万ドルで、NHKもその程度の枠をもっていた。つまり、それをもつ組織は、文化界の中では特権階級にあたる。
その枠を一つ一つ定めている大蔵省であり、その時の大蔵大臣が田中角栄である。
日生劇場に所属する浅利慶太らが中心になり、「ウエストサイド物語」の日本公演を実現しようという動きがおこった。
ところが日生劇場は後発の劇場であり、そんな外貨枠などあるはずもなかった。
しかしこのハードルを越えなければ、せっかくまとまりかけた「ウエストサイド物語」招致の話も、スタッフや役者への支払いが出来ないということになる。
困り果てた浅利氏は、朝日新聞の政治部次長だった人物に相談すると、その人物は自民党の担当デスクであったがために、田中氏に電話でかけあってくれることになった。
浅利氏は、定例記者会見が終わスタスタと大臣室に戻った田中氏をネラッて訪ねると、田中氏は「座りたまえ 用件はなんだっけ」と聞いてきた。
浅利氏は手短に「ウエストサイド物語」の紹介をして、これを招きたいので日生劇場に外貨の特別枠を認めていただけないか、と頼んだ。
それに対して田中氏は、そんな「不良の話」をやったら、逆に日米関係を悪くしないのかと尋ねた。
浅利氏が、戦後アメリカの文化はこういう形ではいってきたことはない、日本人もアメリカ人の芸術的感性に打たれるはずだと説明すると、田中氏は、わかったなんとかしようと答えた。
そして田中氏は浅利氏に、お前さんたちの道楽のために外貨が減ったんではしょうがない、ほどほどにしてくれたまえ、とクギをさした。
そして田中氏はすぐに電話をとり、当時の大蔵省為替局資金局長を呼んだ。
局長が1分後に現れるや、「ここにいらっしゃるのは、日生劇場の浅利慶太さんだ。今度アメリカから”ウエストサイド物語”を招かれるという。この作品は傑作で、日本人が見るとアメリカ文化への理解が深まるだろう。新しい文化交流のあり方として重要なケースだから、10万ドル外貨の特別枠をつくってあげてくれたまえ」と語った。
浅利氏から見て田中氏は、なんだすべて知っていたのか、と思わせるほど明快な指示であったという。
とにかく、これで話はついた。
浅利氏が深々と頭を下げると、田中氏は「よっしゃ じゃあな!」といって右手をあげて別れた。
この間、わずか5分間であった。
これ以後、浅利氏は田中氏と会ったことはない。
浅利氏が、先述の朝日新聞政治次長に聞くところによると、田中氏は陳情があっても即刻物事を決したりはしないそうだ。
かならず事前に何がしかの情報をえているのだという。
となると、「ウェストサイド物語」の情報源は一体何だったのだろうか。
当時、田中角栄氏には20歳の可愛がっている娘がいた。
この娘さんは、演劇好きで1968年から1年間、福田恆存の劇団「現代演劇協会・雲」の研究所に入って女優修業をしていた。
そして彼女は日生劇場の「櫻の園」に出演したことがあるという。
田中氏の「ウエストサイド物語」日本公演の協力の背景には、この女優の娘の存在があったということかもしれない。
もちろん、この娘さんの名前は田中真紀子さんです。

1950年代に入り、建設省は活況を呈しはじめた経済活動を支える道路整備の遅れに対して、本格的な対応を迫られていた。
1948年から56年まで道路局企画課長を務めたS氏は、戦後復興が急がれるなか、なかなか進まない道路整備に焦りを感じていた。
全国の視察を終えて帰京したS氏は、道路の整備を進めるには、もっと「画期的な財源」が必要だと強く感じるようになっていた。
道路の予算をつくって大蔵省に折衝しても、半分以下に値切られてしまう。こんなに細々とやっていたのではだめだ。 S氏は、GHQの資料を取り寄せ、アメリカの道路整備について研究を始めた。
その結果、アメリカではガソリン税を「目的税」(=使途が特定化される税)にして道路財源に使い、それによって道路整備が促進されているという状況がわかった。
ガソリン税を道路整備にまわすことができれば、「大蔵省の査定」に関係なく、建設省の自由になる財源ができる。
何とかして日本にもこの方法を取り入れたい、とS氏は考えたのだった。
しかし特定の目的のための税金、いわゆる「特定財源」は、それまで日本には一つもなかった。
大蔵省は、特定財源により税金の使い道が制約を受けることになるのは問題があると、強く反対していた。 特定の目的にだけ使う税金の割合が増えると、国全体の利益を考えて予算を配分するということができなくなる。
それは、大蔵省白身の「予算配分の権限」を侵されることにもなりかねないということを意味していた。
S氏は全国各地の道路問題に特に関心の深い市町村長、自動車関係の諸団体に働きかけ、こうした道路関係者の積極的活動が功を奏し、ようやく戦時中に廃止となっていた「揮発油税」が創設された。
しかし、揮発油税は「特定財源」ではなく、使い道を特定しない「一般財源」となった。
Sは、これではどうしようもない、運動を盛り上げても役所が提出する「政府提案」では、予算の編成権を盾に大蔵省が認めるはずがない、と悔しがった。
そして、S氏は再び考えた。
政府提案がだめなら、「議員提案」にすればいい。そしてS氏の脳裏に一人の代議士が浮かんだ。
田中角栄である。
このころ田中氏は、衆議院建設委員会の理事を務め、道路予算に深くかかわるようになっていた。
建設委員の中でも弁が立つ、ひときわ目立つ存在だった。
S氏は田中に、何とかして道路の整備を早くしなければならないが、それにはまず財源を安定的に確保することが必要であることを説いた。
そしてその為には、ガソリン税を道路整備にまわすという法案を願えないか、と語った。
田中氏は、S氏の話が終わるのを待たずに大乗り気で即座に答えた。
「そりやあいい。よし、俺がやってやる」と答えた。
S氏は、自分より年下の田中が自信満々で、「俺に任せろ」と言い切ったあの時は、本当にうれしかったと振り返る。
ちなみに、田中角栄の口癖は「道路は文化だ 文化は道路だ」である。(そのへんが石田純一とだいぶ違います)
田中氏の道路に対する情熱は、誰にも劣らないくらい激しかったと言う。
田中氏は、ガソリン税法の立法をめざすようになってから、毎朝、道路局の課長に指示して答弁のための資料を届けさせ、道路関係者を集めて、連日、答弁の準備に没頭していた。
1952年10月に発足した第4次吉田茂内閣で建設大臣に就任したのは、佐藤栄作だった。 佐藤大臣はガソリン税の目的税化に協力的だった。
ところが、ガソリン脱を利用して産業道路の改良を重点的に行おうという佐藤大臣の構想を聞き、田中は内心反発を感じたという。
ガソリン税を道路整備の財源として確保しても、日本海側につぎ込めないのなら、格差はまったく縮めることができないではないか。
田中氏は佐藤大臣に対して、表日本中心の舗装に重点を置くのであれば大いに異論があると、持論を展開した。
佐藤大臣は田中のこの発言を受け、「表日本偏重の道路政策をとる考え方は毛頭なく、まんべんのない方策をとる」と答弁した。
ガソリン税を道路整備の財源にまわすという「ガソリン税法」は、田中氏を含めた衆参両院議員26人の連名で、議員提案の形で提出された。
ところで、小学校時代の田中氏の恩師は、田中氏が語ったひと言ひと言が、今も鮮やかに脳裏によみがえってくるという。
「先生、私の考えはまちがっているかもしれませんが、先生も応援してくれるでしょう。明治以来の政府は、日本海側に金を、びた一文出していません。
こんなばかげた政治家、政治なんてあったもんじやない。だから私の生きているかぎり、今日から日本中の金は全部、日本海側につぎ込もうと思っています」
道路整備は、今のように限られた財源の中で分け合っているかぎり、いつまでたっても、地方、特に日本海側に金がまわってこない。もっと道路財源全体を増やすことを考えなければ、ラチがあかない、と言っていた。
「白い国の怨念」を背負った田中氏にとって、ガソリン税法は何としても成立させなければならない法律だったのである。
そして、「白い国から来たオヤジ」にとって、このガソリン税こそが、大蔵省に勝って建設省に拠点を築き、「北国の春」をもたらす決定的な税法となった。
同時に、田中政治の「ガソリン」となったのである。