消費税とカネ回り

消費税10%の時代がやってくる。
特別給付金(麻生内閣)子供手当(鳩山内閣)など人気取り政策の後に、大型増税が待っていたとは予想どうり、ある程度オリコミ済みでした。
こういうシナリオを予測していた国民からすれば、オカネは使わずに大事にしまっておこうと思うので、それほどの「需要喚起」効果はなかったはずである。
つまり政府の「需要喚起」という多少の期待はハズレた。
最大の成果は、政府の政策が国民の「合理的な予測」によって打ち消されるという、「マネタリストの命題」の一つを証明したということかもしれない。
しかし10%は高すぎる。政府は、何を考えているのか。

さてその昔、オカネは経済的な実体に影響を与えないヴェールにすぎないという考えがあった。
オカネは、物の取引を仲介する血液的役割を果たすに過ぎないという考え方である。
我々はオカネをどこかに貯蓄しているので、一見オカネはどこかに滞っているように錯覚するが、とんでもございません。
預けれられたオカネは100%近く、実際はどこか貸し出されたり、国債購入の形で投資会社や政府機関を経由しつつ、関連する会社の経費や従業員への給料の支払いや公務員への給与を通じて、物の需要を生み出しながら回っているのである。
つまりオカネは、我々の実感をはるかに超えて回っていると思ってよいのです。
このようにオカネが、売るために買う、買うために売る手段に過ぎないのであれば、オカネは単なるヴェールであり、経済全体としては「総需要=総供給」が成り立っているハズである。
仮に何処かの市場で「超過供給」が存在すれば、別の何処かの市場で必ず「超過需要」が存在しており、それぞれの市場で「価格の調整」が起きて、商品相互の相対価格が決定していくのである。
結局、オカネがヴェールであるという観念が意味するところは、経済におけるマクロ的問題は存在しないということになる。
すべて「市場の調整」にまかせておけば必要なものが必要なだけ、無駄なく効率よく生産・消費されるということである。
これが「古典派経済学」の本質である。
オカネ・ヴェール観の下で、あえてマクロ経済学的問題をあげるとするならば、全体としての名目的な物価水準だけということになる。
オカネ・ヴェールの世界観の下で、生産したものは「定義上」それ自身の需要を生み出すので、全体(マクロ)の経済水準は、働きたいと思う人々の質と量、そして生産設備の能力ということになる。
社会におけるオカネの増減は、「名目的な物価水準」に全て吸収されてしまい、経済の実体(生産規模、相対価格、失業など)には何らの影響を与えないということである。
以上が、経済学で「貨幣数量説」といわれる古典派の数少ないマクロ的命題の一つである。

自然に治る病気もあるが、治療しなければ治らない病気もある。経済とて同じである。
1929年の大恐慌で、JMケインズが新しい経済学的パラダイムを提示した。
オカネは、銀行に預ければ利子がつく、債権を買えば利得があるにもかかわらず、人々はオカネそのものをなぜ手元に置くのだろうか。
身近な経験では、あるまとまった買いものをするためには、ある程度まとまったオカネを引き出して手元に置いておく。
これは物を買うために、しばらくとどまるだけのいずれ「回る」オカネとみてよい。つまりオカネ・ヴェール観のオカネである。
しかし、オカネが必要なのは、モノの取引のためであるとはかぎらない。
ケインズは、オカネが「回る」こと以外に、オカネのそれ自体の利便性(=効用)に目をつけた。
オカネはそれ自体利子を稼がないが、必要な時にすぐに別の金融資産に転換できる即応性(流動性)がある。
例えば、金利や為替の変動を見ながら財テクなどを行う場合に、手元にオカネがすぐに用意できればタイミングを失することなく、それらを購入できるのである。
債権の値上がりを期待してあるいは何らかの不測事態に備えて、オカネを少し手元に用意しておくのである。
要するにこれは、かなり長く「回らないオカネ」なのである。
つまり、ケインズはオカネというものは物を取引するために血液のようにスムーズに循環するのではなく、オカネのすぐに何にでも変えられるという「流動性」の利便性ゆえに選好され、色んな時間や場面で詰まったり、血栓を起こしたりするのが普通の状態なのである。
ケインズはオカネを単なるヴェールと見るのではなく、このオカネの性格の中に経済の不安定さを解くカギがあると考えたのである。
結局、ケインズは、利子を生まないオカネが「将来の不確実性」故に「流動性選好」されるとして、古典派の「完全予見性」を前提とした「貨幣ヴェール観」とは違う世界観を示したのである。
そこで、オカネのそうした不安定・不規則な「流れ方」を考える時、生産したもののが必ず売れるというような「必然性」は何もないのであり、 むしろ経済全体で「総需要=総供給」ということがあったとしても、それは偶然の産物でしかないのである。
そして、大恐慌時のように、生産したものが売れないことが長く常態化することもありうる、としたのである。
さらにケインズは、一国全体の経済水準がどのように決まるかを考えるには、市場にまかせて自然に落ち着いた水準などと考えるのではなく、新たな「マクロの理論的枠組」が必要であると考えたのである。
当たり前の話だけれど、企業は基本的に、売れないものは作らない。需要「量」が供給「量」を決める。
ケインズは人々の総需要つまり「有効需要」が国民所得水準(またはGDP水準)を決定づけるとした。
ミクロの市場理論が、需要と供給により価格が決定するとしたのに対して、マクロの国民所得論では、総需要が一国の経済水準(GDP)が決定するとしたのである。
ケインズ的世界では、「総需要=総供給」を常に保証するオカネのヴェール性はもはや存在していないので、 ある生産水準から生まれる有効需要が、完全雇用を実現する生産水準と一致する必然性はない。
ケインズは有効需要が全生産水準を決定するとしたので、生産(供給)サイドで有効需要に一致するように「量的調整」が行われる。
市場というミクロの世界では、「価格」が調整の主導因となるが、国民所得水準というマクロの世界では、「雇用」によって量的調整が行われていくのである。
もしも有効需要が、生産面における完全雇用を保証するだけの水準に達していなければ、そこに失業が生じる。
逆に、有効需要が何らかのブームで完全雇用水準を越える規模に達していれば、もはやこれ以上雇用はできない、つまり「量的調整」は壁にブチ当るので、あとはインフレという「価格調整」が進行していくのである。
ケインズ的世界では、失業とインフレが常態であるので、財政政策(増税や公共事業)で有効需要を調整したり、金融政策(国債の売買や金利の上げ下げ)などで通貨量の調整を行い有効需要水準を調整し、完全雇用の達成とインフレの抑制を行うのである。
つまり、経済は古典派のように市場にまかせておけばよい、というわけにはいかないのである。

近代経済学は、個々の市場つまり、ある商品の価格は需要と供給によって調整されるという「ミクロ」の市場理論と、一国の経済水準(GDP)は、国全体の有効需要によってきまるという「マクロ」の国民所得理論によって成り立っている。
しかしミクロとマクロの理論が、どのような整合性をもつのかが大きな問題で、いまだ充分には説明されていない。
まず第一にミクロでみる需要・供給とマクロで見る総需要・総供給は、単なる「技術的加算」以上の意味合いがある。
ミクロつまり市場の需要と供給は相互に独立なのに、マクロでみる総需要は、総供給(全体の生産)が需要を生み出していくという意味で、相互に独立ではないのである。
すでに述べたようなオカネが回る過程で、生産労働が給与として分配されて、そこから需要が生み出される。
需要はフッテわいた需要ではなく、あくまでも生産・分配を経て「有効になった」需要なのである。
最終的にこの有効需要の大きさが、(量的調整ならば)生産を引き揚げたり、縮小させたり、(物価調整ならば)、物価騰貴をおこしたり物価の低落を起こしたりして、最終的には総生産の大きさと等しくなる。つまり総需要と総供給が等しくなる。
オカネが回り、「分配」の過程をへて「需要」が生じ、需要は「支出」として実現する。
このようにして、「三面等価」つまり、「生産国民所得=分配所得=支出国民所得」が成立するのである。
ミクロとマクロの理論的整合性の問題点では、市場(ミクロ)では、「価格」が需要と供給の調整因なのに、国民所得(マクロ)では、雇用や生産という「量的調整」が調整因となっているという、調整因が違う点にもある。
ケインズが、経済問題の主要なテーマを「失業」という「量的問題」に置いていたことと、労働組合による長期雇用契約など賃金の固定性を含めて様々な市場の独占や寡占の進行もあり、「価格調整」にはあまり大きな比重を置いていなかったという点もあろう。
何しろアダムスミスから始まった古典派経済学の時代における「価格の調整機能」は、ケインズが生きた独占資本主義の時代にはすでに失われており、経済を「量的な調整」(雇用水準による調整)と捉えたのが、「国民所得の決定理論」すなわち「有効需要の理論」の特徴でもあったのだ。
ただ、一旦完全雇用が成立すると経済はそれ以上の「量的調整」は不可能で、あとは「価格調整」つまりインフレ-ションが起きるということになる。
つまりケインズの理論では、完全雇用までは「量的調整」、一旦完全雇用が成立すれば「価格(物価)調整」で総需要(有効需要)と総供給(国民総生産)が一致するようになるのである。
古典派経済学は、「供給はそれに等しい需要を生み出す」つまり完全雇用の世界を前提としているので、ケインズの世界観の「完全雇用」以後の話は、古典派の世界観(「貨幣数量説」)と一致しているわけだ。

ケインズ政策つまり有効需要を増税や減税、金利の上げ下げ、通貨量を国債の売買によって調整するというような財政金融政策は、ニューディール政策の大成功以来、世界各国で採用された。
しかし、その結論を見ると「大きな政府」が出現し、赤字国債が累積するといった問題を引き起こし、1980年代頃から再び「古典派経済学」が装いも新たに登場し、ケインズ経済学を主流の地位から追い落とした。
そしてマクロ的には「マネタリズム」ともいわれる「新古典派経済学」が、レーガン大統領、サッチャー首相、部分的に小泉首相らによって採用されてきたのである。

それでは、「古典派」はどのような「新たな装い」をもって、「新古典派経済学」として台頭したのであろうか。
各個人は、それぞれ所与の生産要素、希少資源をもち、完全競争的な市場で成立する価格体系のもとで、自らの価値基準に照らしてもっとも望ましい状態になるように市場での交換、生産、消費の計画をたて、実行に移す。
この時に各人は単に現時点における事象だけでなく、将来の時点における事象について、できるだけ正確に予測し、期待を形成して、現在の行動をとる。
マネタリスト的世界観では、政府がどのような財政・金融政策をとろうとも、現在から将来にかけて政策がア・プリオリに確定し、人々に知らされているときには、人々は政策をそれぞれの期待形成の過程に組み込み、考慮に入れて計算する。
したがって、政策の効果は相殺されてしまって、資源配分のプロセスに対して実質的な影響はなくなってしまうと考える。
様々な財貨・サービスの相対価格体系、産出量などのミクロ的な経済的変量をはじめとして、実質的な国民所得水準、失業率などとというマクロ経済的な指標もすべて、どのような政策がとられたとしても、その影響を受けることもなく、一定の水準に定まるという古典派的な結論と等しくなるのである。
そして、名目価格水準、インフレーション率は、貨幣供給量もしくはその増加率にのみ依存して定まってくる、という貨幣ベール観(貨幣数量説)が装いも新たに登場するのである。
M・フリードマンが「貨幣のみが重要」といったのは、その意味においてであり、彼らはそれゆえに「マネタリスト」とよばれた。
実は以上のようなマネタリスト的な命題が導き出されるためには、各人の予想や期待が「当る」ということが、前提となるのである。
この「予測が確率的に当る」ことを中心に理論を形成した「合理的期待形成学派」は、マネタリストの考え方を側面から支援したのである。
すなわち、各経済人が将来の市場に関して、その需要と供給との条件を正確に知っていて、市場価格の確立分布を計算することができる「ハイパー経済人」の存在を前提としている。
マネタリストの「政府の政策の無効性」や「小さな政府」支持、ひいては「市場万能主義」は、そうした「合理的期待形成」を前提とした命題なのである。
ケインズが、将来の不確定を今の時点で予測することと、実際に実現することとの大きなギャップをその理論の中心に据えたのとは、大きな開きがある。

日本の各党は今まで「増税はしません」が公約となって、止むことなき「赤字財政増大」を続けてきたが、ギリシアの財政破綻もあってか、ついに二大政党がそろって「消費税10%」などという公約を掲げた。
ある意味では、時代を画するものであったといえるかもしれない。
そして、財政破綻が何を意味するかを国際映像で見る経験は、それを受け入れざるをえないような素地となるやもしれない。
ところで消費税10%がマニュフェストと受け取ってよいという菅首相のコメントがあったが、不況期に大型増税というのは、ケインズ的世界からいえばあまりに常識はずれである。
「ゼロ・サム社会」で有名なレスター・サロー教授が、「クレイジー」という評価を朝日新聞に寄せているが、菅首相は「増税で成長をささえる」ということを言っている。
「増税で成長」は。菅首相のブレーンの一人である大阪大学の小野善康教授の理論であるそうだ。
デフレ時にには、買える物がふえるので、消費をなくしても快楽がどんどん増す。(快楽の問題ではないようにも思いますが)
だから、デフレがいくら深まっても一向にお金をつかわない。それを打破するために、政府が税金で「お金」を取り上げ失業者に回し彼らに購買をさせる。
菅首相は、消費税の使い道として社会保障費あげているので、使い道としてはすくなくとも、介護や環境やなどのサービス面の充実を狙っているらしい。
つまり、失業者を上手に利用して物的人的インフラを建立するなどの「雇用創出効果」を狙っているらしい。
増税分は労働報酬としてすぐに国民に還付されるというわけだ。
ケインズ的世界から見て、増税は消費を冷やし不況をさらに悪化させのが常識である。
しかし不況時に大増税を行い、政府主導で「雇用促進」に繋げるという壮大な(妄想的かも?)「社会実験」が始まったといえるかもしれない。
ただ、こういう前代未聞の政策についての「合理的期待形成」など、とても無理みたいです。
つまり菅首相がかかげる経済政策は、マネタリスト的世界観からも遠いのです。