カレ-な同級生

大学の同級生のなかには、少なからず世に知られた人達がいます。~インタ-ネットで知りました。
私が所属したゼミ生の一人であった外山誠二氏は在学中に文学座に合格し役者の道を歩まれましたが、役者だけあって宴会芸で見せる腰のクネリには非凡なものがありました。
外山氏はゼミの発表の時日本の地価問題を発表したのですが、「地価」をなぜかすべて「地下」と書いたレジュメを使って発表しため、教授を呆れさせかつゼミ生を笑の渦に巻き込んだのを今でも憶えています。
外山家は代々学者・裁判官を生んだ一家でしたが、御本人は全然堅苦しいところはなく、サ-ビス精神に溢れた好人物でした。
しかし演劇への秘めたる情熱は並々ならぬものがあったようです。
インタ-ネットで調べると、現在も都内一流劇場で華々しく活躍をされているようです。
また同じクラスにいた塩塚博氏はいつもギタ-を片手にキャンパスを歩いていましたが、千葉の館山近くであった新入生クラス合宿で名演奏を聞かせてくれました。
現在もギタリスト、作曲家として活躍しておられ、郷ひろみや早見優などに楽曲を提供していたようです。
何よりも首都圏地区の鉄道の発車メロディの作曲を行っていることで有名です。
いわゆる駅メロ作曲家です。
インタ-ネットによるとJR東日本向けのJR発車メロディ9作と接近メロディ9作を制作されたそうです。
合宿で同級生のリクエストに答えて即座にギタ-を奏で、場の雰囲気を盛り上げるために即興で曲を作ってくれたのを思い出します。
さらに大学院の経済学研究室にいた岡田靖氏は、ピカイチの秀才でいつかは世に知られるだろうと思った人でした。
大学院中退後に大和証券に入られたのは意外な感じがしましたが、インタ-ネットで「その後」を調べてみると、内閣府経済社会総合研究所主任研究官から現在は学習院大学の客員教授として教職についておられるようです。
そういう華麗なる同級生の中でもひときわカレーなる人物がいました。
ボンカレ-で有名な大塚食品の御曹子の大塚J氏で、現在は大塚化学の役員としてご活躍のようです。
大塚氏はいかにも神戸六甲のお坊ちゃまという感じの人でしたが、なぜかマンションではなく大学の寮で生活をなされ、大学に入りたての頃にボンカレ-を寮の皆に配られたのを覚えています。
大塚氏と同じ英語の授業をとっていましたが、ボンカレ-の箱を見ると、試験用にノ-トを借りた時の大塚君の迷惑そうな表情がいまだに浮かんできます。
そういうわけで私は、日本のカレ-史に名を刻んだ華麗なる一族と接点をもったのです。
インタ-ネットで調べると、2008年2月18日に「ボンカレー」は発売40周年を迎えたそうです。

1863年にフランス渡航の船でカリ-なるものを見たという日本人の記録があるので、これが記録上の日本人とカレ-の最初の出会いとなります。
そしてカレ-は文明開化によって本格的に日本に伝わりました。
カリ-をご飯にのせるようにして出したものを「カレ-ライス」と命名したのは「青年は大志を抱け」のウイリアム・クラ-ク博士だったともいわれています。
ところで私は福岡市内のある店でカレーを食べると元気になり西城秀樹の「YOUNGMAN」を歌いたくなるせいか、カレ-というものは薬膳であるという認識があります。そう、YAKUZENです。
そして実際に、日本におけるカレ-の開発は薬問屋により行われました。
1845年薬問屋であった今村弥兵衛は漢方の生薬だったウコンを足がかりに国産のカレ-粉を作り始めました。
さらに薬種問屋に奉公していた浦上靖介氏は、独立して浦上商店を創業して薬種を扱っていましたが、ホ-ムカレ-という商品をつくっていた商店を吸収したことで本格的なカレ-研究に入りました。
1927年発売のホ-ムカレ-は後に「ハウスカレ-」に名前をかえ、西城秀樹の「♪ハウスバ-モントカレ~だよ~♪」のCMで有名な、現在のハウス食品となったのです。
国産カレー粉作りの格闘に決定打を放ったのが、現在のエスビー食品を創業した山崎峯次郎という人物です。山崎氏は試行錯誤の末に、カレー粉つくりの要諦である微妙な焙煎と熟成の方法に辿りつきました。
そして30種類のスパイスでできたヒット商品通称「赤缶」が生まれます。
しかしカレ-が出回り始めた頃は、いまだ庶民からは遠い外来の食べ物という印象がありましたが、日英問題にまで発展した食品偽装事件が、カレーライスの大衆化を促すことになります。
1931年におきたカレー粉偽装事件は、イギリスの会社C&B社のカレー粉に似せた安価なものが出回った事件で、それに抗議したC&Bの日本代理店の抗議により、最終的には洋酒偽造グループが摘発されて決着をみました。
この事件は結果的にカレー市場において日本がイギリスから脱皮する契機となりました。
日本の国産オリジナルカレーの開発に拍車をかけ、しだいに国産モノが市場を占めていくようになります。
しかし国産カレーが良く売れカレーライスを供するレストランが増えたといっても、それはあくまでも大都市圏の話であり国産カレーが全国的に普及し、一般家庭で食べられるようになるのはずっと後のことです。
カレーライスの全国的普及にひと役買ったのは、意外にも日本海軍でした。
つまりカレーの普及は水兵さんの軍隊食として使われたことがきっかけだったのです。
ところでインド人に日本のカレーライスを食べさせたら、なかなかウマイが何という料理かなんて聞かれたという話があります。
本場のカリ-と日本仕様のカレーライスにはそれほど隔たりがあります。
1928年にインド人の亡命者を匿っていた新宿中村屋で本格的なインドカリーが売りに出されますが、この本場仕込みの方は一般にはあまり普及しなかったようです。
実は日本のカレーライスはインド式を直接コピーしたのではなく、インドを植民地にしていたイギリス様式をまねたもので、その上で日本海軍の水兵達の口にあうようにアレンジされていったのです。
世界を股にかけていたイギリス人船乗り達は航海の時シチューを食べたいと思っていましたが、味付けに使う牛乳が長持ちしないためにシチューと同じ具材(肉、人参、ジャガイモ、玉ねぎなど)で日持ちのする香辛料を使った料理として「カレー」を考案しました。
これが、イギリス海軍の「軍隊食」として定着していきました。
明治期の日本海軍は、イギリス海軍を範として成長していましたので、栄養バランスが良く調理が簡単なカレーに目をつけ艦艇での食事に取り入れました。
最初は、イギリス水兵と同様にカレーをパンにつけて食べていましたが、何か物たりず小麦粉を加えてトロミをつけてご飯にかけたところこれはイケルということになり、以後その様式が日本海軍の軍隊食として使われていきました。
「辛味いり汁かけご飯」の誕生です。
以上が現在のカレーライスの発祥の経緯ですが、今では毎週金曜日の昼食に北海道から沖縄まで、4万5千人の海上自衛隊員が一斉に「カレーライス」を食べているそうです。
そして日本海軍の「軍隊食」となったカレーライスは、故郷にもどった兵士達が家庭に持ち込むことによって全国に広がっていきました。
ところで横須賀は海軍の発祥以来海軍とともに歩いてきた町ですが、カレーは横須賀から全国に広がったと言っても過言ではありません。
そこで現在横須賀市は「カレーの街よこすか」として町おこしを行っているそうです。
横須賀市近辺では旧海軍のレシピにより調理されている「海軍カレー」が、レトルト食品や缶詰製品として発売されています。

ところで日本のオリジナルカレー史に一つの時代を画したのは大塚食品の「レトルトカレー」の開発です。
「ボンカレー」の名前の由来は、フランス語の「ボン」つまり「おいしい」という意味だそうですが、化学メーカーの大塚がなぜカレーを扱ったのかは、日本の国産カレー粉を開発した「ハウスカレー」の誕生と似たような経緯があります。
もともと大阪に固形カレーやスパイスを販売する会社があったそうですが、業績が思わしくなく大塚化学がそれを吸収合併したことがきっかけとなりました。
しかし後発の企業が既存の固形カレールゥの世界で戦えるほど甘くはなく、何らかの新商品の開発を狙ったというわけです。
開発に悩んだ社員達はパーッケージ専用の雑誌を読んでいて、アメリカ軍が従来の重くて運びにくい不便な缶詰にかえて軽くて保存のきくビニールの真空パックいりの携帯食が開発されていることを知りました。
しかし真空パックがカレーの風味を保ったまま閉じ込めるまでには幾多の困難がありました。
完成したカレーに殺菌処理を施すと風味や形状が崩れるのです。
大塚食品の試行錯誤が続き、独自に考案した殺菌釜で高温高圧を加えることにより、ようやくめざす味覚に辿りつくことができたそうです。
1968年についに「ボンカレー」が生まれましたが、私が大学で大塚J君と出会った1975年には年間販売量一億食を超える大ヒット商品になっていました。
私が受験勉強で「傷だらけのロ-ラ」状態の時も、どれほどボンカレーの恩恵に与ったかを思えば、大塚君にもう少し感謝の意を表すべきだったと、今後悔しております。
遅ればせながら、すんまへん。
ところで最近多くの食材が真空パック詰めされているのを見ると、ボンカレーの開発こそは日本人の食生活に「レトルト革命」をもたらした画期となったように思います。

「たかがカレ-」と思う人もいるかもしれませんが、結果から見ると世界の歴史はカレーのスパイスを求める人々によって大きくシフトしたという見方もできるのです。
喜望峰を渡ってインドのカリカットに至ったヴァスコダ・ガマは黒胡ショウを求めてここに辿りついたといってもよいでしょう。
ちなみにカリカットあたりは「こしょう海岸」とよばれています。
胡ショウはもともとはギリシアやローマ人が薬物として注目し、彼らはそれを求めてインドへとわたっていました。
信じがたいことですが金や銀と同じような価値で取引されていたのでタバコのような「嗜好品」のようなものだったのかもしれません。
ヨーロッパ人が人生をガラリと変えうる胡ショウという東方の富に目をつけないわけがありません。
ヴァスコダ・ガマはインドでスパイス貿易の拠点を見出しましたが、コロンブスが新大陸で発見したトウガラシやジャガイモもインドに伝わり、予期せぬ形でカレーの発展に貢献することになりました。
カレーと一緒に出される福神漬にもそれなりの歴史があります。福神漬けは、細かく刻んだ大根やナスなど7種類の野菜を醤油や砂糖で味付けした漬物のことを言います。
東京・上野にある某高級漬物店の15代目の主人によって作り出されました。
そして大正時代に日本郵船のコックが海外航路船の一等客室に出すカレーに「福神漬け」を添えたのが、カレーの名脇役としての始まりといわれています。
それではなぜラッキョウが、カレーのもうひとつの名脇役となったのでしょうか。
インドではスパイスで作られるアチャールという辛口の漬物がカレーに欠かせません。これを日本人が真似して、カレーとラッキョウというベストコンビが生まれたのです。
スパイシーなカレーと出会った日本人にとってラッキョウは、カレーを日本の馴染みの味にする橋渡しの役をしたのです。
「食に歴史あり」という言葉は多くの食材にあてはまると思いますが、カレーの発展は世界史の展開に密接に関わり、それも時間的にも空間的にも非常にスケールの大きさを感じさせる点で、もっとも華麗な遍歴をもつ食品といえましょう。
されどカレーライス。