剣を持つ者は

広島の平和記念式典にアメリカの代表が始めて出席したことが伝えられた。戦後65年もたって遅すぎるという市民の声が上がっていたが、アメリカの代表からは何らかの「謝罪」意図などは全くなかったという印象を受けた。
各国の代表の参加者が74カ国で、昨年より15カ国も増えており、イギリスとフランスは初参加で、国連の事務総長までも出席したことは、人々の「核なき世界」への願いが高まっていることを物語っている。
となると人類全体が一気に平和主義者に転じたかと誤解しそうであるが、実は「核の使用」がそれだけ現実味を帯びてきているということが一番の大きな原因であろう。
現在の核保有国は、アメリカ・ロシア・中国・フランス・インドの五大国であるが、近年ではパキスタン・イスラエル・イランなどが仲間入りし、リビア・イラク・北朝鮮などの国でも核疑惑がもたれている。
もう一つは、オバマ大統領の「核なき世界」を訴えは、アメリカ自身が「核のターゲット」になりつつある不安からきているというのが大きいのではないかと思う。
アメリカは、世界中どこかに紛争が起きていなければ、国家としてのマトマリも、軍事産業を中核とした経済も、その機能をフルに発揮できないというコマッタ国なのである。
しかし、だからといって世界が「核戦争」までに至ることは、たとえ軍事面で「紛争」をカテに多くの利徳を得ている者でさえ、おそらくは望んでいないことと思う。
アメリカの代表の広島の式典参加は、そうした核使用への危機感の表明であり、世界の国々とそれを共有しようという意思の表れであると受け取った。
少なくとも、アメリカが「核使用によって太平洋戦争の終結を早めることが出来た」という「原爆投下の正当性」を今更変えたというフシは見当たらない。
それどころか、過去の原爆投下の何らかの意思表明もなく、平和記念式典にシャーシャーと代表が出席できたのも、ある意味では、広島・長崎への原爆投下という歴史的事実の「風化」を物語っているのかもしれない。

自分が思い抱く抱く最大の「核戦争の危機」といのは、まず1962年に「キューバ危機」というものがあった。
旧ソビエト軍がアメリカの懐近くのキューバに核基地を建設をはじめているのが、偵察機によって発見された。
当時のケネディ大統領がソ連のフルシチョフ首相に、核基地を撤去しなければ核戦争も辞さずという表明をしたことから、キューバから核施設が撤去されたという出来事であった。
故に、キューバは核に対する意識が極めて高く、学校教育においても広島や長崎の出来事をしっかり子供の頃から植えつけるという。
あるテレビ番組を見ていると、キューバの子供達のほとんどがHirosima・Nagasakiという地名を知っていることに驚かされた。
2003年3月3日、キューバのフィデル・カストロ議長が、クアラルンプールでの非同盟諸国会議の帰途の途中に、非公式に広島を訪問している。
平和公園の慰霊碑の前に立ったカストロ議長は、広島原爆慰霊碑で献花した。
その際、彼を広島に呼び寄せたのは、かつての盟友チェ・ゲバラが残した一枚の写真と手紙からだったと自ら述べた。
実は、ゲバラは1959年7月、経済使節団長として来日した際に、日本政府の意向に反して広島入りを強行し、家族あての葉書に「平和のために断固として闘うためにはここを訪れるべきだ」と書き残していたのである。
カストロ議長は献花した後に資料館を見て回った際、慰霊碑の前に立つチェ・ゲバラの古ぼけた写真パネルを見つけ、「もし先にこの写真の存在を知っていたら、このパネルと並んで献花したのに」と残念がったという。
また、昼食会の挨拶ではキューバ危機について言及し、「広島の皆さんと危機感を分かち合えると思う」と述べ、翌3月4日、キューバへ向かって離日した。
ところで、冷戦の時代には核開発競争がおき、その熾烈さに抑制がきかなくなったこともあり、1970年発効の「核不拡散条約」が作成(62か国調印)された。
しかしこれはアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の5カ国以外の核兵器の保有を禁止するという、核の現保有国にとっては誠に都合のいい条約という他はない。
もう一つ「核不拡散条約」の大きな問題点は、そもそも「条約」というものは国家単位で結ばれるものであり、仮に「核の使用」が行われるとしても、それは「国家の意思」として行われるということを前提としているということである。
こうした考えがもはや通用しなくなったのは、皮肉なことに冷戦の一方の雄である旧ソ連の崩壊である。
この旧ソ連の崩壊によってソ連各地に配備されていた核の管理が杜撰なものとなり、核の「闇取引」が行われるようになり、科学者の流出なども含めて、核と核のノウハウがテログループもしくはカルト集団にも流れていった可能性が低くはない。

あまり一般に理解されていないことであるが、アメリカは「原罪」を背負った国である。
それは厳格なピューリタンの信仰に基づく楽園喪失の「原罪意識」というものではない。
新大陸を発見して、そこにいたアジア系の住民を殺戮したり追放したりして、自分達が住みついたという意味でのやや現世的な意味での「原罪意識」である。
そこで、自分達がやったことと同じことを誰かにヤラレルのではないかという意識がどこかにあり、それが「黄禍論」として深層に渦巻いているのである。
彼らをこうした「原罪意識」から免れさせるのは、ある意味で別の宗教意識であり、それが聖書における「千年王国」(ヨハネ黙示録20章)の信仰である。
この「千年王国」を世界で実現すべく使命を担うという「マニフェスト・デステニ-」(明白なる使命)が、究極的「アメリカの正義」の根拠となっているのである。
そしてこの「アメリカの正義」は、少なくとも今日の上層部には、充分にその「原罪意識」を打ち消すに足るほど肥大化しているように思う。
そしてその「アメリカの正義」たるや、広島や長崎の原子爆弾投下でさえも、絶対にそれにモトルものではないというほどの意識なのである。
実はアメリカに花咲いた哲学にプラグマチズム(実用主義)というものがある。これは、溯ればイギリスのベンサムの「最大多数の最大幸福」という思想に行き着く。
ベンサムの時代(18C~19C)はまだまだ「身分制社会」の残滓がまだまだ根強く、少数の人間しか幸福が約束されていなかった現実を前に、こういう「最大多数の最大幸福」という言葉が、いかに斬新な言葉であったかと思うのであるが、この思想には幸福を「哲学的」「宗教的」に掘り下げるといのではなく、幸福を快楽と読み替え「量的」な面から「考量」するという側面が読み取れるのである。
そしてこの思想は「古典派経済学」などにも大きな影響を与えたのであるが、イギリスのアングロサクソン系の移民から始まったアメリカ合衆国で、この思想がさらに広い社会哲学としての「プラグマチズム」として現れることになるのである。
この「実用主義」の特徴のひとつは、簡単に言うと「結果主義」である。
例えば原子爆弾が「結果的に」日本の戦争の終結を早めたとか、しかも原爆で失われた人の数とそれ以後続いたかもしれない戦争によって失われた数を比較考量してみて、前者の数の方が少なければ、それが「正当化」されうるわけである。
翻っていうと、アメリカは原住民を殺戮したり追い出したして住みついて出来上がった国であるが、「結果的に」そこに「千年王国」なるものを実現することになれば、それは正義に反することではないということになるのである。
つまり実用主義は、アメリカ人が「原罪意識」に沈潜したり、それを深追いすることもなく、いわば「アメリカの正義」を堂々と世界に広めるということを側面から支持するという「効用」もあるのである。
つまりアメリカはこの地に(さらに世界に)正義を実現すべく導かれた「マニフェスト・デスティニー」の国であるというコマッタ意識を持つに至ったのである。
ちなみに、広島の原子爆弾が製造された際に、その原料となったウランはアメリカ・ニューメキシコ州のナホバのインデアン居住区で発見されており、この地区のインデアンの言い伝えで「この土地から生まれた”灰色のひょうたん”が世界に惨禍をもたらすことが文字として伝えらていたという。

「アメリカの正義」は、キリスト教の「千年王国」の意識を下地としたものだが、そうすると今回のアメリカ代表がもしも広島ではなく長崎の平和式典へ参加することになれば、また違う意味合いをもつもであったかもしれない、と思う。
日本で長崎ほどキリスト教と深い係わり合いのある都市はないからである。
広島の原爆ドームは今や世界の核反対運動のシンボルとなってしまったが、実は長崎の投下地点の「あるもの」が原爆のシンボルとならんとしたことがある。
実は、広島の原爆ド-ムよりもメッセ-ジ性が強い廃墟として保存されそうになったのが、長崎の旧浦上天主堂である。
あまり注目されることは少ないが、浦上天主堂の正面左右に配置された聖ヨハネ像、聖マリヤ像の指は落ち鼻は欠けているし、植え込みに並ぶ聖人の石像はどれも熱戦で黒く黒こげている。
またそばを流れる川の脇には、旧天主堂の鐘楼ド-ムが半分埋もれたまま頭をのぞかせている。
実はこの浦上天主堂は、原爆によって「巨大廃墟」と化していたのである。
しかもこの廃墟こそは広島の原爆ド-ムと並ぶ、否それ以上に地球上で最も「悲惨」を映す絵になった可能性が高かったのである。
、 実は戦後、浦上天主堂の廃墟を原爆のシンボルとして保存しようという要求が市民の中から高まった。
しかし、当時の長崎市長が姉妹都市提携のためにミシシッピ・セントポ-ル市を訪れた直後に、なぜか全体としての廃墟保存のト-ンが急速にダウンしていったのだという。
つまり、旧浦上天主堂の廃墟の完全撤去こそが、姉妹都市提携の条件にさえなったのかもしれない。
カトリック系の多いセントロ-ル市からみると、「原爆の罪」をカトリック教会の被爆という形で世界に訴えかけるような絵を残してほしくはなかったのではないか、という推測ができる。
ある意味それは、アメリカがアジア系住民を殺戮した「原罪意識」にも重なりあうことになり、そこでマニフェスト・デステニィーのという「原爆の正当化」の根拠がかなり揺さぶられる「シンボル」となる可能性があったからである。
かくして浦上天主堂の廃墟は1958年に完全に撤去され、翌年新たに再建された。そしてそれがもつ「黙示録的メッセ-ジ性」は、これをもって完全に人類から消滅したといってよい。

明治天皇の孫で中丸薫さんという国際ジャーナリストがいる。
どういうコネがあるのかわからいないが、おそらく日本人のジャーナリストの中で、この人ほど多くの「世界の要人」に直接インタビューした人というのは見当たらない気がする。
彼女の世界情勢分析の最大の武器は、そうした直接のインタビューでえた人脈と情報と感覚であると思う。
加えて、どういう個人的な背景があるのかよくわからないが、女史は「聖書」特に旧約聖書の解読がその国際情勢分析の根底にあることである。
だから中丸女史は、過去の歴史に対する視点ばかりではなく、「聖書的視点」から人類の未来に対する予測を与えてくれる。
中丸女史によると、日本はソ連を通じて降伏の意思を明らかにしていたが、それにもかかわらず広島・長崎に原爆が落とされたかという点については、かなり「人種差別」ということと「実験的要素」が高いのだという。
つまり原爆投下は、アメリカが自ら力で日本を敗戦に持ち込んだという既成事実が、戦後世界における対ソ連(社会主義)戦略の上でも必要であったということと、日本人が黄色人種というが働いていたのである。
「人種差別的」な意識については、この当時の白人のアジア系に対する差別意識は今の我々の想像以上に強く、日露戦争の日本の勝利はかなりアジアの人々に光明をもたらしたことも事実である。
会田雄次氏が「アーロン収容所」の中で面白いことを書いている。
ビルマあたりで日本軍の捕虜となったイギリス兵たちは収容所に送られた。それが有名な「ビルマの竪琴」の話に繋がるわけであるが、その時収容所に入れられた女性兵士は日本人がやってきても平気で着替えをするという。
ちょっと考えたら日本兵からみて悪くない話にも聞こえるが、よ~く考えてみるとイギリス人女性兵士からみて日本兵は人間として見なされていなかったということである。
さらに中丸女史は次のような(少なくとも私には)驚くべき視点を提供してくれた。
「ヨーロッパでは戦闘を短期終結させることができたイタリアから北への侵攻経路を選ばず、多くの犠牲をともなうノルマンジー上陸を意図的に遂行した。
そして日米とも大きな犠牲をともなうことが最初からわかっていた沖縄上陸作戦が強行されたのは、原爆完成までの時間稼ぎであり、原爆投下までは、絶対に日本に降伏されては困るというのが真の理由であった」
という指摘である。
アメリカにおける原子爆弾の開発は、ナチス・ドイツが開発の恐れがあるという危機感からルーズベルト大統領がアインシュタインらの科学者に開発を示唆したわけであるが、1942年プロジェクトの中枢が陸軍マンハッタン工兵管区に置かれたために「マンハッタン計画」とよばれている。
マンハッタン計画は当初、科学者主導であったが、次第に政治主導に切り替えられ、なんと12万人が関わる「巨大プロジェクト」へと転じていったのである。
当時のアメリカの自動車産業に匹敵する工場と研究施設が使用され莫大な開発費が投下されたのである。
そして時を争うように開発が進められ、わずか3年で原子爆弾が完成された。
ドイツに本来対抗して使われるはずの原子爆弾が、アインシュタインも来日して「美しい日本」として愛されたその処に投下されることになったのは皮肉だが、やはり上記のような「人種差別」ということを思わざるをえない。
なぜか。原爆は「日本を降伏さえる」という目的の為には必ずしも使う必要はなかったからである。
少なくとも二つの都市に対しては絶対になかったはずである。
原爆投下に実験的要素が高かった点については、広島には「ウラン型」の原子爆弾が投下され、長崎には「プルトニウム型」の原子爆弾が投下されたという事実にも思いが至る。
ところで、アメリカは原爆投下後の人体への影響等についてもかなり熱心にデータを集め解析していたことをみれば、ある種の「人体実験」的な要素が強かったとういう面も見逃せない。
そういえば、日本軍の中国における731部隊などの出来事では、日本の戦争の罪を暴いた(ハズ)の東京裁判ではとり上げられなかったのは、日本人がその時集めた「人体実験」のデータをアメリカに渡す代わりに、日本軍の関係者が「免罪」となったという点が大きい。
ここで免罪となった医師たちが戦後、日本の医学界のドンとなったり、後々にHIV問題等を起こす製薬会社の幹部となったりしたのである。

広島の平和記念公園の石碑には「安らかにお眠りください。あやまちは 二度と繰り返しませんから」という言葉が刻まれいてる。
この石碑には「主語」がない、誰にむかってかがわからない曖昧さが、しばしば指摘されることである。
個人的には、この主語は少なくとも「平和記念式典」のその参加国をもってそれを表すものだと思いたい。
その意味では、今回の式典におけるアメリカ・イギリス・フランスの初参加を評価したいが、なにしろその出席についての明確なマニフェストが何一つなかった。
石碑に刻むのならば、もっと明確な言葉が聖書にある。
「剣を持つものは剣によって滅びる」(マルコ14章)。
この言葉に「剣」、カッコ「核」という説明は不要でしょう。