人間コラボレーション

最近、コラボレーションという言葉をよく聞く。
世は、産業、学問、芸術を問わず分業化がすすみ専門性が特化しているからこそ、こういう試みが為されていることだと思う。
「コラボレーション」(collaboration)という言葉は本来、共に働く、協力するの意味で、共演、合作、共同作業を指す言葉である。
我が家の近くの「カッパ寿司」では、キティちゃんと共同企画をやっていましたが、企業同士、ブランドと雑誌、店とキャラクターの共同企画から、クロワッサンとアイスクリームのコラボなんて言葉があるように、商品同士の 組み合わせにいたるまで、あらゆる分野でこの言葉が使われるようになった。
その為か、この言葉の本来の意味合いは薄められているような気もする。
個人的に抱く「コラボレーション」の本質的な意味合いは、単なる協力ではなく、「響きあう異なもの」というあり方の追及、またはその実現行為である。
響きあうからには、相互に「距離」がなければならない。
よく考えてみると、日本的芸術は、俳句、俳画などにみるように、余計なものをできる限り削ぎ取った表現を追求してきた。
つまりふんだんに「余白」や「間合」や「行間」をとっているので、案外「コラボレーション」は、日本の文化的土壌と相性がいいのではないか、という気がする。
つまり互いの余白に己の表現を滑り込ませ、その「重なり具合」「響き具合」を楽しむという趣向である。
NHKの美術番組で、いわさきちひろの「絵画」と、小林一茶の「俳句」のコラボレーションが紹介されていた。
子供を詠った俳句の多い一茶と、懐かしい子供の姿を絵にしたいわさきちひろ作品は、絶対に相性がいいはずだが、今まで誰もそれを本格的にやった者がいなかった。
作品をほんの一部だけを見たが、なるほどとうならざるをえない。
俳句と絵のマッチング具合で、絶妙にコラボレ-トすることは間違いなしである。
またあるバイオリニストが、演奏の背景に「いわさき作品」をスクリーンに映し出して流すというコラボをやっていた。
例えば、昔なつかしい故郷の風景を奏でるような音楽には、いわさき作品はぴったりだと思う。

今年でデビュー35周年となるハマショーが、自らの音楽で日本の歴史を伝えるという。
ハマショーといても、浜松の商店街組合ではございません。浜田省吾、御年57歳のシンガー・ソングライターのことです。
浜田氏が自身製作の音楽をバックにした、幕末から現代に至る歴史を表現するDVDを製作したのです。
全18曲を収録したDVD「僕と彼女と週末に」は、楽曲ごとに「開国・近代化」など映像テーマを設定し、その時代時代を象徴する映像と、わかりやすいニュース解説でお馴染みの池上彰氏の解説を字幕で流すという企画です。
実は、ハマショーは相当な社会派であり、それは歌詞の内容からもうかがえます。
例えば1曲目の「Theme of Father's Son - 遥かなる我が家」のテーマは「開国・近代化」です。
曲に合わせて、ペリー来航、大政奉還などの記録映像が流れる、というから福山雅治の「龍馬伝」には負けてはいません。
また5曲目の「J.BOY」では70~80年代における日本の「成長」を、ヒット曲「MONEY」は文字通り「マネーと世界」をテーマにしている。
ほかに「南北格差」「アメリカの戦争」など世界的な問題もテーマに取り上げ、本人のライブ映像とともに歴史に残る映像をちりばめたというから、ハンパなものではないようです。
現代に危機感を抱く浜田が「過去を検証し、学ぶことは、同じ過ちを繰り返さない知恵を与えてくれる。」
と製作を決断したといいます。
ならばいっそDVDのタイトルは、「僕と彼女と週末に」ではなく「親と子と週末に」ぐらいがよいと思いますが、あまり直接的だと売れそうもないですね。
実はこのDVDは、浜田氏自身の企画ではなりますが、その熱意に動かされた池上彰氏(59才)が助っ人を買って出て実現した、本格的な「コラボレーション作品」となっています。
確かに映像と音楽の組み合わせは、時代を呼び起こし、人々の歴史を思い返す絶好のトラックのように思います。
池上氏はテーマに合わせたその時代の解説文を提供し、曲の「背景」を字幕で説明するそうです。
映像と音楽に加え、字幕と解説がついて、とても贅沢なメディアとして完成しているようです。

ハマショーのDVD「僕と彼女と週末に」は見ていないので、正直評価のしようがありませんが、声優そして女優であられる戸田恵子さんとシンガーソングライター中村中(あたる)さんが、間違いなく素晴らしいコラボレーション作品を生み出しています。
このコラボレーションについては、「ミューズの神様」というテレビ番組で初めて知りました。
戸田恵子さんは、アンパンマンの声優として名前だけはよく知っていましたが、驚いたことに1974年に、「あゆ朱美」の名で、演歌歌手としてデビューしたそうです。
デビューは「ギターをひいてよ」という曲でしたが、ほとんど注目されることはありませんでした。
そして、長年の心残りを打ち払うかのように、2007年に、アルバム「アクトレス」で33年ぶりの歌手活動を再開したそうです。
なにしろ、彼女が知りあった才子・三谷幸喜、秋元 康、宇崎竜童、中村中などを「召集?」して作った超豪華作品ですから、絶対に悪かろうはずはありません。
彼女は三谷幸喜さんとの出会いをきっかけに、女優としても活動されるようになりましたが、実は女優としても前身があることを知って、またまた驚きました。
戸田さんは、小学生の頃からNHK名古屋放送児童劇団に在籍し、「中学生日記」で女優デビューもしていたそうです。
戸田さんの「中学生日記」といい、売れない演歌歌手「あゆ朱美」といい、人には「知られざる歴史」というものが、あるものですね。
ところで、戸田さんのアルバム「アクトレス」のなかで一際輝いた曲が「強がり」という曲で、いまや「泣ける曲」といえば、植村花菜の「トイレの神様」と双璧をなしているといってよいでしょう。
歌の冒頭を紹介すると、
「♪急にため息ついたりしたらホラねやっぱり驚くわね。いつからだろう強い女になっていまった。
口先ばかり上手になって本音いうのも楽じゃないわね。
どうせみんな見てる事ばかり信じたがるのよ♪」
「強がり」制作に当たっては、戸田恵子さんと中村中さんがスタッフも入れずに二人きりで一晩飲み明かし、語り合い、この曲が完成したのだそうです。
戸田さんの舞台の中でこの曲が披露されるや、各地で反響を呼び、会場では号泣する人が続出したといいます。
舞台終了後もシングル化の熱烈な要望が多く寄せられ、ついにシングル化が決定したものです。
「強がり」のカップリングには、自身が声優を務めた名作アニメ「キヤッツ・アイ」のテーマ曲「キャッツ・アイ」を新録音でカバーしたというのだから、今時の注目売れ筋NO1ではなしでしょうか。

最近、NHKの歌番組で、あまり聞かない河口恭吾という歌手が「名もなき花よ」と題した歌をうたっていました。
「名もなき花よ」は、NHKテレビドラマ「天使のわけまえ」の主題歌となった曲ですが、字幕を見ると作詞者がファッションデザイナーの「コシノヒロコ」さんであったのに驚きました。
ファッションデザイナーと歌手とを結びつけたのは、一体何なのだろうと思って調べてみました。
きっかけは、コシノさんが、2009年春に発表したパリコレ映像を見た河口氏が、デザイナーとして半世紀以上も輝き続けるコシノヒロコさんの生き様に共感し、楽曲を作ったということでした。
出来上がったデモ音源をコシノさんに送ったところ、コシノさん自身が詞を綴って返信し、河口が返信された詞にメロディを付けて一つの作品に仕上がったそうです。
コシノさんは、普段目に留まることのない花たちを、自分の人生やファッション・ショーの舞台裏になぞらえ、思い浮かべながら歌詞にしたそうです。
メロディがたおやかにして忘れがたく、河口氏は、「コシノヒロコの人生」をそのまま歌詞の中に綴ることで、きっと人の心に残る作品になるのではと考えたといいます。
その点で、「戸田恵子の人生」を歌詞にした中村中さんと共通しています。
また、70を越えての人生初挑戦に、コシノさんは、「"想い"というものは次から次へとあふれてくるが、それを“言葉”に置き換える作業は至難の業でした。
河口さんと何度も話し合い、言葉と旋律がぴったりと合ったときは、本当に嬉しかった。」とコメントしています。

実は、創造するということは、目に見えないコラボレーションが作者の中でおきているようなことなのかもしれない。
東京大田区の小企業で人々がアット驚く新技術を開発している社長が言うには、創造とは何もないところからパット閃くようなそんななまやさしいものではなく、過去に苦吟し追求した技術群がパット結びついて新しいものが生まれるのだそうだ。
つまり創造とは、パーソナルな「ぶつかけあい」や「結びつき」によっておきることだということを言っておられた。
ただこういう「パーソナル」なぶつかり合いは、外部からは測りがたくコラボレーションとよばれるものではない。
自分でいっておきながら変かもしれませんが、「パーソナル」という言葉と「コラボレーション」という言葉は矛盾しています。
そして一般的に「コラボレーション」というのは、異質のものを「意図して」ブツケあって、どんなものが生まれるかを期待して、とり行われるものみたいです。
もちろん「偶然の」バッティングがあるように、「偶然の」コラボレーションということもあると思いますが。
人を文章や画像で表現する際に、ある人物を浮き立たせるためには、別の人物をブツケてみるというのが、「人の描き方」のひとつの方法でしょう。
同じ世界の違う性格の人物をブツケてみたり、違う世界の似た性格の人物をブツケたりして、その特質が浮かび上がってくるということがあります。
美術の世界で、仮にゴッホとゴーギャン二人の天才をブツケてその特質を浮かびあがらそうとしたりしたら、この二人が実際に共同生活したことがあり、現実の「コラボ」がおきていて、溶け合ったり威嚇しあったりして、創造的刺激的そして破壊的的でもあった関係にあったことを知ることになるでしょう。ゴッホはゴーギャンの「ゴッホ像」に傷つき耳をそぎ落としています。
こういう人間関係は「コラボ」ではなく、単なる「バトル」という意見も出そうですが、芸術的「人格コラボ」とでもいえそうな関係が生まれたのではないか、と思うのです。

などとに思ううちに、唐突に、タモリ氏と赤塚不二雄氏との関係が思い浮かんだ。
森田一義氏つまりタモリ氏の芸能界デビューは、赤塚不二夫氏という漫画家の「寂しがり屋」の性格が招いたといってよいかもしれない。
タモリ氏は、早稲田大学中退後、福岡で営業やボーリング場の支配人などをしていたが、ある日営業の為に福岡のホテルにいたところ、たまたま扉の空いた部屋でドンちゃんさわぎしている一行と出会った。
彼らは、ジャズの演奏会の打ち上げで、馬鹿騒ぎをやっていたわけだが、森田氏のアドリブ本能がムクムクと起き上がり、ついに部屋に飛び込みその一団に紛れ込んで芸のセッションをくり出した。
その中に奇しくもサックス奏者の中村誠一がいたが、絶対に即興では負けないと自負する中村誠一を、その謎の男は、あやしげなイカサマ外国語で打ち負かすことになった。
中村氏は、ゴミ箱を頭からかぶって虚無僧の格好をしていたが、その謎の男こそ虚無僧かなんかのように黙ってその場を立ち去った。
中村氏はあの狂宴後、どうしても博多の「謎の男」のことが忘れられない。
中村氏が新宿のバーでその男の話をしたら、たまたま赤塚不二夫が主宰するフジオプロの仕事仲間がそこにいた。
そして、ぜひその男を捜しだして、離婚して元気がない赤塚不二夫に会わせて、喜ばせてやろうということになった。
中村氏は直感的に、あの男がジャズをやっていた男であることはスグにかぎとっていた。
そこで博多のジャズ関係の店を色々あたって、その男が森田一義という名前の男であることをつきとめた。
そして博多の「謎の芸人」をカンパを募って東京に招くことにした。
そしてフジオプロカンケー氏の前に表れたのは何の変哲もない男であったのだが、ひとたび芸を披露しはじめると、その芸をここだけで披露するのはもったい気になった。
そして、赤塚不二夫とその仲間達のの前で披露しようということになり、一席もうけることになったのである。
四ヶ国語マージャン、ハナモゲラ語、イグアナのモノマネなどの芸が次々ととびだした。
そして急に取り澄ましたタモリ氏は厚いカラオケ本をパラリと開き、神妙な顔で「日本に布教にきた外国人宣教師」に成り変わり、語った。
「神ハー申サレマシター。アカシアの雨ニ打タレテー死ンデーシマイタイトー。ソレハ、アナタガタガ毎晩、悪魔ノ水ト悪魔ノ煙ヲ好ミー、アーマツサエー、スルメヲ焼キコロシー、何ノ反省モナイ毎日ヲ、オクッテイルカラ-デ-ス」。
赤塚氏は、後にその時の興奮と感動を今でも忘れることができないと語っている。
当時、赤塚氏は離婚しての一人身の生活で、とても自分のマンションに帰って眠るなど寂しくてできず、実質会社で寝泊りをしていたのである。
そして赤塚氏はタモリ氏を自分のマンションの部屋に住まわせることにした。タモリ氏はこの時をもって「高級居候」をきめこんだわけである。
ベンツ乗り放題、ビール飲み放題の居候である。
この頃、タモリ氏は「淋しい王様」を慰める役まわりをやっていたともいえるが、片方黒の眼帯で登場した謎の芸人「タモリ」は、しばらくテレビを席捲した。
この黒の眼帯は、いかにもアカツカ的ではありませんか。
二人はいつもツルンデ飲み歩き、あまりの仲のよさを見かねた周りの勧めもあって、いっそ「ホモ」になろうとパンツ一つで抱き合ったりしたが、何をどうしても「欲情」を抱くには至らなかったという。
最近ではタモリ氏は、すっかり森田一義氏になってしまわれたが、デビューから5年ほどは、毒のある「謎の芸人」路線を維持されてきた。
つまり「タモリ」とは、「響きあう異なもの」森田一義と赤塚不二夫の二人の「人間コラボレーション」が生んだ傑作だっのかもしれません。
数年前の赤塚不二夫氏が亡くなった際に、森田一義氏が読んだ弔辞の中に、「私もあなたの数多くの作品の一つです」という言葉が印象的でした。
しかも、この弔辞文は白紙であったという説が有力です。