マキシミン原則とは

このところ世の中は、「格差社会」という言葉がすっかり定着した感があるが、1970年代初頭代にジョン・ロールズという学者がうちだした「格差原理」というものがある。
ロールズは、世の中にある「格差」が生じるのは、ある程度仕方がないとしても、その「格差」がどの程度許されるか「許容限度」をこの原理によって明らかにしたもので、その考え方は今の日本社会の「ツボ」を押さえる原理にもなりそうである。
なぜならば、日本社会の今時の停滞の最大因は、一言でいえば格差によって生じた「不安」であり、この「不安」の解消にこそロールズの「格差原理」は有効であるように思えるからである。
結論をいえば、単純な平等思想と違い、社会の中で最も恵まれない人に基準をおく。そして、その人と他の人との生活条件の格差に着目し、最も恵まれない人を最も幸せにするように社会が行動するのが正義にかなうとしたのである。
この考えは、ミニマムをマキシマムにするので、「マキシミン原則」とも呼ばれる。
ロールズは、人間にとっての一番基本的な欲求「自由 生命 財産」を基本財とした。
権利は法律上では平等といいながら、実際に成功して財産を多く得る人と、失敗して貧困に落ち込む人が出てくるのであり、成功者はこれらの基本財をたくさん享受でき、貧者はそれらを過少にしか享受できない人々といえるわけである。
確かに日本の格差社会において最大の問題は、雇用、医療、教育、など人間にとって差があってはならない要件において、大きな格差が出ているということであるから、ロールズの考え方は、現代的な意味が大きいと思われる。

私が学生の頃、社会科学(特に経済学)というものは、そもそも価値を問題とするのではなく、没価値的な自然科学のような科学のありかたを追求するという風潮が強くあった。
極端をいえば、社会科学は戦争の正悪を論じる学問なのではなく、戦争を安く効率よく勝利を収める方法を考える学問なのである。
そういう社会科学の風潮の中で、「社会的公正」もしくは「社会正義」を正面きって論じたロールズという学者は、非常に稀有な存在であり、一体どういう人物だったのか、ということに興味がわいた。
ロールズは、幼き日にジフテリアに罹病し、その結果、感染した弟二人が病死するという出来事が起こった。自分が生き残って、弟二人が死んだということは、だれも表立って言うことはなくとも、ロールズの心に深い影を落とすことになった。
ロールズはプリンストン大学に進み、花形選手だった憧れの兄を目指して、フットボールに没頭した。
大学卒業後、陸軍の士官として日本との戦いにニューギニア、フィリピンと転戦した。
そして、日本の全面降伏後は、占領軍の一員として広島長崎の原爆の惨状を目のあたりにして、それまで疑うこともなかった「アメリカの正義」に疑問をもちはじめ、社会にとっての正義とは何かを考えるようになったという。
ロールズにとっての「社会正義」とは「社会的公正」のことである。つまり誰もが等しく社会の豊かさを享受できる社会のことである。
ロールズの考え方の中には、ルソーの社会契約論の影響を強く感じるがが、それとともに古典的な経済学的な思考が融合しているのがみてとれる。

個人的感慨であるが、哲学や倫理学というものは価値論であり、それらび価値を共有することは「二重の意味」で難しい、と思う。
ひとつは、ある哲学的内容を皆が「理解」できるかという問題、もうひとつは、価値観や意識は人によって異なるから、価値を「共有」できるに至るかという問題である。
こういう問題が今、生命科学や安楽死や死刑の問題と現実の問題となっているのだが、そこで「実用主義」(プラグマチズム)という観点は、最低限の共有できる土台を提供できるのではなかろうか、と思う。
例えば、死刑はよい事か、悪いことかをどう哲学的・宗教的に議論をつくしても、埒が明かない。つまり、合意点を見出すことは極めて困難である。
しかし、そうした煮詰まった議論を一旦はなれて、「果たして死刑執行は犯罪を減らすことに繋がるか」というプラグマチズム(実用主義)の観点にシフトすれば、それは統計資料に「答え」が見出せるものであり、ある程度共通の土俵を用意できるのではなかろうか。
もちろん実用主義も一つの価値観であり、統計資料が有意かどうかも問題となるであろうが。
少なくとも、経済学という学問に関しては、それはプラグマチズムにも影響を与えたベンサム流の「最大多数の最大幸福」という功利主義の影響を受けており、経済学を学んだロールズの思想のには、「自由」「平等」「財産」を基本財を捉えたという点でも、そうした思想の洗礼を受けたことは否定できないようである。
ロールズは、社会正義をけして哲学的・倫理的に考察したわけではない。
ロールズの「社会的公正」論は、できるだけ多くの人に福利をという点で「ベンサム流」なのだが、結局は最底辺への福利がそれに繋がる、と思考した点でユニークなのである。

ロールズの「社会的公正」の内容を紹介する前に、それに関わる部分での日本の現況にふれたい。
日本は長いところ不況といわれるが、不況といえば内需不足ということから説明されるが、そもそも高度経済成長期の「三種の神器」(冷蔵庫、洗濯機、テレビ)あるいは、新「三種の神器」(自動車・カラーテレビ・クーラー)のような、ビッグな売れ筋商品があるだろうか、という疑問がわく。
そう考えると、需要の問題は、供給サイドの問題に帰着するのであり、需要を言う前に供給側を活性化することが先決というのが、サプライサイド・エコノミクスの発想である。
構造改革、自由化、規制緩和やるべし、デキル者ガンバッタ者に厚く報いるべし、つまり不平等は容認し悪平等をなくすべしということになったのである。
しかし、この構造改革にもたらしものは、必ずしも経済の活性化とばかりはならずに「先行きの不安感」を伴なって表れたのである。
そしてこの「不安」こそがせっかくの経済活性化を「停滞」の方向にヒキズリ戻しているというのが、現状ではなかろうか。
景気が悪いので先行きが不透明で、具体的には会社をクビになるかもしれないし、クビにならないまでも給料は大幅に下がりそうだし、無理して評価をあげようと働けば病気になってしまうかもしれない。
商売はうまくいくそうもないし、とにかく将来収入は先細りになりそうだ。今のうちに貯められるだけ貯めておこうということである。
ところで、経済が元気になるとオカネがサラサラと血液のように循環してモノの供給や需要をうみだしていくのだが、景気後退に至ると、オカネの流れのパワーが弱まり、いたるところで血流がとまってしまう現象がおきる。
その結果、市場の力が弱まり経済の復元力が失われていくというのが、ケインズ的な世界観であった。
本来、オカネというものは、利子を生まないので、あまり手元に置いたりしたら損をするものなのである。
だから人々は利子を求めて貯蓄し、一方では利子を払ってでも資金を求める者もいる。
だから古典派経済学では、オカネは貯蓄されてもスグに供給サイドで投資需要が表れ、投資財として生産されるために、オカネのサラサラ状態は維持されると論じたのだが、実はケインズは「オカネ」の不安定性つまり「オカネの滞り」に注目したのである。
つまりオカネにも回転速度というものがあり、ケインズはオカネの回転速度の低下に気がついたということである。
ケインズはオカネを物に換えないで、利子もとらずに手元においておく理由を3つに分類した。
一つはオカネの取引需要で、これはモノを買うことに備えてしばらく手元におくオカネである。
もう一つは、国債の値下がりつまり長期金利の上昇に備えて、オカネを手元におく行為である。どうあれ、手元においている限りはオカネは回ってはいないし、有効な需要としてあらわれないのである。
三番目は「予備的需要」で、不測の事態に備えて余分にオカネをもっておおうとするものである。
オカネの「取引需要」を卑近な例でいうと、一週間に何回現行のキャッシュコーナーで財布にオカネを入れにいくかという極めて習慣的なものに依存している。家計を念頭におくと「取引需要」はピンとこないが、企業が小切手で支払いを行うために「当座預金」という利子がつかない口座にオカネを用意しておくのは、そうした「支払い」つまり取引需要のためであり、我々が財布にオカネを用意しておくのと本質的に何ら変わるものではない。
つまり「取引需要」は、取引のタイミングのズレで生じるものであり、それが国民所得水準にほぼ比例していることは用意に理解できるであろう。
第二のオカネを手元に置く理由は、「投機的需要」というもので、利子が非常に低い時に、すなわち国債の価格が高いときは、下がるをネラッテ国債を買うためにオカネを手元に置く、現実には家計ならば利子の低い普通預金、企業ならば当座預金に準備しておくのだが、今日本はどんなに利子(利回り)が低くても、投資の行き場がなくてとりあえず国債を買うという状況にあるので、ケインズの世界観にとって本質であった「投機的需要」は、今のところそれほど重要なものではないと思われる。(この点につきあまり現状を知りません)
むしろ重要なのはケインズが三番目にあげた「予備的需要」ではなかろうか。
すなわち不測の事態に備えてオカネを手元におくということである。
一般的には病気やトラブル、事故に備えて我々が財布に余分のオカネをいれておくということである。企業ならば利益を投資ではなく、ひたすら「内部留保」につとめるということである。
極端な例をひとつ挙げると、いつ銀行は潰れてもおかしくないと思う人物は、銀行から全預金を引き出すまではいかずとも自分の貯金を銀行ではなく、自宅の箪笥や金庫に保管しておくといったことである。
銀行に貯金するならば、貸し出しを通じてオカネは再び世の中をまわりはじめるのであるが、こういうオカネの「退蔵」は、オカネの流れを留め、経済の活力を奪わせているものであり、その最大の理由は先述のような「不安」ということに他ならないなのである。
セーフティ・ネットつまり「安全ネット」という言葉があるが、人が仮に失敗したり不測の事態が生じて落下したりしても、国がしっかりした「安全ネット」で受けとめてくれるというのならば、人々はもう少し前向きな経済活動にいそしめるだろうが、いつも失業・病気・老後などの不安が過ぎる限り、経済はなかなか上向きにはならにように思える。
そして今の生活(または企業活動)で、比較的良いと思われる人々でも、いつ墜落するかわからないので、新たなチャレンジなどができにくく、「守勢」にはいっているということである。

以上のような日本の現況を踏まえた上で、ロールズの「社会的公正」の考え方をみてみよう。
ロールスの社会的公正の基点を、最下層の人々においた。つまり社会的最下層の福利がたかまらないかぎりは、社会的公正度が増したとは言えないということである。
違った言い方をすれば格差が広がったとしても、最下層の人々の生活が向上すれば、社会的公正はましたということであり、その格差は許容範囲ということである。
はっきりいって人間は、「差」を求めてガンバルものである。どんなに才能があり、どんなに人より努力しても結局、同じ分け前ならば、人々はがんばりたくないのであり、そうした分け前のあり方が「公正」なものとはいえないだろう。
成長や発展のためには、つまりガンバル人がよりガンバルためには、何らかの「格差」が保障される社会でなければならない、つまり競争による勝者の保障のある社会でなければならないということである。
反面、競争社会は金融技術の発達でおきたような一握りの金持ちだけがとんでもない利益をえるだけで、多くの人々がワーキング・プアや絶対的貧困におちいったり、「基本財」たる医療費や義務教育費までも払えなくなる事態は、誰が見ても「公正」な社会とは言いがたい。
これは、ロールズの「社会的公正」の観点から見ても、最下層の水準は「絶対的に」低下しているわけだから、公正が実現しているとはいえない。

最底辺に多くのの資源を投入するというロールズの「ミニマキシン原則」は、果たして共感をもって受け入れられるものだろうか。そうでなければ実現の可能性のない「絵モチ」基準でしかないのである。
AB二人の人間がいて、ABは二人で働きその成果を分かち合うとする。Aは能力が高くBは能力が低く、それでも成果を同じように「平等」に分配しなければならないのならば、Aの生産性は急に衰えるだろう。
Aにはやっただけ能力だけのことを保障しなければならないからである。
この時、Aはいわば成功者なのだが、通常考えられることは、Bに分け前を与えて助けてやる必然性は何もないし、それどころか有能なAはBの利得のチャンスや生活資源を奪い取り、Bをさらなる貧困へおいつめる可能性さえあるわけである。
ここでロールズのユニークな点は「原始状態」を想定し、少なくとも当初の制度つくりにおいてABが互いの能力も自分の社会的成功の可能性も知らない「無知のベール」に覆われているとした。
つまりどちらもAの立場(成功者)になることもBの立場(貧困者)になることも共にありうるとして、Bの側になる可能性も含めて、Bの側の「基本財」を最低限保障しようという誘引が働くに違いないとしたのである。
正直にいって、当初そうであっても、Aの立場すなわち社会的成功者が上手に自分の方へ利得が集まってくるような、誘導するような仕組みをいつの間にか作ってしまうのではないのかと思い、あまり説得力がない気がしないではない。
しかし、ロールズの理論は、公正の観点から累進課税や相続税、社会保障の正当性や水準を考えるうえで参考になる。
またロールズ的理論に沿えば、ホッブズの社会契約論の、人々は血で血を洗うような闘争状態から離れ、どうして社会契約を結び政府を作るにいたったのかといった政治学の話も、生命、自由、財産といった基本財を個人で死守するか、ある程度の自由財を放棄してでも政府によって守ってもらうか、どちらが低コストで効率よく実現できるかという経済学的な解釈も可能となるのである。

さて今の日本社会は、Aなる者がBとなる可能性の不安を抱き、逆にBなるものがAとなる可能性が少なく、金融不安やインフレの懸念のためか、セーフティネットというものが強く意識されている社会でもある。
誰しもが、自分が陥った場合の最低生活ラインだけなんとか保障してもらいたいという気持ちをもっている。
最底辺に多くのの資源を投入するというロールズの「マキシミン原則」は、けして今の日本にとって社会的合意が得られにくい「絵モチ原則」とは思えない。
そうした安心感のある制度こそが、日本社会の一番の活力源となり得、そのことが成功者をもさらに潤すのではなかろうか。
つまり安心の確立は、底辺からやって欲しいということである。
その意味で、ロールズの「マキシミン原則」が単なる正義の規範、公正の規範といったものではなく、「現実的な基準」として追求されてしかるべきだと思う。、