女王陛下の勲章

日本とイギリスとの関係といえば、まず1902年の日英同盟を思いつく。
日本の日露戦争の戦費の調達がイギリスで外債発行によるものであったのも、この同盟によってであり、日露戦争の勝利の遠因になっている。
日本が世界を一等国と組んだことに対する国民のモリアガリの大きさを想像させるに余りある。
しかも英国は、この日英同盟をもって「孤立政策(栄光ある孤立)」を捨てたのであったから、その気持ちをイヤがおうでも高めたのである。
イギリスとしては当時、アフリカでボーア戦争を戦いつつ、極東でロシアの勢力拡大に中国の権益を侵される危機感を抱いていたために、極東の新興国家である日本と手を組むに、やむにやまれぬ「お家の事情」があったのである。
しかしながら、戦後において日英間が特別な関係をもったということはないが、世界の人々の関心という点ではビートルズのションレノンと日本銀行家の娘オノ・ヨーコとの結婚も、日本という極東国への関心を少々高めたかもしれない。
この頃の日本経済の台頭が、まるでイギリス経済の衰退と軌を一にするかのようなタイミングであったという関係にあり、その財界のリーダー的家系の前衛芸術家の日本人の娘という存在は、若者のみならず大きなインパクトをもって受け入れられたことは間違いない。
ジョン・レノンがオノ・ヨ-コと出会ったのは1966年11月9日のことである。
前衛芸術家として名前が知られつつあったヨーコはニューヨークからロンドンへと活動拠点を移したばかりの頃であった。
新しい音楽の方向を模索していたジョンが、友人より彼女のユニークな「個展」の噂をききつけ、訪れたのが二人の出会いでのきっかけであった。
そして互いの離婚を経て1969年、ジョンが28歳でヨ-コが36歳の時に正式に結婚した。
ジョンレノンはヨーコと共に、ビートルズ解散後にお忍びで何度も軽井沢にあったオノ家の別荘をおとづれている。(オノヨーコの実家のルーツは福岡県・柳川にあるが、ここを訪れたという話は今のところ聞かない)
ビートルズが世界を席捲したのは約10年程度であるが、その時期こそは日本が高度経済成長をひた走った時期と重なり、一方でかつての産業革命の発祥の地であるイギリスの国力がみるみる「斜陽化」していった時期でもあった。
そしてビートルズが産声を上げたのは、その「斜陽化」が最も象徴的に表れた国際貿易港・リバプールの町であった。
したがって、ビートルズがイギリスを「日の沈まぬ国」にもう一度押し上げたとは言いすぎでだとしても、斜陽化する本国の「外貨獲得」に大いに貢献したということは間違いない。
ところで、ジョンレノンとポールマッカートニーの出会いは次のようなものであった。
ジョンレノンは、エルビス・プレスリーのロックンロールに刺激を受け、ハイスクール時代の1956年に「クォーリーメン」とい名のバンドをつくるが、1957年7月6日に、(イギリス国教会)地区教会の夏のバザーで演奏するチャンスを得た。
友人に誘われて教会に来ていたポールは、教会ホールで初めて「クォーリーメン」の演奏を見る。
ポールはその友人からジョンを紹介されると、ジョンの前でギターをチューニングして見せたが、ジョンはポールの演奏に驚きかつ惚れ込み、ポールをバンドに入れて一緒に音楽をやろうと誘ったのである。

1966年のビートルズ来日公演に際し、日本武道館を公演会場にすることについてヒトモメあった。
何しろ外国人の長髪の「不良4人組」が、日本文化を代表する武道の聖地で、ロック・ミュージックごときを演奏するなど許されないという気持は、右翼ならずとも謹厳居士のならば多少はあっただろう。
当時の読売新聞社主で日本武道館館長でもあった正力松太郎氏が、「ペートルなんとかというのは一体何者だ? そんな連中に武道館を使わせてたまるか」と発言した。
しかし、それでもビートルズ公演を実現する決定的な要素となったのは、「ビートルズはあのイギリス女王から勲章をもらった」ということであった。
1966年6月9日付の読売新聞社に掲載された武道館理事長の赤城宗徳氏の声明は次のとうりであった。
”この度、女王から勲章を授けられた英国の国家的音楽使節ザ・ビートルズが読売新聞社の招きにより、初めて日本で公演をする事になりました。
主催者側は、その世界的な人気と国際親善の視点から日本最高の施設を持ち1万人以上を収容、しかも、警備、音響効果の面からも万全を期せられる会場を物色していましたが、これらの条件を具象しているところは日本武道館以外にはないと判断して、使用許可を武道館に打診してきました。
しかし武道館側としては、武道の殿堂であり、青少年の心身育成の場であるので再三お断りしましたが、主催者側はもとより、英国側からも重ねて強い要請がありましたので、諸々の情勢を検討した結果、その使用を許可することになりました。"
ビートルズを「女王から勲章を授けられた英国の国家的音楽使節」とはよく言ったものだが、この勲章とは果たしてどのようなものであったろうか。
ビートルズは1965年10月26日、バッキングガム宮殿の大謁見室でエリザベス女王に勲章を授与された。
「MBE(メンバー・オブ・ジ・オーダー・オブ・ザ・ブリティッシュ・エンパイア)」勲章は、英国の受勲者名簿に記載された人物に毎年贈呈される栄誉賞である。
「サージェント・ペパー」のアルバム・ジャケットには、ポールとジョージがMBE勲章を胸につけて写っている絵がある。
ともあれこの「女王陛下の勲章」によって、ビートルズの来日公演は実現し(初日は6月30日)、1966年という年は、「ビートルズ旋風」が日本国内を吹き荒れることになる。

ところで、1830年9月15日は、イギリスで世界初の鉄道が開通した日である。
リバプール・アンド・マンチェスター鉄道は、世界で最初の実用的な蒸気機関車を用いた鉄道で、開通式典で早くも死亡事故が起きたというエピソードまである。
この鉄道では、全ての列車が時刻表に基づいて運行され、ほとんどの区間で蒸気機関車が牽引する都市間旅客輸送鉄道であった。
リバプール・アンド・マンチェスター鉄道は、リヴァプール港と東ランカシャーを結んで安価に原料と製品を輸送するために計画された。
膨大な量の織物原料がリヴァプール港を通じて輸入され、水力、続いて蒸気力による織物の大量生産が可能となっていたペナイン山脈近郊の工場へと輸送されていた。
要するに、産業革命を牽引したというべきこの「二つの都市」を結んだ鉄道なのである
。 ところでビートルズ当時の故郷リバプールの様子を表すに格好の歌がある。
1968年ヒットの ピンキーとフェラス が歌った「マンチェスターとリバプール」という歌であるが、その歌詞を日本語訳で紹介すると次のとうりである。
”マンチェスターとリバプール/ とてもうるさくて賑やかで他にこんな所はない。/
何百万という住民は希望も苦労もあるけれど 幸せになりたくて生きている。/
ニューヨークやシドニーだって同じ。/ 世界中すべてに 当てはまる。/
人生の出発点は 心に残って いつまでも 消え去らないもの。/
都会って都会ってそんなにきれいじゃないかもしれない。/ でも戻ってみると 工場の煙突が おかえりなさいって言ってるみたい。”
何ということのない平凡な歌詞で伝わりにくいが、本当はとても物悲しい曲なのだ。
この曲のメロディーは哀切で、国家の「産業の斜陽」が、この二つの町のを歌った歌の中によく表れているように思う。
実は、世界初の鉄道を経営した母体とした会社が、現在世界最高のサッカークラブである「マンチェスターユナイテッド」を所有している。
つまり世界最初の鉄道は、現在の世界のサッカーの聖地たるマンチェスターとビートルズの聖地リバプールを結んだ鉄道であったわけである。
なおリバプールには、ビートルズの歌の題名となった「ペニーレイン」「ストロベリー・フィールズ」などは今なお「聖地」として訪れる人が多いという。
なおジョンとポールが出会った地区教会の墓地には歌のタイトルとなった「エリナー・リグビー」という名が刻んだ墓があるという。
この曲は、エリナー・リグビーという身寄りのない老女と、誰からも相手にされないマッケンジー神父という架空の人物を悲劇的に書いた物語的な曲で、この墓地もリバプールを訪れるファンの聖地となっている。
というよりも、この墓地あたりこそはジョンとポールの出会いという意味でも聖地なのだ。
実はビートルズが女王陛下に勲章をもらったことに対する「波紋」は、イギリス本国に限らず「反体制」を任ずる若者にっとては、幾分かはあったかと思う。
その辺を察知したのかどうかはわからないが、ビートルズには、「女王陛下」をチャカシタような歌もある。
例えばアルバム「アビーロード」の最後の曲である「ハー・マジェスティー」は、そういう曲の一つである。
女王陛下からのビートルズへ授与した「MBE勲章」は、1917年にジョージ4世が制定したもので、市民に授与される五階級のうち最下級の勲章で、それほど権威があるものというわけではなかった。
しかし、ロック・グループのメンバーが勲章を授かることは前代未聞の出来事だった。
1965年6月12日にビートルズへの授与が発表されると、不満を抱いたかつての受勲者たちからの抗議の返納が続いた。
その数は、863人にものぼった。
ある前カナダ下院議員は「英国王室は、私を卑しい間抜けどもと同列においた」と述べたし、12個もの勲章を返納した大佐もいた。
ある作家は「英国は世界各国から嘲笑され、軽蔑される」とまで書いた。
一方、賛意を示す書簡も女王に届いた。
オーストラリア高等弁務官を退任した陸軍中将のウィリアム・オリバー卿は「ビートルズはMBE勲章に値する」と述べた。
こうした批判に対して、ジョンは腹を立て 不平をいう多くは戦争の英雄行為で勲章を受けた人たちだとして、「彼らは人を殺して勲章をもらったわけだけど、ぼくたちは人を殺さずにもらった」と反撃した。
しかしながら、受勲にあたってジョン自身にも葛藤があった。
「OHMS(公用)」という封筒が届いた時、徴兵令状を受けたような気がしたという。
内容が分かったとき、勲章を受け取るのは偽善的な行為だと直感し、断ろうと思ったという。その封筒をファン・レターと一緒に片づけてしまっている。
(ジョンは1969年11月25日に実際に勲章を返納した)
実は、叙勲の名簿を作成したのは、ビートルズと同じリバプール出身のハロルド・ウィルソン首相だった。
「ニュー・ブリテン」を唱えたウィルソンは、1964年10月の選挙で13年間続いた保守党政権に勝利して首相になった。
ハロルド・ウィルソンがビートルズへの叙勲を推薦(名簿登録)したのは、若者受けを狙った戦略であったことも推察できるのである。

ビートルズへの女王陛下の勲章が、イギリス国内と日本の来日公演で起きた確執・波紋については、東西の文化的基層にまで思いを巡らせさせ興味深いものがある。
特に、「女王陛下の勲章」は、イギリス本国では、日本人にはあまり想像できないある「屈折」した思いがある。
それはイギリスという国の成り立ちによる。
イギリスという国は、英語で「ユナイティッド・キングダム」だから連合王国である。
つまり、イギリスの一番大きな島ブリテン島は、北部がスコットランド、南部がイングランド、西南部がウェールズで、これら三地方はもともと別な王国であるが、イングランドに併合されてできた国なのである。
西側に浮かぶアイルランド島も同じ運命を辿るが、プロテスタント系イギリス国教徒の多い北部アイルランドを除いて、1949年にアイルランド共和国として独立している。
イギリスの「本州」にあたるブリテン島には、ブリトン人といわれるケルト種族の民が住みついていたが、375年のゲルマン人の大移動以降、ゲルマン系のサクソン人、アングロ人の侵入が激しくなり、ケルト系のブリトン人は、ウェ-ルズ、スコットランド、コンーンウォールの山間地方に逃れたのである。
またその一部はアイルランドへ逃れたりもした。
そういうわけで、ウェールズに近い北イングランドのリバプ-ルの町は、ケルト系の人々の多く住む町となった。
先住民である「ケルト系」住民の多いウェールズの住民が、アングロ・サクソン人すなわち「ゲルマン系」の人々に対して抱く複雑な感情は、簡単に日本人の理解できるところではない。
イギリスという国においては、イングランド南部の大ロンドンに住んでこそのイギリス人という意識もあり、 ビートルズの「弟分」にあたるローリング・ストーンズは、5人のうち4人がロンドン近郊の出身であり、特にボーカルのミックジャガーは、名門ロンドン大学経済学部出身で、かなり元エリートで、父方の家系は貴族階級であった。
というわけで、ビートルズは先住民の「ケルト」系、ローリングストーンズの方は、征服民の「ゲルマン系」ということができる(かもしれない)。
ちなみにリバプールの町は40%がアイリッシュ(ケルト系)なのだそうだ。
ジョンレノンの父方の祖父「ジャック・レノン」という人は、アイルランドのダブリン生まれで19世紀後半には、アメリカへ渡り、プロの演芸団に加わり、人生の大半をプロ・シンガーとして送ったという。
その後、リバプールへと戻ってきて、1910年に死去した。
そして、父フレッドは孤児院で育ってられたのである。そのフレッドはバンジョーが得意だっという。
この辺が、ギターを早くから手にしたジョンへの影響点かもしれない。
ただ船乗りとなった父親は、ジョンが生まれるや突然に蒸発している。ジョンは伯母に預けられて育つが、学校では通知表に「絶望的」とかかれるほど手に負えない生徒だったという。
英語のキングの「キン」は同族を意味する言葉であるから、その意味に限定して言えば日本の天皇は「キング」という言葉に相応しい存在である。
ヨーロッパの国々はハプスブルク家をはじめ婚姻によって領土を拡大し王国を形成したので、ほとんどゲルマン系の国王が占めることになる。
そういう点から国王と住民との「同族意識」というものがだんだん薄れてくるわけである。
そういうわけで、「女王陛下の勲章」の波紋は、イギリス諸島における「先住民」ケルト系民族と後から移住してきた「征服民」ゲルマン民族という、「歴史的対立」が無関係とはいいきれない。
それは、いまだ解決できず、カソリック、プロテスタントという宗教対立も絡み、年間に少なくない犠牲者を生んでいるIRA問題とも関係がある。
その意味では、1965年ビートルスへの「女王陛下の勲章」は、日本とイギリス、両国文化の本質をきわどくカスル記憶に残る出来事であったといえよう。