ストック重視型経済

最近、宮崎の口てい疫被害の拡大で牛や豚が大量に殺処分されると聞いて、”Stock”という言葉が脳裏をよぎった。
牛や豚などを英語で"Stock"と表現することがあるが、貨幣経済以前の社会を考えれば、その言葉が意味するところはわかる気がする。
Stockには、「家畜」以外に資本金や株券以外に「国債」という意味がある。またこうした金融資産 から派生したと思う、「信用」や「評判」を意味する。
家畜は正確には”Livestock”であるが、となると最近日本を襲っている危機とは、様々な”Stockの危機”ということがいえる。
Stockは、もっと大きくいえば「血統」や「種族」を意味する言葉でもある。

最近、ギリシア政府の経済破綻やタイで貧民救済策を要求するタクシン派による暴動をテレビで見ていると、日本が抱える様々な”Stock”の危機的状況からして、まったく「対岸の火事」とばかりは言い切れない感じがする。
日本でも安保をめぐる政治闘争が最も激しさを増した1960年6月、国会周辺を30万人の人々が取り囲んだことがあった。
この時に東大の女学生が機動隊ともまれ死亡するにおよび、人々は参議院の承認を経ないままに新安保の自然成立へともちこもうとする岸内閣への怒りを高めていった。
この時、岸首相は、警察隊ばかりではなく自衛隊の投入を強く主張した。
しかし、防衛大臣の赤城宗徳は「自衛隊を出したら、同士撃ちになり、まちがいなく自衛隊は国民の敵になる」といって反対した。
この時もしも、赤城宗徳氏が自衛隊投入に強く反対しなかったならば、国会議事堂周辺は大量の流血の騒ぎになり、1986年の中国の天安門事件と同様の事態が発生することになったであろう。
また自衛隊の憲法論争は、さらに違った形で展開していたかもしれない。とすると、新安保成立の舞台裏で行われた赤城防衛大臣の自衛隊投入の反対は、現代史の分岐点になったといえる。
ちなみにこの赤城宗徳氏の孫が、安部内閣の下で自殺した農林大臣の松岡利勝氏の後任になった赤城徳彦であり、「岸ー安部」のstockと赤城氏のstockの因縁を感じる。
1960年以後、自民党は池田内閣の「所得倍増計画」に見られるように、自民党政府は国民の関心を政治から経済へと転換することに成功した。
国民が経済成長により豊かになれば、「失うものがない」国民から、「失いたくない」国民に転じるにしたがい、国民は次第に現状維持つまり「保守的傾向」を強めていくにちがいないというヨミがあった。
実際に、「失いたくない」国民が暴徒と化し機動隊に連行されるような過激な場面は、一部を除きほとんど見られなくなった。
以後日本経済は、1970年代の石油ショックで安定成長へ、そして1980年代末のバブル崩壊で減速経済へと移行した。
今や2010年、予想される「少子高齢化」の進行により、日本経済は「減速」ではなく「縮小」へと向かわざるをえない局面に立たせられている。
「失うものがない」国民が多く溢れることは、現在の政府にとっても、1960年代初期の悪夢を再現することになる。
その「縮小経済」たるや、どんな形をとっていくのだろうか。

経済学の初歩的な概念として、「ストック」と「フロー」という概念がある。
フローは、経済に関して、ある一定の「期間」で定義される経済量で、ストックは、ある「時点」で定義される経済量である。
風呂桶にたとえるなら、フローはお湯の入りと出で、ストックは風呂桶に蓄えられたお湯となる。
具体的には、金融資産はストックの概念であり、GDPはフローの概念である。
投資(I)はフローの概念であるがインフラなどの実物資産(S)はストックの概念で、I=△Sという関係が成り立つ。
長年、日本は勿論のこと資本主義世界は経済発展を実現させるなかで、フローを優先させ、ストックを増やす政策をとってきた。
高速道路を作るための予算(フロー)が計上されて公共投資が行われ、高速道路(ストック)が増える構図である。
高速道路を造るために異常に高いガソリン税をかけられ、さらに租税特別措置によって暫定税率分が上乗せされて、車の利用者は高い燃料費を払ってきた。
ガソリン税は、道路を造るために使うという限定された目的をもつ稀有な税金であるが、この税金を使ってゼネコンに道路建設の発注をして政治家(道路族)をも富ませるという構図がすっかり出来上がってしまったのである。
それで一時間に数台しか車が通らないようなところにも過剰に道路が作られてしまったのである。
この実態は、道路という投資の(フロー)需要によって、業者が潤い政治家の票が潤うことだけをネラッって建築されたもので、その道路が今後何十年に渡ってどれだけの資産価値(ストック)があるか、熟慮されて建造されたものではない。
高速道路建設には「フロー重視・ストック軽視」の構図が典型的に見られ、高い税金を無価値な道路の為に払わされている国民からすれば、無駄な高速道路の建設は廃止するべきという世論が高まったのは、ごく当然の成り行きである。

ヨーロッパの街並を歩いてすぐに感じることは、日本経済が誇ってきた豊かさとは結局「フロー」の豊かさでしかないということである。
ヨーロッパで日本の半分程度のGDP(フロー)水準の国であっても、歴史的に蓄積された町並み(ストック)や公園の豊かさに圧倒され、街を歩くだけでも幸せな気分になれる。
こういう豊かさに浸ると、例えばパリのセーヌ川河畔に、誰もコンビニ店やパチンコ店やカラオケボックスをつくろうなんて思わない。
仮に世界遺産の規制が無かったとしても、そんな商業主義の看板やネオンでこの風景を汚したくないという気持ちに自然となるからである。
そしてヨーロッパで最古に近いソルボンヌ大学やハイデルベルク大学近くのカルチェ・ラテンつまり「ラテン語地区」もっと身近な言葉でいえば「文教地区」に見られる大学の街の威厳は、日本の安っぽい学生街とは雲泥の差である。
それは、ほとんど「城」といってよい雰囲気である。
つまりヨ-ロッパの国々には、長年の使用に耐えるものを生み出しそれを大切に保護し、そしてそれを経済価値として生かしていこうという姿勢が強く見られるのである。
スペインには聖家族教会(サグラダファミリア)という着工以来200年近くかかってもいまだ完成しない教会がある。完成していないことにした方が、寄付がたくさん集まるという噂もあるが、ヨーローパの人々がどれだけ景観に気を使い、歴史文化を守りそれを維持することに心血を注いできたかを思わせらる。
つまりヨーロッパ社会は日本と対照的に、基本的に「ストック重視型経済」であるということである。

世界的拡張から縮小へと転じたイギリスには、日本が学ぶべき「ストック型経済」の方向性のヒントを見出だすことができるように思う。
イギリス人は通常、築100年以上経過した古い家に暮らしている。
何世代か住み継がれた家はその折々のライフスタイルを投影し、それらが加算されて独特の雰囲気を醸し出す。
あるイギリスに長年住む日本人が飽きないのは、イギリス中にひしめく店が依然として日本よりも面白いからなのだという。
イギリスには町や村に行くほど日本にはないユニークな店が数多く見つかる。
100年以上経過した骨董品をアンティ-ク・ショップや古道具屋、ジャンクショップ、家庭の不用品を売るチャリティショップなどである。
また、主婦が作った手作りのハムやパイ、地元職人のクラフト製品などの個性派ぞろいを売るパレットショップなどがある。
また西欧諸国において田園は豊かな社会基盤の一つとして確実に機能している。
日本の農業の量的な意味での生産性は極めて低いつまり自給率が低いのだが、それは農地所有を農家に限定してきたからである。
日本は現在でも比較的高齢者によって支えらているのだから、農業は会社をリタイアした人々の就業機会となる可能性が大いにあるはずである。
農業においても様々な就業機形態が可能であるように多様な農地所有制度なり、技術指導体制の整備が望まれる。
フランスでは、都市労働者がリタイアした後、農地を買って様々な作物の栽培を楽しみながら互いに物々交換し、 低い生活コストで自然の生活空間を楽しんでいるということだ。
そこでは農家やボランティアによる技術指導も積極的に行われていると聞く。
ところで、ワーキング・ホリディの前身はイギリスのワーキング・キャンプである。
ワーク・キャンプは、農家の収穫期(6月~9月)に起きる人手不足を補うために、世界中の若者をイギリスに集め、 ストロベリーやブラックカラントなどの農作物の収穫を手伝わせる。
参加者は収穫した農作物の量に応じ、わずかな報酬を出す。
日本円にして2千円から3千円ぐらいだそうだが、特に金を稼ぐ必要の無い若者は適当に働きながら、仲間との交流を楽しむし、東欧からの出稼組は必死に仕事をして金を 貯めるのである。
彼らは世界中の旗が立つミニ・オリンピックのような国際キャンプ村に極めて安い費用で宿泊し、ダンスホールや食堂もあり世界中の人々との交流も楽しめる。
つまりイギリス人は、農家の人手不足を農商務省がバックしたエンターテイメントで解決しようとし、滞在に必要なビザまでも発給したのである。

1970年代、日本の最大手広告代理店が作った「もっと使わせろ、捨てさせろ、ムダ使いさせろ、季節を忘れさせろ、贈り物をさせろ、ペアで買わせろ」今から思うと背筋も凍るような宣伝文句があった。
日本経済は、少子高齢化により労働人口が比率的に縮小していかざるをえない。そうでなければ大量の移民を入れる必要がある。
これからは、「できるだけ使わない、捨てない、ムダ使いしない、季節に応じて贈り物はほどほどに、無理しない」程度の社会へ移行せざるをえない。
少子高齢化が進み労働人口がへっていくのであれば、従来の内需拡大による経済水準の維持ひいては雇用の確保という考え方も大きく転換せざるをえなくなる。
これからの日本経済の再生があるにせよ従来の枠組みから別の枠組みによってしか可能ではないのである。
その際に、拡大から縮小へとドラスチックに転じたイギリス流の食事や教育、娯楽のあり様なども参考になろう。

ストックを拡大して考えると「ヒューマン・ストック」もあれば「自然ストック」もある。
ヨーロッパの主要国では中世以来森林伐採がかなり進行していったのであるが、ドイツは昔「ゲルマーニア」と呼ばれたが、この地には行けどもゆけども深い森がつづいていた。
ここに住むドルイド僧は森に神がいる神を信じ、森を 聖なるものとしてキリスト教の布教者達に抵抗した。
しかしキリスト教が勝利を収め、ゲルマーニアの森は次ぎ次に伐採されていったが、その結果17世紀ごろまでにドイツの森林の八割は伐採されていなかったという。
日本の場合、こうした形での自然破壊は少なくとも明治維新までは起こらなかった。
日本列島が森林資源に恵まれた土地で会ったこともあるが、同時に日本人には古来、森を慈しみ育てる文化があったということである。
また、木を伐るにせよ放置するのではなく、植林をし地域共有の「里山」として維持していかねばならないというルールをもっていた。
稲作を行ううえで、保水機能のある里山を持つことが不可欠である。
こういうことを見ると、日本人には元来「ストック重視」というの強い志向のある文化をもっていたといえる。
最近で起きている口てい疫の拡大による牛や豚の殺処分などは、広い意味での「ストックの危機」を背景としたものではないだろうか。
ストック重視型経済は、つまるところ「メインテナンス重視」の経済であるが、それでもストックが耐用年数を超えるとスクラップつまり「負のストック」になっていく。
人口が減りスクラップ化する街をどう再生するかということも大きな問題である。
つまり「ストック重視型経済」のもうひとつの相は、「スクラップの再利用化」ということでもある。
(つづく)