赤壁のメッセージ

建造物は、目に触れる限り常時「メッセージ」を放ち続けるもので、それが文字や画像を媒体としたメッセージとちがうところである。
とはいっても、「見えないもの」にもメッセージ性はある。「サウンド オブ サイレンス」のように。
伊勢に行けば屋根だけあって「何もない神域」がある。
きっと何かあるのだろうと心を澄ませ集中する。目には見えないが、何かにふれた感じがして身がひきしまる思いがする。
「何もない」ということは、強いメッセージ(宗教的メッセージ)たりうることを実感した。
そういえば西行法師が伊勢神宮へ参拝した際に詠った「なにごとの在おわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」という歌があった。
また、岡本太郎氏が「沖縄文化論」の中に書いた神が降りる聖地(=御嶽)について次のような記述がある。
「なんにもないということ、それが逆に厳粛な実体となって私をうちつづけるのだ。ここでもまた私は、なんにもないということに圧倒される。それは静かで、幅のふとい歓喜であった。あの潔癖、純粋さ。神体もなければ偶像も、イコノグラフィーもない。そんな死臭をみじんも感じさせない清潔感。神はこのようにな んにもない場所におりて来て、透明な空気の中で人間と向かいあうのだ」と。

伊勢の神域や沖縄の御嶽は別格として、この世は見るもの聞くもの喧騒に溢れかえっている。
宗教的な建造物でさえも、時の権力者の富や勢威、芸術家の天才を誇示し、果たしてこれが真に神を讃えるもであろうかかと疑問を抱く。
一見荘厳・壮麗に見えても、観光地までになるほど手垢がついたところでは、神様もさぞや住み心地が悪かろうと、つい思ってしまうからだ。
建造物の人間臭は、それが「政治的メッセージ」を伝える目的にも建てられたものだと、最高度に達する。
一番わかり易いケースは植民地の建造物などにみることができる。
日本が朝鮮を支配した際の統治機関である朝鮮総督府は、歴代の朝鮮王宮(景福宮)を覆い隠すかのように立ちはだかっていた。
1990年代にこの植民地支配のシンボルは撤去されたが、実はこの建物が戦後ここまで長く撤去されなかったのは、逆に韓国政府によって「反日」のシンボルとして利用されてきたといってよい。
また日本の敗戦によりGHQのマッカーサーが執務を取った第一生命ビルは、ある意味「占領時代」のシンボルなのだが、まったく新館のビルに立て直されたにもかかわらず、わざわざ旧館の面影が残るような形で新装されて、執務室もマッカーサー記念室として現存している。
しかし、単に「現存している」という表現だけでは充分ではないもしれない。
新館の第一生命ビルを見るに際して私が「異様」に感じたのは、ビルの側面に美観を損なうくらいにデカデカと「第一生命ビル」と大書してあり、かなり遠くからでもそれが確認できるということである。
一体、なんの意図があるのだろう。
少なくとも私の職場近くの福岡市の大博通りにある「第一生命ビル」には、そういう文字を見ることはできない。
つまり三菱村ともいわれる丸の内から日比谷公園に向かってお堀端を歩くにつれて、このビルの景観により日本が戦争に敗れ、主にアメリカによって戦後の民主化をなしたことをイヤでも思い起こさせられるということだ。
この第一生命ビルに日本の首相以下官僚達が出向き、いちいちお伺いをたてながら、日本を「間接統治」した。
したがって、第一生命ビルは、日本人にとっての「ゼロの焦点」ともいえる場所である。
それに比べて、東京裁判におけるA級戦犯が収容され処刑された東京池袋の「巣鴨プリゾン跡地」には、1980年代初頭に「サンシャインシティ」が完成しすっかり若者の街に変貌し、その刑場の形骸や痕跡をほとんど見つけることができない。
面白いのは、皇族の一等地を買い取って「プリンスホテル」をたてたブランド志向の西武グループが、こういうキワドイ場所を買って「サンシャインプリンスホテル」を建てたということだ。
場所柄からすれば「プリンスホテル」よりどちらかといえば「プリゾンホテル」の方が相応しいのだが、それでもこの地に「プリンスホテル」が建っていることには、ある「皮肉な響き」がある。
マッカーサーは、アメリカ国内で渦巻く天皇処刑論を退けて、占領支配に天皇の存在をを生かそうとした。しかし、A級戦犯7人の処刑をこの場所で行ったものの、GHQはその執行日を皇太子の誕生日(12月23日)をネラっておこなったのである。
つまり昭和天皇は、「プリンス」つまり皇太子(現平成天皇)の誕生日のたびごとに、自身が免れた「何か」と、処刑された重臣達に思いをめぐらせねばならないことになる。
今、刑場跡地は僅かにサンシャイン60ビルの麓の東池袋公園の一角に、その記憶をとどめる簡単な石碑のみを残すだけとなっている。
今、この跡地の歴史の重さは、若者の往来とエンターテンメント施設の喧騒とによって、すっかり覆い隠されてしまった感さえある。
そして、もしここに何か「政治的なメッセージ」を嗅ぎとるとすれば、いわゆる「東京裁判史観」が揺らぎ始めた時期(A級戦犯の靖国神社合祀は1978年)と、「サンシャインシティ(=太陽の街)」が造られ始めた時期に、符節の合一が見られるということである。

私が居住する福岡の地で、福岡県庁がある東公園は元寇時における戦場であるが、日露戦争時に武運長久を願う祈りをこめて、国難到来を予言した日蓮上人像と、当時伊勢神宮などで元寇退散を祈った亀山上皇像がたっている。
実は亀山上皇像がかぶる帽子つまり垂纓冠(すいえいのかんむり)の柄(?)がイヤに高いことにお気づきの方もあるだろう。
実は日蓮上人像が亀山上皇像よりも高いのは問題ありという批判が出たことから、亀山上皇の帽子がバランスを失するくらい長くしたのである。
この亀山上皇像をつくった一人が天神の石屋であった広田氏つまり、第二次世界大戦中の広田弘毅首相の父親(徳右衛門)で、その名前は亀山上皇像の台座に刻まれている。
父親が日露戦争勝利を願う石像を造ったことと、その息子広田弘毅が首相として第二次世界大戦という「国難」にあたったことに、広田父子の運命的なものを感じる。
広田弘毅は、東京裁判では一言の弁明も無く従容としてA級戦犯として先述の巣鴨プリゾンで処刑された一人であった。
、 しかしながら、広田弘毅像が大濠公園の南端にあり、これが靖国神社の支社ともいうべき護国神社を仰ぎ見るように建っていることに、この像をたてた人々(玄洋社関係者)の「政治的メッセージ」を感じることができる。

鉄道というものは様々な政治的メッセージを伝える建造物の代表格である、と思う。
かつて西武鉄道の野望の歴史を描いた猪瀬直樹著の「ミカドの肖像」という本があった。
この本によると、天皇が国内を旅行される場合には、明治神宮に近接した原宿駅の「隠れた」宮廷ホームから御用列車が出発するが、通常のダイヤにこの特別列車を走らせるには、なかなかの技術が必要らしい。
列車のダイヤを複雑につくる人々を「スジ屋」というらしいが、この特別列車の「スジ」を通す場合には、三原則というものがあるらしい。
①ふつうの列車と並んで走ってはいけない。②追い抜かれてはいかない。③立体交差の際に、上を他の列車が走ってはいけない。
すべての行程で、この条件を満たすようなダイヤを作るという大変な技術なのだ。
この技術はテロ防止が目的らしいが、個人的には戦前の「不敬罪」をつい思い浮かべてしまう。
松本清張の「点と線」において、ホームの向こう側に列車が見える数分間を使ったトリックを思い浮かべるが、多少でも列車の到着時刻にズレが生じれば、この小説の犯罪は成立しないことになる。
ではこの特別な「お召し列車」の場合にはどうなのか。実は、スジ屋も同乗するらしい。
予測外のことが起きても、スジ屋がいればその都度、即座にダイヤを修正することができるからだ。
また、「ミカドの肖像」は、皇居に面したところに立つ東京海上火災ビルの高さがわずか30センチメートル低い理由などが書いてあり、いまだに「ミカド」(=天皇)への意識が人々を支配していることを教えてくれた。
最近NHKテレビの「知る楽」などテレビにしばしば登場される政治思想史の原健史教授は、鉄道の語り部として登場されることが多く、大変面白い話を聞かせてくれる。
原教授は、西武鉄道と東武鉄道の私鉄二大沿線の違いを語らせたら話がつきないといわれ、学者としてその洞察力は単なる鉄道マニアでないことは明白である。
現在東京都副知事の先述の猪瀬直樹氏の視点に重なるところもあるかと思う。
実は原教授は、日経新聞出身で、猪瀬氏と同じくジャーナリストであり、その為両人は足で歩いて考えるという点など共通点が多い。
私が行くたびに感じるJR大阪駅の使い勝手の悪さについて、原教授が書いたものの中に答えを得た。
阪急梅田駅は、国鉄東海道線の南側にあり、阪急電車の線路が東海道線を高架でまたいでいた。
だが昭和天皇の大阪への行幸の際に、天皇の列車が一私鉄の下をくぐる形になるので、国鉄大阪駅を改造することになる。
これが「阪急クロス」問題になるのだが、最終的には国鉄の線路が高架となり、阪急は地上へと移動させられる。原教授は、帝国の秩序が私鉄王国の独自性を奪ったと解釈している。
その後、梅田駅は東海道線の北側へと移り、クロス問題は解決したのだが、阪急は百年前から今に至るまでJRと連結していない。
そして今でも大阪駅から梅田駅に最短で行くには、いったん外に出て歩道橋を渡らなければ ならず、歩道橋には屋根もかかっていなくて不自然なくらい無愛想である。
そしてこれは宝塚や三宮とて同じで、原教授はそうした不便さに民衆の町大阪の矜持と、JRと私鉄などの相互乗り入れが当然の東京との違いを見て取るのである。
江戸時代に新たに黒田家の故郷である備前(岡山)の福岡の地から豊前経由で入ったがために、筑前の国は福岡とよばれるようになった。
しかし鎌倉時代より栄えた博多町人の町屋近くに位置する現在の国鉄の駅名が市議会で問題となったが、福岡駅とすることを拒否し、「博多駅」という名前になった。
これとて、博多ッ子の矜持がそうさせたといえる。

建造物の「政治的メッセージ」という点でいえば、井沢元彦が金閣寺について書いたもの興味深かった。
井沢氏は、「天皇になりたがった将軍」という本の中で、どうして金閣は各階で様式が異なり、一階だけがどうして金箔がほどこされていないかを独自に解き明かしている。
まず一階が公家風の寝殿造りであり金箔がほどこされていないことにこそ大きな意味がある、という。
つまり金がない粗末な公家の上(二階)に、金箔の武家があるということである。
次に三階が気になるが、三階は中国の禅宗形式である。
建物の階層の上下からいうと武家よりも中国の禅僧の方がエライことになるが、この中国の禅宗はいわゆる「五山の禅宗」などではない。
当時、義満は将軍の位を息子義持に譲り渡して出家していた。つまり形式上、義満は禅僧である。
しかも足利義満は、中国の皇帝から「日本国王」に任じられているのだ。
足利義満は、当時の世界秩序である中華文明の中でも正統性を認められた「国王」なのである。
しかも金閣には鳳凰の飾りのある寺でこれがあるのは藤原頼通が寺とした平等院鳳凰堂ぐらいなものである。
義満はここに天皇や公家を招いて接待している。
彼らは、内心ムットしたに違いない。
この金閣寺の造りはあまりにも子供じみているように見えるが、井沢氏は「ガキ大将」足利義満を、上述の本の中で様々な角度から描いている。

最後に、大分県中津市にある「合元寺の赤壁」が発する奇怪なメッセージについて紹介しよう。
福岡県旧県知事公舎にアクロスを挟んで隣接する水鏡天満宮は、もともと現在の薬院駅近く(今泉1丁目)にあった。
菅原道真公が筑紫の地に流され上陸した時、ここで自分の姿を水面に映したのをきっかけに水鏡天満宮と名づけられ、容見(すがたみ)天神とも呼ばれていた。
水鏡天満宮は神様(=天神様)であったことから、筑前国福岡藩の初代藩主であった黒田長政公が、福岡城からみて鬼門にあたる現在の場所に天満宮を移したという。
それ故にその界隈は天神町と呼ばれるようになった。
実は、現在の水鏡天満宮の場所には智福寺という寺があった場所で、 空誉という人物が住持をつとめていた。
この空誉はもともと中津に現在もある合元寺の開祖で、黒田孝高(如水)にしたがって福岡に入国し智福寺の住持となったのだが、三代・黒田忠之の怒りにふれ、鉛責めによって殺され、智福寺も廃された。
そして江戸時代半ばにこの智福寺があったあたりに水鏡天満宮が移転され、そこに隣接して明治時代に「旧福岡県知事公舎」が建てられたのである。
実はもともと空誉が開山となった現在の中津市・元合寺は黒田氏と縁が深く、豊前に勢力をはった宇都宮家との間で長く怨恨を残すある出来事がおこっている。
秀吉が1587年に九州遠征をし島津氏を屈服させると黒田官兵衛孝高は今の北九州にあたる豊前六郡12万3千石を拝領し中津城を居城とした。
しかし中津には下野(栃木県)からでた宇都宮氏(城井氏)が国人として勢力をはっていた。
宇都宮氏は鎌倉以来の名族の誇りからか、秀吉による国替えの命に従わず、秀吉令による黒田如水の宇都宮氏討伐となったのである。
黒田長政は政略結婚の話で宇都宮(城井)鎮房を合元寺に誘い出し飲食を供し、そのさなかににわかに鎮房を殺し、合元寺に待たせてあった鎮房の手勢には軍勢をさしむけ皆殺しにしたのである。
合元寺はその後、門前の白壁を幾度塗り替えても血痕が絶えないくなり、ついに「赤壁」に塗られるようになったという。
それ故に合元寺の開祖であった空誉は、中津時代の黒田家の罪業を誰よりも深く知っていた人物であった。
黒田藩は、六代にしての血統の断絶や親幕府藩主を迎えるための家臣団の血ぬられた処分、最後の藩主・長知の贋札作りの発覚による処分など、ことあるごとに「宇都宮氏の呪い」がささやかれてきた。
幕末、贋札つくりが行われ発覚した屋敷は、宇都宮惨殺事件で一番乗りをした野村氏の屋敷であったため、いやが上にもあの「血なまぐさい出来事」との関わりが噂された。
昭和に入り、二十三代福岡県知事は亡霊に夜ごとうなされて眠れず、知事の書生もモノノケにとりつかれたようになったために、空誉が釜責めのあった草の生えていない庭に小さな銅ぶきの祠を建てて怨霊を慰めた。
そして現在、この場所(福岡市済生会病院あたり)には、ひっそりと「福岡藩刑場跡の碑」が立っている。
ところで福岡で麻生家は安川家、貝島家とならび御三家とよばれるが、麻生家の歴史は古く中世にまでさかのぼる。
麻生家は中世期に遠賀郡に所領をえ幕末には、飯塚では大庄屋を務めた。
炭鉱経営資料を含む「麻生文書」を伝えてきた家柄である。
中津・合元寺に今も残る「赤壁」、昭和初期に旧県知事公舎を襲った「怪奇」、さらに現在の福岡県知事の麻生氏の系図を溯ると宇都宮氏に繋がっているという「事実」、これらには一体どんなメッセージが秘められているのか。
気になるところである。