思いは一つ

厚生労働省の村木厚子局長の1年4ヶ月の戦いが無罪判決で決着がついた。
村木氏も逮捕後しばらくは精神的には「真暗闇」ではなかったろうか。
何しろ大阪地検特捜部のトップ2人が主任検事の「ストーリー」に合わせるかのように、冤罪づくりに実質的に「協力」していたのだから。
逃れようもない「ライオンの穴」にでも投げ込まれたような気分であっただろう。
また我々も当初、どんなに真面目な人でも「組織の力学」にまきこまれればという感じを持ってしまったのだから。
ただ大阪地検特捜部にあって唯一の「救い」は、特捜部内部でフロッピーディスクの書き換えが噂になった時に、4人の若手検事が真実を明らかにしようと、主任検事らを追及したことである。
その頃特捜上層部には、小沢氏の「西松建設問題」で忙しく何を言い出すんだという風潮があったそうだが、そんな中、部長や副部長にジカに詰め寄り「改竄の事実」を公表しないならば、自分は検事をやめるとまで言い切った女性検事がいたのである。
その女性検事が「隠すつもりですか」と詰問したら、上司である特捜部副部長は、「女性特有の思い込み」などと相手にしなかったという。
さて、その女性検事とは一体どういう検事(女性)だったのか、個人的好奇心をおさえきれず調べてみた。
佐賀県出身で、九州大学法学部から大学院をへて司法試験に合格し2000年に検事となり、現在41歳である。
浦和地検を振り出しに、松山地検、宮崎地検、東京地検を経て、08年に大坂地検に異動すると同時に、「特捜部」勤務を命じられた。
女性検事にとしては、異例の抜擢だったという。
知人によると「相手がどんな大物であったも物おじせず、核心をつく取調べをする」と評判であったというが、写真でみるかぎり舌鋒鋭いというよりも、もの静かな雰囲気の女性である。
御本人のホームページを見ると、冒頭の自己紹介に「私は幼い頃から知りたがりで、子供のころには“何で”が口癖だった。
そのせいか修習生時代に一番興味をもったのが検察官の仕事で、その中でも取調べでした。
それまで新聞やテレビなどで見聞きするだけだった生の刑事事件について、自ら相手に疑問をぶつけ真実を解明していくことにやり甲斐を感じました」と書いている。
検察庁は軍隊みたいな組織で、下が上に逆らうのはあり得ない世界で、上司を告発するということはとりもなおさず、出世や保身を度外視してやらなければならないということである。
実際に、この女性検事は「涙の訴え」後、今年4月に特捜部から公判部に異動になっている。
この「正義感」あふれる女性検事の目には、出世と保身に汲々としている特捜部のトップの男どもは、何ともウスヨゴレた存在に映ったに違いない。
ところで特捜部というのは東京、大阪、名古屋の3つの地方検察庁にしかない。
(今のところあまり話題になっていないが、この捜査を副部長として昨年7月まで指揮した上司にあたる女性検事(51歳)は、現在名古屋地検特捜部の部長の地位にある)
地検特捜部は、全国規模の犯罪や専門知識が必要な知能犯罪等を取り調べる検察の中のエリート中のエリートで、大阪地検特捜部は13人の検事で構成されていた。
一般の検察とちがい、取り調べばかりではなく起訴までできる。
その点同じ取り調べでも、警察は検察のチェックをうけるが、特捜にはチェックをする機関が何も存在しないことになる。
そこに最近制度化された検察審査会の意義が部分的にあるわけだが、検察審査会が取調べの内容をチェックできるわけではない。
大阪地検特捜部の中でも、逮捕された主任検事は「大阪のエース」とよばれていた。
今回の報道を聞いて一番気になったのは、特捜部では事件の「ストーリー」を主任検事がつくるということである。
通常、証拠や証言から次第に事件の全貌を組み立てていくというのではなく、事件の捜査に着手する段階で「事件のストーリー」を想定しているということである。
ある程度、ストーリーをつくること自体は必要なのかもしれないが、問題はそのストーリーに矛盾が 出てきても突き進んでしまう事である。
事件のストーリーは上司の了承をとった上で「取り調べ」を進めているので、そのストーリーを変えることは、主任検事の沽券に関わることである。
だから矛盾がでてきたら供述の方を強引に変えようとする。
結局、自分で考えて判断できるのは部長、副部長、主任検事まで、つまり今回逮捕された三人の検事までで、それ以外の検事は上司がつくったストーリーに沿って指示されるままに取り調べを行うだけである。
上からのプレッシャーは強く、最後には何でもいいからストーリーどうりに決着をつけようということになる。
特捜部にはそういう恐ろしい体質があるようだ。
今回の事件の場合には、あらかじめ次のような調書を用意して署名を(村木さんに)要求する。
「私は今回のことに大変責任を感じております。私の指示がきっかけでこういうことが起こってしまいました。上村(実際に証明書偽造にあたった係長)さんはとても真面目な人で、自分から悪いことをやるような人ではありません」
村木氏からすれば、行ってもいないそんな「私の指示」に署名できるはずもない。
新聞報道によると、主任検事が証拠の「フロッピーディスクを改竄した」疑いが持ち上がったのは、今年1月27日の初公判の直後だった。
当時、大阪地検刑事部から応援に来ていた取り調べ担当の男性検事に対し、主任検事が「時限爆弾を仕掛けた」という言い方で、かなり早い段階でフロッピーディスクの「日付書き換え」を漏らしていた。
これを問題視した検事は、女性検事らと特捜部の部長や副部長に対し、「証拠の改竄」があったと内部告発した。
今年9月21日に新聞が「改竄疑惑」をスクープして、不祥事が一気に表沙汰になったが、不正を正そうとしないトップに対して、若手検事もしくはその周辺がリークした可能性が高い。
ただこの女性検事が、検事としての「正義感」をベースにこの「冤罪」を明らかにしようとしたにせよ、その告発に執念と迫力を与えたのは、自分と同じように官僚という「男社会」の壁の中で仕事をしてきて、窮地にたたされている村木局長への「強い共感」があったように思えてならない。
つまり、女性検事は村木局長と面識はないが、取り調べ室の壁のように立ちはだかる「男社会」の壁に挑んでいたような感じもする。
女性検事の中で、厚生省女性キャリアに対する何がしかの「一つ思い」が芽生えたということである。
村木厚子氏は、高知大学文理学部経済学科卒業後の1978年に労働省に入省した。
東京大学出身者の男性キャリアが多い霞ヶ関の中央省庁の幹部の中では、珍しい地方国立大学出身の女性で、さらに厚生労働省では少数派の旧労働省出身であった。
障害者問題を自身のライフワークと述べ、「障害者自立支援法」を作った立役者といわれている。
任官当初より、勤勉に仕事に臨む態度や物腰柔らかく物事を調整する能力が評価され、女性としては二人目の事務次官就任の可能性もささやかれていたという。
この村木氏が検察のターゲットになったのは、どんな(政治的?)意図があったのだろうか。
また村木氏の指示なく上村係長が単独でやったとしたら、上村氏にどんなメリットがあったのだろうか、明らかにしてもらいたい。
逮捕時に舛添要一厚生労働大臣は「大変有能な局長で省内の期待を集めていた。同じように働く女性にとっても希望の星だった」と語っている。
村木氏が「障害者団体向け割引郵便制度悪用事件」に巻き込まれた2008年時点では、雇用均等・児童家庭局長という役職に就いていた。
ところで2009年7月9日に、学者や女性評論家ら8人が厚労省を訪れ、村木氏が起訴された件につき「無実の村木厚子さんの解放を求める」とする声明を発表した。
この声明文のトップに「赤松良子」という名前があった。

赤松良子氏は、男女雇用均等法の生みの親とうべき女性官僚キャリアの「草分け的」存在であった。
村木氏が雇用均等・児童家庭局長の担当であったことを思えば、その点でも村木氏の直接の先輩ともいえる。
立場は違えど「思いは一つ」というのでは、1985年の男女雇用機会均等法成立にかかわった二人の女性を思いおこす。
その一人がこの赤松良子氏で、もうひとりが総評の女性幹部・山根和子氏であった。
新しい法律を作るには、まずは関係団代の代表者が出席する審議会などで法案の趣旨や必要性を訴え、統一見解とされた「審議会答申」を国会の委員会に提出するという手順をふむ。
したがって、立場を異にする人々をまとめて接点を見出すまでの「根回し」が大変な仕事になる。
そして、労働省婦人少年局の赤松良子を中心としたプロジェクトメンバーは、のちに「鬼の根回し」と異名をとるほど懸命に各界への調整を続けたといわれている。
それは同時に立ちはだかる「男社会」の壁との戦いでもあった。
法案を通す際の最大の障害になったのは経営側(使用者側)である。
経団連会長が「日本経済は男女差別の上に成り立ってきた」と臆面もなく言い、法案に反対の姿勢を表明した。
依然意識の低い経営者代表に、男女平等法をつくらないと国際的にヘンな国に思われる。それでもいいのか。~ヘンな国にみられては、やっぱり困る。
まさかこんな単純なやりとりではなかったであろうが、赤松チームの説得で少しずつ経営者側の意識が変わっていった。
男女雇用均等法の内容については、経営者側、労働者側の立場が激しく対立したことは、いうまでもない。
そこで経営者側との妥協点が、法の中身を「努力義務規定」とした点である。
一方、労働者側代表の女性幹部は 男女差別をなくす法律には賛成だが、男女差別した企業への罰則が科せられる厳重な法律が必要だと訴えた。
そして赤松良子らは、経営者側の意向を取り入れ「努力目標」とした「男女雇用均等法」案に対して、労働者代表の山根和子は、その内容が「手ぬるい」と批判した。
また経営者側は男女平等というのならば女子の「保護規定」をはずすべきではないのか、労働者側は男子にも保護規定を認めるべきでないのか、と相互に主張して譲らない。
結局、妊娠出産の以外は「女性保護規定」を見直すことにした。
ところが、1984年4月、国会提出のタイムリミットぎりぎりの審議会で、労働者側代表の山根和子は、「手ぬるい法律は認められない」と激しく異論を唱え、審議会への出席を拒否し別室に立てこもったのである。

赤松良子は大阪生まれで、父親は関西西洋画壇の大家・赤松麟作で良子を溺愛し、「良子」という作品を描いている。
赤松は1953年4月東京大学法学部政治学科を卒業して、労働省に入省し婦人少年局婦人労働課に勤務して、1975年には女性で初めて山梨労働基準局長に就任した。
そして、この年1975年こそが、奇しくも10年を期限とする「国際婦人年」のスタートの年である。
そして1979年の国連日本政府代表部公使に任命されたことは、彼女の人生もしくは日本社会にとって大きな転機になったといってよい。
国連公使として赤松は「女子差別撤廃条約」に賛成の投票を行い、翌年コペンハーゲンの世界女性会議で同じ労働省出身の高橋展子がこの条約に署名している。
条約に署名をしたならば、条約が国会で承認され批准されなければならない。
そのためには当然国内法と条約の相容れない部分を是正しなけらばならない。
そして、課題は3つみえていた。
、一つは、父親が日本人の場合のみに日本国籍がとれる国籍法、二つ目は女子のみ必修の家庭科、三つ目が女性差別を禁止する法律がないことである。
タイムリミットは1975年の国際婦人年からの10年すなわち1985年である。
赤松良子と男女雇用均等法をめぐり論争相手となった労働者側代表の山野和子は、1976年から89年まで総評・婦人局長であった。
三重県出身で戦後すぐに高校を卒業して愛知県の会社に入りアシスタントばかりの仕事をしてきた。
山根は何しろ加入人数380万人にも達する日本最大の労働組合の全国組織・総評の婦人局長である。
山根は、赤松がタジログほどの凛とした風格があったという。
そして1984年、赤松は時間との戦いの中で、労働者側代表すなわち山根和子が出席を拒否すれば審議会は成立しない、つまり法案の成立は実現しないところまで追い詰められた。
審議会答申→法案提出→事務次官会議→閣議→国会上程と続く法案作成の作業に進むことができないのである。
1984年4月まで法案要綱つくらなければ国際婦人年10年の1985年までに、法が成立しないのである。
赤松は役所の窓から外の景色を見た。すべての苦労が水泡に帰するかもしれないと涙があふれた。
そして赤松は山根に最後の電話をかけてみようと思った。
「不十分な法律であることはわかっている。しかし今法律をつくっておくことが大事である。法律ができなければ、国連の女子差別撤廃条約を批准できない。これでは世界の動きからいっそう遅れてしまう」
そして電話は無言で切れた。
そして翌日、山根和子は審議会出席していた。山根は赤松をにらんだようにみえたが、赤松は山根が来てくれるような気がしていた。
法案の説明をしながら、心の中で赤松は山根に頭を下げていたという。
そして1984年、国会で男女雇用機会均等法が成立した。
働く女性たちにとってこの法律の成立はこの上ない朗報だったろうが、違反者に対する罰則義務規定がなく、努力義務規定に留まってしまったという弱点もあった。
しかし「小さく産んで大きく育てよう」という赤松の確信は正しく、97年に均等法は大幅に改正され、募集、採用、配置、昇進、教育訓練、福利厚生、定年、退職、解雇のすべてにおいて、男女差をつけることが禁止され、赤松がかつて無念の涙を呑んで見送った「禁止規定」が盛り込まれた。
また、「禁止規定」ばかりではなく「ポジティブ・アクション」つまり女性を積極的に昇進昇格させ男女比を合わせる方針も盛られていた。
(この1985年施行の男女雇用均等法がなければ、あの女性検事が大阪地検特捜部検事として任官することもなかったかもしれない。)
後日、当時を振り返って赤松は山根に言った。
「あなたはたいしたものだった」。
山根も返した。「あなたこそたいしたものだった」
結局二人は、「思いは一つ」であったのだ。
赤松氏はその後、在ウルグアイ大使、文部大臣を歴任している。
ちなみにご主人は、東大時代の同級生で元上智大学教授花見忠氏である。
さらにちなみに、赤松良子氏のご先祖は室町時代・播磨の守護大名・赤松則村であらせられます。